1.泡と鰭
「なぜかしら」
また、これは夢だとわかった。でもただの映像なんかじゃないことはだんだんわかってきた。自分のもの以外の要素が伝って、本当は見られるはずのない絵を見ている。
要素、なんて難しい。結局はどこかの状況をわたしが勝手に夢の中に引っ張り込んでいる。自分が見たこともないものが夢の中に出てくるときは、見たことがあるものをごちゃ混ぜにされたときだ。本当に自分に関係ないものは、現れない。
「なぜかしらねぇ」
このわたしは、そう呼びかける誰かの膝枕でうとうとしている。それを少し離れたところで眺めると、まるで本当におばあちゃんと孫みたい。どこか森のようなところで、大きな木の根本に座り込んだそのひとは、うつむいて表情がわかりづらい。
「多分だけどね……」
寝起きそのものの頼りない声で、あのわたしが答えたのは、うつむくレンそのひとに対してだった。わたしの喉が震える感覚は案の定なくて、レンに話しかけているのはあのわたしだ。
「ここに来たばかりで、わたしが空っぽだから。だから、この世界のことで埋めようとしてくれてるんだと思う」
何の話なのか、やっとわかった。どうしてレンが、シズクの素性(そのものじゃなく、それにつながること)を教えてくれたのか。
「あなたに求められてもいないのに?」
「そんなこと言ったら、世界中からおしゃべりがなくなっちゃいますよ」
髪を優しく梳く手が止まる。わたしのポニーテールを解いて、リボンはレンの手首に留められていた。
「伝えたいことがあるから、話すんだと思います。そのおかげで……」
わたしの声が尻すぼみに消えていく。もっとがんばって。夢の中でも寝るなんて子どもじゃないんだから。そうじゃないとレンに伝わらないのに。
「ことばを失くせたら楽になるのかしらねぇ」
諦めに似たため息をついて、レンはわたしの前髪を左右に分ける。きっと、そのわたしは肝心なところで本気で寝入っているんだろう。これはよくない。わたしが直接伝えなくちゃ。
今日はちょうど、レンへのおつかいを頼まれていることだし。
***
「ごめんなさいごめんなさい、すぐ行きますからー!」
「ゆっくりおいでー」
今わたしが飛び起きたのは、自室のベッド──じゃなくて、庭の物干し竿の真下だった。少し早い朝のお洗濯ものを干した後、突っ立ったまま考えごとをして、そのまま居眠りした……という流れだったはず。というのも、まさか自分が立ったまま寝られるような神経とバランスの持ち主だったなんてにわかには信じられないから。
「ナツキちゃーん、朝だよー」
シズクのあの呼びかけがなければ、きっと石像よろしく動かない姿を目撃されていたに違いない。そんなの嫌だ。すぐ起きられてよかったと眠りの浅さに感謝して、手を洗って部屋に駆け込んだ。
「おはよー!」
「おはよう……あれ? 先に洗濯してくれたのか」
「あ、あはは……うん、ちょっと早起きできたから」
「そうか。ありがとう」
わたしが階段の方から現れなかったことを不思議がったシズクは、手にしていた本を手頃な棚にしまった。その表紙には大きく“シンソウ”と書いてある。
(深層? 真相かな?)
