side.椿
エルメントラウトは臆病な少女だった。
にもかかわらず、強気そうにつった目とはねてまとまりにくい深紅の髪が周囲に誤解を与えた。お茶会などがあっても、人見知りゆえに緊張し目元に力が入り、それを同世代の令嬢たちは睨んでいると思って怯える。母親が友達ができるようにと何度かつれていってくれたお茶会は、毎回声をかけることもできずに終わった。
そうして落ち込んでいたときに、今度は父親が友人の家へ訪ねるのに一緒にこないかと誘われた。よくいくのは両親同士で親しいシュターデン家だ。あの家で歳が近い子供は男子しかいない。気分転換にするには向かないので、エルメントラウトは渋った。しかし、父親は別の家だという。
お花が綺麗なところだ、といわれ、エルメントラウトは父親についていくことにした。色んな花がみられるというなら、とても楽しみだ。
訪れた邸の庭は、父親の言葉を違えることなく見事であった。色とりどりの花が咲き、エルメントラウトは瞳を輝かせた。
心躍らせていたエルメントラウトは、玄関をくぐり、衝撃を受ける。父親が挨拶した相手の傍に、子供が二人いた。少し歳上にみえる少年と同じ歳と思われる少女。
また怯えられる。
エルメントラウトは咄嗟に逃げ出した。
笑って挨拶をすれば、少しは印象が変わるかもしれない。けれど、怯えられる恐怖に表情が強張り、笑えなどしなかった。
様々な花の咲く花壇を通り過ぎ、常緑樹とおぼしき低木の根本でうずくまる。臆病ゆえにうまく立ち回れない自分に、エルメントラウトは涙する。ぽたぽたと瞳から零れた雫が地面に落ち、木の根に吸われていく。滲む視界で、その様を眺めていた。
不意にがさっと音がして、音につられてエルメントラウトが見上げると、低木を見下ろすぐらいに背の高い男性がいた。作業着を着ていることから、庭作業をしていたのだろうと判る。
大きな相手に見下ろされて、エルメントラウトはびくりと怯えた。相手はそれに気付き、彼女と同じ目線の高さまで屈んで、膝を抱え込む。
「どうかした?」
やわらかく微笑まれ、優しい声音にエルメントラウトの怯えが和らぐ。しかし、即座に返事ができず、彼女は弱って一歩分後退る。すると、肩が低木に当たり、ぽとりと何かが落ちた。
「あ……」
白い花が足元に落ちていた。それも綺麗に咲いたまま。自分のせいだと、エルメントラウトは青褪める。
「大丈夫。こういう花だから」
「え」
「君のせいじゃなく、散りどきだっただけだよ」
散る運命にあった花だといわれ、エルメントラウトの罪悪感は除かれる。代わりに湧いたのは疑問だ。
落ちたばかりの白い花を掬い上げる。両手のなかの花は小ぶりで厚い花びらが丸みをおびて可愛らしい。
「まだこんなに綺麗なのに……」
「そうだな。落ちちゃうのもったいないよな」
咲きぶりを残したまま散るには惜しく感じるエルメントラウトに、目の前の男性も同意をしてくれた。彼は、作業手袋を外すと、その大きな手でそっとエルメントラウトの目元を拭った。
「君もそんな腫らしそうなほど泣いたら、可愛い顔がもったいない」
「かわ、いくないもん、怖いもん~っ」
これは大人の慰めで嘘だ。そんな訳がない、とエルメントラウトはさらに泣いた。そのため、相手の男性は狼狽えてしまう。
「えぇ!? なんで嘘だと思うんだ?」
「だって、だって……、あたしに睨まれたって、みんな離れちゃうもん。怖いあたしと誰も話してくれないの……」
母親が自分に友達ができるようにと、同世代の子供がいる家のお茶会に何度かつれていってくれた。なのに、言葉を交わすことすらできず距離をとられ、彼女の心は沈みきっている。もう、友人を得るなんて希望がもてずにいた。
正直な感想をそのまま受け取ってもらえず、男性は弱って頭を掻く。
「んー……、この家にも君と同じくらいの子がいるんだけど、その子もそうだった?」
「…………きっとそうだから、逃げてきたの」
怖かった。また怯えた眼差しを向けられるのが。
「じゃあ、まだそうと決まってないだろ?」
確かめていないならどちらか判らない。彼の言は正しいが、確かめる勇気すらないエルメントラウトは黙り込んでしまう。
