サイ 襲来
通りの向こうからばたばたと派手な足音がしたかと思うと、予想どおりスウが戸口から顔を差し入れた。
「やったね婆さん。リイ様が法王様から特別赦免を授かったってさ」
中で縫い物をしていたテンは、死んだ妹の娘を睨みつけた。生活に追われて色気を失ったものの、まだ老婆というほどの年齢でもない。
「あたしらには関係ないね。それに、婆さんと呼ぶのはお止めと言っているだろう。この穀潰しめ」
「ああら。わたくし、お金持ちに嫁ぐ身ですもの。針仕事なんかで指を痛めたら大変。産婆の跡継ぎなら、サイがいるじゃございませんか。さあて。わたくし、未来の旦那様を見つけに行って参りますですわ。おほほほ」
スウはばたばたと逃げ去った。彼女は金持ちの子どもを産んで安楽に暮らす、という邪な目的で屋敷奉公に出ては馘首になったり辞めたりしており、目下失業中であった。
テンは怠惰な姪の残像を見送り、矢庭に針を持つ手を動かした。最後に糸を食いちぎる顔は凄まじかったが、始末をつけた顔は存外穏やかであった。
「ほい、できた。サイ、これとその籠に入った分を、この間行ったガンさんの家へ届けておくれ。それで貰った手間賃を八百屋でつけの払いに回して、ご用聞きをしながら帰るんだよ」
「はい、テンさん」
「本当に、スウとあんたを取っ替えたいよ。そうしたら追い出してやるのに」
テンの愚痴を背中で聞き流し、サイは表に出た。
産婆を営むテンは、サパ城下の南端にスウと二人暮らしであった。
サイは運良く居候を許された。身元を隠すにはサパから離れるべきであったが、リアンと息子の動向を知りたい気持ちを抑えられなかった。
テンの住いはほぼメン地区で、現にあちらからも産婆のお呼びがかかる。彼女も期待して、境界付近に居を定めたのだ。
サイは唯一絶対神の導きと思い、言われるままにテンの手伝いをした。
貧しい民が集まる町の外れには、サイを知る人物は現れなかった。
彼女も様変わりしていた。居候の挨拶代わりに長い髪を切って差し出した後、染めが落ちた分と、新たに本来の色で生えてきた分と、染め残りと併せ三色まだらの奇妙な頭になった。
彼女は頭を布で覆って外出した。それぞれ事情ある住人たちの間では、そのせいで人目を引く恐れはなかった。恐らく、髪を剥き出しにして歩いたところで、誰も気にしなかったであろう。
ガンの元へ仕立て上がりを届け、手間賃で八百屋のつけを払い、ご用聞きと言っても知らぬ家ばかりなのでただ歩いていると、掲示板が目に留まった。
布告が出る度に、決まった役目の者が板きれに書き写す。領民には字が読めない者も多く、布告の当日だけは役人が触れ回る。
聞き漏らした者は掲示板で確認するか、または誰かに訊く習わしである。サイは掲示板を読んでみた。スウが知らせた、リイの特赦ではなかった。その件は、板を立てるには早過ぎた。
「イル教を犯罪集団と指定する」
サパ領主ではなく、国王による布告であった。字の濃さからして、最近の話である。これは、カアンの誘拐が彼らの仕業と明らかになった事によるものだ。
国王の布告と前後して法王の特赦がおりたのは、果たして偶然だろうか。
では、彼女はイルではなかったのか。それとも、イルであることを隠して信者を売ったのか。
いずれにしても、サイの得た手がかりをハルワティアンに提供する必要は、失せたようであった。
ワ教に加えて司直の手がかかったら、逃れることは不可能に思われた。イル教は早晩に滅びるであろう。
サイは一つ荷を下ろしたような気持ちになった。まだ荷は残っている。
ぎゃあああ、と赤子の泣き声が響くと、産婦を始めとする人びとの緊張が解けた。テンも山場を越えた余裕を感じさせるが、まだ気は抜かない。サイは全く油断できなかった。
「ほら、男の子だよ」
へその緒でつながったまま、湯気さえ立てる赤子を産婦に見せながら、産湯を探す。へその緒はサイが始末する。後産も忘れてはいけない。
ワ教では特に定めていないが、宗派あるいは慣習によって食べるところもある。便所の脇に埋めるところもある。子どもを産むだけのこと、と侮れない。その都度違うことが起きた。
サイ自身二度のお産を経ていながら、未だに毎度驚かされる。これまでのところ、母も子も全て無事に済んだことは、実に有り難いことであった。
「あたしは一生懸命やったんだけどさ、もしかしたらもっと上手いやり方があって、そうしたら助かったんじゃないかって、つい考えちまう」
死産や母親が命を落とした場は、実に居たたまれないそうである。サイは、人知れず牛小屋で自分を産み落として死んだ母親のことを考えた。
夜明け近くに呼び出され、帰る頃には日が高く昇っていた。朝には一旦閉める酒場も、再び開店していた。テンは看板を見つけてサイを呼んだ。
「一緒にやろう」
サイは驚きながらも従った。テンは赤子を取り上げる度に一杯ひっかける習慣があったが、サイを誘ったのは初めてであった。
二人は開店早々で客もまばらな酒場に繰り込んだ。安い麦酒を注文して腰を据え、ちびちび舐めるように飲むのがテンの流儀であった。
「スウは、今度の家では上手くやっているみたいだね」
