4.持てる者
数年前の、真夏のことだった。おばあちゃんの家に親戚一同が集まる日。一階の居間でおじさんおばさんたちがお酒を楽しむ間、わたしは二階のおばあちゃんの部屋に入れてもらってお昼寝をしていた。
クーラーがよく効いて、風鈴が時々鳴る、日が傾いているのに本当に涼しい部屋。目を覚ますと、そうっと出ていく後ろ姿が目に入った。わたしより先に起きたみたい。
酔っ払いも、うるさいのも嫌い。このままもうひと眠りしようと、寝返りの時にずれたらしいタオルケットを整えた。
「ぶぶ」
──その音は、そんな何気ない動作の合間に割り込んできた。
硬い、ひび割れた嫌な音。
同時に、先ほどから太もも辺りにちくりとした違和感があったことに気づく。
「……」
最初は、大きな埃かと思った。真っ黒な塊が、ミニスカートのせいで素肌になったそこに落ちてきたんだと。
でも、違う。音の出処はそれだった。
翅、脚、顎。全て黒々と鈍く、外の明るさを返していた。頭は毒々しいほど鮮やかな橙色。ふたつ、角が生えている。
「……」
これは夢じゃないと、夢現の頭で確信した。だって、午後に見る夢はもっと淡くて、とろとろした甘いもののはずだから。
「ぶぶ」
それが、僅かに翅を振動させる。細くて鋭い節足が、皮膚の上でぐねぐねと蠢いた。お尻が持ち上げられ、髪の毛みたいに細い針が、切っ先を光らせたように白く映えて。
「──」
***
「──!」
絶叫した。あの真夏の日と同じように。
あれから、虫の羽音はわたしの恐怖になった。
蜂はだめだ。虫は怖い。あれはいつからああしてわたしの脚にいたんだろう? いつからあの部屋でいっしょだったんだろう? もうどこかを刺されていたら、もしまだ仲間が潜んでいたら!
あの混乱が、今の混乱に上乗せされる。あの日は、悲鳴を聞いた親戚たちが蜂を追い払ってくれた。今は違う。わたしは直接この蜂の大群に晒されている。
(逃げなくちゃ、でも、追いかけられたら)
絶対に追いつかれる。下手に動くことで、刺激して怒らせるかもしれない。それに、わたしは耐えきれずに叫んでしまった。
(どうしよう……どうしたら……!)
頬を、冷たいものが伝う。
とつ、と、もうひとつの水滴は投げつけられたように頬に刺さった。
「……!」
涙でもなければ、毒針でもなかった。
こわごわと目を開ける。いつの間に雨雲が立ち込めていたんだろう。ぱらぱらとした小雨が辺りを点々と叩き始めた。淡い幕が降りて、霧の色をさらに深くする。
目の前で未だ不快なオブジェになろうとする真っ黒な塊は健在……ではなかった。
「きゃ……⁉」
──一瞬、自分の呼吸が止まったのかと思った。それほど、それは急速にわたしたちを包んで、襲いかかった。
「……!」
あの悪夢の具現化みたいな群れは、鼓膜をつんざくほどの轟音とともに消え失せた。座り込んだわたしが勢いよく横倒しになるほどの、強烈な風だ。
黒い夜空を引き裂く雷のように、それは突然現れて、突然去っていった。蜂の大群を──霧の幻をなぎ払っていくのを傾いた視界で捉える。
「う……」
まともに倒れ込んだ衝撃で、頭がくらくらする。それでも、あの悪い幻が、羽音が、余韻を引いて大気に溶けていく風といっしょにいなくなったのはわかった。
まだ、霧は濃い。でも今はそんなことどうでもいい。
「……よかったぁあ……」
わたしの危機は九割去ったも同然だった。思わず涙ぐんで、両手で顔を覆う。これで大丈夫。これなら、すぐにでもシズクを探しに行ける! さっきのあれと比べたら、視界が悪いのなんて何でもない。
ふらつきながら立ち上がり、服を軽く叩く。辺りを見回しても、あの長身はどこにもいない。
いつ、入れ替わっていたんだろう。改めて考えると、思い当たる節がひとつだけあることに気づく。わたしが梔子に見入っていたとき、シズクからは完全に目を離していた。この予想が当たっているなら、まだ遠くには行っていないはずだ。
「もう二度と現れませんように……」
真剣に祈りながら、手頃な隆起に飛び乗る(鞄の中のお弁当は……多分もうひっくり返っている)。少しでも高いところからなら、下り坂をよく見渡せる。
真っ白な霧が、ところどころ薄くなっている。そこをじいっと見てみても、シズクのケープ姿は見えなかった。山道を見上げてみても、それらしい人影はない。
「シズクー!」
大声で呼びかけても、鈴を鳴らしても、応えるものは現れなかった。沈黙が続く。小粒の雨がぱたぱたと頬を叩くのさえ煩わしい。何でもない雑音がシズクの声を遮るかもしれない。
「どこー⁉」
地形のせいか、よく響く。遠くまで声が届いていればいいけど……。
どんな悪夢だろうと、正体はこの霧。わたしたちに触れないなら、あっちだって触ってこられない。そんな当たり前のことが「怖い」を挟むと途端にわからなくなるから、怖い。
もしかしたらシズクも、声を上げられないほど怖いものに直面しているのかも。
「早く行かなきゃ……⁉」
ひとりごとの語尾が、勝手に上がった。今度は思わず肩が跳ねるほど大きな雷鳴が轟いたからだ。びりびりと空気を揺らす衝撃からすると、近くに落ちていてもおかしくない。
「……シズク……」
あんまりびっくりして、それから自分が無傷なことに安心して、でもシズクの居場所も安否もわからなくて──すっかり弱気になってしまう。今さらだけど、雨よけのためにケープのフードをかぶる。目元が影になり、それがまた気持ちを落ち込ませた。
「返事してよぉ……」
無事な側が泣きごとを言っちゃだめなのに。その場に膝をつくと、体が鉛になったように重くなる。姿がないなら探しに行かなくちゃいけない。この坂を下って今すぐにでも。それなのに。
幸いなことに、雨が強まる気配はなかった。耳に慣れすぎて環境音になりつつある雨音は、勢いを弱々しく保ったまま降り注ぐ。曇った空、白い霧、何もかも変わらない。
「……」
顔を伏せたらだめだ。今うつむいたらもう上を向けない。
フードを後ろに払い、滲む視界でほとんど祈るように目を凝らす。何時間も横になっていたかのように動かない両脚で、ゆっくり立ってみる。
「……ううん、大丈夫。見つかる、見つかるよ」
これは、だめだ。悪いことばかり考える頭を塗り潰さないと!
