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カドラプル  作者: アトリエめぇた
3.金木犀の丘
11/23

2.水底に咲ける


「金木犀が咲くのはまだ先なんだってよ」


 手押し車数台を引き連れてきた男のひとは首を横に振ってみせた。朝早くに始まった搬入は、シズクの見立てでは夕方までかかるかどうかというところ。


 無精髭を撫でながら、厳ついけど笑顔の眩しいおじさんはニッと白い歯を見せる。


「まぁ、祭りが中止になることはないから安心しな。お嬢さんは初参加なんだろ?」

「そうなんです」

「夜中に提灯がずらっと並んでるのも乙なもんさ。楽しみにするといいぞ」

「おぉー……」


 辺りが暗くなった街道を、炎の橙色が縁取って照らす光景。瞼の裏に思い浮かべるだけで満足するにはもったいない。


「その前に、まずはこれだな。おーい先生、これ片すぞー!」

「あぁ、ありがとう。それじゃあナツキちゃん、頼んだよ」

「はい!」


 玄関先の荷物をどかして通り道を空けるシズクの脇をすり抜け、小走りに地下へ向かう。前もって灯りをつけていたこともあるけれど、もうこの大きな階段も少し冷えた空気も慣れっこで、ちっとも怖くない。


 手袋とエプロン、口元のスカーフで完全武装。手早く棚の空きを作るために、とりあえず分類は無視して仮置きの本を片っ端から外へ運び出す。


 普段していることの延長だ。次から次に積もる埃を払って、運べる範囲で庭に移して風を通す。虫干しという点で、保管場所が地下だというのは失敗だというのはシズクの言。


「ここを元のまま資料館にした人間が悪い。日焼けしないからと地下を選んだのはわかる。けれど風通しが悪すぎると……それはそれで本は傷むんだ」


(虫が湧く、っていうのを最大限にぼかしてくれてた気がする)


 でも、こんなに立派な建物を有効活用したい気持ちもわかる。収納スペースがあって、ひとが住めて、何より綺麗な沈丁花が周りに咲いているんだから。それなら、こういう手間だって仕方ない。


 わたしと、お手伝いに来てくれた幼年学校の先生たちは、大きな手提げかばんに持てるだけの本を入れて、庭に広げて、埃をはたきで散らす。この繰り返し。その間、シズクたちは束ねてある教科書を学年や教科ごとに固めて地下に運び入れる。出入口はひとつしかないから、すれ違うのが大変だ。


「すまないねぇ、女の子にこんなことさせて」

「どうしても人手が足りなくてねぇ」

「いえいえ、まだまだ余裕ですよ!」

「頼もしいねぇ」

「若いねぇ」


 先生たちはふたりとも髪の白い、少しだけ背中の曲がったおじいさんだった。やけに容姿や口調が揃っている……のは納得で、ふたりは双子だという。同じ日に教師になって、同じ日に引退するんだと、ほんわかした笑顔で教えてくれた。


「お嬢さんは、先生の助手だそうだねぇ」

「ワシらはてっきり、娘さんだとばかり思ってねぇ」

「よく言われるんです。やっぱり似てます?」

「似ているとも」

「似ているとも」


 トウカもレンも、そう思いながらわたしたちを見ていたのかな、と想像してみる。何もわからないわたしの手を引くようにしてこの町の、この世界の歩き方を教えてくれるシズク。確かに、お父さんのように見られてもおかしくない。わたしが“隣人”さん(便宜上は)だというのは、もう町のちょっとした決定事項のように知れ渡っている。


「“隣人”さんを家族に迎えるのは珍しいことではないのさ」

「そんなときは息子だ、娘だと紹介して回るのさ」

「ほかに、そういうおうちがあるんですか?」

「もうないねぇ」

「数十年前にその家の者がみんな亡くなっちまったねぇ」

「それなら」


 ことばが途切れる。抱えたかばんの重みと、それ以外の心配でふらついた足は、何とか庭の土を踏んだ。顔を覗かせたばかりの雑草が微かに揺れる。


「“隣人”さんはどうなるんですか?」

「人間の体を捨てて、その家の留守番をするのさ」

「家人たちがひょっこり戻ってくるからさ」

「よかった」


 この世界のどこかに死後の世界があるなら、その事実はとても安心できる。


「“隣人”さんはひとりぼっちじゃないんですね」

「心配いらない」

「安心しなさい」

「はい」


 わたしは、シズクから見て本当に“隣人”さんなんだろうか、違うんじゃないかななんて考える。もともとここの住人ではなく、全く別の世界から降ってきたような人間。現に、わたしは家族は家族でも娘じゃなく助手としてここにいる。


