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カドラプル  作者: アトリエめぇた
4.カドラプル
20/23

4.月白は朝の向こう


 シズクは朝食にさくさくのトーストとしゃきしゃきのサラダ、ふわふわのスクランブルエッグを作ってくれた。どれもとてもおいしくて、いつものようにそれを伝えようとして異変に気づく。


 シズクの分があまり減っていない。見れば視線を麦茶のコップに落としたまま微動だにしない。まだ太陽の光は控えめだけどそれでも眩しくて、冬を目前にした朝にしては暖かい。こんなにもいい日なのに、そう沈んでいるとアンバランスが際立った。


「食欲ないの?」

「え、あぁ……そうなんだ。どうにも」

「そっか。でも、今日もおいしいよ。シズクのお料理、わたし好きだよ」


 返ってくるのは「ありがとう」ということば、そして「なぜ平気なんだなぜそうも平然とパンをかじれるんだ」と言いたげな動揺しきった視線。その理由の一端がわたしにあることはわかりきっているから、単に元気づけるのはし辛い。肩を落としてナイフでトーストを半分に分けるのも力がない。


「今日は食べられそうにない……こちらをあげるよ」

「ほんと? じゃあいただきまーす」


 バターの染みた香ばしいトーストを受け取る。素直に嬉しい……のは二割くらい。残りはシズクが倒れてしまわないかという心配、そしてわたしの虚勢がばれてしまわないかという心配だ。


 平然だなんてとんでもない。この後には発表会が待ち構えているんだから。先生にわたしの推論を、答えを聞いてもらうための。


 わたしはきっと上手く話せない。でも時間がなかった。こうして元気にしていられるのは今だけかもしれないから。


***


 お皿を洗っている間に椅子が二脚運び出されるのが見えた。館の正面、そこから少し街道を外れたら丘の方が見渡せる。きっとシズクはそこに行ったんだ。


 そんな予測どおり、シズクはふたつ並べた椅子の片方に腰かけて大きな金木犀を眺めていた。どことなく疲れて崩れた姿勢は、わたしに気づいた途端に直ってしまう。


「なぜあの魚が弱っていたかわかるか?」


 隣につくわたしに唐突な問いかけ。どの魚のことかは何となくわかる。夢で見た魚、そしてエレベーターの籠に打ち上げられたような魚。


 わたしも丘へ視線を向ける。一本だけまっすぐ立つ金木犀がよく見えた。


「わからない」

「元々はどこまでも海を泳いでいくはずだったのを、間違って井戸に落ちてきた」

「海の魚だったんだね」

「そう。あの子はどこへでも繋がっている海で生まれたんだ」


 シズクはちらとわたしをうかがった。ほんの少しだけかち合った目は、やっぱり深い藍色。海というよりは、日が昇る前の空の色に近い。空が夜色から空色に変わるまでのわずかな時間だけ会える、すぐに消えてしまう青。


「……きみは、何を見たんだ?」

「この世界がどうやってできてるのか、骨組みを」


 頷いて、シズクは金木犀へ向き直った。わたしもそうして、どこから始めるか迷って、結局は結論から伝えることにした。


「よっつ、あなたに話さないといけないの」

「……ひとつめは」

「あなたはシズク。でも、雨宮広慈の思い出を持ってる」

「そうだ」


 すぐさま肯定が返ってくる。横顔は、気持ちが読み取りづらい角度だ。


「最初はあなたが雨宮広慈さんなのかと思った。でも違ったの。だって、あのひとは亡くなってしまったから」

「……私に彼の記憶が表れたのは最近だ」

「うん。そうだね……多分、わたしが絵本を作り始めたときに」

「それがきっかけなのか」

「物語の中で物語は生まれない。その決まりをわたしが破っちゃったから」

「……」

「そこから全部全部始まったの。レンさんは必要なことだって言ってたけど……」


 停滞した世界に空気が流れるには通り道が必要になる。穴を開けたはいいものの、その影響は予想以上に大きかった。


「シズク、びっくりしたよね。ごめんね」

「いいんだ。私には年齢分の記憶が元から欠けていた」


 苦く笑う声は続きを求める。


「……あなたがあなたじゃない誰かに見えるときがあった。ちょっとだけ違和感があったの」

「私こそきみを脅かしていたようだ。本当にすまなかった」

「ううん、脅かしてなんてないよ」

「けれどきみは怖がっていた。あの白い箱の前で、私は……」

「……今はその箱の名前を知ってる?」

「エレベーター」


 シズクは釈然としないまま答える。彼の知識が及ばないところにまで、雨宮広慈の存在は手を伸ばしていた。知らないことをいつの間にか知っている違和感はどれほどのものだろう。