その様子をみた男性は、指をさして横をみるように促す。エルメントラウトが隣をみると、手のなかにあるのと同じ白椿が、常緑のなかで咲いていた。
「お花、可愛いだろ」
こくり、とエルメントラウトは首を縦に振る。
「葉っぱも緑が綺麗だろ」
こくり、とまた頷く。常緑のなかだと花の白さが際立ち、花の白さと対称的な濃い緑の葉は艶やかだった。エルメントラウトは、その通りだと肯定するしかない。
「白椿は濃い色の中で咲くから、より可愛く見えるんだ。だから……」
男性は剪定鋏を取り出し、白椿を一輪とった。それをそのまま、エルメントラウトの髪に差す。
「君の綺麗な赤い髪で咲いてもとても可愛くなる」
よく似合うと微笑まれ、エルメントラウトは頬を染める。ようやく彼の言葉に偽りがないと信じれた。家族以外の男性に可愛いといわれたのは初めてだ。
「花が似合う女の子を怖がる人はあんまりいないと思うぞ」
言葉とともにもらった白椿は大丈夫だといわれているようで、エルメントラウトの胸にほんのりと勇気を灯す。
ふと、駆けてくる足音が近付いてきた。振り返ると、自分が逃げる原因となった少女だった。彼女は何も悪くないのに怯えて逃げてしまった。さぞ気を悪くさせてしまっただろうと、エルメントラウトが身構えると、少女は安堵いっぱいに笑った。
「よかった。お父さんといたんだね」
迷子になっていないか心配した、と少女はエルメントラウトを見つけられたことを喜ぶ。
「おとう、さん……?」
エルメントラウトは目を丸くする。彼女に心配されたこともそうだが、彼女が作業着の男性を自分の父だといった。男性の方へ向き直ると、同じ視線の高さのまま微笑まれた。彼の鳶色の髪も銅色の瞳も、そして笑い方も少女と同じだった。
家の庭は広いから子供は迷う恐れがある、と彼は娘の危惧を肯定する。少女が探しにきたことを褒めるように、彼は頭を撫でる。少女もそれをくすぐったそうに受け入れた。やりとりから他人の空似ではないと、エルメントラウトも理解した。
「あ。お花! さっきはつけてなかったよね?」
差した花のことを少女に気付かれ、エルメントラウトは何と返せばいいのか躊躇う。
「可愛いっ、綺麗な赤い髪にとっても似合ってる」
「え……」
エルメントラウトが言葉を探している間に、少女は表情を輝かせてそんなことをいう。思いがけない反応に呆けていると、言っただろうと隣の彼が微笑む。彼は知っていたのだ。自分の娘がエルメントラウトの思うような人間ではないと。
「リゼ、追いかけてきたのか」
「うん。だって、すごく怯えてたから、おばけでもみたのかなって」
見当違いな心配だったが、少女は自分の怯えに気付いていた。いつもは睨んでいると誤解されて、エルメントラウトの感情に気付く者などいなかったのに。彼女は恐がっていないから、ちゃんと自分の表情を読めたのだ。それにも驚いた。
じんわりと胸があたたかくなる。胸に満ちるのは嬉しさだ。初めて自分の心に気付いてもらえた。
「……おばけじゃないの。ただ、人見知りなだ、けで」
ようやく自分の事情が説明できた。これまでは聞いてもらうことすら叶わなかったから。
「私、リーゼルっていうの。あなたは?」
「えと……、エルメントラウト」
「エルちゃんって呼んでいい? 私もリゼでいいよ。こうして知ってること増えてけば、人見知りしなくなるよね」
名乗られ、困惑しながらも反射的にエルメントラウトが答えると、リーゼルはそんなことをいう。知らない相手に緊張するなら、知り合ってゆけばいい。リーゼルの考えは、エルメントラウトにとって優しい歩み寄りで、救われる思いがした。
「うん……、リゼちゃん」
差し出された手をエルメントラウトは握る。自分と同じ大きさの手に引かれて、邸へと戻る。彼女のことを少しずつ知って、緊張しなくなればいいと思った。
そして、白椿のおまじないをくれた人のことも知れたらいいな、とエルメントラウトは後ろを振り返る。
目が合うとただ微笑み返してくれる。
ほんのりと染まる頬は嬉しさだけであったのか。色付きが淡すぎて、エルメントラウトには判らなかった。