そこまではわからなかったけど。
あの約束どおり、谷から戻った次の日にさっそくシズクからの授業が始まった。まず見せてくれたのは、幼年学校に通う子どもが真っ先に覚えるという表。
「これが新暦の文字。旧暦の方はきみが知っているとおりだね」
「んー……?」
「見覚えがある?」
「うん、やっぱり……」
ほぼ、というより五十音表そのものだった。四角、三角といった図形に対して、点や線を組み合わせた記号で文字を区別している。ローマ字の要領で考えれば呑み込みやすそう。
「何で古い方は使わなくなったの?」
「文字の種類が多すぎるからと廃止されたそうだ。それほど前のことではないらしいけれど」
「へー……」
「私も、なぜそちらの方を覚えていられたのかわからない」
ひらがなカタカナ漢字なんて、確かに混乱する。わたしだって未だに間違えるくらいだ。
それなら、館の地下で見つけたあの本は、原典から新暦の文字に訳したものだったんだ。勉強できた後にもう一回読めば、あの料理を作れるかも。
そんなこともあって、新暦文字を見つけたら積極的に解読に挑むようにしている。数をこなすのがいちばんだ。
「そうそう」
ソーセージをかじろうとしたシズクは、たった今片づけた本を指さす。
「あの紅葉はそれに挟んでみたんだ。うまくいくかわからないけれどね」
「きっと綺麗にできるよ」
谷からの帰り道にふたりで吟味した紅葉。手のひら型のふたつの大きな葉は、和紙に似た厚紙で押し花状態にされている。その後は糊やリボンで加工して、栞の完成ということらしい。
「そうだ、先生に見せる準備はできたかな」
「うん。もう入れてあるの」
シズクが確認したのは栞のことじゃなく、ローブのポケットに入れた梔子の鍵(琥珀、じゃ味気ないから名前をつけておいた)のことだった。ハンカチで包んで、ちょっとしたクッションにしている。その感触を上から確かめながら、小さなカップに淹れてもらったハーブティーをひと口。少し苦味のある、いかにも薬効がありそうなこのお茶はわたしたちのお気に入りだ。
梔子の鍵は、最近ほとんど着ることのなくなった制服の胸ポケットを普段の定位置にした。吊るしたまま動かさないから、どこにやったか迷うこともなくなるはず。
「どんな顔をするだろうか」
ぱり、と、ソーセージの皮が弾ける瑞々しい音。シズクはゆっくり味わうと首を傾げた。「実在したことを驚くかもしれない」なんて笑いながら、サラダにドレッシングをかけ直す。酸っぱそう。
「見とれちゃうかもね。あんなに綺麗に残ってるんだもん」
「あぁ。宝石と肩を並べられるだろう」
あの白さを香りごと包み込んだ琥珀だ。レンならきっとそのよさに気づくはず。
そのレンからの頼みで、本を二冊届けるのが今日のわたしの仕事だ(ついでに食材の買い出し)。どんなことを勉強するのかと思えば、中身はどちらも画集だという。先に食べ終わったシズクが片方を見せてくれた。
「新しいパターンの参考にするのかもしれない」
「新作、見てみたいなぁ」
絵画そのものではなく、実物を模写したものが並べて紹介されている。厚い表紙をめくると、扉絵はひらひらのドレスを着て踊る小さな女の子。くるくる回る動きに合わせて、胸元のリボンや柔らかそうな巻き毛がふわりと風を纏う様子がありありと浮かぶ。
「可愛い!」
「十数年前に流行したらしい。人物、とくに子どもが生き生きしているといって、その画家の評価を一気に上げたとか」
「うんうん、ほんとに踊りだしそう! あ……そういえば、ここでは本ってどうやって作るの?」
がっしりした表紙と対比するように飲み込み部分がぐらついて頼りない。古いものだから劣化が心配だ。
「確か、簡単な仕掛けで紙に穴を開けて、丈夫な糸で括る……ということをしていたはずだ」
「力仕事なんだね」
「それでいて細やかな作業も要求される。頁の端が不揃いだと気になるだろう?」
「うん」
その道の職人たちが全神経を集中させた成果だ。それに、これの元になる絵を描いたひと、最後に読むひと。全員のためにも大切に扱おうと、受け取った本をそうっと棚に返した。食卓に近づけるのがとても難しく思えたから。飲みかけのお茶をひっくり返したら目も当てられない。
「任せて! ちゃんと渡してくるよ」
「気をつけて行くんだよ」
「はぁい」
気をつけるべきことはいろいろ思い浮かぶけど、シズクは多分ただひとりのことを指して言っている。今になってもお料理を任されないのはそういうこと。
「トウカと何があったの?」