「それならふたつめは、ここは何だろう……ということかな。彼の記憶が突然表れたところで何も変わらない、停滞したままのここは」

「……ここは物語じゃなくて、雨宮広慈さんの後悔なんじゃないかなぁ」

「……」

「わたしがここに来る前、物語を作ったひとのことを考えながら眠っちゃってたって、話したよね。そのとき、あのひとは病気が辛くて苦しかったんだろうなって思ってた」


 死に至る病がどれほどの痛みを伴うのか、わたしは知らない。ただ想像するしかなかった。それはよくない魔法を介して、目を閉じた先の暗がりへ広がっていく。


「でもきっとそれだけじゃない。わたしね、あの物語は欠けてると思ってる。多分その病気が原因で。それを残していくのはとても悲しいんじゃないかな」

「それが、雨宮広慈の後悔?」

「うん」


 もっともっと広がるはずだった物語が、世界が止まること。それはわたしたちが各々思い描くことでしか作られない、正解のない答えがたくさん生まれることだ。


「わたしはその気になれば、この世界のどこでも見渡せる。頁をめくるみたいに。それってね、わたしが読み手だからなの。もしわたしがここの住人ならそんなこと許されないよね」


 ちょっと恨みがましくなりそうなのを呑み込む。シズクはここにいることを許されて、わたしは許されていない。その区別はわたしの知る誰にも決められないことだ。


「……読み手は物語にはいられない。いや、そもそもが物語のかたちをしているだけの後悔だ。きみの高熱はそういうことなのか。この世界では異分子だと」

「うん……それに、よそから持ってきた物語をかたちにしようとしたから。ふたつも悪いことしたんだよ。だから追い出されちゃう……」

「私にはどちらも悪いことだとは思えない。きみが出ていかなくてはいけない理由だとは」


 シズクはわからない、と言うように頭を振る。シズクの考え方に他人の記憶が混じる。いつもどおりの、自分の判断ができなくなってしまっている。


「これがみっつめ。わたしは引き留めてもらわないとここにいられないんだよ……それも一時的。でも、みんなは違う」

「……みんな?」

「レンさんは物語の登場人物。トウカは登場できなかったアイデア。かたちがあってもなくても、この世界に必要なの」

「……それなら、雨宮広慈は……」

「作者。ことばでここを作ってくれた。いなくちゃいけないひと」

「そして、きみは読者ということか。きみだけがここにいる誰とも違う」

「……ここがいつまでも続いていくのに必要とされない人間」


 シズクは目で、高いところを飛んでいく雀を追う。その向こうには空の青が透けるほど薄い雲がある。ゆったりと流れている白を見ると、こんな話をしているのが酷く場違いに思えた。答え合わせをしたところで何かが変わるわけじゃない、強いて言うならわたしの立ち位置が変わるだけの話。此方か、彼方か。


「……そしてきっと、これがきみの用意した最後の答えだ。彼はなぜ」


 シズクはわたしを見つめた。眼鏡越しの視線は不安定に揺れて、そして窮屈そうに緊張する。花瓶に詰めすぎて身動きの取れない沈丁花のように。


「……ここに現れたんだ」

「それはきっと、雨宮広慈さんの方が知ってるよ。でもわたしにもわかる」

「……」

「掬ってあげられなかったものを守ろうとしたんだよ」

「掬う……救う? 一体何を……」


 雀の鳴き声が遠い。それが途切れるのを待つふりをして、高鳴った鼓動が鎮まるのを待った。深い色の目はそらされない。


「本当は勇者の旅路にいたはずの物語を」

「……」

「それって、あのひとの作品にちゃんと出てこられなかった場所やひと、全部のことなの。出番を待ってたのに叶わなかった物語に、手を差し伸べたかった」

「……彼はその願いを果たせただろうか」

「うん。だからこの館もちゃんとある。でも……」


 閉じた瞼の裏に浮かぶのは、力なく倒れて動かないシズクの姿。伝え聞いたお話の中で見た、実際には会ったことのない彼。


「掬えなかった物語を再現して、かたちをあげて……疲れちゃったんだよ。雨宮広慈はここでは神さまだけど、それでもいちばん苦しいときにそうしたから」

「けれど死者は死なない。一度疲れて眠った雨宮広慈の身は空ろになる……その末路が私か。先生に拾われていなければどうなっていただろう」


 空ろ。空っぽ。がらんどう。この確かに体温がある、心もかたちもあるひとがかつてそうだったなんて想像もつかない。でも、シズクがひとごとのようにそう呼ぶひとを、わたしは空っぽだなんて思わない。