「シズクー! 待っててー!」
返事のない呼びかけを放り投げて、隆起から飛び降りた。周りを見回せる程度の速さで谷の奥へ走り出す。
これでいい。「もう二度と会えないんじゃないか」なんて少しでも想像したわたしをぐしゃぐしゃに丸めて、捨てて、なかったことにしないと。
「ひゃっ」
おなかに響くような鈍い雷。地面を踏みしめている気がしない足を竦ませたそれは、よくよく聞くと規則的な別の音を含んでいた。
「……?」
わたしのものじゃない。傘で地面を突いたときのような──いや、それより何倍も重い音。およそ人間のものとは思えない鋭さは、思わず足を止めたわたしにだんだん近づいてくる。
また霧が悪さをしているんだと思って、無視しようとした。でも、そんな警戒を露知らずと言わんばかりに、それは唐突にわたしの右手側から現れて視界を横断していく。
「……え」
呆気にとられて、それを注視した。わたしをまるで気にかけず、ぱかぱかと歩く姿は足音だけ重々しい。真っ白な体で四足を軽やかに操る、面長の。
「馬ー⁉」
ひっくり返った絶叫に、それは──その白馬は立ち止まってちらりとこちらを向いた。量の多いたてがみが微かに揺れる。がっしりとした白い体によく映える黒目は、くりっとしてたまに瞬く。新聞に載るような競走馬に比べるとだいぶ小さくて、こうして目の前にしても威圧感はない。わたしが手を思いっきり伸ばせば額には届きそう。
そして、そこに突き立つように生えている一本の角。
「あれ?」
角?
「きみ、馬なの?」
ついつい確認してしまう。その答えは聞かなくても「いいえ」とわかる。馬にそんなものはない。お返事のような、はたまたため息のような嘶きを聞いて、思い出した。
谷にいる、清らかな乙女に懐く、一角獣。
「あー!」
それはそうだ。海辺でもないのにトドやセイウチがいるはずなかった。先入観のせいでにわかには受け入れられないけど、きっとこの子がレンの言う一角獣だ。絵本では、よくユニコーンとして描かれているような。
どこからやってきたのか、土汚れひとつ見当たらない綺麗な子。しばらく見とれて、そしてそんな場合じゃないと気を取り直す。
「ねえ、わたしのほかに誰か見なかった⁉」
藁にもすがるような心持ちで、白馬に詰め寄る。当然、無言が返ってくるけど。
「えっと、背が高くて、こう……ふわふわの髪でっ、こんな眼鏡かけてて、えーとえーと」
慌てた身振り手振りは、人間が相手だったとしても伝わったかどうか怪しい。ぶるる、と小さく鼻を鳴らす白馬は、おもむろに片方の前足を持ち上げた。
「わ、わ、ごめんねっ」
蹴られるのかと思って下がる。あんまり意味のわからないことを並べ立てられたら、怒ったって無理はない。
次の瞬間には、だん! と下草に隠れる石畳めいた地面を抉るように蹄が勢いよく踏みしめられる。わたしが飛び上がりそうなほど強烈なそれは、一見ただの気まぐれ、身じろぎのように感じた。
「あぁ、びっくりした……」
敵意はなさそうでほっとする。肩の力を抜くのと、それが再びやってくるのは同時だった。
「……!」
叩きつけるような強風が、谷を凄まじい速さで駆けていく。
「きゃあぁ」
とっさに白馬の脚に寄り、抱きつくようにしてやり過ごす。彼はといえばわたしの暴挙に怒るでも、突然の風に驚くでもなく、悠然と立って尻尾を揺らすだけ。どっしりしているのは体格だけじゃないみたい。
風が止んで、また一時的に霧が追い払われる。薄くなった白色の隙間に鼻先を近づけて何かを確かめるようにする仕草を眺めていると、脈絡も何もないことが思い浮かんだ。
あのとき、悪い霧を払ってくれた風は偶然じゃない。
「きみが助けてくれたの?」
──しばらくして、ふいとそっぽを向かれる。わたしのことばがわかっているような反応は、思い込みを確信に至らせるには十分だった。仕組みも理屈も何もわからないままだけど。
この子は味方になってくれる。
「お願い!」
乱れ放題の前髪や服装を手早く整えて、白馬の視線の先に回り込む。小さな耳をぴくぴくさせてわたしを見下ろすのは、聞いてくれているんだと思いたい。
「いっしょにシズクを……えぇと、ひとを探してほしいの」
目の前をちょろちょろされても鬱陶しがらないのをいいことに畳みかける。
「もし居場所を知ってるなら連れてって、そうじゃないならいっしょに谷の奥まで。お願い」
静かに瞬きを繰り返して、白馬はまた歩き出す。振られた、わけじゃなかった。
「うわわ」
わたしのケープの余った肩口を軽く咥えて、くいくいと引っ張る。こちらにとても都合よく解釈すると「ついて来て」って、言われている気がする。
その先には、先ほどのものより小さな隆起が出っ張っていた。先を行く白い姿に慌ててついて行くと、彼はそこに寄り添うようにして歩みを止めた。
あれを踏み台にすれば、わたしでも背中に乗れる!