「きみと私では年齢差がね」


 不意に落ちてきた声とともに、わたしの髪に触れる骨張った指。振り返れば、シズクが綿埃を摘み上げて適当に払っていた。


「あ、ありがと。わたしの考えてたこと、わかったの?」

「何となくだけれど。彼らと話しているのが聞こえたからな」


 その彼らは、休憩だ休憩だと歌いながら庭の机に出してある容器から冷たい水をカップに汲んでいる。作業に夢中で忘れていたけど、もうお昼を過ぎているんだ。空には少し雲がかかって、力仕事をするには暑すぎず寒すぎずちょうどいい。


「コツが掴めたかもしれない」


 そんな、ひとりごとのようなつぶやきを受け取り損ねる間に「昼食にしよう」と重ねられ、結局聞けずじまい。それも、シズクといっしょに用意しておいたサンドイッチを並べる間にだんだん心の隅から去っていってしまったけど。


***


 お引越しでもするの? ごついひとたちが何人も入ってくね。わぁ、懐かしい図鑑だ。これ今だととても価値があるんじゃない? あ、今は戻っちゃだめだよ。センセーが虫を追い払ってるから。


 本来彼らには聞こえないはずのこんなことばは、今は誰にでも聞き取れる。いつの間にか庭の倉庫の屋根に登って足をぷらぷらさせていたトウカは、意外にも身軽なおじいさん先生たちに引きずり降ろされそうになっていた。話し方だけは柔らかいふたりの追っ手から、トウカはバランスを崩しかけながら逃げ回る。


「お前さんも手伝わんか」

「もしやサボりか」

「わー、違うってば、僕は元精霊さんだよ」


 間の悪いことに、今日のトウカは薄灰色の作業着姿。そんなだから配達屋さんのひとりだと間違われちゃうんだ。そういう服が好きなの? そう聞けば、家の模様替えが好きだからね、と肯定されたっけ。


「お手伝いに来てくれたんじゃないのー?」


 とうとう捕まって降りてきたトウカは、長身を折り曲げるようにして「そんなわけないだろー」としょげる。その手には雑巾が持たされていた。満足げな先生ふたりは人手が増えたことを喜びながら作業に戻っていく。


「森にいると暇だから町に遊びに来るんだ。今日は失敗だったなぁ」

「ちょうどいいから手伝ってよ……って、ほんとはお願いしたいんだけど」

「わかってる、わかってるさ。出直すよ」


 今年一番に忙しそうだ、と肩をすくめるところに「そうじゃなくてね」と向き直る。昨日から気になっていたことだ。もともと色白だから顔色だとわかりづらい。


「今日は平気なの?」

「割とふらふら」

「ばかばか、休んでないとだめでしょ!」


 病人が外出した挙げ句屋根に登るなんて。休養という概念も精霊さんには存在しないんだなんて言い出しそうで頭が痛い。さっきだって、本調子ならおじいさんたちから逃げ切れたはず。


 それなのに、トウカは小さく首を横に振る。


「心細いんだ」


 ──そのひとことだけで、わたしの主張は喉の奥へ落ちていった。


 緑色の綺麗な瞳が、熱を失った後の冷たさを見せる。暖かい家から遠く離れた場所で、ひとりぼっちで悲しくて凍えるような色。


 暇だから、なんて建前みたいなもの。らしくない、だからこそ余裕がないとすぐにわかった。弾むようだったあの声が、今は痛みに似た重みで押さえつけられているように落ちる。