「私は彼の抜け殻なのか」

「違うよ、それは絶対に違う……」


 掻き消えそうなか細い声を否定する。シズクをそんなことばで定義させたりしたくない。


「たくさんのことを見て、知って、だんだん今のあなたになっていったの」

「……」

「レンさんの生徒で、トウカと大喧嘩した後仲直りしたのはシズクだよ。わたしの先生は、わたしを見つけてくれたのはシズクだもん……」


 手をつないでくれたのも、おつかいを頼んでくれたのも、冒険に連れて行ってくれたのもシズクだ。雨宮広慈は確かに神さまだ。でも、わたしのそばにいたのは何もないところから生まれて、ひとりの住人として生きているシズクでしかありえない。


「……人格は記憶から作られる。それがきみの理論か」

「理論……?」


 ふっと和らぐ視線に少したじろぐ。わたしの推論は、見聞きしたことを事実ではなく直感でつなぎ合わせたものだ。つまり、信頼性に欠けるものだから。


 それなのに、シズクの目は穏やかだ。


「そんなにすごいものじゃないよ」

「いいや、組み立て方がどうあれ紛れもなく理論だ。私のために考えてくれたんだろう」

「うん……」

「私だけのための、きみのことばだ。受け取らせてほしい」


 ──甘い香りが、冷えた風に乗ってわたしたちの間を通り過ぎていく。それが何だったか思い出せないまま、シズクが眼鏡を外すのを見た。


「私からもよっつ。きみが気づかなかったことと、きみが間違えていること。いいかな」

「……うん。教えて、先生」

「……こうしてあげられるのもこれが最後かもしれない」


 伸べられた手に頭を撫でられながら、何の反論も思い浮かばないことをほんの少し悔しく思った。シズクがそんなことを口にしなくてもとっくに気づいていた。始まったら終わらないといけない。そしてこれは、どうしたって終わりに向かうための場だ。


 でも、それとこれとは話が違う。わたしが終わりを受け入れてしまうことと、この手から離れたくないと思ってしまうのは。いい子の生徒でいたいのと、絶対嫌だなんてわがままを言ってしまいたいのは。


「ひとつめは、いつ彼が目を覚ましたのか。きみが絵本を作り始めたからというのは、正確には少し違うんだ」

「……」

「きみがここを出ていこうとしたときだ。エレベーター……あれに乗り込もうとしただろう」

「シズク、見てたの?」

「あぁ。その光景を見た瞬間に彼は目を覚ました。それが何なのか、きみがそれに乗ったらどうなるか……わかっていたから、止めなければいけなかった」

「じゃああれは、わたしがいなくなるためのものなんだね」

「そう、ここではないどこかへの唯一の道だ。彼はきみにここにいてほしかったんだ。たとえ、物語を作ることを妨害し続けることになるとしても」

「……」

「その気持ちはよくわかる。きみに会えて私は本当に嬉しかったから」


 遠い昔のことを思い出すように、シズクは目を伏せて笑う。ここに来てからどれだけ経ったのか、もうわたしにはわからない。沈丁花は相変わらず咲き続けて、金木犀は咲かないまま。


「ふたつめは、なぜきみがここに来られたか。それはここがきみのための世界だからだ」

「……わたしっ?」


 それの意味するところを結局飲み込めずに、自分のひっくり返った声のせいでさらに混乱する。雨宮広慈は後悔のためにアイデアを掬おうとした。そのまた奥に理由があったなんて。それも、ありえない理由が。


