サイとリイ 対峙
サイは、確信があって言い当てた訳ではなかった。
カアンと共に連れて来られるまでの間に耳にした言葉の断片、牢番同士の交わす暇つぶしの言葉、そして何よりも、彼がリアンの母を推測してみせたことが、彼女に口を開かせた。
目の前にいる人物は、ダン=トンの描いた唯一絶対神のように男女いずれとも断じ難かった。それも彼女に彼が異端の教祖であると言わしめた一因であった。
ともかく、ふと口をついて出た言葉が相手を驚かせたことに、サイ自身が驚き戸惑った。
「確かにわたくしはある人々に祭り上げられた存在ではあるが、あなたが呼んだ人物ではない。それに我々は、イル教ではなく、イル派と称している」
もう彼は、落ち着きを取り戻していた。
サイの戸惑いは晴れなかった。目の前に座る彼をリイと見間違えさせ、還俗した今になって、法王が探すイル教の教祖と思しき人物を見出させた、唯一絶対神の御心が皆目わからなかった。
カアンと同様に拷問に処せられなかったこと、それでいて彼が自分と話をしたがる理由にも、見当がつかなかった。
「何をお尋ねでしょうか?」
「さて。何から訊こうか」
彼は悠々として言った。捕らえた側の余裕である。
サイの方にも、立場が許せば問いたい事柄が山ほどあった。しかし、囚われの彼女に質問の権利はない。
彼の顔立ちは整い、年齢は詳らかでないものの、俗世にあっては異性から求められるような雰囲気を感じさせた。にも関わらず、彼女は彼に対し、貞操の危機をまるで感じなかった。
ワ教から見て異端であっても、宗教的指導者として奉られるからには、清廉さが必要なのだ、と彼女は得心した。
「あなたが天涯孤独の身から修道を志し、天下のハルワティアンに学んだことを、我々は知っている。何故、道を極めずに還俗したのか?」
予期しない質問であった。質問の意図も見えなかった。
彼らは、サイの身元をどこまで調べ上げたのか。どうやって、と考えると、彼らの勢力の大きさが見えるようで、恐ろしかった。その目的も気に懸かる。
彼女は、どこまで話すべきか慎重に言葉を選びながら、相手に見覚えがないか改めて観察した。
「私の保護者が明らかになり、その意向で還俗しました」
相手の顔を見つめれば見つめるほど、見覚えがあるようなないような気がして混迷を深める。
彼の外見は、サイの持つ遥か昔の記憶まで掻き乱した。やはり、リイのようにも、ダン=トンの絵のようにも、ユアンにさえ似て見えた。
サイは彼の顔から目を逸らし、顔を伏せるようにした。
「その保護者とは、誰か?」
「あの。クィアン様でした」
すんなり答えられなかったのは、嘘をつくかどうか決めかねたためではなく、カアンの話を思い出したためであった。
カアンは彼女をクィアンの屋敷から連れ出すに際して、保護者の権利を掲げたのであった。しかし、彼の話にはサイに納得のいかない部分がある。
クィアンが保護者と知ったのも、ユアンに説明を受けたからであり、いずれもサイが調べたものではない。
ユアンの言葉を疑うなど、数日前まで想像もしなかった。
今は、何が真実か、サイ自身が誰かに尋ねたい心境であった。
このような時こそ、唯一絶対神にすがるべきであった。
神は答えを探す暇も与えず、新たな難題をもたらすばかりである。
「保護者というのは、夫になったと解釈してよいのか?」
「いいえ。クィアン様は、私の祖父に当たります」
つい反射で答えてから、サイは迂闊と悔やんだ。カアンも彼と同じ解釈であった。偶然とは思われない。
クィアンがユアンと相談した上で、世間にはそう思われるよう、仕向けたのかもしれなかった。
すると、サイはクィアンたちの計画を潰してしまったのだろうか。そうでないと良いのだが。
サイには、相手の目的が全く解らない。問われるままの状態から抜け出さねば、この先も失敗を積み重ねるばかりである。彼女は再び顔を上げた。
「あなたは、何故イル教を興したのですか。サパのリイ様が、異端宣告された事件はご存知でしょう。あの方と同じ思想を、何故あなたが広めようとなさいますか?」
彼の顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「おやおや。還俗した人の言葉とも思えない。まるで司教のような言い方をする」
サイもまた、おやと思った。彼は、彼女が特別司教であったことを知らないらしい。
それでいて、彼女が元孤児の修道女としてハルワティアンに行ったことは知っている。
サパの事情にも詳しいようである。心の底で何かが光ったが、まだ取り出すことはできなかった。
リイが頬を緩めたのは、サイが彼女の否定をあっさり受け入れたことが、はっきりしたからであった。
動揺しているところへ唐突に真相を言い当てられた時には、さすがに焦り、認めなくても良いことまで認めてしまった。
尤も一部の犠牲と引き換えに、彼女は最も隠したい事実をサイが見逃すよう仕向けることに、成功した。