「私の記憶の上でいちばんの大喧嘩をした。あれは酷いものだった……」
「そんなに」
「そんなにだ。きみには過酷な話になるから、あまり詳しくは言わないでおく」
そうやって渋い顔をされたらそれ以上聞けない。ふたりの話を合わせると、トウカが悪だくみをして、シズクがそれを暴いたのが仲違いの原因らしいけど。口が出て手が出て足が出るような壮絶な光景を思い浮かべて慌てて振り払う。怖すぎる。基本的に穏やかなふたりだから尚のこと。
「今はひとの目があるから大ごとにはならないと思うけれど。くれぐれも、慎重に、石橋を叩くように」
「大丈夫だよ。もう友だちなんだもん」
なんてことばで納得してもらえそうにない。それほどシズクは真顔で、切実で、大真面目だ。十歩歩くごとに周りを見回すぐらいのことはやらなくちゃいけないかもしれない。それにしても、もう精霊さんじゃなくなったトウカがどう危険なんだろう。もし町でばったり会ったとしても、わたしにはきっとわからない。
でも、おつかいを任せてもらえるようになったのは大きな進歩だ。これからお買いものや配達のお仕事が増えていくのかも。
「……きみがそう言うなら認めないでもない……」
ことばと、表情や口調が全然一致しない。
「けれど、もしあいつに危害を加えられそうになったら迷うことはない。一発入れて逃げるんだ」
「えぇ……」
目の前で真剣に拳を作ってみせるこのひとは本当に心の底から穏やかなんだろうか。これがただひとりに対しての言動でありますように、と祈らずにいられない。
***
「お嬢ちゃん、あの先生のとこの子かい? 今度遊びにおいで」
見回りのおじいさんに手を振られた。
「きみ、いくつ? 管理人さんのお嬢さんにしては……あっ何でもない」
花屋のお兄さんに首を傾げられた。
「お姉ちゃん、これあげる。きっと好きだもん」
通りすがりの女の子にクッキーを渡された。
あまり広くはないこの町で、どうやら盛大な勘違いをされている。わたしの知る限りシズクは結婚していない。あとわたしはシズクの子どもじゃない。
「わたし、いくつに見えるんだろ」
レンの家の鏡を借りてひとしきり唸っても答えは出ない。ついでにクローバーのヘアピンがずれているのに気づいて、こっそり直しておく。
「よしっ」
ひとりで町を歩くと、シズクといっしょにいるときよりも視線を感じた。子どものひとり歩きがそんなに珍しいものなのかなと思っていると事情は全く別で。話した住人ほとんどが口をそろえて「先生の……子ども?」と困り顔をする。わたしも困る。
「あらあら、気にしなくていいわ。原因はあの子ですもの。あたかもいっしょに暮らす家族がいるような言動をして」
今日もにこやかに迎えてくれたレンは、受け取った本を机の隅に寄せてころころと笑う。女の人が男の子に踊りを披露している頁を開いたままにして。
「シズクですか?」
「そうよ。ひとりで住んで寂しくないのかと聞かれては『可愛い“隣人”さんがいてくれるので大丈夫』と、毎回お返事していたのですから」
「わたしのほかに誰かいたんですかっ?」
全く思い当らない。ああまで毛嫌いしている以上、それがトウカじゃないのは確実だけど。
思えば、シズクと初めて会った日のあの反応。二階から心当たりのない足音が聞こえた、というようなものじゃなかった。「元々そこにいるとわかっている誰かの様子が変だ」と思って、と考えた方が話が通る。
「精霊さんのように、例え隣にいてもかたちがないからめったに気づけない。いるのだとわかっても姿は見えない。それを“隣人”さんというのだけれどね」
ご苦労さま、と差し出してくれた冷たいミルクティーは机の上で小さく水面を揺らす。
「町に見覚えのない住人が現れたら、まずそれを連想してしまうわ。きっとかたちを手に入れた“隣人”さんなのだと」
「それじゃあ、あのひとたちが言ってたのは……いただきます」
複雑な話をまとめようとして頭がぐるぐるする。ごまかそうとして口をつけたお茶は、控えめな甘みがふわりと広がるようで舌に心地いい。
「おいしいです!」
「よかったわ。たくさんどうぞ」
「……えっと、元から館にいた“隣人”さんがわたしだと思ったってことですね」
「そうねぇ」
半分当たりよ、とレンは微笑んだ。真昼の光は窓辺を明るく照らして、そこから離れるほど影を濃くする。
「半分?」
「えぇ、えぇ……あら?」
「あ」
