見上げる瞳
どこか、暗い波間に似ていた。前に後ろに揺られて、わたしは目を閉じている。
(これは夢じゃない)
それは、わたしの輪郭がはっきりしているから。わたしは椅子に座っていて、肘かけなんて使って、両脚をお行儀よくそろえている。
「……だからね。僕たちはいつまでもアイデアだから」
背後から、読み聞かせでもするようなゆったりとしたことばが降ってくる。トウカはいつから応えないわたしに話しかけ続けているんだろう、話の筋も意味も見えない。わたしは今の今まで悲しい夢を見ていたのに。そんな悲しいことをするより先に起こしてほしかったのに。
「もうイデアにはなれないんだよ。きみたちと同じになれない。酷い話だろ……」
「寝起きなの」
聞く者全てを淡い眠りに誘うような、低くてとろりとした甘い声。このまま聞いているとまた意識が溶け出しそうで、思わず遮っていた。同時に、揺れが収まっていく。
「あんまり、難しい話しないで……」
「うん、おはよう。今は夜だけどね」
「ここは……?」
「僕の家。精霊さんの力で丘からひとっ飛びさ、火を渡ったんだよ」
今は元精霊さんじゃなかったの? 何時ごろなの? シズクはどこ? そんな疑問はお腹から浮き上がろうとしない。何だか、ぼんやりする。いつもより頭が働かないみたいに。
「変な夢を見たの、きみとシズクが喧嘩してるみたいな」
「あれは本当のことだよ」
「本当の……?」
目を開くと、始めに飛び込んできたのはほとんど真っ暗な空間だった。古びた机に置かれた蝋燭だけが、周囲を照らしている。木枠が煤けた姿見、ところどころほつれた円い絨毯、塗装が剥がれたベッド(寝具は綺麗だ)の上には耳が取れかけた猫のぬいぐるみ……どれも古すぎず絶妙な朽ち方をしている家具が点々と位置していた。異質なのはこの部屋の壁で、木の皮を剥いだままにしたようなでこぼこや不均一さを晒している。
「……暗いね」
「窓があんなだからね。お日さまの光もろくに入らないよ」
ふたりして上を見上げ──絶句したのはわたしだけだった。
壁に空いた、適当に錐を突き立てて崩したような雑な穴。トウカはそれを指して窓だと言った。木の枝を引き抜いたような大小様々の、不ぞろいな円の向こうに星空が見える。
天井はなかった。両側で緩やかな三角を描いて狭まっていく壁は遥か上でくっついている。
やっと、ここが朽ちた大木の中だとわかった。トウカはここに、好きなものを好きなように持ち込んで家にしたんだ。
「可愛い家だね」
「ありがとう。僕のお気に入りだよ。あいつは何て言ってたっけ」
「……何を、言い合ってたの?」
「んー、そうだなぁ。どう説明しようかなぁ」
丘で相対したときの不調を感じさせずに……はたまた隠しきって、トウカは背後で考え込む。
「……あれ……?」
振り返ろうとして、できなかった。手首を何かに縫い止められたみたいに引っ張る感覚。
視線を落とすと、両手は肘かけに括りつけられていた。縄や糸ではなく、地面(床じゃなくて土だ)から生えた何かの植物の蔦をぐるぐると巻きつけて。枯れかけのそれは、萎んだ小さな花をあちこちにつけたまま。どこか戯画的で、でもわかりやすい拘束だった。
「え……」
ぎょっとして思わず声をこぼしたわたしをつゆ知らず、トウカは「んー」とか「えーっと」とか考えるのに忙しい。同時に、わたしが据えられた椅子はぎいぎいと軋みながら前後に揺れ始めた。慌ててばたつかせようとした両脚も、まとめて蔦で括られている。
彼の平静さと、この異常。いっそ薄気味悪ささえ感じる落差に鳥肌が立ちそうになる。
「ま……待って……え……?」
これじゃあ混乱へ一直線だ。努めて、ひとつずつ目の前の疑問にあたる。普段の半分も回らない頭が恨めしい……。