数年後、エルメントラウトは美しい令嬢へと成長した。
しかしながら、怯えるともとからきつい目元に力が入り、睨んだようにみえるクセは変わっていない。成長につれて胸元が豊かになり、泣き黒子と相俟って十代半ばにしては過分な色香が漂うようになった。純情な乙女であるのに、周囲からは気の強い近寄りがたい女だと誤解されている。同性には怯えられるし、異性の視線には不快なものも含まれ、なかにはなぜか踏んでほしいと頼んでくる者までいる。はっきりいって、恐い。
そんな状況のため、リーゼル以外の友人はいなかった。いや、近頃一人だけ増えた。
「あの、エル先輩から見て、リゼ先輩のお父様やハルトヴィヒ先輩のお父様ってどんな方ですか?」
「え……?」
王立魔導学園に通うようになり、学年があがった頃、リーゼルとのお茶会に参加者が追加された。それが、今しがた唐突な質問をしてきたユーディットだ。
彼女は、エルメントラウトの幼馴染の一人であるランプレヒトと友人になった特異な少女だ。だって、彼は令嬢たちが戯れる様を眺めたがる特殊な性質をもっている。幼い頃、自分の母と彼の母が親しげに話しているのを瞳を輝かせてみているのに気付いたときは、実に不可解だった。害はないが、エルメントラウトには一生理解できない相手だと思う。なのに、ユーディットはそんな変わった人物と親しくなったのだ。これまで友人らしい者がいなかった一つ下の幼馴染に、一人であろうと友人ができたのは快挙である。
そんなある種の偉業を成し遂げたユーディットの質問の意図が解らず、エルメントラウトは首を傾げる。お茶会の席に、まだリーゼルはきていない。お茶会のための東屋から最後の授業の教室が遠いので、遅れてくると事前に聞いていた。先ほどからそわそわと何かを訊きたそうにしていたが、彼女はリーゼルがくるまでにこれを訊きたかったらしい。
「イザークさんたちのこと? どうして……?」
「レヒト君に聞いたんです。お二人のお父様が、お二人によく似ていらっしゃり、親しくされていると! ということは、変換せずとも推しカプが……、っあ、その、どれぐらい似ているのか気になって!!」
ランプレヒトから聞いた話が気になったと、興味津々でユーディットは訊ねてくる。
「ハルトヴィヒ君のお父様はあまり知らないのだけど……」
リーゼルの幼馴染であるハルトヴィヒ。顔だけは綺麗だが、体格もしっかりしていて言葉にも飾り気がない。彼の口調は、エルメントラウトにはいささか乱暴に聴こえ、得意ではない。基本的に男性全般が苦手なエルメントラウトに気遣って、リーゼルは話題にあげても無理に幼馴染に会わせようとはしなかった。そのため、彼の父親ともエルメントラウトはろくに話したことはないのだ。
「でも、リゼ先輩のお父様はご存じなんですよね?」
「イザークさんは……」
エルメントラウトは思い出しながら自身の髪飾りに触れる。耳元の近くに白椿の髪飾りが咲いていた。あれ以来、エルメントラウトは白椿モチーフの髪飾りを付けるようになった。おまじないが解けないように。
万人に効果のあるおまじないではなかったが、リーゼルと親しい関係が続いているだけで、充分に効果があるといえる。
「そうね、顔だけじゃなく言動もよく似てるわ。初めて会ったときも、二人とも感想が同じで……ふふ」
出会った頃からリーゼルの笑顔は、彼女の父親と被った。笑い方も本当によく似ている。それを思い出すと、なんだか可笑しくなった。
ユーディットは、エルメントラウトのはにかんだ笑みに癒されながらも、自身の欲求は忘れなかった。
「詳しく!」
「背が高くて体格もしっかりされているんだけど、笑うとあどけなくて、威圧されるどころか和んでしまうの。子供に目線を合わせて話してくれるくらい、優しい素敵な人よ」
「エル先輩にそこまで言われるなんて、本当にいい人なんですね」