「いいの?」
ちら、と目線を寄越した白馬はゆったり目を閉じる。
仕方なしにだけど、受け入れられている。そう感じて、たてがみをそうっと撫でた。
「ありがとう!」
小走りに隆起に駆け上り、なるべく急にならないように慎重にその背中に乗り移った。裸馬に乗るのは初めてだけど、やり方は合ってるのかな。
前を見据えた白馬は早足気味に歩き出した。苦しくないようにしながら首に手を回して、油断すると振り落とされそうな振動を耐える。かこん、かこんと、蹄が石畳を跳ねる音は小気味よく先ほどまでの憂鬱を砕いていった。
風を受けながら、右も左も、後ろも確かめる。梔子が点在する、同じような景色が後ろに流れていく。長いこと続くその風景に、花はどこまでもついて来る。シズクはいない。
(シズク、困ってるよね)
突然、わたしとはぐれちゃったものだから。もしかしたら、偽物のわたしに脅かされているかも。
シズクがわたしみたいに慌てたり、怖がる姿は想像できない。でもきっと、まだまだわたしの知らないものをシズクはたくさん持っている。その中には、平静を失うほどのものが混ざっていたっておかしくない。
「本当にありがとうね、きみはいい子だね」
ぽんぽん白馬の首を撫でたのは、シズクにそうするための予行演習の意味合いもあった。いつかシズクがしてくれたように、わたしが事情を説明して、「ただの霧だから大丈夫」って励まして、わかってもらうために。
「よしよし、よ……ひぇっ?」
がくん、と白馬は急停止。反動で硬い首に額をぶつけてしまう。犯人はご立腹という様子でも大喜びという様子でもなく、鼻先をきっかり九十度向けた左手を凝視している。
「何、何……?」
額をさすりながらそれに倣う。
ずうっと奥の方、ほとんど壁のようになった山の斜面に、大きな横穴が開いていた。無理矢理ドリルをねじ込んで作ったように、その形はぼろぼろと整わない。
そして、その手前でぺたりと座り込んでいる人影が微動だにせず雨に打たれている。
「え……?」
わたしのものよりずっと大きくて、でも同じ型のケープ。間違いようがなかった。
「──」
かこん、とひと跳ねして白馬が体を揺らす。それに応えて、今度はなるべく脚に負担がかからないように飛び降りた。それを確かめたかのように、白馬はさっさと来た道を引き返そうとする。
「行っちゃうの?」
一度振り向いた彼は、頭を下げて頬の辺りを擦りつけてきた。それがお別れのあいさつとでもいうように。
「きみがいなかったら見つからなかったよ」
指先でゆっくり額を撫でると、顔を上げた白馬のまん丸の目が眠たげに瞬いた。尻尾をひとつ揺らすと、今度こそ霧の中を戻っていく。
「ありがとー!」
軽やかに歩いていくそちらに手を振って、人影に向き直る。シズクはわたしたちのやり取りにも気づかない様子で、視線を投げ出したまま身じろぎもしない。
「シズク」
小さく声をかける。またシズクのかたちをした偽物なんじゃないかと少しだけ疑うけど、何も仕掛けてこないところを見るに本人だ。背の高い、ふわふわの髪の、眼鏡をかけた男のひと。
「シズク!」
確信して、思わず全速力で駆け寄った。瞬きのうちにその姿が掻き消えてしまわないように。
「シズク! ねえ、シズクってば!」
声が震えそうになるのを何とか耐える。彼の目の前に膝をつくと、眼鏡の向こうの瞼が微かに揺れた。多分わたしを透かした背後を見据えたまま、掠れてざらついたことばを落とす。
「……ナツキちゃん?」
ゆるゆると、強張った表情で目線だけをこちらにやる。そんな硬さが、氷が溶けるように和らいでいく。見上げてくる藍色の目は、霧を間にするとほんの少し淡く見えた。
「今度は、本当にナツキちゃん?」
「本当! 本物だよ! よかったぁ!」
あんまり嬉しくて、飛びつくようにして痩身に思いっきり抱きついた。髪から雨の珠を払うのも兼ねてちょっと手荒く撫でる。
「わ」
「ケガしてない? 痛いとこない? 寒くない? あ、喉乾いたでしょ? もう怖くないからね、早く帰ろうね」
ちょっと傾ぐシズクは、持ち直して背中をとんとん叩いてくれた。苦笑の混じった「大丈夫だ」が、わたしの錯乱めいた言動を落ち着かせていく。
(よかった、見つかった、見つかった……)
ほんの少し諦めに傾きかけていた心が急速に暖まって、温度差が苦しい。でも、シズクの大きな手のひらの感覚がそれを和らげてくれる。どうしよう、泣きそう。今は嬉しいときのはずなのに。
「ありがとう。来てくれて……もう大丈夫だ。きみも」
「え……」
背中にあった手がわたしの頭をひとつ撫でると、そのままシズクの胸の辺りに抱き寄せられる。冷えた旅装の下、鼓動が早いのがわかった。
そして、シズクが未だ警戒を緩めていないことも。
わたしの目には彼しか映らなかったのに。
「え、え? シズク?」
「振り向いてはだめだ。ゆっくり立って……」
「何か見えるの……?」
抑えた声は、それを確信させる。シズクは、何かを見てしまって動けなくなった。その何かはわたしが来ても、そして今このときも、シズクのこころを捕まえているんだ。
「大丈夫だよ。ただの霧だもん……わたしたちには触れないよ」
「あぁ。そのとおりだ」
そのことばとは裏腹に、シズクの体は萎縮したように凍りついていく。わたしごと立ち上がろうとした脚が、ぴくりとも動かない。
「来る……」
「……何が……?」
「し、が」
くぐもって聞き取りづらい、短い答え。
「あ……」
四、詩、師。
「……!」
思いつく限りのことばで気をそらそうとしても、だめだった。わたしは真っ先に連想してしまったから。シズクの怖がるもの。
ひとつしかない。「死」だ。
「……」
少し、背伸びをするようにしてそちらを見た。振り返りたくなる気持ちをごまかしたくて、それならあさっての方向を見ていればいいと思って。
それは間違っていた。
シズクの肩越しにあるのは、もう横穴なんかじゃなかった。あったはずの斜面は跡形もなく消え失せて、以前からそうだったように雨に濡れた草原が広がっている。
そこに、大量に乱雑に突き刺されているのは、太さも長さもばらばらの木の枝で作られた十字架だった。わたしにとっては遠い国のもので、それでも見慣れているのは、きっと一番単純なかたちをした「死」のアイコンだから。それが草原を埋め尽くすような夥しさで風景を圧迫する。
それらの向こう側には、雲に届きそうなほど高い柱が空を両断するように立ち上がっている。頂点で堂々とたなびいているのは、曇りによく映える真っ青な旗だ。従えているのは、目に痛いほどの純白をした堅牢な城壁。その後ろに同じく白い城郭を隠している様子は、おとぎ話に出てくるお城よりも立派で、荘厳で、何者も寄せつけない冷たい繁栄を思わせた。