まず、この奇妙な揺れ。動ける範囲で体を伸ばすようにして足元を確かめると、まっすぐな椅子の脚が地面に触れているはずのそこは半円を描いた板がはめられていた。木馬……じゃなくて、揺り椅子だ。さっき夢から覚めたときの波は、トウカの仕業だったんだ。
そして、何でわたしが電気椅子じみた境遇にいるのか。こんな扱いを受けたのは人生初だ。思い通りに動けないのがこんなにもどかしくて、腹立たしくて、ちょっと怖いだなんて知らなかった。
「やだよ、外してよ……」
「だめだよ。きみにはここにいてほし」
「えい」
「あーっ」
トウカの心外そうな声が上がる。見ていればすぐにわかることだった。少し引っ張れば蔦がちぎれることくらい。ぷちぷち小気味いい音とともに自由になった右手を振りまわして抗議しても、トウカは聞き入れてくれないけど。
「何するんだよ、せっかくぐるぐる巻きにしたのに」
「だってこの蔦貧弱なんだもん」
「自然破壊はよくないだろ。ほら大人しくする」
回り込んできたトウカは、見間違いではなく透けて見えた。自分のかたちを保っていられるのが不思議だ。器用に足元の植物を選り分ける指も、確かに葉や土に触れている。
いつもなら、手首を捕まえるトウカの手を思いっきり振り払えた。でも今は、体に力が入らない。今度はそこそこ元気そうな蔦を何重にも巻きつけられるのから逃げられない。
「本気でわたしのこと、捕まえておきたいの……?」
「……うん。ここできみに見ててほしいんだ」
「だったら茨の一本や二本用意しておけばよかったのに」
「物騒なこと言うなよ」
やっと、トウカがこちらを見た。少し青い、気力を削られているとすぐにわかる顔。それでも、わたしに向けるのは笑顔だ。どこか小さな子にするような、目の前の誰かに安心してほしいときの。
「怪我はだめだ。約束しただろ」
「……そうだけど、だったらこれはどうなの……?」
これ、の意味するところをしっかり汲んでトウカは「きっときみはびっくりして、逃げちゃうと思ったから」とだけ口にした。その予想は当たっていて、対策は的確だ。
「……トウカ。あの願いごとは間違いじゃないんだね」
「うん。僕は今夜にでも死ぬ。その瞬間にそばにいてほしいんだ」
あっさりと言ってのけ、また後ろからぎいぎいと椅子を揺らし始める。眠気を誘う、緩い波。でも、今度は違うものを思わせた。わたしは椅子の上で波に揺られている。何だか船の上にいるようで……吐き気が喉を掠めた。
「やめて、動かさないで」
「何で? 気持ちいいだろ?」
「逆、だめ、気持ち悪い……」
「あ、乗りもの酔いする方だった? ごめんね」
無言で左手の蔦を引きちぎる。
「えぇ……」
「説明してほしいの、今のわたしに、わかるように」
トウカにももう伝わっているはずだ。“今のわたし”がこれ以上ないほど不機嫌なことは。膝をついてまたしてもぐるぐる巻きをやり直した指が、喪服の胸の辺りを指し示した。
そこに、乾いた花が挿されているのに気づく。元々は薄紅だったはずのそれは、砂に晒したような薄茶色に沈んでいる。摘み取ってから一切の世話をしていないのか……一切の生気を吸い取られてしまったのか。なぜだか、後者の気がしてならなかった。少しつついたらぽろぽろ崩れそう。
「センセーが言ってただろ。僕たちには心しかない。体がないんだよね」
緩く拳を作る手が、開いて閉じてを繰り返す。
「だから、何か媒介を用意するんだ」
「バイカイ……?」
「んー、今は骨組みとか土台って考えておいて。その骨組みには宝石とか鉱石がうってつけなんだ。丈夫で長生きだからね」
粘土細工みたい。針金を曲げて作った骨格に、粘土の肉づけをする工程。シズクの言っていたのはこれだったんだ。
「トウカは、何を骨組みにしたの?」
「この花だよ」
「……」
「センセーのとこから拝借してきたんだ。風の強い日に落ちちゃったのをね」
