大切にはひとつ足りない
そうして──トウカは帰ってきた。きっかり二日後に。
「ばかばかばか! 悩んだ時間返して!」
「いててて、何で⁉ ちゃんと帰って来ただろ⁉」
「こんなに早いだなんて聞いてないー!」
「うわわわ、投げないで!」
トウカの言う「すぐ」がわからない。それは余計な不安の種になった。いつ会えるのかな、明日はどうかな……そう考えに耽ってシズクに四度ほど発熱を疑われたほど。それもこれも目の前で変わらない笑顔を見せてくれたこの元精霊さんのせいだ。あと、彼にはわたしを森に置き去りにした余罪もある。
もちろん嬉しい。ほんの少し、もしかしたらなんて漠然と後ろ向きになっていたから。だから、だからこれはその反動だ。
やったこともない背負い投げを決めようとしたとき、玄関に現れたのは今世紀いちばんと形容しても過言じゃない不機嫌さを纏ったシズクだった。限りなく無表情に近いけど、その漣ひとつない静かな水面下では沸々としたものを抱えている。
心底怒っている顔を初めて見るかもしれない。あんまり見たいものじゃないな、と思ってしまうような不穏さ。
「話は後だ、表へ出ろ」
顎で扉を示す。物騒極まりない。でも、無理もなかった。シズクはとてもとても心配してわたしを探しに来てくれたから。
絶望の中で意識を手放したわたしが目を覚ましたのは明け方だった。トウカの姿はどこにも見当たらない。代わりに、夜と朝の間の光で浮かび上がる出入り口に立つ影。
息を切らして、呆然と立ち尽くす間はとても長かった。暗がりに、そして安堵に目を細めて、彼は──シズクは、よろよろと揺り椅子に歩み寄る。
「ナツキちゃん……」
「あ、あ、よかったぁ、シズクー!」
来てくれるなんて、思ってもいなかった。金木犀の丘から森へは結構な距離がある。わたしがいきなりいなくなった後、どうやってここまで。
これ幸いと助けを求めようとした口を思わず閉ざした。それほど、シズクの動揺が深刻だとわかったからだ。その視線はわたしを通り越して、手首に巻きついたままの蔦に落とされている。
「怪我はないか? どこにも、痛むところは?」
「うん、大丈夫……」
「……よかった……」
「……シズク?」
答えはない。シズクは黙って膝をつくとおもむろにジャケットを脱いでわたしに被せた。肩もお腹も温かい。そういえばもう秋も深まって、朝と夜は冷え込むんだった。
「ありがとう……あ、あのね、大変なの、トウカが」
「何も言わなくていいんだ」
「え……」
「無理をしないでくれ……」
奥歯を噛みしめるような苦しげなことば。冷静じゃないことはすぐにわかった。現に、蔦をむしる手つきは怨念すらこもっている。白い手袋が灰に似た色に擦れるのも構わない。
「シズク」
「……うん?」
反応も鈍い。何か大きな気持ちで頭が埋め尽くされたときはこうなる。わたしだってそうだったから。わたしだって、今の今まで助けを呼ぶことすら思い浮かばなかった。
そして、客観的に見たわたしがどういう状態なのかということも。お祭りの最中に拉致監禁された挙げ句放置された助手を見て、シズクが何を思ったのかも。
「……ね、言わせて」
「……」
「トウカがいなくなっちゃった」
ほとんど声にならないそれを、シズクは厳しくて、でも悲しそうな顔で受け取ってくれた。
底の底まで沈み込んだわたしを連れ帰ったシズクは、何も聞かずにただ「今日はお昼まで眠ること」と休ませてくれた。ただその労りとは裏腹に、彼が内心穏やかでいられるはずがない。
それでも、わたしは話さずにいられない。トウカが何を思ってあんな暴挙に出たのか、どんな気持ちでわたしたちのところに遊びに来ていたのか。無言で全てを聞いたシズクはひとつ、ほんの微かに頷いた。
そうしたことを経ての、この状況だ。「わかってるさ」と大人しく玄関から出ていくトウカは、振り向きざまにわたしに胸ポケットを示した。そこに輝くクローバーは、変わらず彼の瞳と同じ鮮やかな新緑。
シズクを前にして微笑む余裕は、もうすっかり本調子だ。
「骨が見えちゃだめなのに」
「ナツキちゃん、すまないがカップを出しておいてほしい。三人分を」
「はぁい」
相変わらずの食えなさに呆れた……だから、シズクの頼みごとを何の疑問もなく受けていた。
「三人分」
やっとその意図を汲んだときには、シズクは「ありがとう」と笑って出ていくところだった。ぱたりと閉じる扉の前で少しの間ぼうっと、ことの次第に思いを馳せる。
「……」
あんまり酷いことになりませんように、そう誰にともなく祈りながら食器棚へ向かった。次に見るトウカの頬が片方、腫れていませんようにと。
自分の唇が笑みにほどけるのがわかった。