「……どうして? わたしは会ったこともないのに……」


 彼に想いをめぐらせたときにはもう遅かった。ひとづてにひとづてを重ねて受け取ったのは訃報だったのだから。それなのに、彼の記憶は可能性の否定を止めさせようとする。


「彼は、きみが自分の物語を愛していると知っていた。だから、完全なかたちを見せてあげられなかったことをとても後悔したんだよ」

「……」

「会ってすぐにわかった。きみがそうなんだと。いちばん感謝したい子で、いちばん謝りたい子」

「それ、何だか……」


 小さな笑み。今、シズクがそうするには少々違う気がする笑顔。ふとした疑念は確信に向かって加速して、止められない。


「直接聞いてきたみたい」

「きみには見抜かれると思った」

「……まだ言ってないよ」

「けれど、わかる。きみは何となく気づいているんだろう。昨日、彼の記憶に向かって声をかけたのはそういうことだ」


 その視線は丘に向けられて、すぐ戻ってくる。その一瞬がもどかしいと感じるほど、ここの時間はゆっくりと流れている。冷たいけど穏やかな風と葉擦れ、たまに響く小鳥のさえずり、町の喧騒には程遠いものばかりが満ちているから。


「みっつめ、私は誰なのか。私はシズク。けれど、人格が記憶から作られるなら明らかだ」


 甘い香り。丘からの風に紛れて、少し濃すぎるほどはっきりと届いた。その見えない薄幕に遮られて、シズクが少しあいまいになる。変質と言ってもいいくらい、いつもの笑顔とは違うと確信できた。


 深い、藍色の優しい瞳。どこか遠くから懐かしいものを見るような、わたしに向けるには時間が経ちすぎる目。見つめたことのないもの。


「……あなたは誰なの」

「私は、雨宮広慈だ」


 ──驚きではないものでことばが埋もれて、何を返せばいいのかわからなくなる。


「どうして」


 これだって、聞きたくて聞いたことじゃない。


「どうして、わたし……あなたに会えるの」

「……きみは私の死を想った。そのとききみは少しだけ死んだんだ。そうして私と同じになって、私のところへ沈んできた」

「……」

「きみには、他人の思い描いた景色や気持ちを共有できてしまう力があるから」

「……あなたは亡くなってる……」

「そうだ。けれど、こうしてここにいる。ことばの裏に、文章の奥に私はいるんだ。綺麗な花が描かれた淡い表紙の内側に」


 思わず立ち上がっていた。椅子を倒しそうな勢いはすぐに消えてしまう。ありえないと思っていることはたいてい間違いなのは、ここで何回も見たとおりだ。


 淡い花を戴いた本。初めて会ったときと比べると何となく色褪せてしまっている。それは今、わたしの学生鞄の中だ。内ポケットに収まるほど小さな、わたしの全て。


「わたし……」


 うつむいて、その目を見られない。


 声が震えた。今目の前にいるのは確かにシズクじゃなかった。シズクの顔で、シズクの知らないはずのことを語っているのはわたしの憧れた世界ひとつを確かに作ったひと。会ったこともない、本当に雲の上にいるはずの、神さま。


「もうあなたと会えないってわかって、悲しかった」


***


 初対面の相手に、何の接点もない相手にそんなことを言われて、このひとはどう思うだろう。


 ぐるぐると沈みそうになることばかり考える視界に、橙の小さな花がひとつ、ぱたり、と落ちてきた。


「……」


 彼の、息を呑む音。それをかき消すように、ぱたぱたと止まない雨音。でもそれは雨粒じゃなかった。


「……」


 金木犀の花が降ってくる。


「え……?」


 振り返った先には変わらず金木犀の大樹が鎮座している。それなのに、ただ緑一色だったはずの帽子にはいつしか隙間もなく橙色が敷き詰められていた。


「そんな、さっきまで……?」


 咲く気配のないはずの花だった。けれど、先ほどから漂っていた香りが開花の前兆だったのかもしれない。それにしても、たった数分で全ての花が咲くなんて聞いたこともない話だった。