何となく姿勢を直した拍子に、ひょいとポケットからこぼれそうになったもの(寸前で受け止められた)に、わたしたちは視線を落とす。ハンカチから外れてしまった、うっすらとした透明の橙色に覆われた梔子の花びら。拾い上げてすぐ、レンはそれが何なのかわかったように感心した声を上げる。
「まぁまぁ、素敵だわ。まさかこれが、ねぇ」
「そうなんです、とてもそうは見えないけど鍵だったんです」
静かに見入る目が輝いている気がした。
「……よかったわ、見つけられたのね」
「はい。馬……じゃないや、一角獣が助けてくれたんです。シズクも」
言いかけてしまって、少し迷って、でも「シズクもわたしも霧で迷子になっちゃったんです」と白状した。
レンは黙っている。さっきまでのきらきらした好奇心は、曇りに隠れてしまった。
それでも、何か言いたげに開く唇を待ってみた。少し苦しそうに寄せられた眉は見ていて辛かったけど、今はわたしが先回りしていい状況じゃない。
「何か、見たのかしら」
「……わたしは、虫の大群。シズクはお城と、墓標。お互いの怖いものを」
「……きっと、あなたは両方を見たのね」
それは確認だった。言い当てられたことを驚きながら頷くと、返ってきたのは謝罪だった。
「ごめんなさい。あんなことを教えてしまって」
「え……?」
「あなたはひとの気持ちを汲むのがとても上手よ。あの子たちと話しているのを見るとよくわかるわ」
レンは泣き出しそうに目を細めると、力なく首を横に振った。どうしようもない後悔と、それが胸に巣食って、そこら中を食い破ったせいであふれて止まらない痛みが手に取るようにわかる。
「あなたは今、泣いてしまいそうな顔をしているわ。多分わたくしと同じなのね」
「……」
「あなたはよく考える子よ。だから、それぞれ別のことを繋げて考えることに慣れてしまった。あなたはあの子が恐れるものを、霧の中に見つけてしまったのよ」
「正解だってシズクは言ってました……でもそれは、あなたのせいじゃないです。わたしが連想したんです。勝手に」
「わたくしが伝えたことばのせいで。だからあなたは怖い想いをしたのよ。あなたがそんな、悲しい顔をしてしまうのは……」
「レンさん、違うの。あなたのことばがないとだめだったんだよ」
消え入りそうな、沈んでいきそうな声を拾い上げたくて、頭のなかのことばということばを片っぱしからかき集めた。あの夢の続きを伝えなくちゃいけないから。身を乗り出すようにしたのは、震えそうになる弱い音を全部届けたかったから。
「あなたは、わたしの知らないことをいっぱい教えてくれました。だって、知らないことは見えないことといっしょだから」
文字のかけらが数個、あさっての方向にぱらぱら飛んでいくのを感じる。もっと詳しく、驚いて固まっているこのひとにも十割伝わるようにしないといけないのに。
「見えないと上手に歩けなくて、心細くって、泣きたくなるから。だから、あなたは、あなたたちはたくさんのことばを分けてくれたんです」
「ことばを、分ける……?」
「わたしが安心できるように。そうでしょ? それにあなたは先生だもん。先生は先生でも、心の底から信頼できる先生」
大きく頷くわたしは、反比例するようにだんだん焦り始める。ちゃんと伝わったかな? めちゃくちゃな文になってないかな? 考えながら話すのはとても難しい。授業中の発表会を思い出した。頭と結びのことばが繋がらなくて何だかふわふわするあの感覚。
「そうやって、夢の中にもやって来てくれたわね。わたくしを元気づけてくれた」
「……え」
「ありがとう。とても嬉しいわ」
いつの間にかさまよっていた視線を戻す。レンからはあの憂鬱が微かに拭われ、いつもの陽だまりに似た暖かな眼差しがこちらを見つめている。その手が伸ばされると、わたしの髪をほんの軽く撫でていった。もしあの夢に感覚があったとしたら、きっとこんな優しいものだったはず。
「あなたは時々、夢に遊びに来てくれるわ。今のお話、今朝の続きでしょう」
「……そんなことが……?」
言外に肯定しても、「信じられない」の気持ちの方が大きい。お互いが同じ夢を見ている。同じ絵を違う場所から眺めるのではなく、同じ場所に落ちることがあるなんて。
「あなたが慰めてくれる夢を見て、本当にそうならよかったのに、と。そんな朝だったのよ」
「そうです。わたし、そう伝えたくて……でも、途中で目が覚めちゃって」
かろん、と、鈴の音に似ているのは氷が溶けて崩れる音。少し暑いほどの室温に、冷気が溶け出して混じっていく。
(……そんな、ことが?)
