5.変わらない気持ち
翌朝。
目を覚ますと、隣にはまだタオが眠っていた。
レオはそっと体を起こし、朝食の準備を始めた。
タオの好きなコーヒーを淹れ、自分の分のパンを焼く。
いつも通りの朝だった。
やがて起きてきたタオは、淹れたてのコーヒーを一口飲み、短く息を吐いた。
「……うまい」
「だろ? お前、いつも同じのばっかり飲むんだから、そろそろ豆くらい変えたらどうだ?」
「別に、これでいい」
「そう言うと思った」
レオは笑いながらパンにかじりついた。
いつも通りの会話。
いつも通りの朝。
けれど、ひとつだけ違うものがあった。
レオの気持ちだ。
タオから連絡が来るだけで嬉しくなる。
会えると思うと、落ち着かなくなる。
何気ない言葉に一喜一憂してしまう。
腕輪を身につけてから、レオはずっとタオのことを考えていた。
それなのに。
どれだけ考えても、タオへの気持ちは嫌なものではなかった。
むしろ、胸が苦しくなるほど幸せだった。
解呪したら、この気持ちも消えてしまうのだろうか。
そう考えると、どうしても答えが出なかった。
朝食を終えると、ふたりはタオの職場へ向かった。
タオの職場は、術師たちが集う専門部隊だ。その中でも魔術を得意とするタオには、専用の工房が与えられている。
工房に入ると、タオは道具の並んだ棚から小瓶を取り出した。
中には、細かな粉末が入っている。
「それ、何?」
「解呪に使うものだ。腕を出せ」
レオは言われた通り、腕輪をつけた手を差し出した。
タオはその手首を取り、腕輪の状態を確かめる。
指先が触れた。
それだけで、レオの心臓が跳ねる。
……最後まで、これかよ。
自分に呆れながらも、レオはじっとタオの手元を見つめた。
タオが小瓶の蓋を開け、粉末を腕輪に振りかけようとした、そのとき。
「待って」
レオは咄嗟にタオの手をつかんだ。
タオが顔を上げる。
「……何だ?」
「解呪したらさ。俺に入ってる魂は、どうなるんだ?」
レオは真剣な顔で尋ねた。
タオはしばらく黙っていた。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
やがて、タオは静かに口を開いた。
「……お前は、その腕輪が嫌だったか?」
「え?」
「腕輪をつけてから、いろいろあったんだろ。嫌な思いはしなかったのか?」
思いがけない質問に、レオは目を瞬かせた。
「いや……最初は戸惑ったけど、嫌じゃなかったよ」
少し考えてから、もう一度言った。
「……うん。嫌なことなんて、一つもなかった」
タオはレオの顔を見つめた。
その目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「……そうか」
小さく呟いた声は、いつもよりかすれていた。
タオは視線を落とし、レオの手をそっと外した。
「悪いが、解くぞ。魂のことは、そのあとだ」
レオは少し迷った。
けれど、頷いた。
タオが粉末を腕輪に振りかけ、静かに呪文を唱える。
次の瞬間。
パキン、と乾いた音が響いた。
銀色の腕輪に亀裂が走り、二つに割れた。
「あ……」
レオは思わず声を漏らした。
床に落ちた腕輪の破片を見つめる。
「……腕輪、残してほしかったな」
ぽつりと呟くと、タオは小さく言った。
「……ごめん」
それから、レオの顔を覗き込んだ。
「体調は?」
「特に何も」
「胸は痛むか?」
「痛まない」
「気分が悪いとかは?」
「ないよ」
タオは一度だけ頷いた。
それから、少し間を置いて尋ねた。
「……俺への気持ちは?」
「え?」
「変わったか?」
レオはタオの顔を見た。
その問いの意味がわからず、少しだけ首を傾げる。
「……変わらないよ」
答えた瞬間、タオの表情が止まった。
「変わらない?」
「うん。変わらない……けど」
レオは言葉を切った。
変わらない。
それは、どういう意味だろう。
腕輪の影響がなくなったのなら、タオに対する気持ちも元に戻るはずではないのか。
それなのに、自分は今もタオを見ている。
胸は少しも騒がしくない。
顔も熱くない。
けれど、タオのことが好きだという気持ちは、消えていなかった。
レオはゆっくりと顔を上げた。
「……タオ。俺にくれた腕輪って、本当にタオを好きな魂が入ってたのか?」
タオは目を伏せた。
「……術で多少の精神操作をすることはできる。でも、魂そのものを宿す術なんて、俺は聞いたことがない」
「じゃあ、あの腕輪には魂なんか――」
「宿ってないよ」
タオが静かに言った。
レオは息を呑んだ。
「あれは、心の奥底にある本音を表に出すためのチャームだ。変質チャームの一種で、嘘をついている人間に使うこともあるし、本音を言い出せないときに使うこともできる」
「……本音?」
「ああ」
タオは、割れた腕輪の破片に目を落とした。
「本音を言い出せるように、俺が持っていたんだ」
「……タオの、本音?」
タオは答えなかった。
ただ、レオを見つめていた。
その顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
「そうだ。俺のための腕輪だったんだ」
レオは目を見開いた。
頭の中で、あの夜の言葉が蘇る。
――俺のための腕輪。
あれは、レオのために用意されたものではなかった。
