第1話 溜息のフルコース
磨き上げられた銀のカトラリーが、朝の光を反射してちかちかと輝いている。寸分の狂いもなく配置された純白のテーブルクロスの上には、黄金色のコンソメスープがなみなみと注がれたリモージュ焼きの器、侍女が今まさに切り分けようとしている、表面がぱりっと焼かれたキジのロースト、そして朝露に濡れたばかりのような瑞々しい果物が、宝石のように銀の大皿に盛られていた。
ヴァレンシュタイン公爵家の朝食は、いつだって、まるで小国の晩餐会のように豪奢で、そして息が詰まるほどに完璧だった。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、背筋を完璧な角度に保ったまま、目の前のコンソメスープにそっと銀のスプーンを沈めた。音もなく、波紋一つ立てずに。九十九回も繰り返せば、嫌でも身につく芸当だった。
「――それでイザベラ、聞いたぞ。昨日の魔術史の授業で、お前がまた教授を論破したそうだな」
食事中の会話の口火を切ったのは、上座に座るこの家の主、わたくしの父であるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン公爵だった。その声には、娘の優秀さを誇る響きと、それ以上に「ヴァレンシュタイン家の人間として、当然の行いをしたな」という、無言の圧力が含まれている。
(ああ、始まりましたわね。本日のメインディッシュ、お父様のありがたいご高説フルコースが)
わたくしは内心で百回目の深いため息をつきながら、顔には完璧な淑女の微笑みを貼り付けた。
「お父様、論破だなんて、とんでもない。わたくしはただ、教科書に記されていた事実と、教授の解釈の間に、ほんの少しだけ齟齬があるのでは、と申し上げたまでですわ」
「ふん。その少しの齟齬が、学問の根幹を揺るがすこともある。ヴァレンシュタイン家の人間たるもの、常に頂点を目指し、決して驕ることなく、知識を磨き続けなければならん。お前のその才能は、神がお与えになったものではなく、このヴァレンシュタイン家の血と、たゆまぬ努力の賜物であることを、ゆめゆめ忘れるな」
(はいはい、承知しておりますわ。そのご高説は、昨日で九十九回、伺いましたので。そろそろ、まったく新しいレパートリーをご用意なさってはいかがかしら? 例えば、最近の流行りのお店の話とか。もっとも、興味は欠片もございませんけれど)
口の端に浮かべた笑みは、尊敬に満ちた娘のそれ。けれど、わたくしの魂は、とっくの昔に摩耗しきって、もはや何の感情も映さない、静かな凪の海となっていた。
「はい、お父様。そのお言葉、肝に銘じますわ」
完璧な返答。完璧なタイミング。完璧な角度のお辞儀。父は満足げに頷くと、ようやく自分の食事へと戻っていった。
やれやれ、第一の関門は突破ですわね。そう思ったのも束の間、今度は向かいの席に座る母、レオノーラ公爵夫人が、心配そうな瞳でわたくしを見つめてきた。
「リリィ……でも、あなたのその才能が、他の令嬢たちの嫉妬を招いているのではないかと、お母様は心配で……。昨夜も、あなたの部屋から、溜息が聞こえたような気がして……」
(お母様。それは気のせいではございません。わたくしは一晩に、最低でも三十回は溜息をつきますので。それが唯一の、健康法ですのよ)
「まあ、お母様。昨夜は少し、難しい本を読んでいただけですわ。ご心配には及びません」
「いいえ、万が一ということがあるわ! そうだわ、リリィ、これをお持ちなさいな」
そう言って母が取り出したのは、わたくしの拳ほどもある、巨大な紫水晶が埋め込まれた銀細工のアミュレットだった。どうやら、どこかの胡散臭い魔術師にでも、「邪気を払う」と言いくるめられて、大枚をはたいてきたらしい。
(まあ、美しい。美しい鈍器ですこと。これで殴られたら、屈強な騎士でも一撃でしょうね。ですがお母様、ご心配には心から感謝いたしますが、その物理的な重みで肩が凝り、かえって安眠の妨げになりますのよ。わたくしの邪気は、こんなもので払えるほど、浅くはありませんの)