空気に色はない。なのに、氷から色水が滲み出すように青色が伝って、部屋に広がっていく光景が確かにこの目に映った。
「あなたはお魚のようだわ、ナツキさん……そうねぇ」
向かいでレンの指が細い顎にかかるのを、半ば呆然と見た。目の前でレンの考えが深く、沈鬱ではなく深慮の水底に沈んでいく。これが、“よくない魔法”。瞬きの度に、細かな泡が登っていく。辺りは暗い、水の色。
「心と、井戸の話を知っているかしら」
「えっと……ひとの意識は井戸に似てる、っていう……」
うろ覚えの知識を釣り上げようとすると、いっしょに別のこともついてくる。その本を読んだのは去年の冬。寝室の寒さにかじかむ指で、寝転がりながら頁をめくっていたっけ。難しすぎる文面はいい子守歌になる。知らない単語を噛み砕いて呑み込めなかった残骸が散らばる中で、ざらざらした旋律を流し聞いていた。
「それぞれの井戸の間に何の関係もないように見えても、底では繋がってるから、本当はひとつの意識なんだって」
「そう。本来わかるはずのない他人の感情がわかったように感じるのは、自分と相手がひと続きだからなのよ」
“ナツキ”とレン。“ナツキ”とシズク。“ナツキ”とトウカ。見た目も性格もばらばらだ。考え方だって違う。町のひとたちを加えたらさらに繋がりは広がる。歩み寄ることも、反発することも増える。それでもまとまって暮らしていけるのは、どこかで相手と同じ部分を持っている仲間だからかもしれない。
「けれどね、ナツキさん。あなたはお魚のように水底を泳いで行けます。水面を見上げることだって、できてしまうわ」
「どんな気持ちが浮かんでいるか、何となくわかるんです」
「えぇ、えぇ。けれど深いところから揺らぐ水面を眺めるのですから、完璧ではないのでしょう?」
「そうなんです。それに、凪いでいてもお日さまが眩しすぎたり、反対に真っ暗な空だったり」
「うまく行かないときもあるのね。わたくしたちとは別の意味で」
席についているレンを見つめながら話しているはずなのに、やっぱりここはどこか深い水の底だ。魔法のおかげ、だけじゃない。レンのことばには、確実にひとの想像を引き立てる力があった。
「あなたたちのことばは、文学みたい」
ついこぼれたひとりごとを、レンは微笑んで受け取ってくれる。
「わたくしたち? あの子たちもそうなのね」
「聞いてると、何だか気持ちよくなって、見たことない綺麗な景色のなかに行けるような……本を読んでるときと同じなんです」
「そう、文学……とても素敵だわ。わたくしたちが、あなたの愛する物語かもしれないのね」
「物語……」
ぱら、と、ずっと黙っていた画集の頁が相づちを打つようにめくれる。そちらをうかがうと、現れたのは絵本を楽しむ子どもたちの絵。まるで今朝のわたしとシズクみたい。
物語といえば。
「……あ……!」
まだ確かめていないことがある。
「あの、あの……どこまで聞いてますか? わたしのこと」
ちょっと自信なさげなもの言いになったのは、ふたりの間でどんな認識が共有されているのか全くわからなかったから。わたしが“隣人”さんだというのはまだしも、「この世界は物語だ」と大真面目に言ったことまで伝わっていたら。わたしがここの外からやって来たことは、シズクが信じてくれた。でも、レンはどう思うんだろう?