素っ気ない、でも綺麗なお城。それの前に横たわっている死。酷いアンバランスさが、鳥肌が立つほどの気持ち悪さを纏って目に飛び込んでくる。
「何、これ……?」
「ナツキちゃん? どうした……?」
「お城と、お墓が……でも、それだけ」
そう言いかけた途端に、シズクの肩が震えたのがわかった。聞いてはいけないものを耳にしたように、こわごわと。
「何故……」
耳元で、今にも粉々になりそうなほど薄く、もろくなった声が揺蕩う。
「何故、それが見えるんだ……? きみに……」
その瞬間、目の前の“これ”が何なのか察した。
これが、シズクが持っているなかの最初の記憶。お城の見える場所で目を覚ました瞬間の、焼きついたまま消えない光景。
そして、本来シズクだけのもので、でもわたしが一端だけ見てしまったもの。
これはシズクの死のイメージだ!
「だめ!」
シズクが振り返ろうとするのを慌てて止める。
「見ないで、見ちゃだめ、絶対だからね!」
それだけは阻止しなくちゃいけなかった。逃げ場がないなんて、今のシズクに決定的な印象をもたせたらだめだ。
でも同時に、“何かある”ことを自分で確かめられない不安は止められない。横目にでも、ほんのわずかにでも。そんな衝動がシズクを襲っているのは目にも明らかだった。
(どうしよう、どうしよう……)
目を閉じて、なんて言えない。視界を失うのはとても怖いことだから。それなら、ほかのものに意識を向けていれば……!
「シズク!」
ここには何もない。わたしたちがいるだけだ。
「な……?」
冷たい腕を振り払って立ち上がる。目を丸くしてわたしを見上げるシズクの、その頬を両手で包んだ。微かに濡れた肌は、体温をまるで感じなかった。
「わたし、見てて」
「え……」
連れ戻そうと伸べられた手が止まる。
「わたしだけ見てて! よそ見したらだめ!」
見開かれた目が瞬く。納得して、というより意表を突かれた結果そうしているように、シズクはきょとんと眼鏡越しにわたしを見つめた。またひとつ、レンズに雨粒が跳ねる。
「ごめんね」
それが涙のように見えた途端に、口をついて出ていたのは謝罪だった。
「黙ってればよかった」
少し思い出せば、お城がシズクの記憶に引っかかることは簡単にわかったのに。わざわざ、そんなものに取り囲まれているのを思い知らさなくてもよかったのに。
今も、わたしの前には現実そのものにしか感じない質量を伴った死が立ちはだかっている。影もかたちもある、でも決して触れられない幻。微かな風で翻る旗の音さえ聞こえてきそう。
「きみは悪くない」
「……ううん。違うの」
シズクのそれは、何も知らないわたしに向けられているから。だから、それを受け取るわけにはいかない。
「……わたし、あの日レンさんに聞いてたの。あなたのこと。あなたが記憶を持たずにあの町にきたこと」
「……」
「あなたの知らないところで、わたしは知ってた。ごめんなさい」
「……どうして、謝るんだ?」
「だって、シズクはわたしに話してない……それって、いけないことだよ」
力ない視線は、「わからない」と訴えてくる。わたしだってわからない。どうしてこんなに、苦しいのか。どうして白状する気になったのか。
「上手く言えない。シズクが手渡した覚えのないものが、わたしの手にある。それは……ずるくて、卑怯で」
「……いけないこと?」
「うん」
消え入ることばを引き取って、シズクはふっと、ほんの微かに唇を綻ばせる。
「そうか」
場違いに温かい風が、わたしたちの上を雲のようにゆっくり流れていった。
「……そうだな。きみはいろんなことを大切にする子だった」
責めることはなかった。叱ることもしなかった。シズクは静かに、ゆっくりと立ち上がる。
「あ……」
「いいんだ」
眼鏡を外して、袖で雑に顔の水滴を拭う仕草は危なげない。今度はわたしが庇われるかたちになって、何だか心配になる。シズクを死の影から遮るものがなくなっちゃう。
「話してくれてありがとう」
わたしの頬にぺたりと貼りついた髪を払ってくれる。その表情は柔らかくて、あの凍えるような不安を感じさせなかった。
「私はそれほど……いや、きみよりは薄情な人間だ。確かに驚いた。けれどそれだけだ」
だからそんな顔をしないでくれ、なんて言われて、初めて自分が泣いているのに気づいた。長い指が、雨粒を涙ごと拭っていく。くすぐったくて、後ろめたい。わたしはそんなことをしてもらえるような子じゃないのに。
「私は死が恐ろしい。寒くて心細くて意味がわからない。最悪だ」
その目がわたしの向こう側を、シズクにとって最悪そのものが映っているはずのそちら側を見据えた。すっと細められる目は険しく、揺らがない。
「けれど、決してその結果を身を持って思い知ったわけではない。それよりも怖いのは、きみがどうにかなることだ」
「わたし……?」
いきなり出てきた自分に驚いて、思わずひっくり返った声で応じてしまう。
「きみが怖い目にあったり、悲しい想いをする方がよほど恐ろしい。今わかったよ」
「どうして」
「きみが可愛い」
「──」
真剣な眼差しが再び降りてくる。シズクは本気。
「きみは私を大切にしてくれる。私や、先生や……あいつを。そんなきみのことを、私だって大切に想っているんだ」
けれどね、と、ふとこぼれた笑みは少し苦いものが混じる。
「きみは少し考えすぎる。他人が感じていることを、自分のものだと間違えてしまう。だから余計な傷を負ってしまう」
「よくわからないよ……」
「つまり、共感しすぎるということだ」
シズクはわたしの横をすり抜けると、そのまま歩いていく。何の迷いもなく、しっかりとした足どりで。
「……!」
「きみが同じものを見て、感じてくれる。それがとても心強い」
「シズク」
「大丈夫だ。きみだってそうだろう?」
重たい空から、か細い光が差す。
シズクは足元から手頃な石を拾い上げると、その外見からは想像できない力強さでおもむろに正面へ投げつける。雨が上がった、明るい虚空へ飛んでいく放物線は、何にも阻まれることはなかった。
「これは悪い大人からの忠告だ。他人に肩入れしすぎてはいけない。あまり他人に引っ張られてはいけないよ」
「……」
「でも、そんなきみを素敵だと思う。とても」
恐怖に文字通り一石を投じたシズクは、しばらくそちらを見つめて動かなかった。もしかしたら、その目には城壁が粉々に砕けて崩れ落ちる様子が映っているのかも。
わたしはとりあえず、彼にならって小ぶりな枝を拾う。
(わたしが、シズクに共感した……?)