「でもね、今日は本当に帰るよ。きみに会えてよかった。お仕事がんばって」

「ねぇ」


 庭から出ていこうとするところに投げつけたのは、何の考えもない提案だった。


「お祭り、来ない?」

「あぁ。明日だったっけ」

「今日はゆっくり休んで、元気になってよ。そうしたら、明日遊ぼう」


 返ってきたのは無言だった。少し疲れた表情がリボンを解くようにふわりと、柔らかい笑顔になっていく。


「ありがとう」


 粉雪がふっと頬に触れるような、そんな消え入るように綺麗な笑みを見たことがなくて、うっかり見とれてしまう。にこりと頷く動きに合わせて、太陽を透かしたような金髪がぴょんと跳ねた。


「それじゃあ、そうしよう。きみたちがお店を回り終わったころに合流しようかな」

「それでいいの?」

「そりゃそうさ。きみとセンセーのデートを頭から邪魔するわけないだろ?」

「で」

「だからなるべく後に来るよ」


 ここで聞くはずのない単語。一瞬意味を捉えかねて、でも結局ちゃんと捉えられたときには、トウカはまるでいつもの調子に戻ったかのようにくすくすと悪戯っぽい笑いをこぼしていて。


 顔が火照るのを自覚したくなくて両手を当てても逆効果。熱くなる手のひらは多分トウカに見透かされている。


「で、で、デートじゃ」

「違うの?」

「違う気がするけどでもわたしからしたらデートだと嬉し、ううん違うもんデートじゃ、わたしたちそんなんじゃ」

「あー楽しい。じゃ、明日」


 ステップを踏むように一歩下がったトウカは、今度こそくるりと反転して出ていく。その背を追うように猛然と一直線に飛んできたバターナイフは、すぐそばに積まれた薪のひとつにめり込んだ。遅れて、風を切るような、息を呑むような鋭い音がわたしに届いた。気がする。


***


「きみが連れて行かれそうな気がして」


 なぜそう思ったかはわからないけれど。と、シズクは(わたしだけに対して)先ほどの暴挙を詫びながらナイフを引っこ抜く。


「大丈夫だったか」

「うん……」


 わたしの思考はあさってを向いている。何でそんなかたちをしたものが真っ直ぐ飛んでくるんだろう。銀色が複雑に曲がって、どう考えても無理だと思う。


「シズク、もしかしたら野球部だったのかもしれないよ」

「やきゅう?」

「あ、ううん……投げるの上手だねって言ったの」

「いつか必要になるかと思って鍛えているんだ」


 得意げだけど、その行き着く先が先だからあんまり応援できない。鍛えるって何だろう。わたしの見ていないところで腕立て伏せとかフォームの確認とかしていたらどうしよう。


「おーい、あとこれだけだー!」


 おじさんたちの歓声めいた号令がわたしたちを呼ぶ。蝋燭足してくれー、とも聞こえたものだから急いで戻らないといけない。


「どこだっけ?」

「提燈の棚の引き出しだ。いいかな」

「うん、行ってくる!」


 中に引っ込むついでに、空になって庭にそのままのカップを流しに持っていく。


 とぷん、と、満ちた水が空気を含んで揺れる空耳がした。


「いよいよ終わりだなぁ」

「予想より早い」

「お疲れさん」

「ご苦労さん」


 地下に下りていく声が遠い。プールで潜っているときに、外の話し声を聞いているときのよう。ぽこぽこと泡が弾けるのを連想させる揺らぎ。


 振り返ったわたしは流しから動けない。


 キッチンの出入口が水で塞がれていた。


「……な……?」


 まるでガラスの板を貼ってあるかのように、透明な質量は一滴たりとも入ってこない。でもそれがなくなったとたん、一気に流れ込んできそうなほど嵩がある。わたしの身長より遥かに高い位置まで。


 たった今入ってきたところにゆらゆらと水面が波打つのを、真上ではなく真横から眺める違和感。浮かんだスリッパの片方が、まるで魚のように右へ左へ泳いでいる。


(水族館)


 脳天気なことに、とっさに浮かんだのはそれだけだ。ガラス越しの、人工的な海を熱心に見つめた記憶は淡くない。


 ──とぷん、と。満ちた水が空気を含んで揺れる空耳がした。


「何、何で……え?」


 残った冷静さをかき集める。今は何が起きているの? そもそも、何かが起きていると思うのが間違いなのかもしれない。だって背後からは、先ほどから変わらない日差しを感じる。


(そうだ、これはよくない魔法)


 そうとしか考えられない。でも、今までこんなことはなかった。想像が現実に映り込むのではなく、突発的な異常を想像だと理解するなんて順番は。


 もしせき止められたものが、あふれてきたら?


