第二:カラスの邪淫(不貞)を見て世を厭い、善を行って道を修めた話f
信厳という禅師がいた。もとは和泉国泉郡の大領(郡司の長官)であり、名を血沼県主倭麻呂といった。聖武天皇の御代の人である。
この大領の屋敷の門には大きな木があった。そこにカラスが巣を造り、雛を産んで温めていた。雄のカラスは遠く近くへと飛んで獲物を探し、雛を抱く妻を養っていた。
ところが、雄が獲物を探しに行っている間に、別の雄カラスが代わる代わるやって来て、妻と不貞を働いたのである。妻のカラスはこの不倫相手と心を通わせ、空高く舞い上がると、北の方向を指して飛んで行ってしまい、残された雛を捨てて振り返ることもなかった。
そこへ、元の夫カラスが食べ物を咥えて帰ってきたが、妻の姿はどこにもなかった。夫カラスは雛を哀れみ、自分が代わりに雛を抱いて伏したまま、食べ物を取りに行くこともせず数日を過ごした。
大領はこれに気づき、人に命じて木に登らせ、巣の中を改めさせたところ、夫カラスは雛を抱きかかえたまま死んでいた。
大領はこれを見て深く悲しみ痛痛しく思うとともに、カラスのような鳥類でさえ邪悪な情欲に惑わされる現実を見て、この世の儚さと汚れを深く嫌悪し、出家を決意した。
彼は妻子と別れ、官位を投げ打ち、行基大徳に従って弟子となり、善行を積んで道を求めた。そして名を「信厳」と改めたのである。
信厳は常々、「私は行基大徳と共に死に、必ずや共に西方極楽浄土へ往生したい」と強く願っていた。
一方、大領の妻もまた血沼県主の身内であった。夫に捨てられた後も決して他心を持たず、深く身を謹んで節操を守っていた。
ある時、二人の間に生まれた息子が病に倒れ、死の間際に母に告げた。
「母上のお乳を飲めば、私の命はつながるかもしれません」
母は息子の言葉に従い、病の息子の口に母乳を含ませた。息子はそれを飲むと、ため息をついて言った。
「ああ、なんと甘い母上のお乳でしょう。これを残して私は死んでいくのですね」
そう言い遺して、息子は息絶えてしまった。
大領の妻は、死んだ息子を恋い慕う悲しみから、自分も出家して仏道を修めるようになった。
さて、信厳禅師には幸いが薄かったのか、大望を果たせぬまま、師である行基大徳よりも先に亡くなってしまった。
行基大徳は彼の死を深く嘆き悲しみ、歌を詠まれた。
「烏とふ 大慌鳥の 去ぬる事を 共にと言ひて 先立ち去ぬる」
(訳:カラスのように軽はずみな者よ。私と共に往生しようと言っていたのに、私を置いて先に旅立ってしまうとは)
大きな松明を灯そうとする時には、まず燃えやすい燃えさし(蘭松)を用意するものだ。雨が降ろうとする時には、まず石の坂道がしっとりと湿るものである。
(それと同じように)カラスの浅ましい行いによって、大領に道心を起こさせたことこそ、まさに仏が与えてくださった優れた「便宜の方便(悟りへ導くきっかけ)」であり、苦しみを見て道を悟るとは、まさにこのことをいうのである。
欲望の世界に生きる生き物たちの愚かな行いは、すべてこのようなものである。道を悟った者はこれを嫌って背を向け、愚かな者はこれを貪り求めるのだ。
【賛(称讃の言葉)】
なんと素晴らしいことか、血沼県主の氏族よ。カラスの不貞を見て俗世の塵を嫌い捨てた。浮世の儚い仮の姿を脱ぎ捨て、常に身を清め、勤めて善行を修め、永遠の命を祈った。心に深く誓った極楽安養の約束を果たし、この世の解脱を遂げたことは、実にあっぱれで傑出した浮世離れの行いである。
解説
この中巻・第二縁は、「鳥の不貞」という極めて日常的かつ奇妙な観察から始まり、そこから人間社会の儚さを悟って出家へと至る、非常にドラマチックで文学性の高い説話です。
1. カラスの哀話に見る「無常」と「慈悲」
前半で描かれるカラスの物語は、どこか滑稽でありながらも痛烈な悲劇です。
浮気をして子供を捨てる妻カラスの冷酷さと、絶望しながらも雛を抱きかかえて餓死する夫カラスの献身的な愛。大領はこの鳥たちの姿に、欲望に流される生き物の浅ましさと、生とし生きるものが抱える逃れられない苦しみ(愛別離苦)を直視しました。身近な自然の出来事を「悟りのきっかけ(方便)」として捉え直す景戒の視点が実に見事です。
2. 歴史上の偉人・行基菩薩の人間味あふれる挽歌
本説話の最大のハイライトは、奈良時代の聖僧として名高い「行基」が直接登場し、先立った弟子(信厳)のために詠んだ和歌です。
「共に極楽へ行こうと約束したのに、なぜ先に逝ってしまうのか」という行基の嘆きには、聖者としての厳かさだけでなく、一人の人間としての深い慈愛と寂しさが溢れています。万葉仮名で書き残されたこの歌は、古代の僧侶たちの生々しい情愛を今に伝える貴重な資料でもあります。
3. 妻子が辿るそれぞれの「出家」と救い
夫に去られた妻と、死にゆく息子の「母乳」をめぐるやり取りもまた、強烈な切なさを醸し出しています。
息子の死という絶対的な悲しみを経て、妻もまた自らの意志で仏門に入り、善法を修めるようになります。夫の出家が「カラスの不貞(客観的な気づき)」から始まったのに対し、妻の出家は「わが子の死(主観的な苦しみ)」から始まっており、一族それぞれが異なる苦難を通じて救いへと導かれていく構成の対比が非常に美しい一編です。