強気そうな外見に反してエルメントラウトが人見知りで男性が苦手なことはユーディットも知っている。男性の視線を集めやすい体つきをしているからといって、その視線を喜べるかは本人の価値観次第だ。きっと繊細な彼女からすれば容姿だけに着目されるというのは、内面を無視しているようで嫌なのだろう。そんな彼女が、友人の父親とはいえ男性を褒めるのは珍しい。ユーディットも話を聞く限りではあるが、表面だけで相手を判断しない人柄なのだろうと解った。
「奥様をとても大事にされていて、リゼちゃんのご両親はあたしの憧れなの」
羨望に瞳がきらめくエルメントラウトをみて、ユーディットはきゅっと唇に力をいれて押し黙った。自分がリーゼルとハルトヴィヒの父親を一目拝みたい理由は、その二人の親しい様子をみたいからに他ならない。自分もあんな風に愛し愛されたいと願う純情乙女を前に、別の意味で会うのが楽しみだとは口にできなかった。
「きっとエル先輩にも素敵な方が現れますよ」
「そう、だといいけれど……」
ユーディットが自身の願望の代わりに希望的観測を口にすると、先ほどまで憧れで輝いていたエルメントラウトの表情が曇った。外見でしか判断されない自分の内面を、理解して受け止めてくれる男性がいるのだろうか。
「いるに決まっているじゃないですかっ、こんなに綺麗で可愛いんですから!!」
ユーディットは拳に力をいれて断言する。同性だからこそユーディットは彼女の内面を知っているのだが、自分が男性だったらこんな内面を知ったらギャップ萌えで滾ること必至だと確信する。
エルメントラウト自身は期待すらもてない様子であったが、ユーディットは彼女の真価が解る相手がかならず現れるだろうと信じていた。
その後、やってきたリーゼルにユーディットが同意を求めるものだから、エルメントラウトは恥ずかしくなるほど両者に褒められるところからお茶会は始まったのだった。
ある日の昼休憩時、エルメントラウトは廊下で見知った顔とばったり会った。
「あ……」
「エル」
躊躇った声をあげるだけのエルメントラウトに対して、相手はよく通る声音で彼女の名前を口にした。何事もなくすれ違えれば、とエルメントラウトは思っていたが、視力のよい彼が知り合いを無視することなどあり得なかった。
「今から飯か?」
「アルトは、もう食べたの……?」
食堂へ向かうエルメントラウトと違い、アルトゥルは食堂の方からやってきた。アルトゥルは、一つ歳上の幼馴染だ。ランプレヒトの兄でもある。紺碧の髪はいつでもクセがなく、毎朝ハネる髪と格闘しているエルメントラウトには羨ましい限りだ。
会話をしながらも、エルメントラウトは及び腰だった。彼女は昔から彼が苦手なのだ。
「ああ」
「相変わらず早いのね。よく噛んで食べてるの……?」
「お前こそ、今から食って次の授業間に合うのか。おっそいだろ、食うの」
事実を指摘され、エルメントラウトは言葉に詰まる。彼女の一口は小さく、味わって食べるためとてもゆっくりなのだ。先ほどの授業で、魔法陣の式構成で気になるところがあったので、授業が終わってすぐ少し振り返りをしていた。そのため、食堂にくるのが遅れたのだ。
「す……少しにするから、大丈夫だもん」
自身の食事速度から逆算して、サラダだけにしようとエルメントラウトは昼食のメニューを決める。すると、それを見透かしたようにアルトゥルが呆れた。
「野菜だけで後半もつのかよ。そのデカい胸も減るぞ」
「っへ、減っていいもん……!」
百七十以上あるエルメントラウトと、それに少し及ばないアルトゥルが向き合うと、彼が少し視線をさげただけで彼女の気にしている箇所が目に入る。エルメントラウトは咄嗟に、両腕で胸元を隠す。それでもすべてを隠しきれないだけの体積があったが。
指摘された恥ずかしさで頬を染めるエルメントラウトに、アルトゥルはさらに追い討ちをかける。
「お前、また胸デカくなってねぇ?」
彼女が隠そうとしているというのに、じっとみて思ったままを述べるアルトゥル。ちょうど今朝、侍女と下着を新調しなければと話していたところだったエルメントラウトは、気付かれた恥ずかしさに瞳を潤ませる。これだから、アルトゥルが苦手なのだ。彼は、エルメントラウトが苦手とする男性の象徴のようなものだった。男性に着目されたくないところばかりに気付くし、いってくる。そのうえ、自分より身長が低いものだから彼と並ぶと自分の可愛げのなさが浮き彫りになるのだ。