「あなたの……そうねぇ」
視線をよそに投げたレンは、いきなりこんなことを聞くわたしに不思議そうに向き直る。わたしたちはいつの間にか引き揚げられて、今は午後の茶席にいる。
「まず、『“隣人”さんが現れた』と。それは嬉しそうに」
「シズクが……?」
「えぇ、えぇ。この町どころか、この世界ではないところから来た子だと喜んでいましたよ。どんな奇跡が起きて自分に会いに来てくれたのかと」
「本当に嬉しそう」
「あんな笑顔はいつぶりかしら、と思ったもの」
にこやかなレンの口調からは、シズクが言うような「退屈」「鬱屈」は見当たらない。
「レンさん、わたしシズクに『ここは小説の中の世界だと思う』って説明したんです」
「そうねぇ、確かにそれも聞いたわ」
「ありえない、って……思いませんでしたか?」
「少しはそう考えたわ。けれど、ありえないことは悪いことではないのよ」
レンはお茶をひと口。
「あなたのことで言うならば、とてもいいことよ。喜ばしいこと。本当なら出会えるはずのないわたくしたちがこうして同じ卓につけるのだから」
「……」
画集を引き寄せる手に光の粒が落ちる。また少し日が傾いたせいだ。時間が経つのを自覚させる。
「反対に見てみるといいわ。もしあなたの前に、『ナツキさんの世界は物語だ』と言う人物が現れたなら」
「あ」
そんなの、決まっていた。
「とっても嬉しいし、たくさん聞いてみたいことあるし、ぜひぜひ友だちになりたいし、えーとえーと」
「そうでしょう」
「うん、ちっとも悪くないです」
何だ、そんな簡単なことだったんだ。世間はわたしが考えているより数倍柔軟だ。
「館にいた“隣人”さん、シズクにはわかってたんですね」
「わかっていた……そうねぇ、いるのだと思い込んでいるのに近かったわ」
「え」
「自分のそばにあんな凶悪なものしか現れないなんて、酷いおかしいそんなはずはないと」
「そんなに」
「そんなにですよ」
あんな凶悪なもの、が指すものをわたしは知っている。結局、“隣人”さんがあの部屋にいたのかどうかはわからないみたい。
「仲直りしてとは言わないけど、せめてお祭りのときは休戦してほしいです」
「あなたが頼むならきっと大丈夫ですよ」
「そうでしょうか……え? それ……?」
おもむろに席を立ち、レンが作業場から持ち込んできたものに、思わず呆気にとられてしまう。
にっこり、やっと晴れた空のお日さまの笑顔、その手前に揺れるそれに。
「当日なら、ね」
***
どこか夢見心地で歩く夕方の帰り道、はたと思い出した。さっき見たふわふわのひらひらがあんまり可愛くて、ほかのことに頭が回らなかった。わたしがやたらとシズクの子どもに間違われる理由。
「半分、って何だろ」
「きみがセンセーによく似てるってことさ。後は住人たちが勝手にきみをセンセーの娘だと思いこむってこと」
ひとりごとに答えたのが誰なのか、そちらを見なくてもわかった。わたしに合わせて歩く長身が作る影がこちらに伸びてくる。日よけにちょうどいいかも。
「それに、人間はひとかたまりになるときに関係っていうのが必要なんだろ? 親子だとか、きょうだいだとか」
「精霊さんは違うの?」
「そうだよ。僕たちはこころだけだから。家族なんてないし、家族がいなくて寂しいなんて気持ちもないんだ」
平静そのものの声が、何でもないような口調でこぼれてくる。
(こころだけ。シズクも同じようなことを言ってたっけ)
詳しく聞きあぐねるわたしと夕日の間には、いつもの笑顔でトウカが陣取っている。今日はシズクのものとよく似た服装で、どことなく落ち着いた印象だ。
「……いつからいたの?」
「センセーのセンセーの家から出てきたとこから。何だか嬉しそうだったからね、声かけられなかったよ」
「何で?」
「にこにこしてる子はずうっと見てたくなるだろ」
「そんなににこにこしてたかなぁ」
言っては見るものの、自分の頬に笑顔の余韻があるのはすぐわかった。
「何かあったの?」
「んー、秘密」
「えー」
どこかでしたような会話。でも、嬉しいことはついつい話したくなる。気になって仕方ない、といったトウカの顔を見てると余計に。
「話してもいいけど、シズクには明後日まで内緒にしてくれる? 驚かせたいの」
「へぇ、そんなことならお安いご用。約束するよ」
「あのね、レンさんが作ってくれてたドレス、試着させてもらったの」
仮縫い状態の実物を見せてもらったのはついさっきだ。驚きのあまり「すごい」「可愛い」しか言えなかった自分が、ちょっとかっこ悪い。
膝丈のワンピースの上に真っ白いエプロンを合わせる、レンのものよりは少し活発な印象のエプロンドレス。淡いミントグリーンは、たっぷりとしたドレープと内側のフリルで裾がふんわりと広がっていた。エプロンのリボンは大きめで、後ろで結ぶと花が開いたように綺麗な立体になる。