玉の輿狙いの姪は先頃、さる富裕な商人の館へ潜り込んだ。その家には独り身の息子が二人いるという話である。
「スウじゃないけど、あたしも年寄る一方だし、あんたがこのまま手伝ってくれれば、ありがたいんだけどね」
「こちらこそ、置いてくださるばかりでなく、仕事まで教えていただき、感謝しております」
サイは笑顔で受けた。イル教が滅びの道を辿り、リアンや息子の命に別状がなさそうな現在、彼女としてはこのままテンの元で余生を過ごしても構わない。
「それそれ。その言葉遣い。あんたって、浮世離れしたところがどうしても抜けないんだよね。スウにそういう性質があったら、それこそ玉の輿狙ったって、もう少し真面目に考えてやったのに」
「そうですか」
てっきり身の上話を要求されるかと思いきや、テンは産婆になる気があるか尋ねただけであった。サイはある、と答えた。
「じゃあ、近いうちにあたしの先生のところへ連れて行ってやるよ。この仕事、お医者みたいに領主様のお許しはいらないんだけど、ちゃんと勉強したら辛いお産に立ち会わなくて済むし、何て言ったって箔がつくからね。礼金も違うよ」
「よろしくお願いします」
一体に、テンは世俗に関心が薄いと思っていただけに、箔がつくなどという言葉は意外であった。彼女なりに仕事に誇りを持っている、とサイは解釈した。
「ファン先生は腕もいいけど、人もいい。あたしら貧乏人もちゃんと診てくれる」
テンはひとしきり先生なる人の話をした。聞けば、彼は産婆ならぬ医師であった。
昼時で店が混雑してきた。煩がられる前に、二人は表へ出た。遠くで叫び声が上がった。視界の端で、人だかりができた。テンは喧噪に背を向け家路を辿る。
サイは気になったものの、やはり彼女に従った。少年が叫びながら、脇を走り抜けた。
「領主様がお亡くなりになったぞう」
「次の領主様はリイ様だってさあ」
言葉の意味がサイに浸透するまで、数歩かかった。彼女は立ち止まった。
今日はやけに人通りが多かった。頭上から言葉が降ってきた。
「ユアン様は、よい領主だったよなあ」
「リイ様がお戻りになって、ほっとしたんじゃないか」
「これでサパも正統に返る訳だ」
行き交う人びとは口々にユアンの死を話題にしていた。彼らの言葉が頭の中で反響した。彼女は路上に座り込んだ。
テンが引き返してきて、何か言いながら乱暴に肩を揺すった。サイは彼女を見たが、その内容がさっぱり理解できなかった。
ユアンと前後して父のカアンも死去した。彼らは合同で見送られた。ただし、カアンの遺骸はハルワへ送られ、都でも葬儀を行った後に、あちらで埋葬されるということであった。
葬儀は盛大であったらしい。お産の手伝いで、サイはかいま見ることすらできなかった。出産は時を選ばず、物見高い産婆に断られた分、テンは普段より忙しかった。
サイには考える暇もないのが幸いであった。ユアンが去ることと、彼が死ぬことは全く別であった。残された子どもたちも心配であった。
その心配は、リイの再婚話を知ってからますます募った。知らせをもたらしたのは、スウである。
彼女は、商家の次男と順調に距離を縮めているらしかった。
「何とその相手が、ドゥオ国の貴族だっていうから驚くじゃないの。再婚だから地味にするってことで、国王様や法王様も賛成したんだって。それで、式を挙げる時まで顔もわからないんだってさ。信じらんないよ」
「領主様が何考えているのかわかんないけど、人を見る目があるのは確かだよ」
テンがため息をつきながら応じた。ユアン死去の責任を取ってか、侍医が離職し、後任に師のファンが抜擢された。めでたくも、遠い存在になったのが不満なのである。
サイには、リイの考えがわかるように思った。彼女は自分の子を欲している。
男児が生まれればよいが、女児しか生まれなかった場合が問題である。リイはリアンをそっとしておいてくれるであろうか。
サイに親子の名乗りをする気はなかった。生きてくれさえすれば、満足であった。
リイの婚礼の日も、やはりテンたちは、お産で忙しかった。
帰途、テンは酒を求めて姿を消した。
サイは荷物を持ち、先に家路を辿った。
挙式のあるガル大聖堂からも、新郎新婦が通る道筋からも大分離れている。通りにはひと気がなく、臨時休業の店も多かった。
テンの帰りは遅くなりそうである。
家の前に、見覚えのある人影があった。
「ジアさん。ハルワに行ったのではありませんか」
「あんたがこの辺にいるのはわかっていたわ。だからあたしは、先にあの人を探せたのよ」
ジアはサイに目を向けた。虚ろな穴が二つ空いていた。少し会わない間に痩せて骨張った体つきとなり、どうかすると男性のようにも見えた。
「よかったら、一休みしていきますか」
「あの人が」
彼女はまるでサイの言葉が耳に入らない風であった。
「姿は見違えたけど、確かにあの人だったわ。ご立派になられて。一目でわかった。あの人、始末をつけろって、あたしに目で訴えたの。これが、あの人とする最後の仕事よ」
ジアが足を踏み出し、その手に小刀があることに、サイは気付いた。
助けを求めようにも、誰もいなかった。
ジアが腕を振り上げる。サイは動けない。刃が太陽を反射して、ぎらりと光った。