 紙吹雪を空に散りばめたように、薄青を鮮やかに彩る花模様は気ままに揺れながら四方へ運ばれていく。真昼に見る流星群そのものの光景に、しばらく目を奪われた。


「綺麗」

「……あぁ」


 願いごとを叶えてくれる木。物語にはとうとう現れることのなかった、行ってみたいと望んだ最後の光景。一輪、頬を掠めていくのも構わずにただじいっと見つめた。


 雲のひとかけらも残さず焼きつけたい、そう思いながら。


「例年はこんなことは起きないが」


 席を立った彼が……雨宮広慈が次にしたのは、椅子をわたしの分まで持ち上げ「そろそろ中に入ろう」と促すことだった。


「きっときみのために急いで咲いてくれたんだ」

「それなら、もっと見てたいよ」

「残念だけれどそれは難しい。これから風に乗ってさらに増える」


 小走りに先回りして玄関の扉を開ける間にも、花は雪のように途切れることはない。先を譲るふりで空を仰ぐ時間稼ぎをするのを察しているのか、くすりとした笑みが聞こえた。


「毎年ああして風に乗って飛んでくるんだ。今回は咲いたばかりなのに忙しい話だけれど」

「どうなるの?」

「おびただしい量が降り積もる。町も草原もあの香りで飽和するんだ」

「……それは」

「想像のとおりだ。とても屋外には留まれなくなるほど強い香り……それでたいていの者は気分を悪くする」


 あんなに幻想的なのに、ちょっとだけ度を過ぎるみたい。そうなったときのことを考えて、後ろ髪を引かれながら頷いた。


「うぅ……中に戻る」

「それがいい」


 椅子を戻しに行く背にゆっくり着いていきながら、まだ灯りのない廊下を見回した。沈丁花の館。わたしが最初に訪ねた場所で、シズクと初めて会った場所。


「私もよくない魔法を持っていたんだ」


 かたんと軽い音を立てて机から少し離して据えられるのは、わたしを迎えてくれたシズクの席だ。そちらを避けるように、雨宮広慈は隣に腰かける。


 髪に絡む花を軽く払い、その指は胸ポケットにしまっていた眼鏡をかけ直した。入れ替わりに、金木犀がぽとりとポケットに落ちる。


「ほんのささいなきっかけで始まってしまう。小さなころからそうだった。絵本を読んでいるといつの間にか、私は森や海の中にいた。小鳥が話すのを聞いたし、王子さまが戦うのを隣で見ていた」

「わたしといっしょだね」

「あぁ。けれど、私のそれはだんだん……そう、本当によくないものになっていったんだ。生まれつきの病が進行するごとに」


 真正面に座ったわたしにも、その様子はありありと浮かんだ。森も海も枯れて、小鳥は土に落ちて、王子さまは傷つく。


「勉強をしていて突然氷河に閉じ込められることもあった。道を歩いている上から大きな岩が落ちてくることも」

「……怖いことばかり」

「病は気から、はその逆もまた成立するものだ。私がゆっくりと病んでいくにつれて酷くなる」


 前触れのない、連想にもならない突発的な悪夢。それは出どころがわからないばかりか、周りの誰とも共有できないし理解もされないひとりだけの地獄だ。


「投薬もまるで効果がなかった。作家になれた喜びも痛みで薄れていく。あの作品の出版が決まったという連絡は高熱を出した直後にもらったんだ」

「……」

「間違いなく、人生でいちばん素敵な日のはずだったんだ。なのに私は……自分がどこかの火口で溶けてなくなる夢ばかり見ていた。それしかはっきりと思い出せない」

「苦しい夢は、痛い……」

「そうだ。そして痛みは苦しい夢を連れてくる……堂々めぐりだ。生きていると嬉しいことばかり起こるわけじゃない。いい文章が思いつかないことも、親友が亡くなってしまったことも、大小こそあれ私には全て痛みだ」


 朝に淹れておいた水出しのお茶が、大きな容器に入ったまま机の上で存在を主張している。わたしがそれを脇に避けつつカップに満たしていくのを、雨宮広慈は視線だけでなぞった。


「そうして、とうとう入院することになって……あぁ、ありがとう。ベッドの上で物語の続きを書くことにしたんだ。けれど」


 雨宮広慈がカップに口をつけたのは、喉の渇きによるものには見えなかった。少し性急な動きは、燃え移りを慌てて消火するのを思わせる。わたしは、彼の胸の奥がすでに炭化しているのがよくわかっていた。


「当時の私が、当初の構想どおり物語の全てをかたちにできるはずがなかった。医師に言われたんだ、もう長くないと」

「そんな……」

「たくさんのひとと、たくさん話し合った。それで、勇者は祠を回った後、まっすぐ竜を倒しに行くことになったんだよ。たくさんの物語を切り捨てて」 


 きみの推論は当たりだ、そう肯定されても嬉しくはなかった。本人から語られる物語が欠けた理由が、わたしがただ想った「辛くて苦しい」をあっさりと塗り替えたから。焼けるような痛みの中で、あの冒険は生まれたのだと。