この、まだ生きているかもわからない花を? それにこれは、本当なら可愛い薄紅をしたこの花は……。
「知ってるよ。沈丁花に毒があることくらい」
「……それに、花は脆いよ。落ちてたのなら余計に……」
「それだって知ってるよ」
「どうしてそれを選んだの?」
「小さくて可愛い。あと、きみが嬉しそうに見てたから」
実に毒があって危ないから、そう言ってシズクは沈丁花の世話をわたしに任せない。だから、いつも少し離れて眺めていた。春も夏も過ぎたのに未だに枯れる気配のない不思議な花を。不思議だけど、なぜなのかさっぱりわからないけど、好きな花。
「媒介には寿命があるんだよ。人間といっしょだ」
左手の蔦を余らせて、リボン結びにして遊びながらトウカはゆったりと続ける。落とした視線は穏やかで、ほとんどわかってしまった結論とは程遠い。
「この花は死にかけてる。だからこの僕も死にかけてる」
「……精霊さんに、戻るの?」
「……そうだね。こんな風に」
一度ことばを切って、トウカはわたしの前で手のひらをかざした。彼自身を透かす、白い手。引っ掴んで文句を言ってやりたくてもできない。そんな、何でもない風に言わないで、って。
「人間と精霊さんの境界線があやふやになる。そうやって、だんだん人間じゃなくなってくんだ」
「今日が、そうなの」
「そうだよ。新しい骨組みを見つけるまでの間、僕たちは少しだけ死ぬんだ。その瞬間は怖いけど、元通りになれるってわかってるから平気だよ」
「やだ」
駄々をこねる子どもみたいに、ただ首を振った。何でそんなに淡々と、悲しいことばかり言えるのか。それは、トウカが精霊さんだから。シズクが懸念していたのはこれだったんだ。考え方の根本的な違い。トウカが当然だと思っていることは、わたしたちには到底受け入れられないことだ。
「どうして?」
「嫌なものは嫌なの、だって……死んじゃうんだよ? いなくなっちゃうなんてやだ」
「僕たちの心は不死だよ、心だけ永遠なんだ。ほかの媒介を見つけたらすぐにでも会いに行けるよ」
「でも、次に会えるトウカはトウカじゃないかもしれないんだもん」
困ったように、トウカは瞬きを繰り返す。
「例え外側が違っても、僕は僕だよ。きみの友だちのトウカのままだ」
「だって、わたしたちは一度いのちが尽きたら終わりなの。もう二度と会えない。そんな悲しいこと見せないで、見たくないよ」
「……」
返すことばを探しあぐねて、トウカはただ寂しそうに目を伏せる。気持ちが伝わらないことが寂しいのは、わたしもいっしょだ。自分が一度でも、一瞬でも世界からいなくなることを、トウカは何とも思わない。それを責めるのは間違いだ。精霊さんはそういうものだから。でも、それをわたしは呑み込めない。死は誰にでも平等に訪れて、わたしと誰かのつながりをほどいてしまうものだと知っているから。
「……」
さっきの、シズクの激昂をふと思い出した。「人間とは違う」。過去にも大喧嘩をしたと言っていた。記憶のかけらはひとりでに結びつく。わたしの、よくない魔法の一端が、ほとんど確信させた。
「ね、トウカ? シズクにもこんなことをお願いしたんだね」
「え……」
「やっぱり」
顔を上げて、そして弾かれたように立ち上がって、トウカはわたしを凝視した。信じられない、そうありありと顔に出ている。トウカの考えを読み取るのは存外楽な方だった。気持ちが表情に出やすいとわかった今ではなおのこと。
「待ってくれよ、僕はひとことも……いや、確かに言った。前の体が限界になったときにね。死ぬのを見ていてほしいって、センセーにお願いしたんだよ」
「それで、ものすごく怒られた?」
「そんなんじゃ済まないよ。もう少しで顔面に入ってた」
きっと拳が。
「それはね、そうだよ……っ」
