第2話 精神力を削るお茶会
陽光が燦々と降り注ぐ、王宮のサンルーム。ガラス張りの天井からは柔らかな光が差し込み、白薔薇とジャスミンの甘い香りが、心地よい微風に乗って漂っている。普通ならば、どんな令嬢でも胸をときめかせるであろう、完璧なシチュエーション。
けれど、わたくしにとっては、ただの精神力を削られるだけの、苦行の場でしかなかった。
目の前の白いテーブルには、最高級のダージリンが香り高い湯気を立て、七段重ねのティースタンドには、マカロンやエクレア、スコーンといった色とりどりの菓子が、これ見よがしに鎮座している。その全てが、この国の第一王子であり、わたくしの婚約者でもある、ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット殿下の趣味だった。
そして、そのユリウス殿下が、今、わたくしの正面の席で、絵画から抜け出してきたかのような完璧な笑みを浮かべていらっしゃる。
「先日の魔術史の授業での君の活躍、僕の耳にも届いているよ、イザベラ。さすがは僕のフィアンセだ。誇らしいよ」
(まあ、ご丁寧にどうも。殿下のそのお言葉も、九十九回目でございますわね。そろそろ、録音したものを流してくださっても、わたくし、きっと気づきませんわよ)
わたくしは、内心の毒舌を完璧な笑みの仮面の下に隠し、ティーカップをそっと持ち上げた。カップを持つ指の角度、口元に運ぶ速度、その全てが、教科書よりも正確な作法。
「もったいないお言葉ですわ、ユリウス様。わたくしなど、まだまだ未熟者でございます」
「謙遜する姿も愛らしいね。だが、事実だろう? 先日も、狩りに出かけた際に、僕が巨大な黒猪を仕留めた話はしたかな? 騎士団長さえも手を焼いていた化け物を、僕の魔法が一撃で……」
始まった。ユリウス殿下の、終わらない自慢話。
彼の話はいつも、彼がいかに優れているか、彼がいかに素晴らしいか、という一点に集約される。九十九回も聞かされれば、さすがに一言一句、覚えてしまった。
(ええ、存じておりますわ。その黒猪、本当は騎士団が半殺しにした後、殿下の見せ場のために用意された、哀れな舞台装置だったことを。わたくしなら、そうですね……眉間にナイフを投げるだけで、三秒で終わらせられますわ。ああ、もちろん、そんな面倒なことはいたしませんけれど)
わたくしは、彼の話に適当な相槌を打ちながら、思考の半分を、今夜の夕食後のうたた寝計画の立案に費やしていた。今日のデザートはムース・オ・ショコラ。ということは、食後の紅茶は少し渋めのセイロンが合うかしら。それならば、香りは控えめな方が、眠りを妨げないでしょうね。
「――イザベラ、聞いているのかい?」
ユリウス殿下の声に、はっと我に返る。どうやら、彼の話の途中で、完璧に上の空になっていたらしい。わたくしの瞳に、いつものような熱狂的な称賛の色が見えないことに、彼は少し苛立ったようだった。
「もちろんですわ、ユリウス様。殿下のその類稀なるご武勇に、ただただ感嘆しておりましたの」
「そうかい? ならいいんだが……」
ユリウス殿下は、何かを探るようにわたくしの瞳を覗き込む。まずいですわね。この男は、人の心を自分の思い通りに支配することに、無上の喜びを感じるタイプ。少しでも手応えがないと、面倒なことを仕掛けてくる。
そして、その予感は、最悪の形で的中した。
「ああ、ブラウン嬢じゃないか。ちょうどよかった。こちらへ来なさい」
ユリウス殿下が声をかけた先には、サンルームの入り口で、おずおずと立ち尽くしている少女がいた。栗色の髪に、大きなヘーゼルナッツ色の瞳。平民上がりの特待生、エミリア・ブラウン。この物語の、本来のヒロイン。
(まあ、最悪ですわ。面倒事が一人から、一気に二人に増えましたわね。これで、今日の午睡の時間は、完全に絶望的かしら)
エミリアは、王子の呼びかけに驚きながらも、恐縮した様子でテーブルへと近づいてきた。
「ユリウス様……それに、イザベラ様も。ごきげんようございます」
「うむ。君は確か、植物の栽培に詳しかったね。この白薔薇について、少し意見を聞かせてくれないか」
ユリウス殿下は、わざとらしくエミリアを自分の隣に立たせると、親しげに話しかけ始めた。その視線は、ちらり、ちらりと、わたくしの方へと向けられている。
見え透いておりますわね。平民の娘と親しくすることで、わたくしの嫉妬を煽り、いつものように「身分をわきまえなさい!」とヒステリックに叫ばせるのが目的でしょう。そして、それを諌めることで、自らの寛大さと、わたくしに対する優位性を確認したい。九十九回、繰り返されてきた、退屈な三文芝居。
けれど、百回目のわたくしは、もうその舞台に上がる気はなかった。
「……」
わたくしは、ただ無言で紅茶を飲む。完璧なマナーで、スコーンにクロテッドクリームを塗る。二人の会話など、まるで存在しないかのように。
わたくしの興味はただ一つ。この不毛な時間が終わった後、どれだけ質の良い睡眠が取れるか、それだけだった。
「……それで、この薔薇は、もう少し陽の光が当たる場所に移した方が……」
エミリアが健気に説明している。その純粋な瞳が、時折、助けを求めるようにわたくしに向けられるのを感じた。公爵令嬢と王子のお茶会に、平民の自分が同席している。その居心地の悪さは、想像に難くない。
(……面倒ですわね)
ほんの少しだけ、ほんの髪の毛一本分だけ、わたくしの心が揺れた。この純粋な少女は、ただ利用されているだけ。何の罪もない。彼女の潤んだ瞳を見ていると、なぜか、胸の奥底で忘れ去られていた、チクリとした痛みが蘇るような気がした。
それは、面倒な感情だった。
人の心に寄り添うなど、自分の心をすり減らすだけの、最も非効率的な行為。
「ユリウス様」
わたくしは、静かに口を開いた。ユリウス殿下は「待ってました」とばかりに、得意げな表情をこちらに向ける。
「なんだい、イザベラ。ようやく口を開く気になったか」
「ええ。この紅茶、大変結構なものでしたわ。ですが、そろそろ次の授業の時間が迫っておりますので、わたくしはこれにて失礼いたしますわね」
わたくしは、完璧な淑女の笑みを浮かべると、音もなく席を立った。
「なっ……!?」
ユリウス殿下の驚愕した顔。エミリアの、ぽかんとした顔。
その二つの顔を視界の端に収めながら、わたくしは優雅に踵を返した。
嫉妬? 諍い? そんなもの、睡眠時間の確保に比べたら、塵ほどの価値もございませんのよ。
「ブラウン嬢も、あまり根を詰めすぎないように。学業も大切ですが、時には、良い昼寝をすることも、淑女の嗜みですわよ」
最後に、エミリアにだけ聞こえるような声で、そう囁きかける。それは、九十九回の人生で、わたくしが初めてヒロインにかけた、アドバイスと呼ぶにはあまりに個人的すぎる、ささやかな言葉だった。
サンルームを後にするわたくしの背中に、ユリウス殿下の、屈辱に歪んだ視線が突き刺さるのを感じた。
けれど、そんなこと、どうでもいい。
今のわたくしにとっては、授業が始まるまでの十分間、馬車の中でうたた寝できるかどうかの方が、よほど重大な問題だったのだから。




