第6章「神宮のランウエイ」 第2話
暴かれる小悪魔の狂気的「人脈ハッキング」――!
泥臭いリアルを掠め取る、怪物の一手。
スタンドから眺めるだけの雲の上の存在を、わずか数日で“生け捕り”にして連行してきた麻里の圧倒的エゴイズム。
純情ストーカーデザイナー・咲良の震える唇から語られるのは、人脈の蜘蛛の巣を瞬時に駆け上がった狂犬の、あまりにも鮮やかなハンティングの手口だった。
完璧なダイレクターの仮面の下でパニックを起こす祥子を余所に、サイズ規格外の熱量と鋭いシルバーリングの光が、昭和の面影を残す「ロペ」を包囲していく。
女たちのプライドと球界の利権が交錯する、制御不能なファッショナブル・カオスの夜が、今ふたたび加速する!
「そのこと、すっかり忘れていたんですけど……三日前、麻里ちゃんが『アポ取れたよ!』って、いきなり連絡してきて……」
祥子の冷徹な詰問に、秋村咲良は今にも泣き出しそうな顔で身を縮めた。彼女が纏う「ヨウジヤマモト」の変形シャツの、一番上のボタンまでキチッと留められた襟元が、緊張で微かに震えている。
「それで、麻里ちゃんが『チーフ(和美)に一番いい店を吐かせたから、そこに集合ね』って……」
「ちょっと待ちなさい」
祥子は思わず声を裏返らせた。あの社内一「氷の女」と恐れられ、社長の命令すら平気で聞き流す宮部和美から、お気に入りの隠れ家を白状させたというのか。
和美を横目で睨むと、彼女は「ボストン クラブ」の黒縁眼鏡の奥の瞳をわずかにそらし、つまらなそうにロックグラスの氷を指先で揺らした。あの傲慢な天才デザイナーすら、麻里という狂犬の「懐への飛び込み力」の前には無力だったらしい。
事の真相は、祥子の想像を遥かに絶する、麻里の狂気的な「人脈ハッキング」によるものだった。一ヶ月前、咲良の神宮球場での執念深い出待ちに一度だけ付き合った麻里は、暗闇の中で息を潜める咲良の横顔を見て、「今度、あの三塁手(推し)を食事に誘ってあげるわ」と無邪気に呟いたのだという。咲良は単なる戯言だと思って聞き流していた。
だが、高橋麻里という女のエゴイズムは、思ったことを現実に変えるためだけに稼働する。麻里はその夜のうちに、スマホで奥村陸の経歴を徹底的にリサーチした。そして、彼の出身高校が、自分の大学時代の友人の母校と同じであることに気づく。そこからの麻里の行動力は、まさに獲物を追う猛獣そのものだった。大学時代の友人に連絡を取り、その友人から高校の同級生ネットワークへと芋づる式に繋げ、最終的に「当時の野球部マネージャーだった女の子」のアドレスを特定。そこから直接奥村へとアプローチをかけ、わずか数日でこの奇跡的な食事会をセッティングしてのけたのだ。
無口で友達のいない咲良への、あまりにも強引で、圧倒的で、純粋すぎる――勝手な友情。麻里は、誰もがスタンドから眺めることしかできない球界のスターを、文字通り「生け捕り」にして、この昭和の面影を残す小さなカフェへと連行してきたのだ。
「そして、今日、ここで……」
咲良はそこまで言うと、顔を真っ赤にして完全に黙り込んでしまった。
「初めまして! 麻里ちゃんからお話は伺いました。上司の祥子さんですよね! 麻里ちゃん、いつも『祥子さんはすごく優しくて、お姉ちゃんみたいに頼りになるんだよ』って言ってました!」
二人の会話を遮るように、奥村陸が190センチ近い規格外の巨体を窮屈そうに縮めながら、絵に描いたような爽やかなスポーツマンの笑顔で一礼した。
白い歯が眩しい。仕立ての良い、けれど明らかに肩幅のサイズが合っていない大きなTシャツからは、プロのアスリート特有の、生々しい肉体の熱量が放たれている。その圧倒的な存在感のせいで、狭い「ロペ」の空間がさらにギチギチに圧迫され、酸素が薄くなっていくようだ。
「は、初めまして……奥村さん。いつもテレビで拝見しています……」
祥子は、39歳のクリエイティブ・ダイレクターとしての理性を総動員し、なんとか「トムフォード」のボルドーの唇を動かして挨拶を返した。しかし、その脳内は完全にパニックを起こしていた。もちろん野球中継なんぞ見たことが無い。
(麻里がいつもお世話になってます、みたいなその『身内の男』ポジションの挨拶は何!? っていうか、あの子、私のことを『優しくて頼りになるお姉ちゃん』って触れ回ってるわけ!? 私のシルクショーツを盗んでランウェイを歩いているくせに……!)
隣に目をやると、和美が眼鏡を指先でクイと上げ、まるで面白いオモチャを見つけた猛獣のような、極めてサディスティックな目で三人を観察していた。いくつも重ね付けされた「ボッテガ・ヴェネタ」の太いシルバーリングが、カウンターの漆に反射して妖しく光る。
「へえ……ドルフィンズの奥村さん。面白いじゃない。咲良、あんた推しを目の前にして、ヨウジのシャツのボタンが弾け飛びそうなほど心拍数が上がってるわよ。少しは麻里の『生々しいエゴイズム』を見習ったらどう?」
「ち、チーフ! 違います、これはその……!」
「まぁまぁ、堅い話は抜きにして! マスター、シャンパンもう一本お願いしま~す!」
麻里の鈴を転がすような弾ける声が、雨の夜の静寂を、そして祥子の残された理性を木っ端微塵に粉砕していく。ミュウミュウのパウダーピンクのレインブルゾンが、店内の落とされた照明の中で、信じられないほど鮮やかに浮き上がっていた。
祥子は頭がクラクラしてくるのを覚えた。梅雨の湿気のせいではない。完全に、高橋麻里という致死量の毒を、今夜もまた強制的に飲まされているのだ。
(神宮の若手スターに、うちの純情ストーカーデザイナー、そして私の私物シルクを穿きこなす小悪魔……。何が悲しくて、6月の憂鬱な雨の夜に、このカオスを肴に飲まなきゃいけないのよ……!)
祥子は、カウンターの足元で、「マノロ ブラニク」のフラットシューズの爪先をギリ……と床に押し付けた。
女たちの、そして今や球界の利権までをも巻き込み始めた、ファッショナブルで生々しいエゴの戦争は、この小さなバーで、さらなる狂騒の夜へと突入しようとしていた。カウンターの先の棚にはドルフィンズの公式サインボールが・・・
聖域に落ちた雷撃、小悪魔のハッキングは留まることを知らない。
スタンドの憧れを「数日の人脈リサーチ」で生け捕りにして見せた、高橋麻里の底知れぬエゴイズム。
完璧なトップマネージャー麻木祥子の理性が、プロのアスリートが放つ熱気と「お姉ちゃん」という甘い罠にじわじわと溶かされていく。
昭和の面影を残す「ロペ」の夜は、女たちの剥き出しの審美眼と球界の利権を巻き込み、制御不能のファッショナブル・カオスへ。
だが、この狂騒の夜は、やがて訪れる「秋のランウェイ」を焦がす特大の導火線に過ぎなかった――!