わたしの見た幻の方を、そうっと見つめる。死は、雲間から現れる日差しの中に消えていた。わたしが壊すべきものは、どこにもない。
わたしは一体、何を見たんだろう。
***
疲れた、と言い出したのはどちらだろう。風と霧を避け、横穴に入ってすぐのところで座り込んで数分経った。シズクが道具を使って点けてくれた火は、水を吸ったケープをじんわりと乾かしてくれる。岩肌に引っかけられたその影は大げさに揺れて、まるで振り子みたい。
「湿気ってなかったんだね」
「念には念を入れていたからだな。助かった」
マッチによく似た、先端に加工がされた小さな木片は、紙で包んだ上に布を巻き、さらにその上に革の端切れを……と幾重にもぐるぐる巻きにされていたから無事だったみたい。その包装全てと、そこらに散らばっていた枯れ枝を燃料に、火はか細く燃える。そんなに長くは持たないだろう。
「あいつは来ないよ」
ほんの少しだけ考えていたことはすぐに見破られた。火を見て、いちばんに連想することは決まっている。
「今は人間さん、だから?」
「その通り。精霊の体でできることは人間にはできない」
火を渡れなくなったトウカは、森にある家からわざわざ徒歩で町まで来るのかな。明るい金髪を元気に跳ねさせる姿を思い描いた。太陽が隠れるようなところから、よく晴れた日に町まで歩くのはどんな気分なんだろう。どんな気分で、わたしに会いに来てくれたんだろう。
「きみは、あまりよくない魔法が使えるようだ」
わたしの足があの午後の光の中を進み始めたとき、笑みのこもったシズクのことばがそれを引き留めた。ことば通りなら、決していいものではないはずなのに。
それにしても、魔法だなんて。
「そんなの、できないよ。勇者もお姫さまも使えなかったのに」
「きみが気づいていないだけだ。多分、ずうっと前から」
袖口で丁寧に拭った眼鏡を、シズクは結局胸ポケットにしまった。そういえば、裸眼でいるのをまじまじと見るのは久しぶりだ。ほんの少しだけ、いつもより鋭く見える両目がそうっと伏せられる。
「そうだな……簡単に言うと、他人の想像や経験を自分のものにしてしまう力だ。欠片ほども体験していないことを、目の前に、あたかも今まさに起こっているのだと誤解してしまう」
「……難しいよー」
「……うーん……」
噛み砕いたことばをさらに易しくほぐすように、唇が軽く開いて、閉じて。
「……あぁ、例がある」
「どんな?」
「蒸し返すようだけれど。きみは私の後ろに何を見た? なるべく詳しく」
「えっとね……」
本人の了解があるんだから、と半ば強引に自分を説き伏せる。今でも鮮明に、脳裏に刻まれた光景をことばにするのは簡単だった。
「草原に、木を組んだ十字架と、大きなお城と城壁。あ、綺麗で真っ白いの。旗がひらひらしてる」
「……当たりだ」
「当たり?」
「私が見たものと全く同じだ。私は確か、死が来る、とだけ言ったはずだけれど」
何をどうしたらそこまで冷静さを取り戻せるのか本当に不思議だ。もしかしたら、大人になると普通に身につく力なのかも。目をそらしたくなることから、ちゃんとそうできる力。黙ってやり過ごしたり、「これが怖い」なんて気持ちをなかったことにしたりして、ごまかすこと。
わたしにもそれがあれば、あんなに取り乱さずに済んだはず。早く大人になれたらいいのに。そうしたら、シズクみたいになれるのに。
「そこからきみは十字架……恐らく墓標、そしてきっと、今にも倒れ込んできそうな大きな城を連想した。いや、そこにあるんだと確信したんだろう?」
「うん……」
「それは私が、霧の中に見たものと寸分違わず一致しているんだ」
それを聞いて、やっと自分が言ったことの異質さを思い知る。あのとき“死”を想ったわたしは、多分記憶の片隅に残ったレンのことばと無意識に、無理矢理結びつけてあの光景を幻視した。
でもどうして、“お城の見えるところ”がシズクの怖いものだなんて思い込んだんだろう。しかも墓標があったなんて、誰からも聞いていない。わたしが勝手につけ加えたんだ。
飛躍しすぎている。そんなことを当然のように受け入れていた。
黙り込むわたしの上に、粉雪が降り積もるように静かな声が重ねられる。
「それがきみの魔法だ。他人のことばや周囲の環境……いや、きみを取り巻く何もかもがきっかけで始まる。それとも始まってしまう、なのか」
「あ」
思い当たることが、あった。
「絵本を読むとね」
「あぁ」
「声が聞こえるの。お話に出てくるひとや、動物は喋るでしょ? その声。それだけじゃなくて歩いたり、飛んだり、歌ったりするの。絵本を飛び出して、わたしの目の前でお話が続くんだよ」
「それは、きみの前でだけ?」