「物語が世に出るまでは辛うじて生きていられた。夢が叶ったのだから、本当に嬉しかった。このまま死んでもいいとさえ思っていたくらいだよ」

「そんなの……死んじゃうなんて、そんな悲しいことだめだよ、でも……」


 苦しいのが続くことと、どちらがいいだろう? それを考え始めると、生きていてほしいなんて願いは酷く身勝手に映る。


 雨宮広慈の目は、それをことばのかけらほども感じさせない。曇りのない凪いだ空は暖かだ。


「……ありがとう。けれど、もう過ぎたことだ。そのときには私は……」


 続きは途切れたままやって来ない。何となく、どんなものだったかくらいはわかるけど。


「……どうして、ここで欠けた物語を作ったの? あなたはわたしのこと、どうして?」

「……朦朧としていた私のところに一通、手紙が届いたんだ。感想のお手紙だって」


 ──心臓が、比喩ではなく跳ねた。見上げる目が微かに細められるのは、小さく頷くのは気のせいじゃない。


「視界が晴れたよ。本当にね。何度も何度も読み返した。諳んじられるくらいに……」

「どんな、どんなお手紙だったの……」

「勇者やお姫さまといっしょに、たくさん旅ができました。楽しい冒険に連れて行ってくれて、ありがとうございました。とても面白かったです。大好きです」


 ゆっくりと、他人が書いた文字をなぞるぎこちなさ──そして身に覚えがあるメッセージに、口元を手で覆った。渇いた体に注がれる透明な水が甘くて冷たいのと同じに、わからないことばかりのわたしの心は満ちて、驚きに凍りつくはずのところをそうっと温めていく。


「届いていたよ、真白菜月さん」


 いつぶりかの、わたしの名前。知られるはずのない、その可能性を考えることすらしなかったこと。


 わたしの神さま同然のひとがわたしを知っていた。


「……信じられない……こんなこと……?」

「これがよっつめ。必要とされないなんて大きな誤解だ。きみがいなくてはこの世界はとっくの昔に滅んでいた」

「……うん」


 返すことばは震えて、蚊の鳴くよう。雨宮広慈はひとつ微笑むと、またカップを手に取る。


「よかった……わたし、追い出されるわけじゃないんだね」


 いちばんの懸念はそれだった。わたしの好きなものがわたしを嫌う、そんな悲しくて怖いことが起きていたわけじゃない。それが確信できた瞬間、永遠に終わらないとも思えるような凍える夜が明けた気がした。


「もちろんだ。ここにいちばん必要なのは……いや、皆が求めるのはきみなのだから」

「わたし、ただ嬉しかったんだよ。ほかの何も、こんな引力を持ってないの。あの物語だけでいい。ここだけでいい。わたしにはあなたと、あなたの物語しかいらない」

「……」

「そう思えるくらい、大切になったから。そんな世界を作ったひとに、どうしてもありがとうって伝えたくて……」

「……そんなきみのためにこの世界を作ろうと思った。きみがいたから、私たちはこうして生きている。レンは自分の人生を生きて……トウカはあの調子で気ままに生きているんだ」


 ふっと、雨宮広慈の指がわたしの頬に伸ばされて、触れることがないまま止まる。何だか涙を拭われる仕草に見えて、それがこの上ない既視感を煽った。たくさんのひとがわたしにそうしてくれた。きっと、この神さまみたいなひとが願ったことだから。描かれなかった物語が、穏やかな世界であるようにと。


「ありがとう。私の、私たちの物語を愛してくれて。私といっしょに冒険してくれて」

「……うん。わたしも、ありがとう。ここに来られてよかった。あなたに、あなたたちに会えてよかった」

「……だからこそきみは行かなくてはいけない。私は、そしてここはきみが留まるべきではないと考えているから」

「……それは、あなたの気持ち?」

「そうだ。彼はやはり、きみを帰したくはないのだろうけれど」


 その視線がふとそらされた先は、ぶ厚い本が収まる戸棚。シンソウはこの中のどれかで、紅葉の栞はそのまたさらに中だ。取り出すでもなく、意識はそこから外れていくけど。


「いや……本当は私だって、きみに行ってほしくない。それこそ館に閉じ込めてでも。けれど、それは回りまわってきみの世界を狭めることになる」

「……わたしの世界……」

「それは嫌だ。本当は私だけを見ていてほしい……けれど、きみが少し振り返れば物語は無数に存在しているんだよ。その出会いのきっかけすら奪うことはできない、してはいけない……」