片脚を跳ね上げるようにして蔦をちぎる。その勢いで蹴り飛ばすつもりだったのに、少しだけ開いた距離のせいでぎりぎり届かない。それが酷く悔しいのは、だんだん腹が立ってきたからだ。
「わぁ、暴れるなよ」
「暴れたくもなるよ! シズクだって、きっとそうだった。友だちが死ぬのを見ててなんて、本人が言うんだもん……」
「ひとりきりで死んでいくのは怖いんだよ、わかってくれ」
「やだ、絶対やだ、これからずうっと死んじゃやだ」
「無茶言うなよ……」
初めて誰かのことを「死んじゃ嫌」と思ったのはいつだろう。確かわたしはとても小さくて、当然のように周りにいた誰かがいなくなることなんて考えもしないような歳だった。ある日突然“死”を理解したように、そのときはただ怖くて、不安になったっけ。
今はそれと同じような状況だ。トウカの言うことばが本当だとして、それでわたしの「怖い」「不安」がなくなるわけがなかった。
「困った子」
律儀に両脚も括り直して、トウカは途方に暮れる。それでも、引っかかることがあるようにわたしを見上げた。
「センセーと僕が? 友だち?」
「きみがこんなこと言い出すまでは、きっと。だって、そうじゃなきゃそんなに怒るはずないんだもん」
こうしている間にも、トウカの時間はなくなっていく。じゃあせめて最後は笑顔で見送る、なんてことはしたくなくて、でもどうやって説得したらいいかなんて思いつかなくて……ぐちゃぐちゃになる思考のせいで泣きそう。
「あいつは悪いやつじゃないけど、むしろ面倒見のいいやつだけど、死だけは共有してくれなかった」
ぽつりと、こぼれたのはそれだけだった。やっぱり、ふたりが友だちでいた時間はあったんだ。そのことがとても嬉しい。反対に、トウカ本人は不服そうに眉を寄せた。とんでもない裏切りを思い出すように。
「センセーは“隣人”さんの気配に敏感だった。人間になって会いに行ったらとても喜んでくれたよ」
でも、と、トウカはわたしの髪を撫でながらゆっくりことばを選ぶ。
「ねぇ、僕たちが初めて会った日のこと覚えてる? センセーがきみをどんな目で見てるかっていう」
唐突に昔のことを引き出されて、何とか記憶をたどる。話をはぐらかそうなんて考えは、トウカからは感じられない。
「僕に向けたのと同じだよ。ただの好奇心。優しいだとか親切だとかじゃないんだ」
「……そんなこと」
「あるんだよ。僕にはわかる。新しいおもちゃが降って湧いたのを喜んで、興味深く観察するような目」
シズクが言っていたのをものすごく露悪的に解釈すると、確かにトウカの言うとおりになるんだろう。でも彼のそれは多分に私情が混じっている。友だちが願いを聞き入れてくれなかった上に、向けられたのは怒りだった。トウカはそれが悲しかったんだ。悲しくて、そのままひとりで精霊さんに戻らなくちゃいけなかった。
もう二度とそんな想いをしたくない。それだけが痛いほどわたしに流れ込んできた。悲しいのは嫌、寂しいのは嫌。そんな当たり前の恐れは、人間も精霊さんも関係なく持っている。
それを思うと、さっきまで言い張っていたのが揺らぐ。悲しい想いをさせなくなかった。目の前で苦しむ友だちには。
「あの日は、きみの気配が“隣人”さんのものだと思って会いに行ったんだよ。でも違うね。僕は嫌でも生まれ変わらないといけない。きみは違うね? 完全に人間なんだろ」
「……そうだね。わたしは“隣人”さんだけど人間なの」
「……わかってくれない?」
「わかりたい。でもわかってあげられない。ごめんね」
もう止められなかった。こぼれた涙は拭えない。トウカは目を見開いて、それから慌てて指先で掬ってくれる。夜の森は空気が止まっているように穏やかで静かで、彼のそんなささいな動きですら均衡を崩しそう。
