扉は開いたまま
「四日だ」
それはわたしが眠っていた日数。黒野先生の端的な説明は、すっきりと働く朝の頭に素早く浸透した。
「じゃあ今って二学期⁉」
「新学期早々欠席というわけだ」
ミレニアムも近いというのに何をしているのか。黒野先生が言いたいのはそんなことじゃない。ベッドで上体を起こすわたしとは正反対に、黒野先生は深く頭を垂れた。
「本当にすまなかった。俺が目を離したばかりに」
***
わたしは今から四日前、クーラーがよく効いた真夏の図書室で気を失って倒れていた。原因は夏バテから来る栄養失調──ということになっているらしい。黒野先生の責任問題にはならなかったのに、こうして二度もお見舞いと謝罪に来てくれるところは何と言うか、実直な黒野先生らしい。
学校近くの公立病院の個室でわたしに告げられたのは、一週間の入院という決定事項だ。自分からしてみれば至って健康、むしろよく眠ってものすごく元気……というのは関係ないらしい。お医者さんやら看護婦さんやらの(難しいところをとても噛み砕いてくれた)説明によると、夏にこうして運び込まれる子どもは食生活にとても難があるのだとか。それを無理矢理学校生活に戻したところで結果は見えているらしい。
思い当たる節はない。むしろ野菜中心の、とても健康的な毎日でした──とは言いたくても言えなかった。それはわたしの上にだけ流れていた時間の話で、秋から冬にかけての物語だから。
そうしてわたしは、何かを連想させる白い壁に囲まれた病室での生活を余儀なくされている。
「どうだ、ここの居心地は」
「あんまりおいしくないです、病院のご飯。それ以外はとても快適」
「宿題、終わらせたんだったか。よかったな」
「はい」
とはいえ、やることが極端に少ない。数冊の本を持ち込んでいなければ退屈でどうにかなっていたかもしれない。眠気もないのに眠るのはとても難しいし、見たい夢を見るのはその何千倍も難しい。
「先生は? 柔道部で……」
「何?」
「あ、間違えた。えっと、学校。何か楽しいことは?」
「読書感想文の確認がある」
「……それって楽しいものなんですか?」
「あぁ。文章のできはともかくいろいろと見えてくる。本人の視点や、読んだ作品を面白いと感じているかどうか」
「へぇ」
「……それを図書室で書いていてくれたら、俺も退屈しなかったんたがな」
多分、わたしが顔を出さない日はひとりきりで図書室に詰めていたんだと思う。涼しくて静かとはいえ、それを夏休みの間続けるのはさすがに堪えるものがある。
「何で誰も来ないんでしょう?」
「……大人しく座っているより遊びたいんだろう」
「そうかなぁ」
「きっとそうだ。制服に着替えてここまで来る労力を遊びに回したいとな」
確かに、とは思う。通気性を謳っている割に、汗をかくとしばらく湿った不快感が続くセーラー服。見た目は嫌いじゃないけど、夏場は本当に着るのが億劫になるものだ。とくにポケットに何かを入れていると布地が密着して余計に気になる──。
「……」
「真白?」
「黒野先生、あれ、あの制服取ってください」
黒野先生はわたしの唐突な指差しにたじろぎつつ振り返る。その壁には、丁寧に整えられてハンガーで吊るされた制服一式がぽつんと寄りかかっていた。
どうしても確かめたいことがあった。ここで目を覚ましたわたしはすでに患者着姿になっていた。誰かが着替えさせてくれたなら、あの胸ポケットの中身なんてきっと気にしない。なくなったりしていないか、そもそもちゃんと入っているのか。
「これか、いきなりどうした……ん?」
ハンガーごと制服を持ってきてくれた黒野先生の膝に、胸ポケットからふたつ滑り落ちてきた。ひとつはカバーが少し傷んだ生徒手帳。もうひとつは……。
「あ……」
「これがあるか気になったのか」
「……そう、そうです。小さくて可愛いでしょ?」
とくに珍しいものでもない。コンビニにも置いてあるような、短めサイズのボールペン。手渡されたそれは、空調に冷やされて手のひらに気持ちいい。
そして入れた覚えのないものだ。
***
「すぐ退院だ。医師の言うことをしっかり聞くんだぞ」
「はぁい」
そんなことを言い交わしながら、帰る黒野先生を見送って……病室の扉が閉じると同時に手のひらのボールペンをしっかり握り込んだ。
(そうだよね、持って帰れるはずない)
梔子の鍵は、当然どこにもない。わたしがあの場所にいた証明はどこにもなくなってしまった。このままわたしの中で細かいところをゆっくりとあやふやにしながら、そして次第にあちこちを欠きながらでしか存在できなくなる。
でも今は断言できた。そんなことにはさせない、その鍵がここにある。
(シズク……)
このペンは紛れもなく“鍵”だ。




