リイ 再婚
そのことに気付いた時、リイは公衆の面前にもかかわらず、危うく失神するところであった。
かろうじて自らを取り戻した彼女は、宣誓のため並び立つ新たな夫を盗み見た。
シイェは、隣国ドゥオの貴族という触れ込みであった。顔立ちは凡庸である。独特の形に刈り込まれた鬚髯と衣装をはぎ取れば、容易に大衆へ紛れるであろう。
同じドゥオ国貴族でも、ツァオとは大違いであった。彼には選ばれし者の美しさが備わっていた。
シイェは、その彼の紹介である。周到にも、ツァオはハルワ国王や法王に根回しをした上で、リイに縁談を持ち込んだのであった。
リイがイルであった間に、サパでも様々なことが起きていた。
特赦を受けた後ユアンが没するまでの短い間、リイは予想より遥かに膨大な仕事を引継ぐ羽目に陥った。もう少し彼に長生きしてもらうべきであった。
今となっては繰り言でしかない。
「あなたが、サイを殺したのか」
結局、最期の言葉となってしまった。誤解したまま彼は逝った。
リイは彼女に、イルの扮装をさせたまま放置した。爾来彼女は消息不明である。
きっとジアにでも助け出されたであろう。
イルでないことは、すぐ明らかになる。それで彼女が殺されたとしても、リイが手を下したのではない。
偶然ユアンと再会したリイは、同時に起きたホン地区奇襲のお陰で、すんなり城へ戻ることができた。
領主を引き継ぐことが決まってから、彼女は事件を詳しく調べた。公的には、カアン誘拐とホン奇襲は別件として落着した。
しかし、ホン地区再開発事業が金鉱探しの口実と知ったリイは、いずれもジンの仕事であったと確信した。すなわちドゥオ国の仕業である。
ジンの目的は、ハルワ国に金を掘らせないことであった。イル教の活動にリイを担ぎ出したことも、彼女の思想に共鳴した訳ではなく、ツァオが示した危機も幻に過ぎなかった。
リイは不遇をかこつ身につけ込まれ、彼らに利用されたのだった。
うかうか乗せられた己の未熟に恥じ入っても、ドゥオ国を恨むには至らない。外交とは駆け引きの連続である。表も裏もある。
それに、リイの考えに賛同する者が意外に多いことを知り、その威勢を広く世に知らしめた経験は、個人的に有意義であった。
ドゥオ国は、前々からハルワの貴族と縁組みを望んでいた。今回の実現には、恐らくカアンの災難とホン地区の惨劇が影響した。国王も法王も、内心ではドゥオ国の関与を疑っている。
サパは辺境で、ドゥオ国と境を接している。縁組みにより災厄を抑えられるならば幸い、危急の際には、多少の割譲も已むを得ないとまで踏んでいるかもしれない。
ハルワが死守したいのは、アン地方である。ドゥオ国の遠い目標も、間違いなくそこにある。彼らにとり、サパとの縁組みはこの布石となるであろう。
こうしてリイの再婚が決まった。国王と法王の意向には逆らえない。
問題は、シイェである。リイが驚愕したのは、彼にジンの面影を見いだしたからであった。
風来坊じみた間諜と貴族が、同一人物である筈がない。
リイはジンの顔を未だに思い出せない。シイェの凡庸な顔立ちは、特徴的な鬚髯を手がかりにして見分けることができる。
しかし鬚髯がなければ、やはり思い出せない。その曖昧模糊とした印象が、まさにジンと一致した。
果たして、隣に立つこの男と、結婚してもよいのだろうか。
激しく惑う間にも、式は容赦なく進行する。
「誓いますか?」
気付けば、会衆の目が司祭に問われるリイに集中していた。
異端審問の場が蘇った。亡き父の倒れる姿が目に浮かぶ。気を失いたがる心を、彼女は懸命につなぎ止めた。
「誓います」
こうして宣誓はなされた。歓声に包まれ、リイは我に返った。
誓いの声は確かに聞こえた。まるで他人が言ったようであった。口を動かした感覚すらなかった。
引退を囁かれるクィアンに、跡継ぎができた。名をニアンと言う。
過去の遍歴で大量に残した娘の誰かが産んだらしい。正確には孫であろう。
それも、高貴な血筋でないことが察せられた。
孫息子の話になるとだらしなくなる彼の口が、その点に関しては堅く沈黙を守っていた。
それでリイは、洗礼で名を授かるまで、彼に息子がいることを知らなかったことにも納得した。
ヨオンにも息子ができた。これは正真正銘の息子である。彼はリイが不在の間に、ハルワの貴族と結婚していた。既に娘を授かっており、息子を切望していた。
洗礼までに大分間があるのに、早く名前を呼びたい、とこれもまたやに下がっている。
上手く誘導すれば、イル教徒の嫌疑を被せ失脚させることもできそうである。ただ、リイにその気はなかった。
ソオンが引退した現在、ヨオンは政務を任せられる貴重な人材であった。
リイの再婚から、サパは吉報続きである。
ホン地区の警備立て直しが一向進まないことを除けば、領地は概ね平穏であった。
リイには既にリアンという娘がいる。それでも再婚により、自然と周囲には第二子への期待が生じた。
リアンは彼女の実子ではないのだが、知らぬ者は一人生まれたのだから二人目も、と思うらしかった。