「泣かないで。大丈夫だよ、何回も繰り返してきたんだから」
「何回も繰り返しても、怖いものなの?」
「怖いさ。僕のことを、いるんだとわかるひとがいなくなるんだから」
「……それは、大丈夫じゃないよ」
「そんなことないよ。少しの間、寂しいだけだからね」
丸め込まれる。それはだめだ。わたしが納得して、頷かなくちゃ。そう考えること自体、すでにわたしがトウカに説得されつつあるということだけど。
「……きみが見たセンセーの夢。僕がきみを連れて行ったのだけを怒ってたわけじゃないんだね」
「わたしがこうなるって、シズクにはわかってたんだよ」
「僕が人間を完全には理解できないってことも」
そんなことない、そう言いたくても、間違っていないことは明白だった。トウカはわたしたちを気に入っているけど、わたしだってトウカを好きだけど、どうしても擦れ違う。
「……?」
擦れ違うと、その傷はとても痛む。それでも、トウカはわたしたちのところに現れた。一度大怪我をしたときの体はなくなっても、心はそのままなのに。
「教えて」
嫌なのに、本当に悲しいのに、わたしのことばはトウカの一生のお願いを受け入れようとしている。
「悲しかったのに、またわたしたちのところに来てくれたのはどうして?」
よろよろと膝をついて、トウカはわたしを見上げた。もう立ち上がる気力も残っていないのがわかる、弱々しい視線で。
「好きだからだよ」
「……」
「好きだから、どんな僕になってもきみたちに会いたい。何度だって」
「……」
「本当なんだよ」
「うん、うん。わかってるよ。疑ってなんてない」
動かない右手をそれでも伸ばそうとすると、気づいたトウカがつないでくれる。体温どころか、触れた感覚があるのが不思議なほど、存在が薄れた手。
「わたしのお願い、聞いてくれる?」
少し頭を傾けて、前髪を留めていたクローバーのヘアピンを示す。本当はもっといいものがよかったけど、今のわたしがあげられるのはこれしかない。持っているものの中でいちばん、宝石に近い見た目のもの。
「次のバイカイ。わたしのクローバーを使ってほしいの」
「……その、髪飾り?」
「そう。ずうっと大事にしてるの。毎日つけてたでしょ」
宝石にも鉱石にも遠く及ばない、作りものの脆い四葉。でも、枯れるのを待つだけの花よりは少しくらい長もちするはず。外して、と言うまでもなくトウカの指は伸べられた。髪をきつく引っ張らないようにそうっと、離れていく。
少しの間、トウカは手のひらの中のクローバーを眺めていた。今は隠れて見えないけど、トウカの瞳とこのクローバーの緑はよく似ている。鮮やかで、見ていると元気になれる瑞々しい緑。
「きみの旅に必要ないなら、いいのかな」
ためらいがちに、クローバーを摘み上げる動きにはどこかぎこちなさがある。多分、初めて触れるものだから。
「いや……きっとそうだ。金木犀でも梔子でも沈丁花でもない」
「ううん、大切だよ。大切だからきみにあげる」
「どうして」
「人質」
トウカは顔を上げた。わたしの答え、その奥の真意を察したように。
「わたしの大切だから、持ったままどこかに行かないで」
「……いいの?」
「……よくない。でもね、理解できないことを拒絶したいわけじゃないの」
長い指がヘアピンを包む。深くうつむいたトウカの表情は、前髪に隠れて見えなくなった。
「……ごめん」
「……お願いした側が言わないの」
「うん……ありがとう、ナツキちゃん」
本当に、よくない。見送りたくない。でもトウカがまた辛いままなのも嫌で、わたしは結局彼のお願いを呑んだことになる。
──つまり、わたしは説き伏せられた側だ。もし失敗したら? 失敗して、人間に戻れなくなったら? そこまではうまく行ったとして、次に会うトウカがわたしのことをちゃんと覚えていなかったら? 喉の奥に滞った不安は、でも彼のことを考えたら吐き出すわけにはいかない。トウカだって、何の痛みもなくいなくなるわけじゃないから。
