第60話 世界で一番、贅沢な時間
戦いは、終わった。
千年ものあいだこの国を美しい欺瞞の内側から蝕み続けた狂気の王は消えた。
王政は幕を下ろし、生まれたばかりの共和国は、ぎこちなくも確かな希望の光に満ちている。
血塗られた儀式の歴史は終わり、民が自らの手で未来を紡ぐ新しい物語が始まった。
――そして、その転換点から一年。
季節はめぐり、ヴァレンシュタイン公爵邸の庭は初夏の柔らかな光に包まれていた。
そこは、完璧な平穏の聖域だった。
空は高く澄み、磨かれたラピスラズリの天蓋のよう。風がそよぐたび、手入れの行き届いた芝の青い香りと満開の白薔薇の甘やかな匂いがまじり合い、心地よい微睡みを誘う。
遠くで小鳥が軽やかにさえずる。穏やかな午後を祝福する音楽のように。
庭の中央にそびえる大樫の木。葉の隙間からこぼれる木漏れ日が、地面にきらきらと光の絨毯を織りなしていた。
その光の絨毯の真ん中――
一番日当たりがよく、風通しもよい特等席に、優雅な寝椅子がひとつ。
その上で、わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは猫のように小さく身を丸め、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
プラチナブロンドの髪がシルクのクッションに銀の川のように広がり、木漏れ日にきらめく。少しだけ開いた唇からは、子どものように安心しきった規則正しい息。長い睫毛が時折ぴくりと震くのは、きっと楽しい夢を見ているから。
その寝顔には、もはや九十九回の絶望が刻んだ諦観の影も、すべてを嘲る氷の仮面もない。
ただ、穏やかで満ち足りた、一人の少女の無防備な寝顔だけ。
膝には、アンナがどこからか見つけてきた雲のように柔らかなカシミアの膝掛けがそっと掛けられている。
――一枚の絵画のようだった。
『平穏』という名の画家の最高傑作。
百回の人生の果てにようやくこの手で掴み取った、何物にも代えがたい宝物。
世界で一番贅沢で、至福に満ちた時間。
その神聖で完璧な一枚の絵を、少し離れたテラスの卓から、数人の人影が眠りを妨げぬよう静かに、そして幸せそうに見守っていた。
「……やれやれ。我が女王陛下は本日もご健在のご様子で」
最初に静寂を破ったのは、やはりこの男の軽薄な声。
夜色の髪に銀の瞳――情報屋ノア。共和国の情報機関の長という面倒極まりない役職に就きながら、その飄々とした態度は一年経っても変わらない。
ティーカップを優雅に口へ運び、銀の瞳を楽しげに細める。
「ノア殿! 静かになさい! イザベラ様が目をお覚ましになったら、どうするのですか!」
不謹慎な一言を窘めたのはエミリア・ブラウン。
いまや彼女は、泣き虫な太陽の少女ではない。新生神殿をまとめる若き指導者として、慈愛の光で多くの民の心を照らしている。
ただ、そのヘーゼルナッツ色の瞳がイザベラへ向くときだけ、ただの友人として心から案じる優しい少女の顔に戻る。
手元の可愛らしいバスケットには、もう二度と焦がしたりしない完璧な黄金色の手作りクッキーがぎっしり。
「まあまあ、エミリア殿。目くじらを立てなさるな。あのお姫様が、この程度の囁きで目を覚ますものか。それより問題は、あちらの忠犬殿だ」
ノアが顎で示す先――
テラスの反対側に、カイン・アシュフィールド。腕を組み、仁王像のように微動だにせず立つ。
翠の瞳はただまっすぐ、眠るイザベラの寝顔だけを見つめている。あまりに熱烈で純粋で、ほんの少し暑苦しい視線。
共和国の騎士団を再編し初代総長となった彼は、以前にも増して威厳と風格をまとった。だが魂の本質は変わらない。
彼はいまも、イザベラの一番の剣にして、一番の忠実な番犬だ。
「……カイン様も相変わらずですわね」
エミリアがくすりと笑う。「先日も、議会でほんの少しイザベラ様のお名前が出ただけで、その場の議員の半分が凍りついたとか」
「ああ。彼の過剰な忠誠心は、もはや国家級の戦略兵器だ」
ノアが楽しげに肩をすくめる。「そのおかげで、お姫様の安眠を脅かそうなどと考える愚か者は一人もいなくなった。結果オーライ、というやつだな」
二人の軽口に、もう一人が重々しく口を開いた。
「ふん。犬は主人の眠りを守るのが仕事だ。その点でアシュフィールド卿は実に優秀な番犬よ」
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン――共和国初代議長として老獪な手腕で生まれたばかりの国を導く、わたくしの父。
厳格な顔つきに、かつての権威主義の硬さはない。ただ、娘の幸せそうな寝顔を見つめる一人の父の、不器用な愛情だけが滲んでいた。
「あなた。リリィが起きてしまいますわ」