「まあ、お母様! なんて素晴らしいお守りなのでしょう。わたくしのために、ありがとうございます。大切にいたしますわ」
わたくしは、女優もかくやというほどの感涙にむせぶ演技で、その重たいアミュレットを受け取った。母は「ああ、よかった。リリィ、あなたにはいつも笑っていてほしいの」と、心底安心したように微笑む。
(笑う、ですって? 申し訳ありませんが、お母様。わたくし、もう五十年以上、心の底から笑ったことなどございませんのよ)
わたくしの専属侍女であるアンナが、完璧なタイミングでそばに来て、そのアミュレットを恭しく預かってくれる。彼女の指先が、その重みに微かに震えているのが見えた。ごめんなさいね、アンナ。後で、あなたの肩も揉んで差し上げましょう。もちろん、そんな面倒なことはいたしませんけれど。
「では、お父様、お母様。わたくしはそろそろ、学園の準備がございますので、これにて失礼いたしますわ」
食後の紅茶に手をつけることなく、わたくしは音もなく席を立った。この不毛な会話を乗り切れば、学園へ向かう馬車の中で、ほんの少しだけ、うたた寝ができるかもしれない。それが、今のわたくしにとって、一日で最も価値のある時間だった。
完璧なカーテシーを残し、わたくしがダイニングルームから退出する。その背中に、父と母の満足げな視線が注がれているのを感じた。
彼らは知らない。
彼らの自慢の娘の魂が、とっくの昔に、九十九回もの絶望の果てに、塵と化していることなど。
*
イザベラ様が退出された後、ダイニングルームには、しばしの沈黙が流れた。公爵様と奥様は、今朝も完璧であられたご令嬢の姿に、満足げな表情を浮かべていらっしゃる。
わたくし、アンナは、イザベラ様が残されたテーブルの上を片付けながら、先ほどの光景を思い出していた。
あのお姿は、完璧だった。ヴァレンシュタイン公爵家の令嬢として、まさに非の打ちどころのない、完璧な振る舞い。けれど、だからこそ、わたくしは、言いようのない恐怖を感じていた。
最近のイザベラ様は、どこかおかしいのだ。
以前のイザベラ様は、もっと、人間らしい方だった。公爵様のご高説に、不満そうに唇を尖らせることもあった。奥様の過保護に、「もう、お母様ったら!」と、少しだけ困ったように笑うこともあった。
けれど、今のイザベラ様は、笑わない。
いいえ、正確には、完璧に微笑んでいらっしゃる。けれど、そのアメジストのような美しい瞳は、少しも笑っていないのだ。まるで、美しく磨き上げられた、魂の宿らないガラス玉のよう。どんな言葉も、どんな出来事も、その表面を滑り落ちていくだけで、決して内側には届かない。
先ほど、奥様からあのアミュレットを受け取られた時もそうだ。
あの方は、感極まったように声を震わせていらっしゃった。けれど、その瞳の奥は、凍てついた湖のように、静まり返っていた。そして、ほんの一瞬、ほんの僅かな間だけ、その唇の端が、全てを嘲笑うかのように、微かに歪んだのを、わたくしは見逃さなかった。
それは、もはや「諦め」ではない。
もっと深く、もっと暗い、底の知れない何か。
まるで、この世界の全てが、退屈な芝居の筋書きであることを、最初からご存知であるかのように。そして、ご自分に与えられた役を、ただうんざりしながら、完璧に演じているだけであるかのように。
わたくしは、イザベラ様が手に取らなかったティーカップを下げながら、その完璧に整えられたテーブルセッティングを見て、ふと背筋がぞっとするのを感じた。
この完璧な日常こそが、あの方を閉じ込める、美しい牢獄なのではないか、と。
そして、その牢獄の中で、あの方の何かが、静かに、そして確実に、壊れてしまっているのではないか、と。
わたくしは、主に仕える身としてあるまじき不敬な考えを、慌てて頭から追い出した。
けれど、心の奥底で鳴り響く警鐘は、どうしても、止まってはくれなかった。