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ユアン 委譲

 クインは優秀な司祭であった。

 リイの特赦は、ユアンが期待していたよりも、よほど早く得られた。


 少し前に、イル教が国王から犯罪集団として指名手配された。特赦に際して理由は明示されないが、クインが司教への昇進を約束されたことから推しても、そのことが関係していると考えられた。


 ハルワティアンへ去った彼の後任には、やはりハルワティアンから若い司祭が派遣された。ガルやへやシの三聖堂からは、全く異議が聞こえて来なかった。


 (もっと)も彼ら司祭も、ハルワティアンの意向を受けて就任した者ばかりであった。

 このように、サパ領下の教会であっても、ハルワティアンが人事権を握るような動きは、慣行となりつつあった。


 リイは特赦を受けると早速以前の部屋へ戻り、領民の前にも姿を現した。

 彼らは代々サパを治めてきた領主の末裔を、熱意をもって歓迎した。ユアンが気を回さなくとも、彼らはいずれ彼女を領主と仰ぐ心積もりがあるらしかった。


 クィアンやソオン待望論も、民の熱にすっかり掻き消された。

 ユアンは愈々(いよいよ)譲位の準備を始める必要に差し迫られた。

 問題は、肝心のリイに意思を確認していないことであった。


 晴れて外出できる身となった彼女は、隔絶されていた世間との交渉を取り戻すのに忙しく、政務は相変わらずユアンに任せきりであった。



 リイとリアンの対面は、彼女の多忙な予定の合間を縫って行われた。


 人見知りをする年頃であるからと、余裕のある日程を組むよう事前に伝えてあったのに、当日になって急に知らせが届いたので、ユアンは慌てて仕事をやりくりして駆け付けねばならなかった。


 彼女たちが真の母子でないことは、ごく一部しか知らない事実である。如何に奇異に見えようとも、少なくとも初めのうちは、立ち会って関係を取り(つくろ)う必要がある、と彼は考えていた。


 彼がリアンの元に着いたのは、リイとほとんど同時であった。幼子はムウを相手に積み木を積むか投げるかして遊んでいたが、いきなり見知らぬ人びとが来て騒がしく感じたのか、ユアンも驚くような大声で泣き出した。