「……」


 手のひらで唇を覆ったのは、悲鳴を塞いだからなのか、息を止めようとしたからなのか、自分でもわからなかった。泳ぎは得意だけど、そんなもの関係ない。水が満ちた箱のような、呼吸ができない場所に閉じ込められるなんてことは、そんな考えたくもない状況に陥ったなんてことは一度もない。


 魚が不意に沈む。糸が切れたようにふつりと墜落して、音もなく床で跳ねて。


 それが、いのちの尽きた遺体のように見えた。


「蝋燭は間に合ったよ」


 ──努めて冷静を装ったように抑揚のない声が、それだけが透明な響きで伝う。


「……は、ぁ……」


 それが、求めていた空気そのもののようだった。いつの間にか本当に止めていた呼吸が一気に正常になったせいで、心臓のあたりが鈍く痛んだ。


「あれ……?」


 目の前に迫っていた水の壁は、元通りにいなくなっていた。スリッパは見当たらなくて、多分ちゃんと玄関にそろえてある。外でさえずる小鳥の声は、ここが陸上だと、当たり前のことだと教えてくれた。危険なことなんて何もないと。


「ナツキちゃん?」


 突っ立っていたわたしの前に、シズクが膝をついていた。どことなく濡れたような目と、眼鏡越しに視線が合う。こんなに近いのに、笑っているのか泣いているのか、怒っているのかもわからないのは、わたしのせいで陰になっているからだと思いたい。


 息を乱すこともなくそれきり黙り込んだまま見上げる姿に、とりあえずは思いついたことを聞いてみた。


「タオルは、いる?」


 またも無言で、シズクは苦く微笑んだ。


「きみには、深く考えない練習が必要みたいだ」


 頭を撫でてくれる理由はわからないまま、今はいらないよ、ありがとう。そんな答えを聞く。


***


「ありがとうございましたー」

「またなー」

「達者でのー」

「元気でのー」


 去っていく手押し車を見送ると、さっきまでの忙しさが嘘のよう。だから、あれはもしかして白昼夢なんじゃないかしら、なんて考えてもさほど違和感を感じない。


「わたし、何を見たのかな」

「きみの魔法だ」

「よくない魔法だね」

「海の中にいた?」


 明日の天気のことでも口にしているような軽やかさで、でもそれは確かにわたしの胸を突いた。ほとんど当たっていたから。思いっきり振り向いてしまった先では、シズクが「やっぱり」と言いたげにうんうん頷いている。


「息を止めていただろう? だからそうなのかと」

「うん。キッチンの外が海になってて、たくさんの水が入ってくるような気がしたの」

「入ってきた?」

「ううん」

「よかった」


 きみが溺れる前に気づけてよかった。私はあまり泳げない方だから。わたしを連れて屋内に戻りながら、シズクのことばは一日の仕事をやり切った充実感で華やいでいる。


「きみのことはわかるようになりたいんだ」

「わたしのこと?」

「きみが怖い目に遭っているなら助けに行きたいし、魔法に迷い込んでいるなら迎えに行きたい」


 いつもよりずっと早い時間だけど、窓辺の燭台に火を入れる。それを手伝いながら、シズクの言って聞かせるようなゆったりした声を聞く。最近は、わたしが火を扱うのをシズクは見ていてくれるようになった。ふたりのときなら大丈夫と。


「シズクがいっしょだと嬉しいな。何だか安心する」


 灯ったばかりの火は小さくて、でもすぐに縦に長くなる。手をかざすと、指先からじんわりと熱が滲むよう。シズクといると、胸の奥がこんな風に温かくなる。隣に誰かがいるのは、こんなにぽかぽかすることなんだ。