 ──思い出すのは、あの図書室だ。


 クーラーが効き始める前の、蒸し暑い密室。古い紙の香り。ほんの少しカーテンを開けて、窓の外の天気を確かめた場所。本棚に収められたいくつもの世界。


 何百何千の物語は、既にわたしの周りに広がっていた。それは小さな魚がどこまでも泳いでいく、遮るもののない透明で温かな海。


「これからきみは、元の生活に戻って……たくさんの世界に触れる。きみが望まなくても。そうしてきみは少しずつ大きくなるんだ。けれど、それでこの世界が薄れることはない。きみ自身が証明してくれた」

「うん。どんなわたしになったって、何度だって思い出せるよ。何百年たっても」


 断言するのを、雨宮広慈は満足げに眺めて頷いた。


「嬉しいよ。何年も前に終わった物語を、忘れられていくはずだった物語を覚えていてくれて。焦がれてくれて。抱きしめてくれて」


 窓から、わずかに傾き始めた太陽が差す。光の帯の中で、雨宮広慈はにっこりと、小さな男の子みたいに笑った。わたしも思わず笑顔になっちゃうほど、満開の花そのもののように優しく。


 それは、シズクのものにも見えた。


「きみはこの世界に恋をしているんだね」


***


「お別れは?」

「行ってきたよ、いろんなひとのところ」


 次の日、わたしは久しぶりにセーラー服に袖を通していた。襟もプリーツスカートも整えて、ポニーテールはほんの少しきつめに結って。礼服を持っていない学生は制服を代わりにする。どこかで拾った知識だ。


「寂しいよ」

「私も寂しい。そう、きみを知る全てのひともそう思っているよ」


 最後の夕食の後、わたしを地下に連れて行くのはシズクだった。そうっと手を引いて、本当にゆっくりと白い部屋まで歩いていく。


 ふたりして正面を見ていて、お互いの顔はわからない。でもそれでよかった。わたしがわずかに、微かに、ほんの少しだけ「また痛くなってきた」「帰るなんて嫌だな」「熱い」なんてことを顔に出してしまっているのは自分でよくわかっているから。


 取りとめのないことばを交わしながら、灯りに照らされた地下へ降りる。この階段も、この先上ることはない。


「そんなことまで覚えてるの?」

「とても可愛い便せんだったね。確か……そう、白と黒、子猫のイラストだった」

「いちばん可愛いのを使おうって思ったの。気合いを入れるお手紙のときはね、とっておきの便せんを使うんだよ」

「そうなのか?」

「うんうん、そういうものなの」


 ひとつの記憶にひとつの人格。それは複雑に混ざり合って、シズクのことばは雨宮広慈の記憶をなぞり始める。それでも、わたしを逆方向に連れ戻すのを堪えてくれるこの手はシズクのものだ。本人の心根とは逆方向に、少し冷たい手。


「きみの理論は聞いていてとてもためになる。きっと私には一生縁のないものだったから」

「シズクは? ここいちばん、ってときはどうするの?」

「万年筆を使う。黒ではなく濃紺のインクで」

「へぇ、おしゃれ」

「きみも使ってみるといい。確か初心者向けのものが出回っているはずだ」

「うん、探してみる!」


 頷いたとき、ぽーん、とどこか間の抜けた音が地下に響いた。正確には、白い部屋の扉、その奥から。大きな手が扉を押し開けるのを、なぜだか体を強張らせながら眺めた。


「着いたか」


 意図して抑えた声色に、少し躊躇ってその長身を見上げていた。その目はいつからか、わたしをまっすぐ見下ろしている。


 ことばはなかった。今の音が何か、ふたりとも知っている。


「ね、シズク」


 喉まで出かかったのは「行きたくない」ただそれだけだ。でもそうしたら、この優しい先生はきっと困る。帰したくない相手が帰りたくないなんて言い出したら、あの祈りは叶わなくなる。そのときわたしは館の内側で、たったひとつの物語だけを燃料に生き続けることになる。それでもいい、なんてことは考えたとしても世界が、雨宮広慈が、シズクが許してくれない。