「~~っみ、見ないで!!」
「そんなデカけりゃ、どうしたって見えるもんだろ」
視界に入るのだからどうしようもない、とアルトゥルは断ずる。その箇所だけ見ないようにというのは、体積がある分難しい。
彼の言い分も解らなくはないが、だからといってまっすぐに視線を向けたり、思ったままを口にのせないでほしい。アルトゥルは、他の男性なら多少なりとも隠すことを隠さない。エルメントラウトは、彼の歯に衣着せぬ物言いが苦手だった。
アルトゥルがこれ以上口走らないようにしたくとも、どう対抗すればよいのかエルメントラウトは思いつかない。何か言い返そうと模索しているうちに、彼の方が話を打ち切った。
「お前、体力ないんだから、飯抜くなよ」
すでに復習で減った食事の時間がこれ以上減らないよう、あっさりとアルトゥルは去ってゆく。身体を鍛えることが常の彼からすれば、食事を摂らないというのはあり得ないことなのだろう。声こそかけはしたが、時間をとるほど引き留めることはなかった。
それが、言いたいことを言うだけいって去っていったように思えて、エルメントラウトは悔しくなる。会うたび彼は無神経だ。少しも歳上らしくない。
食堂についたエルメントラウトは、野菜だけのサラダにするつもりだったが生ハムを添えたものに変更した。アルトゥルに指摘されて、後半の授業にちゃんと臨めるように、少しとはいえ肉類も摂る必要を感じたからだ。
しっかりとサラダを咀嚼しながら、憤りのままに過去の出来事まで引き合いにだす。
両親同士が知り合いで、幼い頃からシュターデン兄弟とはよく会っていた。身体を動かすことが好きなアルトゥルは、知的好奇心旺盛なエルメントラウトの弟をつれて外に遊びにいき、エルメントラウトは屋内で過ごすことを好んでいたため彼の弟のランプレヒトと読書をすることなどが多かった。最初は外にも誘われたが、エルメントラウトはすぐに疲れてしまい、彼に一緒に遊んでもつまらないと断じられた。エルメントラウトが、彼に付き合いきれないと判断したのも同時だった。
その後、まったく関わらないでいられたかというと、そうでもなく。虫取りから帰ってきた彼に、ナースホルンケーファーという角を持つ甲虫を捕まえたとみせられ、向けられたのが六本の足が蠢く腹部だったため、エルメントラウトは怖気が走り、悲鳴をあげた。あるときは、稽古で額を切り、頭から血塗れでアルトゥルが邸に戻ってきたものだから、怪談さながらの光景に恐怖で泣いた。成長したらしたで、先ほどのような言動をとってくる。
幼い頃からずっと苦手だというのに、彼を避けきれない。アルトゥルの方が避けるつもりがないから、なるべく会わないようにしていても、偶然があれば声をかけられるのだ。
まともに会話できた試しがないのだから、いい加減無視してくれてもいいのに、とエルメントラウトは不満をもつ。しかし、彼が知り合いをいないものとして扱うような薄情な人間ではないと解っていた。
たまにしか会わない一つ上の幼馴染。彼のそう大きくはない瞳が向くたび、苦手意識が強くなる。他人からの視線から逃れるために、逸らし俯くエルメントラウトと違って、彼の逸らさない視線が強すぎて、いつも痛かった。
アルトゥルの方にこちらへの苦手意識などないと知っている。自分の一方的なものだと、エルメントラウトは理解していた。だからこそ、余計に劣等感を感じてしまうのだが。
勝手な劣等感を拭うためにも、受けた忠告を蔑ろににせず、昼食を摂るのだった。
昼休憩が終わるまでに、エルメントラウトは完食した。
夏期休暇に入る前に、競技大会がある。
一学期の期末試験が終わった解放感もあり、生徒の大半はその話題で持ち切りであった。エルメントラウトは誰かが怪我をするところをみるのは好かない。というより、恐い。なので、この時期の空気は苦手であった。
しかし、そんな競技大会に瞳を輝かせる者が近くに一人いた。友人になったばかりのユーディットだ。
