第25話 ……友人を殺すのは好まない
「……わかった、言う」
今日一番の低い声をミサキが出す。
「局からの連絡の二つ目の内容は、神代恒一についてだ」
「恒一について?」
「今回の任務の中で、神代恒一の実力が改めて確認された。因果演算の範囲と精度が、同年代の中で最上位だという評価が出た。それはいい。問題は次の評価だ」
「続けろ」
「神代恒一は、ネメシスに対して接触を深めている。信頼関係が成立した可能性がある。オルフェウス局の評価として、神代恒一はネメシスに影響を与えうる人間に分類された」
夕焼けを一度見てから、それらの内容をミサキが語る。橙色の光が、彼女の灰色の瞳を照らした。
「影響を与えうる人間は、危険度が上がる」
「ああ、そうだ」
「局が神代恒一の危険度を引き上げた、ということか?」
「今朝の時点で、神代恒一の危険度評価がBからAに変更された」
腕を組みながら気難しい表情を晒すミサキ。ネメシスの神経回路が、その情報を処理した。
危険度Aは、オルフェウス局が対処の検討を行う対象である。
対処の内容には、接触制限、監視強化、そして場合によっては排除が含まれていた。
「排除命令が出る可能性があるということか?」
「今の時点では可能性だ。命令は出ていない。しかし、局長が今回の評価を踏まえて判断を下す場合、排除命令が出る可能性がある」
自身の顎下に当てながら、ミサキが憶測を口にする。
「局長の判断は、いつ出る?」
「分からない。今週中かもしれない。来月かもしれない。局長の判断に時間的な規則はない」
顎下に添えていた手を下げると、ミサキは肩を竦めた。夕方の風が通路を吹き抜ける。
ミサキの金色の髪が、風に揺れた。ネメシスが夕焼けを見る。橙色の空が、西の方向に広がっていた。
「……友人を殺すのは好まない」
静かな声で、ネメシスは呟く。感情が乗っていない声だ。
しかし、その静けさの中に今日の午前中に、美弥と話した時とは別の種類の重さがある。
「ネメシス……」
「……だが、命令なら仕方ない」
細い声だが、ネメシスは続けた。静かで、平坦で、感情が表面に出ていない。
しかし、その言葉が通路の空気に落ちた後、消えなかった。夕方の風に流されない。そこに留まった。
ミサキが、ネメシスを見る。真横から見た。灰色の瞳が、ネメシスの横顔を捉える。
ネメシスは夕焼けを見たままだ。漆黒に近い濃紫の瞳が、橙色の空を見ていた。
ミサキは何も言わない。言葉を出さなかった。
しかし彼女の灰色の瞳に、今日の朝から変化し続けていた光が、今この瞬間に一つの形に定まる。
安堵でも、悲しみでも、怒りでもなかった。
それらが全部混じった上で、さらに別の何かが加わった光である。
それに名前を付けるなら覚悟だった。ミサキが前を向く。夕焼けを見た。
「命令が出た時、私はネメシスに伝える」
ミサキが言った。
「伝えて、どうする」
「逃げる選択肢を、貴様に渡す」
「俺が逃げると思うか?」
「思わない」
「では意味がない」
「いや、意味はある。逃げないとしても、選択肢を持っていることと持っていないことは違う。貴様に選択肢を渡すことが、私の役割だ。監視官としてではなく」
先ほどまでの硬い表情から、穏やかなものへとミサキは変える。
「それは――――」
「ああ、貴様の隣にいる人間として」
少しの間を置いてから、彼女は一切の迷いなく断言した。
夕方の風が、また通路を吹き抜ける。ミサキの金色の髪が揺れた。
ネメシスの漆黒に近い濃紫の瞳が、夕焼けを見続けている。
西の空が、橙色から赤みを帯びた色に変化していた。日没が近い。
五月の夕方の光が、学校都市の建物群の輪郭を照らしていた。
管理棟の白い外壁が、夕焼けの光を受けて橙色に染まっている。
寮棟の窓に、少しずつ明かりが点き始めていた。
食堂の外のテラスが、夕方の光の中で静かになっている。
第三校舎の石造りの外壁が、夕焼けの色を吸収していた。
生徒会室の南側の全面窓が、夕焼けの光を反射している。
学校都市全体が、五月の夕焼けの中に包まれていた。
「……ところで、ネメシス」
ミサキが言った。
「なんだ?」
「今日のショッピングの話、貴方は本当に来るの?」
「任務外の外出は、監視官の許可が必要そうだがな」
「……ふっ、それなら安心して。私が監視官だ。特別に許可する」
「ふむ、では行くとしよう」
「うん。……きっと、みんな喜ぶはずだよ」
何処か楽しげに声を弾ませて手を叩くミサキ。
「そうか」
「そうだよ」
そう言うとミサキが前を向いた。再び静かに彼女は歩き始める。ネメシスが隣を歩き始めた。
二人が並んで、夕焼けの光の中を歩いる。ネメシスの神経回路が、今日一日の情報を処理していた。
美弥の敵意と、その中にある守ろうとする感情。桃華の感謝と、その中にある別の種類の意図。
三人の留学生が盛り上がる声。アイゼンが確認したかっただけだと言った時の表情。
そして恒一との握手。その全部が、神経回路の中に記録されていた。
最初こそネメシスは、設計された存在として、この学校に入学したのである。
情報収集と監視が目的だ。
しかし今この瞬間、神経回路が処理している情報の中に、設計の目的とは別の種類の情報が含まれていた。それが何かをネメシスは、まだ完全には理解していない。しかし、理解しようとしていた。
それが今日時点での答えである。夕焼けが学校都市に、最後の光を送っていた。
橙色が赤みを増し、赤みが徐々に暗さに変化している。東の空に、最初の星が一つ、光り始めていた。
ミサキがネメシスの隣を歩いている。金色の髪が、夕焼けの最後の光を受けていた。
「ネメシス」
「なんだ?」
「貴方は今日、友人という言葉を使った」
「ああ、使ったな」
「それは、初めての事かも知れないね」
「そうか?」
悩ましい表情を浮かべながら腕を組むネメシス。
「うん、そうだよ」
微笑みながら小さく頷いて、ミサキは足を進める。
二人は一緒に歩き続けていた。夕焼けが沈んでゆく。
学校都市の明かりが、少しずつ点き始めていた。対魔法干渉兵器として設計された存在が、友人という言葉を使用した日の夕暮れが、静かに終わってゆく。
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