あんなに可愛いものを着たことがなかった。それをレンが、わたしのために。まだまだ足りないほど「嬉しい」「ありがとう」を言ったのはあれが初めてだ。
「そっか、お祭りは明後日かぁ。楽しみだなぁ」
「でしょ。あんなに可愛い服で丘に行けるなんて」
「僕が言ったのはきみのことだよ」
「わたし?」
聞き返したけど、トウカはいつの間にかぽうっとした表情をして前を向いているだけ。
「トウカ?」
──こんな様子は見たことがない。
今の今まで普通に話していたのに、明後日の方向、上の空。調子悪いのかな? そう考えると、この歩調もだんだん心配になってくる。
「ね、どこか痛いの? それとも熱?」
「んー? 平気だよ。何で?」
「何となく」
「ありがとう。……ほんとはね、少しだけ変なんだ」
「変?」
「何だろう……体中の力が抜けるというか、歩いてる気がしないとか」
人間さんの体は不便だと笑ってみせても、さっきほどの元気さは感じられない。ほんの少しの陰りがあるような気がして。
「まぁ、人間のふりをしてるときはいつもこうだよ。精霊さんは体調不良なんて起こさない分、こういうことに慣れないんだ」
「わたし、送ろうか? 森まで行くんでしょ」
「せっかくだけど遠慮しとくよ。きみのとこのセンセーが何するかわからないからね」
「何もしないよ……いや、するかな……?」
出かけ際のあのことば。わたしの楽観を踏み留まらせるには十分だった。
「でも、心配してくれて嬉しいよ。友だちっていいものだね」
「友だちだからじゃないよ? トウカだからだよ」
「どういうこと?」
森は、沈丁花の館を通り過ぎた先にある。自然にこっちが送ってもらうかたちになって、わたしたちの進む方向はずうっと同じ。
何かを口にするたびにトウカの歩みが拙くなるように見えて、思わずその手をとっていた。こうしていれば、もしトウカが転びそうになってもすぐ助けられると思って。
ほんの少し温かいけれど、見た目より痩せているような感覚。驚いたように固まった大きな手。
強めの風が吹きつけるけど、まだ金木犀の香りは届かない。
「ナツキちゃん?」
「ね、わたしとシズクってどの辺が似てる?」
半ば強引に話題を引き寄せておく。この件について詳しく話すのはちょっと恥ずかしいから。
「ん? そうだねぇ」
意識を振り回された戸惑いからすぐに持ち直して指折り数えるのを、興味深く眺める。似てるだなんて、言われたことがなかった。物腰柔らかくて、笑顔が優しくて、もの知りなあのひとと。
「勉強好きなとこ、少食なとこ、好奇心旺盛なとこ、どちらかというと怖がりで、ひと見知り。あー、あとふにゃって笑うとこ」
「そんなに?」
どこで知ったのか詳しく問い詰めたい点は置いておいて、予想に反してずらりと並べられたことばに驚く。
「お互い気づいてないだろうけどね」
「うん」
「細かいとこが本当にそっくりだよ。外見は丸っきり違うけど」
「そっかぁ」
「嬉しそう」
「えへへ」
また頬が緩む。わたしに足りないたくさんのもの全てを持っているような、そんな彼と同じものがあったなんて。
「でも乱暴なとこは似たらだめだからね」
「きみに対してだけだと思うよ……」
「やっぱり? 今も窓からバターナイフでも飛んできそうで不安なんだよなぁ」
そう言われて、もう館の前なんだと気がついた。通りに面した窓からものを投げつけるには結構な距離があるけど、シズクの強肩なら届いてしまうかも。それに、不調らしい今のトウカには避けられなくたって仕方ない。
「あー残念だなー、ほんとはもっと遊びたいんだけどなー」
聞こえよがしな大声とともに(やっぱりケンカを売る側だ)トウカの手はほんの少し握られ、すぐに離れていった。
解けていく体温は、酷く冷たい。
「……」
「またね、ナツキちゃん」
「あ、うん。またね」
ひらひら振られる手に返す。そのままゆったりとした足取りで歩いていく背を見送るのもそこそこに、繋いでいた手をゆっくり開いてみる。
「大丈夫かな……?」
再び視線を向けたときには、もうトウカの姿はなかった。日が沈みかけた薄暗い夜色の中にも、影ひとつ見当たらない。
指の温度が伝った指は、痺れるようにかじかむ。
***
「ただいまー」
このことばに、もう違和感はない。木の香りが気持ちいい玄関も、迎えてくれる控えめな足音も、今では大好き。
「おかえり。おつかいご苦労さま」
料理の準備に入ろうとしていたシズクの手にはバターナイフが握られていた。あんまりなちょうど良さにこぼれそうになる声を何とかこらえた。
(よかった……?)