「エル先輩は競技大会を観戦なさらないんですか?」
ランプレヒトへ贈り物をしたいと彼女から相談され、買い物に付き合った帰路のことだった。女子寮につくまでの馬車の中で、すぐにある行事が話題にあがった。楽しみだという彼女は、リーゼルが観戦しないときき、今度は矛先がエルメントラウトに向いた。
エルメントラウトは期待に応えることができず、眉を下げる。
「あ……、あたしは、戦闘や狩猟の類いが苦手で……、血がでるでしょう……?」
「そうでしたか。殿方の鍛えられた筋肉は、頼もしく、素敵だと思うのですが……」
無理強いをするつもりのないユーディットは、筋肉鑑賞の良さに共感を得られなかった点にのみ意気消沈した。彼女のいう素敵が解らず、エルメントラウトは弱る。
「そんなにいいものでないけれど……」
「えっ、エル先輩は殿方の筋肉を見たことがあるのですか!?」
「エルちゃん、よくシュターデン家に行くもんね」
エルメントラウトの感想が経験からくるものだったため、彼女が一体いつ鍛えた男性を目にする機会があるのかユーディットは食いついた。
「なるほど、レヒト君の家は騎士の多い家系ですもんね。いいなぁ」
「あたしは、それ見たさに行っている訳じゃ……、お母様がコルネリア様と親しくて、それに弟が魔術実験をするのに場所を借りることがあるだけで……」
ユーディットに羨まれてしまったので、断じてそんなはしたない理由で訪問している訳ではないとエルメントラウトは弁明する。昔から母親同士のお茶会についていくことがある。シュターデン家に嫁いできたコルネリアは読書家で、彼女の所有する本を読めるのは、彼女には嬉しいことだった。
エルメントラウトも魔力量が多い方だが、彼女より弟の方が多く、彼は意欲的に魔術を試したがる。まだ若いためか現在関心があるのは戦闘に役立つ攻撃系、防御系の魔法陣についてだ。そのため、訓練にちょうどよいとアルトゥルがその実験によく付き合ってくれる。演習場などを敷地内に設けていることもあり、場所としても、弟が覚えた、ないし作った魔法陣を試すにはうってつけであった。
弟は、母親に似た甘やかな顔立ちをしているが、魔法に対する好奇心の強さは父親似だ。見た目と性格、似ている部分がエルメントラウトとは真逆だった。
そんな事情により、筋肉といわれて一番に浮かぶのがアルトゥルの姿だ。訓練で戻ったときもそうだが、弟の実験内容によっては彼の服が焦げたり破れて邸に戻ってくるのだ。戻ってくる弟はいつも実験結果を得れて満足そうだし、アルトゥルはあっけらかんとしている。その様だから、仔細を訊く気にもならないが、一体どんな実験をしているのかと思ってしまう。
見知ったアルトゥルの筋肉を思い出すと、ユーディットがいうほど良いものとは感じない。自分より背が低いのに、筋肉量があるものだから首も太ければ、腕や筋肉も分厚い。胸囲だけでいえば、この場にいるユーディットやリーゼルより勝るだろう。そこまで筋肉があると、頼もしく感じる以前に、敵いようもない気配に圧倒される。
ユーディットにみた感想を期待されて想像してしまったが、エルメントラウトははた、と気付き、浮かんだ彼の姿を打ち消す。年頃の令嬢が、男性の肉体を想像するなんてはしたない。それが容易にできてしまったのがアルトゥルのせいだと、羞恥が湧き上がる分だけ内心で八つ当たりするエルメントラウトだった。
そんな八つ当たりした相手と顔を合わせたのは、競技大会の最終日だった。
競技大会の最終日は終業日でもあった。最終日の朝に各教室で担任から休暇時の諸注意の説明があり、決勝戦の結果が出次第表彰されて解散となる。以前は競技大会の後日に終業日を設定していたのだが、それだと期末試験と競技大会の準備期間がほとんど被ってしまうので、ずらすこととなったらしい。試験直後より準備に猶予があるため、競技大会に参加する生徒側も、現行運用の方がいいのだ。