シイェとは当然夫婦の交渉を行っていた。彼がジンなのか、ジンが彼の顔を借りて活動していたのか、あるいは偶然似ているだけなのか、いまだにわからない。
尋ねることが怖かった。彼がジンだと知ってしまったが最後、彼に逆らえなくなるような気がした。
ツァオがこの縁談を仕組んだ意図は、そこにあるのかもしれない。
孤児になったとも知らず、リアンはすくすくと育っていた。すっかりリイを母親と信じ懐いている。
父を失った悲しみの影は見当たらない。まだ幼過ぎて、死を理解できないからであろう。
リイはリアンに会うと、母親らしい気持ちになれた。リンの生まれ変わりではないか、と感じることもあった。
この先シイェとの間に子を生せなくとも、リイにはリアンがいれば充分であった。
ある日、急に思い立ってリアンの元へ行くと、部屋には誰もいなかった。留守居の召使いまでも姿が見えない。
リイは娘の面影を追って部屋を歩き回った。
これまで彼女は、娘の部屋をじっくり見たことがなかった。多忙に加え、ユアンの存命中は、どこかしら遠慮があった。
見たところ、リアンの部屋は快適に設えてあった。リイが特に指示せずとも、未来の領主として充分な注意が払われていた。
奥の小部屋へ入ったリイは、息を呑んだ。壁に、サイの肖像画があった。
気を落ち着けた上で改めて観察すると、唯一絶対神の絵であることがわかった。ワ教信者であるリアンの部屋に、当然掲げられるべき品ではある。
しかし、その顔は明らかにサイと似ていた。偶然とは思われない。
リアンは表向きリイとユアンの子である。もちろん、不在であったリイの子ではあり得ない。ユアンと誰かの子である。彼は生みの母について、口を閉ざしたまま逝った。
特赦後、リイはリアンの生母についてそれとなく調べてみたが、城内においてさえも、彼女が生みの母と信じられており、迂闊に尋ねることができなかった。
確実に知ると思われる人物は、城付き司祭のクインであった。彼は、リイの不在を知る数少ない人物でもあった。
彼女は宥めたりすかしたりして随分責め立てたが、彼はしらを切り通してサパを去った。
いま一つ責めきれなかったには、彼が特赦の功労者であると同時に、リイをイル教の教祖と疑う素振りがあったからである。
切れ者の彼ならば、自身無傷のまま彼女の特赦を取消し、即刻処刑させることまで訳なく行える。今や彼はハルワティアンの重鎮であった。
彼はサイの還俗についても口を割らなかった。リイは彼女がイル教に関わっているかもしれないと匂わせたが、彼は全く引っかからなかった。
彼女はリアンの実の母を密かにサイと断じていたものの、領主となった現在に至るまで、証拠を見つけられないでいた。彼女にとり、この絵は初めての物証であった。
「ママッ」
後ろからリアンに飛びつかれた。続けて背後から、人の気配がどっと押し寄せた。リイは娘を抱きかかえ、絵と向かい合わせた。
「この絵を、誰から貰ったの?」
リアンは愛らしい目をぱちぱちさせ、彼女を見上げようと体をねじ曲げた。絵に特段の思い入れはないようであった。
「ムウ?」
「リアン様、お着替えをなさいませんと。まあ、リイ様」
噂の当人が入ってきた。途端に思い出した。
彼女は昔、サイ付きに命じた侍女であった。リイを見て驚いたのが、サイの絵を見つけられたためなのか、単に誰もいない筈の部屋に領主を見出したためなのか、判別できない。
少なくとも彼女は、サイの顔を知っていた。その彼女がこの絵を持ち込んだならば、リアンの母がサイと知る可能性がある。
「まあ。領主様をこんなところへ放置しておくなんて、留守居の者たちは何をしていたのかしら。リイ様、監督が行き届かなくて申し訳ございません。どうぞこちらへいらして、お寛ぎください。今、飲み物を用意させます。それからリアン様」
立て板に水のごとく喋りかけるムウを、リイは片手を上げて遮った。リアンは大分重くなったが、リイもイルとして活動する間に、逞しくなっていた。
「構わないのよ。お前たちも忙しいでしょう。手を煩わせたくないの。それより、この絵。どうしてサイを描いた絵が、ここに飾ってあるのかしら?」
「どなたですって? それは、唯一絶対神の絵と思っておりましたが。リアン様は真正のワ教信者でございますし、お小さい頃からしっかりとした教育が必要と、ヨオン様がお持ちになりました。何でも、ダン=トンという有名な画家に描かせた貴重な絵とのことにございます」
ムウは、怪訝な顔でリイを見返し、説明した。些か、饒舌に過ぎるような気もしたが、ごく迂遠に、ヨオンがリイの異端の過去を懸念していることを伝えたのかもしれなかった。
特赦されても、異端宣告を受けた過去が消える訳ではない。ヨオンもまた、熱心なワ教信者であった。
「さあ、リアン様。お着替えなさいませ」
ムウは、リアンに両腕を伸ばした。
娘はリイから離れるのを嫌がって、リイにしがみついた。彼女は反射的に娘を抱き締めた。乱れた髪から、日向の匂いがした。
「可愛い子」
実の母を知った後では、彼女からこれほどの愛情は望めまい。
異端の疑いを上手く逸らし、絵を処分しなければならない、とリイは思った。