「寒くないか?」

「うん」


 昼間の様子からは想像もできないほど、曇り始めた空の下は急に冷えてきた。灯りがあるだけで心持ちが違ってくるのは、真夏の風鈴に似ているかも。


「もうすぐ楽隊の行進がそこの通りをやってくる。窓の灯りは彼らの目印になるんだ」

「ここに来るの? ほんと?」

「あぁ。あちこち回って、明日の演奏を見てほしいと宣伝するんだ」

「すごい。みんなに会いに来てくれるんだ!」


 まだ誰もいないことはわかっていても、窓の外を探してしまう。どれだけ長い行列なんだろう? もしかしたら思いっきりおしゃれしているかも。通りの向こうからくるから、きっとこの館に来るのは最後になるとわかっていても。


「先に町へ見に行く?」

「ううん、待ってる。いっしょに」

「あぁ」


 それから夕方になるまでは夕食の下ごしらえや洗濯ものの片づけ。人参の皮をむきながら、すっかり乾いた掃除道具やシーツもろもろを取り込みながら──ちらちら町の中心部をうかがってみてもまだ誰も歩いてこない。


「まだかなぁ」


 四度は言った。


「きっとたくさんの子どもたちと遊びながら来ているんだ」

「あ、そっか。やっぱり大人気だよね」


 ラッパや太鼓。珍しいものが列をなしているのはとてもきらきらして見える。それが綺麗な演奏で楽しませてくれるんだから、余計に。


「楽隊はお客さんが大好きなんだ。だからみんなを大切にする」

「そうなんだ……」

「元気な笑顔を見せてくれるのも、大きな拍手をくれるのも、この上ない幸せだから。幸せをくれるひとみんなが大好きだ……と、今年の隊長が言っていた」


 シズクがそうやって微笑むのと、玄関先でコツコツと木を叩くリズムが弾むのはほとんどいっしょだった。


「あ」

「シズク、シズク。絶対そうだよねっ」

「あぁ。迎えてあげてくれ」

「はぁい」


 足取りはステップを踏むように軽くなる。「どちら様?」と答えのわかりきった問いかけは同時にドアを開けたせいで無意味になって、その無意味をわざわざ拾ってくれた彼女はにっこりした笑みを浮かべた。


「あら、先生の新しい家族ね。はじめまして! 今年の楽隊が参りました!」

「は、はじめまして……!」


 舞踏会を思わせる目元の黒いマスクと、長い手足を包む燕尾服、シルクハットに飾られた深紅のリボン……どれもとっても可愛い。両腕が優雅に開いて、後ろに控える仲間たちを示した。手にした指揮杖の赤い羽飾りが風を捉えて踊る。


「お祭りは明日だ!」「来てね来てねー!」そう口ぐちに、思うまま手を振ってくれる彼らはざっと見ても三十人は下らない。少し後ろの方ではシンバルが高く大きく鳴り響いて、太鼓のバチやフルートが宙を舞っている。夕方から夜中にかけての薄闇の中でも、衣装や楽器の装飾がわずかな光を返してきらめいた。仕立てのいいジャケットやドレスは黒でまとめられているからよく映える。


「わぁ、わぁ……!」


 遊園地が歩いてきたような光景に圧倒されて、小さく拍手して歓声を上げてしまう。こんなにまぶしくて豪華な楽隊が、町の石畳を行進してきたんだ。きっと凱旋パレードのようだったその瞬間も見ておけばよかったかも。でも、お楽しみは後にとっておいてもおいしいものだから……。


「いらっしゃい、隊長」

「ごきげんよう、先生」


 後ろから追いついたシズクと隊長が、一様に視線をわたしに下ろした。何だろう。


「貴方の恋人?」

「私の助手だ」


 これも息ぴったり。そうじゃなくて。


「こ、こい……」

「ねぇ、先生とは」

「だめだ、だめだ。その手の好奇心をこの子に向けないでくれ」

「もう、ケチね。いいじゃないその手の話は少ないんだもの」


 星空のようにきらきらする長いまつ毛を寄せるように隊長さんはわたしを覗き込む。ふわりと甘い桃のような香りと、朝露に濡れたチューリップと同じくらい潤んだ唇がぐっと近くなって──なぜだか目のやり場に困って顔をそらしてしまった。


