サイ 困惑
ジアという女性の怒りは、相当なものであった。
「畜生、まんまと騙しやがった。あの尼とつるみやがって。よくも、よくも」
怒りに晒されたサイは、戸惑うばかりであった。ジアはサイに騙されたと怒っているが、彼女にしてみれば、騙したのはイルであった。
彼、と言っても見事に女性に変身し、しかもジアは「尼」と罵っていたので、本当は女性だったかもしれない。ともかくイルがサイを変身させ、その姿にジアが騙されたのである。
混乱の中で、ジアは彼女をイルと思い込み、必死で救い出したのであった。サイの方も、状況がわからず、されるがままになっていたのが悪かった。
外は夜であった。彼女は馬に乗せられ、どことも知れぬ場所へ連れて行かれた。そこにはジアの仲間らしき姿も見えた。サイは、ここで彼女の名前を聞き知ったのである。
ジアは彼らを荒々しく追い払い、彼女を奥まった一室へ運び込んだ。明かりを点し、やれやれと落ち着いたところで、漸く過ちに気がついたのであった。
「脱色して染め直したのか。くそっ。いつの間にこんな技を身につけやがった? ふふん、やっつけ仕事で仕上げが甘いわ。まだまだだな」
ジアはサイの髪をさっと払って粗を見つけ、少し怒りが収まったようであった。してみると、イルの変装を超えた変身術は、元々彼女の技能に負うものらしい。
「ところで、あんた誰さ? 何であそこにいたの? イルはどこへ消えたのよ?」
気を落ち着けたジアは、打って変わって女性らしくなった。つい先ほどまでは、声がまるで男性のように野太く、見た目との落差のせいで余計に恐ろしかった。
改めて眺めると、少年のようなすらりとした体つきに艶かしい顔つきをのせた、不思議な魅力のある女性であった。
「私はサイ。サパの出身です。ハルワのカアン様と一緒にいるところを、盗賊に襲われました。イルがどこへ行ったのかは知りません。あなた方は、盗賊の仲間ですか?」
ジアはふん、と鼻で笑った。
「失礼な。あたしらは盗賊じゃないわよ。でも弱ったな。奴の居所がわからないとすると、この先どうしたものか。あの人とも連絡が取れないし」
そこへ、扉が遠慮がちに叩かれた。ジアが、上の空で出したと見える不機嫌な声に応じて開いた扉の向こうから、年配の男性が顔だけを覗かせた。
「イル様はご無事でしょうか。おお」
ジアが止める間もなく、彼は部屋に入って来て、サイの足元に跪いた。
その服装を見た彼女は驚いた。まるっきり、ワ教の修道院長の格好であった。
「暫くお姿を拝見せずにおりまして、私ども心配しておりましたが、むしろ健康そうになられましたな。ご無事で何よりでございました」
驚きで口も利けない彼女の内心を知らず、彼は嬉しそうだった。ジアは隣に形容し難い表情で突っ立っていたが、すぐに咳払いした。
「ご本人を前にして大変申し上げにくいことですが、実はイル様は、先の混乱に巻き込まれた衝撃のため、記憶を失われてしまわれたようなのです」
「何と。では、このわたくしめ、スイのこともお忘れになられたと仰るのでしょうか。ああ、おいたわしや」
スイと名乗る修道院長の服を纏った男性は、はらはらと涙を流した。
サイはますます驚きながらも、脇でジアがしかめ面をしたのが目に入った。彼女はしかめ面をしながら、同時にサイに黙っていろという身振りを、彼に気付かれないよう送って寄越した。
サイは何を言ってよいものか、見当もつかなかったので、黙っているしかなかった。
「そうなのです。しかし、静かな場所で気持ちを落ち着けられれば、元に戻るかもしれません。ですから、皆さんご心配でしょうが、当面の間、イル様のために余計な刺激を避けたいのです」
「わかりました。イル様がお疲れでいらっしゃるには違いありません。ジアさんの考えは試してみる価値があると思います。他の者には、私から伝えるようにしましょう。では、イル様。どうか、御身を大切にお過ごしくださいませ」
スイは素直に頷くと、涙を拭き拭き部屋から出て行った。ジアは扉に身を寄せ、外の様子を暫く窺っていたが、サイの元まで戻って来た時には、凶暴な目つきをしていた。
「聞いてのとおりよ。あんたはこれから、イルとして生きるのよ」
サイは、一応尋ねてみることにした。
「イルというのは、イル教の教祖ですよね。私はワ教信者です。断ったらどうするつもりですか」
「殺す。あんたの代わりなんて、いくらでも作ることができるもの。何だったら、悲劇の殉教者として祭り上げてもいいし。その方が簡単ね」
「わかりました。引き受けましょう」
即答したのは、彼女の凶暴な目つきが語る無惨な結末を遠ざけるためばかりではなかった。
ここで殺されても、殉教者にはなれない気がした。
思いもかけない形ではあるが、サイがワ教の信仰を保ったままイル教の中枢に入り込んだからには、神の何らかのご意思が働いている筈であり、その御心が、ここでワ教信者として死ぬだけということは絶対にあり得ない、と彼女の脳裡に閃いたのであった。いずれ唯一絶対神の御許へ召されるとしても、決して今ではない。
「ふん。あんた馬鹿じゃないね」
ジアは満足げに頷いた。そのうち殺されるかもしれないが、とりあえずの危機は回避されたようであった。