「……わからない。誰にも、このことは話さなかったから」
「それは、きみがその魔法を必然的だと思っているからだ」
「シズクは違うの?」
まるで「それは必然じゃない」と言われているようで、びっくりして目が丸くなる。微笑して、シズクは続ける。
「違う……はずだ。覚えている限りでは。そして今も、私にはその力はない。というより、大半の人間は持っていないよ」
「……」
「加えて、きみは他人のこころを……相手が何を思っているかを推察するのが並外れて上手いんだろう。神憑りと言っていい。その相乗効果で、きみは私の“死”を見たんだ」
穏やかな考察と断言が並ぶのを、どこか信じられない気持ちで眺める。
「……それが本当なら、みんなはどうしてるんだろう」
「……と、言うと?」
「わたしはね、ひとの気持ちを決めつけてる。声色とか仕草で。今このひとはこう思ってるはず、そうに違いないって。それが大体当たるだけ」
「……」
「そうじゃないことが普通なんて、知らなかった。想像できないよ……」
唐突に思い知った、自分と、自分以外の温度差。それが胸にのしかかってきて──。
「くしゅっ」
これは違う。これはその温度差とは全く、全然これっぽっちも関係なく純粋な冷えのせい。こんな、深く考え込むべきときに何て間の悪い。
「……恥ずかしい……」
「はは……そうだな。確かに寒い……」
くすくす笑った余韻混じりに、おいで、とシズクがケープの下に着ていた薄手の外套を広げて隣を開けてくれる。
「え」
「少しはマシになるはずだ」
「ありがとう……」
のろのろとそちらに寄る。こんなに近くに、しかもくっつくなんて初めてだから、何だかどきどきする……。
(……あれ?)
いやいや。ある。ついさっきのことだ。
(ほっぺたを挟んで、何かを……何かを口走った気がする)
何か、なんて忘れたふりをしたってだめだった。ちゃんと覚えている。それよりも、もっともっとすごいことをしてしまったことも。
(あわわわわ)
まざまざと思い出して内心穏やかじゃないわたしをつゆ知らず、シズクはわたしごと外套に包まり直した。体温が伝って、寒さと動揺を融かしていく。
「余程、“気持ち”というものを理解していなければ、真正面から向き合い続けなければできないことだ。私には到底手が届かない」
「……」
「だから、きみは他人に共感しすぎる。程々にしないといつか疲れてしまうよ」
「……やっぱり、いけないことかなぁ」
「不便ではあるだろう。けれど、得がたい。私からすれば、とても安心できる力だと思った」
どういうこと? そう聞く代わりに、黙って首を振った。わたしを包む腕は、その間も外されることはない。
「自分と同じものを見て、感じてくれる誰かがいる。それはとても貴重なことで、心強いことなんだ」
「……そうかなぁ」
「きみにも、いつかきっとそんなときが訪れる。理屈や理論では説明できないけれど、とにかく私は救われた」
「……まだ、よくわからない。けど」
頭がぐるぐるする。ひとは、ひとの気持ちや考えがわからないのが普通なんだ。だからこそ大人たちは「相手の立場になって考えろ」なんて、できもしないことを子どもに言いつけるのかもしれない。
「けど、シズクが助かったなら、いいや。あなたを助けられたんだから、いい魔法にだってなれるもん」
目の前を、黒っぽい煙が横穴の奥へ流れていく。「どこかに通じているんだろう」とシズクが言ったとおりだ。ときどき、薄い煤が熱気に煽られて黒い点を散らす。
「……」
飛んでいるように見えた。
「……ぅ」
ちょっとしためまいのように、くらりと視界が歪む。体中に変な力が入って軋む錯覚がした。
今注意されたばかりなのに。“よくない魔法”はこんなことを連れてくる。あれはただの煤なのに。
虫なんかじゃないのに。
「ナツキちゃん?」
シズクが声をかけてくれるまで、無意識のうちに息を殺していた。
「どこか痛む?」
「怖い」
「わかった」
即答し、シズクはわたしの目元まで覆い隠してくれる。真っ暗になるけど、これなら大丈夫。姿と、あの音さえなければ、ちゃんとわかる。あれは違うんだ。
「……ありがと……」
「何があった?」
「煤が、虫に見えたの。どうしても怖くて、見てたらどうにかなりそうで」
「あぁ」
得心したような声色。
「あのナツキちゃんもね、虫が出たって逃げていったんだ」
「あ、そっちのわたし」
「追いかけていたらここまで来たんだよ」
「そのわたし、ほかに何か言ってた?」
「そうだな……あぁ、『お前はおかしい』と言っていたかな」
「おかしい? あなたが?」
暗がりの中で思わず身じろいだ。それが、霧に映されたシズクの闇?