隣で優雅に微笑むのは母レオノーラ。
過保護ぶりは相変わらずだが、その愛の向け方は大きく変わった。
娘を美しい鳥籠に閉じこめるのではなく、娘が心から安らげる完璧な巣を守ることに、今はすべての情熱を注いでいる。
彼女が自らブレンドした安眠のハーブティーのやさしい香りが、テラスいっぱいにふわりと漂った。
暑苦しい忠犬。
胡散臭い共犯者。
泣き虫だった太陽。
不器用な両親。
百回目の人生をこれでもかと面倒で騒がしく厄介にしてくれた役者たちが、いま、この場所に揃っている。
各々が新しい国を支える重要な役を担いながら――この時間だけは、ただのカインであり、ノアであり、エミリアであり、父と母だった。
そして彼らの世界の中心には、いつも寝椅子ですやすや眠る一人の少女。
「……それにしても」
ノアがふと思い出したように呟く。
「一年前は大変でしたな。あの頃の女王陛下は、いつ心がぽきりと折れてもおかしくない、美しい氷の彫刻でしたから」
一言に、テラスの空気が少し変わる。
誰の脳裏にも、あの壮絶な戦いがよぎった。
「……いや」
沈黙を守っていたカインが初めて口を開く。低く、確信に満ちて。
「あの人は、初めから誰より強かった。俺たちが気づかなかっただけだ。あの小さな肩に、どれほどの絶望を一人で背負っていたのかを」
「……いいえ」
エミリアが首を横に振る。
「イザベラ様は強くなんてありませんでした。本当は誰より寂しくて、誰より温かい心に触れたかったのだと思います。ただ、方法が分からなかっただけ。九十九回の長い時間の中で、忘れていただけなのです」
三者三様、どれも真実で、どれもイザベラという人間の一部分にすぎない。
彼女が乗り越えた絶望の深さ、胸に秘めた本当の優しさ――そのすべてを理解できる者は、おそらく世界のどこにもいない。
ただ一つだけ確かなのは、彼らはそれぞれの形で彼女に救われ、そして彼女を救ったということ。
少し感傷を帯びた沈黙を破ったのは、わたくしの小さな身じろぎだった。
「ん……」
寝椅子の上で少し寝返りを打ち、わずかに眉をひそめる。
夢を見ているのか。あるいは誰かの感傷が、完璧な安眠をわずかにかすめたのか。
テラスの全員が息を呑んだ。
聖域の静けさを破った罪人のように身を固くする。――起こしてしまったのか。世界で最も尊く貴重な時間を、自分たちが台無しにしてしまったのか。
静寂。
小鳥のさえずりさえ遠のいたような、絶対の静寂。
視線はただ一点、わたくしの唇へ。
やがて桜色の唇がかすかに動き、夢と現のあわいを漂うような、どこまでも幸せな寝言がこぼれた。
「……あと、五分だけ……」
あまりにも普通で、どこにでもいる少女のようで、そして世界の幸福を凝縮したかのような一言。
その瞬間、張り詰めていた顔に、堪えきれない優しい笑みが同時に広がる。
カインは天を仰ぎ、武骨な顔をくしゃりと崩す。
ノアは口元を手で覆い、笑いをこらえながら銀の瞳を三日月に細める。
エミリアは大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、心の底から幸せそうに微笑んだ。
父は威厳ある顔をぐしゃぐしゃにし、「馬鹿者めが」と誰にも聞こえぬほど小さく呟く。
母はただ、愛しい娘の寝顔を、いつまでもいつまでも愛おしげに見つめていた。
派手な出来事は何もない。
劇的な言葉も何もない。
ただ、初夏の穏やかな午後の光の中で、一人の少女が幸せそうに寝言を言っている――それだけ。
けれど、それこそが。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインが百回の人生の果てにようやく掴んだ、何物にも代えがたいハッピーエンドだった。
誰にも邪魔されない、最高に贅沢で至福に満ちた「平穏な昼寝」。
かつてわたくしがたった一人で夢見た、ささやかな願い。
けれど今、その眠りを見守ってくれる眼差しは、一人ではない。
暑苦しくて胡散臭くて、ひどく面倒――それでも何より愛おしい仲間たちの、温かな視線。
わたくしはまだ夢の中。
その温かい光に包まれ、ほんの少しだけ口元を緩ませる。
九十九回の、長い長い冬の眠りは、もう終わった。
これからは、毎日がきっと、最高の昼寝日和。
そして、その隣には、いつだって、この面倒で愛おしい人たちがいてくれるのだろう。
(……まあ、それも悪くはありませんわね。たまには少しだけ起こされて差し上げてもよろしくてよ。もちろん、わたくしの気分が向けばの話ですけれど)
そんな、どこまでもわたくしらしい感想を夢の中で呟きながら――
わたくしの百回目の物語は、世界で一番穏やかで幸せな微睡みへと、静かに溶けていった。