「そ、そ、その」

「なーに?」

「その手のって、何でしょ……?」

「もちろんラブよ。えい」

「ら……?」


 栗色の巻き毛を揺らして、隊長はくすくす笑うとわたしの肩を抱くようにくっつく。甲高いピッコロトランペットやタンバリンの音はこれを盛り上げようとしているみたい。当のわたしは突然のハグでどきどきしてそれどころじゃないけど。近い近い。


「ねぇ先生? ラブはともかく、会場ではこうでもするくらい気をつけなくちゃだめよ」

「もちろんだ」

「えっ」

「はぐれたら大変だから」

「あー……」

「それもあるけどね」


 いーい? と、隊長はわたしの目をじいっと見つめると一変して心配そうなお姉さんの顔を見せる。憂いに似た表情は、雨の日に見るあじさいのよう。


「毎年毎年、丘はものすごいひとでごった返すのよ。それに悪酔いしたやんちゃ坊主どもがふらふら歩いてたりね」

「それは……」

「それは?」

「危険だと思います……!」

「そうよ。だから先生から離れて見物するのは止しなさい」

「はぁい」

「いい子ね」


 くしゅくしゅと髪を撫でてくれる手が離れ、夜空に向かってピンと伸べられる。間髪を入れず響き渡る全ての楽器が織るファンファーレは綺麗に和音を作ってわたしたちを包んだ。


「お祭りも演奏も、楽しく愉快に、けれどそこそこの節度と確かな安全が大切です!」

「おー!」

「うおー!」

「というわけで、宣伝おしまい! ふたりとも楽しみにしておいて!」


 可愛いウィンクのプレゼントは、直後奏でられ始めた曲に乗ってよく跳ねる。星空にさらに星を届けるような賑やかな行進曲とともに、大きく手を振って楽隊は館を離れていく。


「また明日」

「またねー!」


 隊長からの投げキスは、トロンボーンのスライドが引っかけて持っていってしまった。最後の一人が見えなくなるまで手を振っているうちに、辺りはいつの間にか静けさを取り戻している。空気に溶けていく音のかけらが透明になるまで、シズクはずっと隣にいてくれた。


「可愛いひとたちだったね。えっと……軍服? を改造したみたい。すっごくかっこよかったし、可愛かった」

「一年でいちばんのおめかしをするからな」

「シズクは? 何かおしゃれするの?」

「私か……」


 言ってはみたものの、シズクがパーティーの衣装を着ているのをもちろん見たことはない。でも、絶対かっこいいという謎の確信があった。姿勢も仕草も綺麗だから。


「こういうときのものが一着だけある。昨日簡単に手入れしたな……」

「ほんとっ? 早く見たいなぁ」

「そう期待するものじゃない。本当に似合わないから」

「そうかなぁ」


 照れくさそうに苦笑いして、前髪を指で軽く撫でつける動きはぎこちない。


「この髪も何とかしろと毎年言われるんだ。香油の……何だったか、まあとにかく加工したもので前髪を上げて固めて、眼鏡も外してと大仕事だ」

「眼鏡も? 見えなくならない?」

「文字を読まないなら問題ない。遠くからでもきみがわかるよ」


 後ろに下がりながら、シズクは眼鏡を外してみせた。家具に掠りもしないのはさすが家主、配置が完璧に頭に入っている。それにしても、髪を上げたところは本当に見てみたい。きっと雰囲気ががらりと変わる。眼鏡は……許してあげてほしい。外すように言ったのは誰だろう。


「ナツキちゃんも考えよう。どんなものを着てみたい? 貸衣装屋は当日に行くんだ」

「あ、待って待って。実はもう決めてあるの」

「そうだったのか?」


 目を丸くして、その拍子にテーブルに腕をぶつけかけるのをひやひやと見守りながら(ぎりぎり回避できた)、慎重にことばを選ぶ。


「いつの間に……」

「えっとね、レンさんが明日教えてくれるの。シズクも来てね」

「あぁ。私も楽しみだ」


 にこりとして、シズクは眼鏡をかけ直した。


 明日、可愛いって褒めてもらえるといいな、なんて思いながらふっと窓の方を眺めた。夜の冴えた、でも落ち着いた香りが微かに流れてくる。


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