「私は自己満足で他人のいのちを引き受ける狂人なのだそうだ。過去もなく、大して生きているとも言えない人間の分際で」
「そんなことないもん」
「ありがとう。私も、ナツキちゃんが口にするには激しいことばだと疑った」
過去がない。その辺りでシズクは異変に気づいたんだ。だって、シズクの中のわたしはそのことを知らなかったから。
それにしても、そこは全否定したっていいのに、済んだことだとばかりにさらりと流す。だから、その酷さをはぐらかされたみたい。
「じゃあ、きみは私もどきに会ったのか」
「うん。あのね」
「あぁ、いいんだ。無理に言わなくて」
「でも」
「包み隠さないのが正義というのは間違いだ。使いどころを誤れば単なる反芻、自傷に過ぎない。馬……」
「馬?」
反芻するのは、確か牛なんじゃ? そんなことより、それきり途切れた声があまりに不自然だ。今の流れで牛馬が出てくるのは。
のれんを避けるように視界を開く。ちろりと揺れる炎がまぶしくて、そして同じくらいまぶしい、白いものが横穴の奥から文字通り顔を覗かせているのがわかった。足音ひとつ立てることなく、何の前触れもなく現れたそれは、薄暗いここでは微かに輝きすら感じる。
「顔……?」
真っ白い面長に、真ん丸の黒目。窮屈そうにうつむきがちにしているせいで、額の角がまっすぐこちらを指している。
「あー!」
あの子だ。ここまで連れてきてくれた、白馬の姿をした一角獣。音もなく、決して広くない横穴に体をねじ込むようにしてこちらをじいっと見ている。
何でここに。何で埋まってるんだろう。何よりどことなく不服そうな顔がおかしくって、突発的な笑いを何とかこらえた。
「もしかして一角獣なのか? いつの間に……?」
シズクが呆然とつぶやいて、わたしを背中に隠そうとする。
「トドやセイウチとかじゃなかったのか」
「そうだよね、そう思うよね?」
よかった、仲間がいた。それはともかく、白馬は目をゆっくり瞬かせるだけで大人しい。
「シズク、大丈夫。この子が助けてくれたの。霧を追い払ってくれたんだよ。それに、わたしをここまで乗せてくれた」
「え……暴れたりしなかったか?」
「うん。いい子だよ」
「そうか……」
半信半疑、というように、シズクは一応警戒を解いた。そんなに暴れん坊なのかな……あの姿勢のせいで角を突きつけられている状態になっていることはさて置いて。
「馬って、気性が激しいものなの?」
「個体によるらしいけれど……私は基本的に動物に好かれない」
「……そっかー……」
苦いつぶやきはどうしようもない悲しさを纏っていた。理由はそれだけで十分だった。そんなシズクに対して、白馬はまるで反応しなかった。その目はわたしに向けられて、あの沈黙が降りるだけ。
「ここが住処……というのは不自然だな」
「そうだよね? それなら、わたしたちに会いに来たのかな」
「用事だろうか」
こつこつと蹄を鳴らして、白馬はそのまま後退って奥に引っ込んでいく。その角にわたしのケープを手繰りながら。
「あ、だめだよ持ってっちゃ」
ひらひらと裾を揺らして、ケープが攫われていく。わたしが立ち上がる頃にはその姿は消えて、奥から微かに硬い足音がした。
「待って、返してよー! ね、あの子追いかけよう」
「あぁ……」
シズクは、目の前で繰り広げられることを呑み込めない表情。わたしだってそう。そんな重いものをわざわざ持っていくなんて、いたずらにしては気合いが入っている。
急いで火を消して後に続く。どうにか反転したらしい白馬の尻尾が左右に跳ねるのを追いかけていると、だんだん行く手が明るくなってきた。山の横穴なんだから、もっともっと長いと思っていたのに。
「出口か」
手のひらをかざして、シズクは目を細める。慣れない光は痛くて、白馬の影に隠れてやり過ごした。その脇を、緩やかな風が通り過ぎていく。
「あ」
彼が足を止めたのは、横穴から抜けてすぐだった。どこにも行かないうちにケープを取り返すと、その拍子にポケットから鈴がこぼれ落ちる。
かろん、と、風鈴に似た涼しい音が、ここを満たすように鮮やかに広がった。
「……」
わたしも、シズクも、息を呑んで空を仰いだ。
光が、雲間からはしごをかけて降りてくる。ほぼ真上にあるそれは、今がお昼なんだと確信させる。立て続けに起きたあれこれを思うと、丸一日経っていたっておかしくないのに。
辺りを風花のように舞っているのは白い花びらだった。ひとつ、ふっと唇に触れてくる感覚はしっとりして、微かに甘酸っぱい、知らない香りを残す。雨を含んだ下草が広がる少し奥では、その花が群生している。鮮やかな深緑の葉をいっぱいに伸ばした、白薔薇を思わせるふっくらとしたかたち。
「梔子……」
「……」
シズクが声もなく、何度も頷く。喉の奥にことばを落としてしまったみたい。山のあわいに忘れられたかのような、ある種ドームに似たこの空間では、わたしの決して大きくない声も反響する。
霧に沈んだ、白い円形。少し冷たい空気で胸を満たすと、それだけで頭が冴えるみたいにこころが透き通る。見る者の澱も、影も払っていく淡い風景画のように、どこか非現実的な静けさがここにはあった。
「もしかして、本当はここのことだけを“梔子の谷”って言うのかもしれないね」
「……じゃあ、さっきまで私たちがいたのは?」
「……前半戦?」
「チェスみたいだ」
失笑につられて、大きく笑った。お腹がくすぐられたように。こんなことは、ここに来なければきっとできなかった。不安に囲まれたまま覆われそうな、あの場所だけを見ていたなら……。
「ん? なぁに?」
とんとんと、先を行った白馬は前脚で梔子の根本を示した──ように見えた。まるで気づいてほしい何かがあるみたい。鈴を拾ってしゃがんだままだと、そこは低めの雑草が集まってよくわからない。
「何を言っているかわかるのか?」
「ううん、カンだよ……あー、もう癖になっちゃってるんだね、わたし」
「傍から見た意見だけれど、本当にすごいと思うよ。私には見当もつかない。彼は何と?」
「ここ見て、って」
まさか動物相手にもそうしていたなんて。シズクは褒めてくれるけど、改めて自覚すると何だか不思議な気分。
「いっしょに行こ」
「もちろんだ。どうして?」
「いきなり変なのが出てきたらどうしようって……」
変なの、が何を指すかは言うまでもなかった。若干シズクを盾にするように後ろをついていくのが苦しい。過剰反応だと自分でもわかっているのに。
「ごめんね。シズクはちゃんと解決したのに」
「あれは一時的なものだよ。それに、子どもは無理せず隠れるのがいちばんだ」
「そうなの?」
「そうだ。大人は子どもを守るものだから。その間に、子どもは自分の恐怖心に折り合いをつける。どう向き合うのか、どう克服するのか」
いつか教えてくれたことばだ。そんなに重大なことがわたしにできる日が来るなんて考えつかない。シズクの肩に引っかかっただけのケープの袖を摘みながら途方に暮れていると、うつむいた目に映ったものが鈍く光を返した。
「あ」
「これか……」
先に膝をついたシズクが拾い上げたのは、石のような塊だった。透明で、微かに橙がかっている。わたしの小指ほどの大きさいっぱいに、中に何かが閉じ込められていた。
「これって琥珀?」
「あぁ。かなり大きいけれど……間違いない」
シズクは立ち上がって、わたしの手のひらにそれを乗せてくれた。羽のように軽い。よくよく覗き込むと、中で固まっているのは梔子の花びらだった。欠けや折れのない、綺麗なかたちのまま。
「わぁ……」
見入っていた。
だから、白馬がそれに角を振り下ろすのに気づかなかった。
「わぁー⁉」
軽くお辞儀するような勢いで、琥珀がこつんと叩かれる。あんまりおもむろな暴挙に、わたしもシズクも反応が遅れた。
「危ないなぁ、何するの!」
「やはり私か……? なぜなんだ……?」
悲観的になるシズクの髪を、風が撫でていく。優しい。それはだんだん強風になり、ついには暴風になった。優しくない!