 リイは硬直したように突っ立っている。無理もない。リアンと同じ年頃の子どもを間近に見るさえ、ほとんど初めてと言ってよい筈であった。

 妻に同情しつつも、彼の注意は娘の方により多く奪われた。実際に駆け寄り慰めるのは、両親よりも召使いたちが遥かに素早かった。


 「おお、よしよし。リアン様。お泣きにならないでくださいまし」

 「リアン様は、ちょっとびっくりなさっただけでございますよねえ」

 「大丈夫ですよ。心配ございませんよ」


 娘はたちまち泣き止んだ。泣き出すのも唐突(とうとつ)であるが、泣き止むのもまた唐突である。

 濡れた睫毛に引っかかった(しずく)を除いて、泣いた跡も見られない。

 それさえも侍女たちが手際よく拭い去ると、やや放心した(てい)の幼子が現れた。


 「リアン様。お母様でございますよ。母上とお呼びするのですよ」


 抜かりない乳母が、リアンを抱き上げ、やんわりとリイに突き出した。彼女は反射的に腕を差し出したが、幼子を掴む心構えはできていない。

 リアンはきょとんとして、彼女の方をぼんやり向いていた。


 「まむ?」

 「まあ、お聞きになりまして」


 侍女たちが一斉に驚嘆の声を上げた。


 「もうお覚えになられましたわ。やはり、目の前にいらっしゃるのが一番ですわね」

 「さすが、リイ様のお子でいらっしゃいますわ」


 そこでリイは我に返ったような表情をした。すぐに笑顔を作り、リアンを乳母から譲り受けた。ユアンの密かな祈りが通じたのか、娘はむずからずに笑顔を見せてくれた。


 彼ばかりでなく、一同に安堵の表情が浮かんだ。リアンを腕の中に納めたリイは、本当の母親のように慈愛に満ちて見えた。


 「可愛い女の子。母親似ね」


 彼女は幼子の瞳を覗き込み、誰にともなく呟いた。

 ユアンは思わず視線をムウに走らせた。彼女もまた、目だけを動かして彼を見ていた。


 「左様でございますとも。きっとリイ様のように、美しくおなり遊ばします」


 事情を知らない乳母が、満面の笑みで応じた。同じく何も知らない幼子もまた、あどけない笑顔を振りまいていた。



 リイはユアンほど頻繁にリアンの元には通わなかったが、彼女なりに幼子と親睦を深めている様子が窺えた。

 娘の方は、すっかり彼女を母と信じていた。


 まだ孝心など解せぬ年頃ながら、新たに母上と呼ぶ存在が出来たことを、素直に喜んでいる。

 娘の笑顔に安堵しつつ、生みの親を思うとユアンの胸は痛んだ。


 しかし、サイが無事に生きていたとしても、彼女がリイの位置に取って代わることはない。

 それが彼女の希望でもあった。むしろサイが姿を消したことで、万事丸く治まった、と言うことさえ出来た。

 胸が痛むのは、彼の感傷に過ぎない。


 ユアンがむやみと感傷に(むしば)まれるのは、体調のせいかもしれなかった。

 リイは政務にも少しずつ復帰しており、旧来の感覚を見る間に取り戻しつつあった。それとともに知性も復活し、昔日の面影まで再生しつつあった。


 彼女が多少なりとも取り乱したのは、ホン地区壊滅の話を聞いた時だけであった。

 運命のいたずらで攫われなければ、警備隊もろとも命を落としていたと思えば、穏やかならぬ心となるのも頷けた。


 リイの回復と反比例して、彼の方は体調を崩しがちになった。侍医に見せても特段病気ではない、と診断される。

 正当な領主が戻り、後顧の憂いが消えた安心感に、気が緩んだのかもしれなかった。


 リイは(せわ)しない身でありながら、彼の体を案じてくれた。ハルワや外国から滋養に珍重される品を取り寄せては、彼に試させた。

 手づから口に運んでくれることもあった。夫として後ろめたさを感じながら、彼は妻の心遣いを甘んじて受けた。


 二人の間に、夫婦生活は絶えていた。

 特赦が下りた後、半ば義務感から彼は彼女の元へ(おもむ)いたのであるが、情けなくも失敗してしまい、爾来(じらい)体調のことを除いても、寝室を訪れる気力からして失せた。


 言い訳じみているが、リイの方も久々に夫にまみえることに緊張したのか、ぎこちない態度であった。

 無頼漢に(さら)われて、あれほど長い間側に留められていたのである。ユアンは彼女の体が、穢されてしまっていることも覚悟していた。

 意外なことに、彼女の体には、まるで異性の跡が感じられなかったのである。


 それもまた彼にしてみれば、彼らがただの盗賊ではなく、高次元に統制された集団であることを裏付ける証拠であった。


 リイや侍医が様々に試みる療法の甲斐(かい)もなく、ユアンの病状はますます悪化した。

 (つい)に彼は、回復を見込めないと悟り、人の耳が届かない場所へリイを呼び出した。

 彼女は(おとろ)えた夫に対しても、尊敬の態度を保っていた。


 「私の寿命の終わりは見えている。あなたさえよければ、よい頃合いを見つけて領主を譲りたい」


 前置きもなく、ユアンは単刀直入に言った。リイの顔に驚きが広がった。

 どうやら侍医は、彼の病状を楽観して彼女に話してたようだった。(しばら)くの間、二人の間に沈黙が(ただよ)った。


 「あなたは、リアンに譲ると思っていた」


 リイが口を開いて最初に吐き出したのは、夫の命が失われることへの恐れではなく、将来へ向けた己の見込みであった。


 もし真実ユアンに死期が迫っているならば、その前に決めておくべきことが山とある。愁嘆場を演じる暇はない。


 彼は感嘆した。妻は今すぐにでも領主として立てそうなほどに、復活を遂げていた。

 彼とて娘の将来を気に懸けぬではないが、彼女に敬意を表し、彼も感傷を排除することにした。

 それに、くどくどしく言葉を並べ立てるだけの力も、今の彼には残っていなかった。


 「私がこの職に就いたのは、臨時の措置に過ぎない。あなたこそが、本来の領主なのだから、是非とも引き受けてもらいたい」


 リイは押し黙っていた。つ、つうっと片方の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は見られまいとして、顔を背けた。


 「わたくしたち、もっと何でも話し合うべきでしたわ。最初から」


 さしもの彼女も動揺を抑えることができず、言葉が乱れた。


 「そうかもしれない。しかし、もはや時間がない。あなたと無事に再会できただけで、私は充分満足しているよ」


 ユアンは目を伏せた。

 不意に、死ぬ前にサイにも一目会いたい、という思いがこみ上げたのである。彼女が既に死んでいることは、承知している。理屈ではないのだ。


 妻としての愛情を向けてくれたリイに、その(よこしま)な思いを読み取られたくなかった。

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