(でも、それでも)
だんだん、自分が怒っていたことを思い出してきた。突然連れてこられたうえにあんな葛藤を抱え込まされて。ついでにこの椅子。あんまりだ。
最後に自分で了解したことは完全に棚に上げて、クローバーを見つめるトウカを軽く睨んだ。
何か報復しないと気が済まない。
「トウカ、帽子取って」
彼が身を乗り出すようにして近くに寄っていたのは幸いだった。手も脚も封じられたなら残されるのはただひとつ。
「ナツキちゃん?」
よくわかっていない表情のまま帽子を外したトウカ。狙いは、その前髪に隠れた額だ。
「何を……えっ」
そこめがけて、わたしの額を一気にぶつけた。
「……い」
「い……っ?」
ごつん、と、その音は脳にひびを入れるように重く突き刺さった。そして遅れてやってくる、目の奥に届きそうなほどの鈍痛。
「……ったぁぁい……」
「な、な、な、何するんだ……うわ痛い……めちゃくちゃ痛い……」
「トウカの石頭ぁ!」
「仕掛けたのはそっちだろ⁉」
まさかシズク推奨の「一発入れる」がこんなところで実現するなんて。それも拳じゃなくて頭突き。今生で使うことのない技だと思っていたのに。
透けているだけで、涙目で抗議するトウカはまだここにいる。安心した。二重の意味で。
「この体は死にかけだって言ったじゃないか……いたた、トドメを刺されるかと思った」
「これでおあいこ。わたしはきみのために悲しいことするんだもん、これくらいなくちゃ割りに合わない……うー、痛い……」
「損得勘定は似合わない……ん? 明らかにきみの負債の方が大きいんじゃないの?」
「気が済んだからいいの!」
結果的にわたしのダメージの上乗せになったことも棚に上げる。トウカは赤くなった額のまま頬を緩めて、大きく笑った。泣き笑いみたいに苦い色のそれが、さらに霞むよう。
「あー、まぁいいか。きみが悲しい顔してるよりは」
「こんなお別れでいいの?」
「こんな状況を作り出した誰かさんのことばじゃないなぁ」
ひとつわたしの額を指先で撫でると、笑いの収まらないトウカは大きな手のひらでわたしの目元を覆い隠した。向こうが透けそうになるけど、反射的に目を閉じたせいで結局周りが見えなくなる。元々頼りなかった蝋燭の火がさらに遠くなって、夜闇に押し潰されそう。
「うん、僕もわがまま言いすぎた。きみはこのまま、こうしてて」
雪が降る夜の冷たさのように、トウカの抑えた声が沁みる。
「見てなくていいの?」
「いいんだ。きみがここにいてくれたら」
さらさらとした砂が流れるように、甘い音が掠れていく。
「大丈夫だよ。わたしもいっしょ。ずうっといるよ」
「……うん」
だんだん、声がわからなくなる。耳元に唇を寄せていてくれなかったら、ほとんど聞こえない。
トウカがいなくなる。
「絶対帰ってきてね」
「もちろんだ」
「すぐ帰ってきてね」
「はは……頑張るよ」
「今のきみのままで」
「……嬉しいなぁ。もっともっとわがまま言ってほしい」
心の底から、トウカは笑った。
わたしがそれを見ることはない。
「それを叶えようとするほど、僕のかたちが固まってくんだ」
わたしの意識の方にも白い雪が降り積もる。丘で気を失ったときとは違って、進んで眠りたくなるような穏やかさで思考が薄まっていく。
「ナツキ」
きっと目を覚ましたときには、トウカはいない。ここにはわたしだけになる。
(……うん……?)
わたしだけ。
ここはトウカの家だ。森の中ということ以外、どこにあるのかすらわからない。
(あっ、待って、これは……)
これはかなりまずい。椅子に縫い止められた今はとくに。
わたしが帰れない。
「まっ……」