 ふたりの祈りは、ふたりの願いと引き換えに叶う。その決断をわたしが歪めるなんてできない。


「……ナツキちゃん?」


 柔らかい声。呼ばれる名前。わたしはこれだけ持っていけたらいいんだ。欲張りは悪い子がすることだもん。それなら悪い子になっちゃいたい。いっそシズクを連れて行けたら──一気にあふれるわがままを呑み込んだ。


 始まったら終わることは、わかっていたんだから。


「……ううん、呼びたかっただけ」

「そうか」

「うん」


 一歩ずつ、扉が近づく。かつん、こつんと硬度の違う足音はすぐにそこへたどり着いた。籠に乗り込むわたしの脚が止まらなかったこと、実はものすごい偉業だ。


 上へ、下へ。どちらのボタンを選べばいいかはわかっている。下は深層へ繋がっていた。それなら上は、シズクと同じになったわたしから元のわたしに戻る道。少し死んだわたしが息を吹き返すための。


「あぁ、そうだ」


 シズクの手が離れていく。一歩踏み出したわたしの足は籠の中だ。振り返った先に見たのは、慣れていないのがよくわかる何かの構え。両手で拳を結んで開いてを繰り返している。


「彼は、じゅうどう……何かの武術か? それを習っていたようだ」

「えっ、投げるの得意ってそういう……?」

「学生のころのほんの数年間だけ。きみの疑問はこれで解けただろうか」

「ふふ、うん。ばっちり」

「それはよかった」


 モーターの低い稼働音は、ここの生活に全くそぐわない。そして、わたしはその生活から出ていく。


 安心したように微笑んでいたシズクは、わたしへ手を伸べようとして止めた。見ればすでに両開きの扉は微かな軋みとともに閉まり始めている。


「ナツキちゃん」

「うん」

「……元気で」

「……うん。シズクも、元気でね」


 ──唇が、音のないことばを返してくれる。それが何なのかわかる前に、あっけなく扉は閉じられた。


 固定されていた籠が動き出す微かな圧を感じる。上から押さえつけられるようなそれは、わたしと館を、この物語を引き離していった。


「……何て言ってくれたのかなぁ」


 きっと、これからもがんばってとか、どこにいてもきみは私の大切な助手だとか、励ましてくれていたんだ。シズクは最後まで優しい先生だから。


「……えへへ」


 自分でも恥ずかしくなるほど気の抜けた笑いがこぼれて……次の瞬間には膝から崩れ落ちていた。その拍子に騒がしく床を打ちつけても、籠は止まらない。


(止まってくれても……ううん、それはだめ)


 何とか体を反転させて、ぴったり閉じた扉に背中を預ける。上昇するのと同時に、何かが心から抜け落ちていくような喪失感。わたしが立っていられなくなったのはそのせいだ。現に、あの痛みも熱もどんどん引いていく。


「……」


 深く深く、息をついた。体から力を抜いて、ほかに誰も、何も乗っていない空間をどことはなしに眺める。


 白い箱。窓も案内板もない。それは行き先が決まりきっているからだ。わたしにとってありきたりの、たどり着くべきところ。


「あとどのくらい……」


 着くまでどのくらいかかるかな? そんなことすら言えずに、自然と瞼が閉じていく。ちょっと怖いけど、これは気絶じゃなくて眠りだと半ば強引に自分を納得させた。ここに来るときだって眠りみたいなものだった、そんなことはちゃんと覚えている。


 向こうから微かに照明板の光が透けてくる、半端な闇。目を閉じていても光を感じるのは瞼が薄いせいだ。だからこの闇はどこか薄明るい、満点の星空のよう。


 そんな空の中で夢を見た。


 一角獣の背に乗って星空を渡る夢だ。真っ白な彼は駆けるというより泳いでいるようで、ふわりとした浮遊感が常にわたしを包む。水の中でわたしの髪もスカートも好き放題に揺蕩うから、あちこちを押さえないと大変なことになる。


 おかしな夢だ。体の感覚がちゃんとある。それに、このわたしがいちばんに気にしているのは胸ポケットだ。


 生徒手帳と、ころりと丸い梔子の鍵。ふとした拍子に飛び出していかないように、手のひらをそうっと押し当てた。


 輝く蹄が、星の海に踏み入る。



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