彼女がクィアンの愛人であろうと孫であろうと、ユアンと関係があろうとなかろうと、今でもサパの貴族と交際が続いているのは間違いない。
今のところ生かして返すつもりである以上、その彼女に、リイが異端の中心としてここに居る、と知られてはならなかった。
「還俗しても、宗旨替えはしておりません。私は、今でもワ教の信者です」
サイが言った。天涯孤独の平民から由緒ある貴族の身内に引き取られ、何不自由のない生活をしている筈なのに、彼女からは幸せの匂いがしなかった。
彼女は相変わらず、貴族よりも修道女と呼んだ方が似合う居住まいであった。
彼女が受け身から問う側に転じたのは、話題を変えるため、とリイは見抜いていた。
「わたくしも、ワ教の信者だ。唯一絶対神を信じているし、法王も崇めている」
無視して強引に質問を押し進めてもよかった。だが、サイに正体を見破られずに済んだという安心感が、リイに余裕を生ませた。
加えて、彼女は既にイル派の長と名乗ったも同然であった。宗教の話題を捨てて、サイの身上に拘れば怪しまれる恐れがある。
リイがサイの持ち出した話題に応じる姿勢を見せたことで、彼女は明らかにほっとした。
「あなたがワ教信者のつもりでも、法王はお認めになりません。何故なら、教義の一部について、異なる解釈をなさっているからです」
「それは誤解に過ぎない。サイ殿、あなたはわたくしたちの解釈と法王の解釈が異なる部分を、具体的に説明できるか」
サイに説明できないとは思えなかった。リイが異端宣告を受けたのは、彼女がハルワティアンにいた間のことであろう。
もし、リイがホンから抜け出す前に、彼女がクィアンの縁者と知れて還俗したならば、リイの耳に入った筈である。例えば、トウ元司祭によって。
すると彼女が還俗したのは、そう昔ではないと推測できる。
「できます」
サイは、イル派と他との違いについて話を始めた。
唯一絶対神と信者の距離が信仰の厚さによって決まる、と教えるのがイル派である。
本来ワ教では、身分の上下や男女の違いによって神との距離がまず決まり、その上で修行や信仰の厚さが加味されるという話や、例の赤子の洗礼に関する考え方の違いも、彼女は簡潔に説明した。
黙って聞くリイの心には、次第に驚きが広がった。彼女も必要に迫られ、ドンの修道院へ入る前後からワ教の勉強に励み、その辺のにわか修道士よりは知識を積んだつもりであった。
本場ハルワティアンに学んだサイのワ教に関する知識と理解がリイより優れているのは仕方ないとして、イル派の解釈にも詳しいことには、内心で舌を巻いた。
自らが理解するばかりでなく、説明も平易で堂に入っていた。イル派の指導者であっても、おかしくないほどである。
ふとリイは、サイを転向させて戻すことを思いついた。解放された後、彼女がサパへ戻るかハルワへ戻るかは解らない。いずれにしても、彼女は貴族と交際を続けるであろう。
彼女ほど説得力を持つ人間と話し、生半可な信仰しか持たない貴族がイル派へ鞍替えする姿を、容易に思い描くことができた。
ピセのグアンのように、イル派を支持する貴族も皆無ではないものの、どちらかと言えばイル派は、庶民を支持基盤としていた。
イル派の考えは、身分制度や性別などで不利益を蒙った経験が多い者の賛意を得やすいのである。
貴族たちはまず物質面で恵まれており、それが精神面の不満足もある程度解消するため、現体制に疑問を持つ機会が少ない。疑問を持たないように生きている、とも言える。
リイには、かつて己を異端として追放した世界に、この考えを認めさせたい、という思いもあった。
現実の問題として、貴族が持つ富も魅力であった。彼らがイル派を支援してくれれば、飛躍的に勢力を伸ばすことになろう。
上手く運べば、ジンの背後にいるドゥオ国の影響を、断ち切ることもできるかもしれない。
「なるほど。あなたの説明を聞けば、確かに我々と法王の間には、解釈の違いがあるようだ」
サイが話し終えるのを待って、リイは徐に口を開いた。
失敗するかもしれないが、成功した暁に得られるものの大きさを考えると、試す価値はあった。
「しかし、それは確かに法王の解釈だろうか」
サイの目に、警戒信号が灯ったのが見えた。予期した反応であった。
彼女はイル派の長と対面していることを知っている。かつて司教のチュウを陥れたように、油断させて懐に入り込む方法は使えなかった。
リイは正面から打ちかかるつもりであった。
「知ってのとおり、法王は唯一絶対神に最も近いお方だ。それから我々一般信者までには、長い道のりがあることも明らかだ。しかして法王の我々の間は、単なる空隙ではない。大司教や司教、司祭、修道士といった面々がいる。我々が唯一絶対神の御言葉を直接耳にするのは、もちろん神からではあり得ないが、法王御自らでもない。主に司祭からだ」
サイは緊張した面持ちで、リイの話を聞いていた。
途中で腰を折られる心配は、なさそうである。
彼女もまた、リイと正面から対決するつもりでいるのだ。




