プロローグ
その日、東雲伊織は少々機嫌が良かった。
放課後、夕食の食材を調達するために訪れたスーパーで丁度食べたいと思っていたスイーツが値引きされていたためだ。
日が傾き、影が伸びる。
赤く染まる街を抜けて、伊織は一人家路を急いでいた。
伊織が高校進学のために親元を離れ、全く土地勘のないこの土地に越してきてから三ヶ月が経つ。
はじめは不安だった高校生活も、それなりに話す友人ができたことにより充実してきた。
家事もこれまでは母に任せきりであったが、慣れないなりにこなしている。
(昨日は疲れていて洗い物できなかったんだよな……夜ご飯済ませたら今日の分とまとめて洗わないと――)
帰ってからこなさなければならない家事のことをぼんやりと考えながらフラフラと歩いていると、突如として体に衝撃が走る。
「きゃっ!?」
小さな悲鳴が聞こえ、伊織がハッとして前を見ると尻餅をついた少女が頭をさすりながら顔をしかめていた。
「いった~……」
「あ……ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
両手に抱えていた荷物を地面に置き、すぐさま少女に手を伸ばす。
少女は伊織に差し出された手をじっと見つめたのち、手を取ることなく自力で立ち上がる。
「大丈夫ですよ。ぶつかっちゃってごめんなさい」
少女は尻餅をついた部分を手で払いながら答える。
「いや、こちらこそ……ぼーっとしてしまっていて……」
その言葉に反応し、少女は初めて伊織の顔を見る。
顔を見た途端、「あ……」と呟き少女は目を丸くしたと思えば、まじまじと顔を見るように伊織の元へと歩み寄る。
その行動に伊織は困惑した。
まるで澄んだ水を湛えたような蒼く輝く瞳に、美しい黒髪のツインテール、小柄で整った顔立ちの少女からこんなにも熱い視線を送られているこの状況が理解できない。
「あ、あの、どうかしましたか?」
伊織の問いに少女はハッとした表情を浮かべたかと思うとクスリと笑いながら答える。
「……いえ、なんでもないですよ。知り合いの顔に似ていたものでつい。ごめんね?」
少女は一言そう言うと、伊織が歩いてきた方向へと足を向ける。
「じゃあ私はこれで。おにーさん、ぼーっとしてると車に轢かれちゃいますよ?」
そう言い残すと少女はくすくすと笑いながら立ち去っていった。
呆気にとられた伊織はしばらく少女の後ろ姿をぼーっと眺めていたが、ふと我に返り、また帰路につく。
(なんだったんだろう、あの娘……行動もおかしかったけど、それ以上になんだかすごく親近感を覚えたというか……不思議な気分だ)
そんな疑念は家に着いて家事を終え、余暇を楽しんでいる際にも頭へとついて回る。
何の気なしに弄っていたスマホにも飽き、ごろんと床に寝転んだ瞬間、不意にインターフォンのチャイムが鳴る。
壁に掛けられた時計を見ると既に二十一時を回っていた。
「誰だろ……こんな時間に」
首をかしげながらインターフォンのカメラモニターを見ると、そこには先ほど帰り道でぶつかった少女が映っていた。
「なんであの娘が家に……」
驚きのあまりその場で固まっていると、再びインターフォンのチャイムが鳴る。
ピンポーン。
静寂の中に鳴り響くその音色は、まるで伊織に対して早く開けろとけしかけているようだ。
伊織は恐る恐る玄関へ向かうと、意を決して扉を開ける。
「ようやく開けてくれましたね?おにーさん?」
「キミはさっき会った娘だよね?どうしてここに……」
少女はその問に答えることなく、俯き加減で伊織へと問いかける。
「おにーさん、東雲伊織さんですよね?」
その言葉に伊織は言葉を失った。
どうして見ず知らずの彼女が自分の名前を知っているのか。
なぜ夜遅く、自分の家に訪ねてきたのか――。
思考が巡る、巡る――。
「そうだけど、なんで...」
絞り出すように答えたその言葉を聞き、少女は満面の笑みでこう言った。
「あはっ。昔の"パパ"、みーつけた!」