「わ、わ、わ……」
「ナツキちゃん、こっちだ」
「むぎゅ」
ふらつくところを支えられて(というより抱え込まれて)、真横に倒されることはなかった。また、白馬の力? 初対面とはいえシズクをそこまで嫌わなくても……そう思った矢先、反射的に握りしめていた琥珀に妙な熱を感じる。
「むむ」
「何だ? 霧が……」
「むむむ」
「あ、すまない」
シズクに抱き潰されていたのを解放されると、彼の言ったことが呑み込めた。
霧が、潮が引くよりも激しく、雲が流れるよりも大げさに掻き消えていくのがわかった。ようやく戻ってきた透明な視界に、辺りの自然がもともと持っていた鮮やかな色彩が飛び込んできて目が眩みそう。
あの風のおかげじゃない。わたしたちを中心に広がる波紋のように、ばらばらに逃げていったから。
「ね、これ……」
「うん?」
それはきっと、と、確信があった。
手のひらを開く。収まっていた琥珀は、花びらを淡く発光させながら熱を灯していた。わたしたちに霧をどうこうできる力はない。だったら、これが。谷の奥にあるこれが……。
「これが秘宝か……!」
「鍵なんだよ、きっと!」
ほとんど同時に大声で驚いて、同時にくすりと笑みをこぼした。
「こんなにぞんざいに落ちてるなんて」
「私はこう、仰々しく宝箱にでも収めてあるのかと思っていたよ」
「わたしも。でも、もう決まりだよね」
「あぁ。これが梔子の谷の鍵だ」
こんなに小さい、案内人がいなかったら気づきもしなかったものが、勇者たちが手にするはずだった鍵。ここでふたりがどんな困難に遭って、どう乗り越えたのかはもう誰にもわからない。でも、その物語のひと欠片は確かにこの手にあった。
白馬はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、角の先で琥珀をひょいと跳ね上げた。わたしの目の前まで飛び上がり、狙いすましたみたいにケープのポケットにすとん、と綺麗に落ちる。
「え、ちょっと……」
それを見届けて終わり、なんて態度で白馬は梔子の群生を回り込んで行ってしまう。まさか「あげるよ」と言われているとはとても思えなくて、シズクと顔を見合わせるしかない。
「どういうつもりなんだろう……?」
「これ、置いてくつもりなんだけどー?」
尻尾はもちろん語らない。白馬は二度と振り返らなかった。
「ねえってば」
その背中を追いかける。青々と茂る葉に紛れて、雪原のように白い体はだんだんと遠くなり──いつの間にか消え失せていた。この、出入り口がひとつしかないはずの箱庭めいたところで。
後にはわたしたちと、熱を失いつつある鍵だけが残される。
もしかしたら、なんて考えた。あの子には“一角獣”としての役割以外には本当に何もなかったとしたら。だって、ただの動物には「鍵は使うもの」なんてことはわからない。
ここはやっぱり、物語なのかもしれない。
「お守りのつもりだろうか」
追いついたシズクが、わたしの腕に抱えられたままのケープから琥珀をつまみ上げる。
「わたしたちがちゃんと帰れるように?」
「そうだ。そうでなければ、わざわざきみに在り処を教えたりしないはずだから」
「あ、そっか。やっぱりいい子」
「……私には結局何も話してくれなかったな」
「今度会えたら、改めてあいさつしてみようよ。握手くらい……手は使えないけど」
「……そうしよう」
少しだけ苦い笑みで、シズクは頷き……また空を見上げた。まつ毛に絡むような光が、その目を輝かせている。
「ナツキちゃん。聞いてみたかったのだけれど」
「なぁに?」
「冒険を嫌いになった?」
雲の向こうの太陽を眺める視線をたどると、そこを鷹のように大きな鳥が横切っていく。目で追う間もなく──ううん、すでに答えは決まっていた。
「ならないよ。これからも絶対ね」
「よかった」
「うん」
また、この谷の一角獣に会う。それは、またこの谷に足を踏み入れること。でも、わたしたちは大丈夫だ。この鍵と、お互いがいれば。そんな確信が答えさせたことばに、シズクはほっとしたように肩の力を抜いた。
「本当に、よかった」