「では、イルと、それからイル教について教えてください」
サイは彼女の気が変わらないうちに、話を進めようとした。
「待ってよ。あんたが妙な気を起こさないように、説明しておいてあげる。あんたがあたしの隙を狙って逃げたとしても、この建物から外へ出るのは無理だからね。あんたは目立つ。イルとして外へ出ようとするのは変だし、あんた自身として出ようとするのは、もっと怪しい。万が一建物から出ることができたとしても、ここは人里離れた場所にある。助けを求める前に、あんたがくたばっちまうこと請け合いよ」
ジアはにやにやと笑いながら言った。サイの選択肢は狭められたが、無駄な試みに時間を浪費しないようにとの神の助けとも考えられた。彼女は素直に頷いた。
「わかりました」
再び扉が叩かれた。舌打ちしたジアは、一歩も踏み込ませない構えで応対に出た。食欲をそそる匂いが漂った。扉を閉めた彼女の手には、食事の盆が載っていた。
先ほどのスイという男性が手配したのであろう。温かい豆のスープにパンと葡萄酒という簡素な献立であった。しばらく人並みの食事をしていなかったサイには、充分なご馳走であった。
「食べて」
食事を終え、空の食器が下げられるのを見届けてから、ジアの説明が始まった。
イルはやはり女性であった。ただし、信者の前では男性として振る舞っていた。彼女はある日忽然と現れたので、生まれも年もわからない。
イル教の教義は、既にサイが知っていることばかりであった。ジアが教義について深く知らないか、あるいはイル教自体が底の浅い宗教ということになる。
ワ教の圧倒的な歴史と比べることに、そもそも無理があった。
「イルは、腹心の友であるあなた、それにほかの信者の人たちを見捨てて逃げた。イル教は、彼女が始めた宗教なのに、どうして見捨てられたあなたが、ほかの信者に事実を隠してまで、イル教を続けようとするのかしら」
ジアは、虚をつかれた様子であった。正確には、イルは女装して戦の場を逃れただけである。今頃は囚われの女性として保護解放されたかもしれないし、盗賊の仲間と見破られて苛烈な取り調べを受けているかもしれない。
初めに裏切ったと断じたのはジアであり、現在の状況は彼女の結論に沿っている。サイが彼女に細かい事情を説明する義務はなく、彼女は敢えて結論に異議を唱えなかった。ために却って疑問が浮き彫りとなった。
「待っているからよ」
不自然な沈黙の後、ジアが言った。サイは思わず聞き返した。
「あの人が戻った時、元通りにしておいた方がいいと思ったからよ」
彼女は繰り返した。あれだけ怒りをまき散らしておいて、本心ではイルがいつか戻ると信じているらしい。サイは訳がわからなくなった。
イルとイル教の知識を伝授された後も、サイは相変わらず一室に閉じ込められたままであった。
食事もジアが運んだので、彼女はほかの誰とも口を利かないまま、恐らく数週間を過ごした。
十日目以降、日を数えるのを止めたのである。食事の量は徐々に減らされたが、煙突掃除をしていた頃よりはよほど上等であった。
「あんたはもうちょっと痩せなきゃね」
ジアは食事の度、口癖のように言った。サイは太っている自覚がなかった。二人も産んだとは思えない、とユアンにもよく褒められたものである。
彼女はサイを本物のイルに近付けようとしていた。幼い頃から粗食に親しんでもとより小食のサイに、食事の量は気にならなかった。
ただ、いかに量を減らしても、ひとところで食べては寝てを繰り返すばかりでは、痩せるにも限界がある。
イル教には教典がないのか、ジアは退屈しのぎの品を何も用意しなかった。
彼女も忙しい身らしく、食事や入浴、就寝を除くと部屋にはいない。
独り残されたサイは、日がなハルワティアンで学んだ様々な事を思い返して過ごした。痩せるためにも、気分転換のためにも、外に出て風を感じたかった。
扉が叩かれた。腹のすき具合からして食事には早過ぎる上、普段と調子の異なる叩き方であった。サイに選ぶ余地はない。返事もしないうちに、鍵の回される音がして、たちまち扉が開いた。
「イル様」
見た事もない顔が現れた。しかも彼は、ワ教の司祭服を纏っていた。
イル教がワ教に倣っている事実を考えれば、修道院長の服を着る者が存在する以上、司祭の服を着る者も当然存在する筈であった。
それにしても、彼らはイル教においてどのような地位を占めるのか。サイの疑問をよそに、彼は喜色満面にして近寄り、足元に跪いた。
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
スイより大分若い彼の頭を、彼女は途方に暮れて見下ろした。ジアはイル教の構成員について、何ら知識を与えなかった。扉はきちんと閉められて、後から彼女が登場する気配もない。
「失礼ながら、私は記憶を失った身です。まず、あなたのお名前を伺いたいのですが」
彼はゆっくりと頭を上げた。懐旧の情と失望が入り交じっている。
「あれほどお慕い申した私をも、お忘れなのですか。ヤオでございます。イル様」
如何に責められても、サイは初対面である。戸惑うよりほかない。気まずい沈黙の中、彼女に見入るヤオの表情が変化した。
「あなたは、イル様ではない」