「あれ」
玄関の灯りを消そうとしたシズクは、不意に視線をわたしに落とす。
「ナツキちゃん、ちょっとごめん。ここに糸くずが」
「あ、ありがとう」
伸べられた手が肩に触れる。内心ひやひやしたのは、試着の件があっさりバレちゃうんじゃないかと心配だったから。
「明後日はお祭りだね。きみを連れて行くのが楽しみだ」
「そ……そうだよね! 花が咲くといいなー!」
「何か無理しているように聞こえるけれど……」
「ううん、平気……」
「そうか。それで、明日のことだけれど」
壁のカレンダーを眺めるふりをして動揺をごまかす間に、長い指がとん、とひとつの枠に触れる。月に一度の広報として大量に刷られたというそれは薄くて、爪の先だけでも簡単に穴を開けられそう。
「いっしょにお祭りの手伝いに行こうかと思ったけれど……緊急の業務が入ったんだ。きみにも助けてほしい」
「もちろん! でも、緊急って?」
あまり穏やかな場面では聞かない単語だ。ちょっとどきどきして次のことばを待ったけど、シズクの返事は至って冷静だ。でも、その笑みには仕方ないな、といった若干の諦めが見える。
「毎年のことだ。幼年学校から教科書が大量に預けられる」
「大量? でも、確か地下はまだ片づけが終わってなかった気がする……」
昨日の掃除と整理を思い出す。仮置きの本が棚の空きに平積みされて、だいぶ場所を取ったまま。
「あぁ。予定よりだいぶ早く届くことになったんだ」
「大変!」
「手分けして当たろう。きみは地下、わたしは運び入れに」
「はいっ」
敬礼のまねっこをする。シズクはにっこり微笑んで「よろしい」と頷いた。
ひと足早く丘に行けなかったのは残念だけど、こうやって何かを任せてもらせるのはとても誇らしい気分になる。それに、楽しみは当日にとっておけるし。
「前の王さま……いや、勇者が亡くなった次の年に始まったお祭りだ。今年で48年だったか」
そんなことを教えてもらったのは、初めてレンの家を訪ねた帰り道だった。
代々、王さまの命日は大きな式典が行われて慰霊の儀式とか楽隊が葬列を真似て練り歩くとかを伝統にしていた。けれど元勇者の王さまが、厳かで堅いそれを嫌った。天国から平和になった地を眺めたいという望みを汲んで、王都と町が協力し歌って踊って飲んで食べての賑やかな催しを開いたのが始まりだそう。
「お祭りは夕方からだ。先に先生の家に寄ってから行こうか」
「うん。みんなで回ろうね」
明日の作業もがぜんやる気になる。やるべきことをやっつけた後の楽しいことは、きっと何倍も楽しくなるはずだから。
***
「そういえば、今日の夕ご飯は何だっけ? バターを使うなら……スープ?」
「あぁこれか。いや、洗っていただけだ。急に使わなくてはいけない気になったから」
「へぇ」
「なぜだろうか」
「何でだろうねぇ……」