タオ自身が、自分の本音を伝えるために持っていたものだったのだ。
タオは、ゆっくりと言葉を続けた。
「あの腕輪は、俺がレオに好きだって伝えるために用意したものだった」
タオの頬が、薄く赤く染まった。
「……お前が好きだって。そう言うために」
レオは何も言えなかった。
タオが自分を好きだなんて、考えたこともなかった。
いや、違う。
考えなかったのではない。
ずっとそばにいたからこそ、気づかなかったのだ。
タオは普段、感情をあまり表に出さない。
言葉も少なく、何を考えているのかわからないことも多い。
けれど、いつも自分のそばにいてくれた。
連絡を取り合い、遊びに来て、一緒に酒を飲み、同じベッドで眠る。
それが当たり前だった。
自分にとって、タオは大切な親友だった。
だからこそ、その距離の近さに疑問を持つこともなかった。
「……あの夜は、酔ってたんだ」
タオがぽつりと呟いた。
「レオに告白するつもりで、あの腕輪を用意してた。けど、緊張して酒を飲みすぎた。気づいたら、お前に腕輪を渡してた」
「……え?」
「翌朝、腕輪がないことに気づいて、探した。でも見つからなかった。まさかお前が持ってるなんて、思わなかったよ」
タオは苦笑するように口元を歪めた。
「……チャームをお前がつけてるってわかったときは、俺のほうが驚いた」
レオは自分の手首を見た。
そこにはもう、腕輪はない。
「じゃあ……俺の中にいると思ってた、タオが好きな魂って……」
「魂じゃない。お前自身の本音だ」
「……俺自身?」
「ああ」
タオは、まっすぐにレオを見た。
「チャームは、本音を表に出すだけだ。何もないところから、誰かを好きになる気持ちを作り出すわけじゃない」
レオの胸が、どくんと鳴った。
「つまり……」
「レオが俺を好きだって気持ちを、チャームが表に出した。それだけだ」
「……っ!」
レオの顔が、一気に赤くなった。
「な、なんだよそれ! じゃあ、最初から言ってくれよ!」
思わず声が大きくなる。
タオも、珍しく声を張り上げた。
「言えるかよ!」
工房に声が響いた。
レオは驚いて、口を閉じた。
タオがこんなふうに声を荒らげるのを、初めて見た。
「チャームをお前がつけてるってわかったとき、俺だってどうしたらいいかわからなかったんだよ!」
タオは顔を赤くしたまま、レオを見つめていた。
「お前が俺のことを好きかなんて、自信があるわけないだろ。ずっとそばにいたんだから!」
その言葉に、レオはハッとした。
そうだ。
自分は、タオとの距離が近すぎることに驚いていた。
連絡を取り合うのも、一緒に出かけるのも、同じベッドで眠るのも、当たり前だと思っていた。
けれど、タオだって同じだったのだ。
ずっとそばにいた。
だからこそ、伝えられなかった。
レオは、泣きそうな目をしたタオを見つめた。
頬はほんのり赤く、いつものクールな表情は崩れている。
こんな顔のタオを見るのは初めてだった。
「……騙して、ごめん」
タオが小さく呟いた。
レオは首を横に振った。
「いいや。俺も……ずっと気づかなくて、ごめん」
そう言って、タオの顔を覗き込む。
今なら、わかる気がした。
腕輪をつけてから、タオのことが気になって仕方なかった。
顔を見れば嬉しくなり、触れられれば胸が騒いだ。
知らない魔女に嫉妬して、自分でも戸惑った。
けれど、その気持ちは、突然生まれたものではなかったのだ。
ただ、自分が気づいていなかっただけ。
ずっと心の奥底にあった気持ちを、腕輪が表に引き出しただけだった。
レオは、タオの目をまっすぐに見つめた。
「俺の気持ちは、変わらなかったよ」
言葉にするのは、少しだけ勇気が必要だった。
けれど、タオがこんなにも勇気を出してくれたのだから。
自分も、きちんと伝えたかった。
「俺、タオのことが好きだよ」
口にした瞬間、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
昨日までの戸惑いが嘘のように、心の中に答えがすとんと収まる。
タオは目を見開いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……レオ」
「ん?」
「耳まで赤い」
「うるさいな!」
レオは顔を真っ赤にしたまま、タオを睨んだ。
けれど、目はそらさなかった。
「好きなんだから、しょうがないだろ」
タオの表情が、ふっと緩んだ。
いつもは余裕のある顔をしているくせに、今は頬まで赤い。
「……そうだな」
タオは小さく笑った。
それから、少しだけ迷うように手を伸ばし、レオの頬に触れた。
「……キスしてもいい?」
レオは一瞬だけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに笑った。
「……今さら聞くのかよ」
「嫌ならやめる」
「嫌なわけないだろ」
レオはタオの手に、自分の手を重ねた。
「……おいで」
タオは、今度こそ迷わなかった。
そっと顔を近づけ、レオに口づける。
触れるだけの、短いキスだった。
離れたあとも、ふたりはしばらく見つめ合っていた。
ずっと親友だった。
これからも、きっと親友であることに変わりはない。
ただ、その距離が少しだけ変わったのだ。
腕輪はもうない。
けれど、レオの気持ちは消えなかった。
それが何よりも、嬉しかった。