大半の生徒が観戦に向かうなか、エルメントラウトは図書館近くの東屋で刺繍をしていた。読書も好きだが、母から教わった刺繍も彼女の趣味のひとつだった。普通の令嬢なら、競技大会開始までに刺繍を仕上げたハンカチやスカーフを応援したい異性に贈ったりするものだが、彼女には無縁の慣わしだった。エルメントラウトが贈る異性といえば、父や弟しかいないが、とても喜んでくれる。家族が芸術を解する人間でよかった。
試合の喧噪はこの東屋に届かない。音で脅かされることのない空間で、エルメントラウトは鮮やかな糸を縫い付けることに熱中していた。どれぐらい熱中していたかというと、手元が暗くなったことで時間の経過に気付くほどだった。
「もうこんな時間……!?」
東屋の柱の影が手元に落ちたことで顔をあげると、空の大半が橙へと染まっていた。さすがに競技大会も終わっていることだろう。エルメントラウトが慌てて腰をあげると、木々の間に人影をみた。橙に染まるなかでは黒髪にもみえるが、木々の奥に消えたのはよく知る紺碧だった。
エルメントラウトは刺繍類を籠に直し、人影の消えた木々へと踏み入る。どうして彼がこんなところにいるのかと不思議に思ったのだ。ほどなくしてその姿をみつける。
「やー、本当、さすが先輩ですねー」
「もう少し骨があると思ったんだがな」
「またまたー、そんなこと言ってぇー」
追った人影は、エルメントラウトが思った通りアルトゥルだった。ただ想定外だったのは、彼ともう一人いたことだ。
思わず後を追っただけのエルメントラウトは、話し声を耳にして足を止める。アルトゥルの背よりも低い、小柄な女生徒が笑顔で話している。無骨で愛想があるとはいいづらい彼相手に、笑いかけることができる令嬢がいたのかと、意外だった。競技大会直後に会うということは、それなりに親しい関係なのだろうと思えた。
邪魔をしてしまうのでは、と考えると、言葉が出ない。思ってもみなかった光景に、その場に足が縫い留められる。
身長差がちょうどよく似合いの二人にみえる。自分の背が高いだけで、彼より背の低い令嬢はいくらでもいるのだと今さらながら思い至った。これまで、彼が鍛えてばかりだったものだから、女性関係のことなど微塵も考慮したことがなかった。しかしながら、彼もとっくに年頃の男性なのだ。卒業年だし、これまでは湧かなかった縁談もさすがに卒業すればでてくることだろう。未来の騎士団を牽引する存在であることは、学園生活で証明済だ。
考えてみると当然のことだというのに、エルメントラウトは目に映る光景に驚いていた。自分でも、どうしてこんなにびっくりしているのか解らない。
「これからも頼……、エル?」
声をかけることすら躊躇われていたのに、気配に敏いアルトゥルの方から気付き、こちらに振り向いた。エルメントラウトはびくんと硬直する。
「あ……、ご、ごめん、なさい……お邪魔を……」
しどろもどろに謝罪を口にするエルメントラウトに、アルトゥルは与えた誤解に勘付く。
「こんな格好してるが、こいつ男だぞ」
「…………え?」
視覚情報と逆の情報を追加され、エルメントラウトは困惑する。
「お初にお目にかかりますー。僕、一年のパスカル・フォン・ダマーですー。エルメントラウト先輩」
にこにこと笑みの絶えない後輩の声音は、よく聴くと少年のそれだった。しかし、男性でも女性でもどちらともとれる顔立ちで小柄なため、女性用の制服を着ていると女性にみえる。あえてなのか丈が余る多少大きめの制服を身に着けているため、余計に小柄に映るのだ。
「ど……、どうして、女装しているの……??」
「へへー、多く情報集められるんで、ときどき着てるんですー」
女性と思われることで得られる情報もあるからだ、とパスカルはさらりと述べる。そんなことで女装をする者がいるとはエルメントラウトは思わなかった。どうやら彼は女装が通じる体格であるうちは、今後も継続するつもりらしい。
「訓練の相手ができそうな鍛え甲斐のある生徒を、こいつに調べてもらってんだ」
「ああ……、どうせ今年も優勝したんでしょう」
アルトゥルが折りたたまれた紙を手に、説明する。諜報に長けた家であるダマー家のパスカルに、実戦形式訓練の際の相手になる候補を調べてもらっていたらしい。エルメントラウトは納得する。彼は、学生のなかでは強すぎるのだ。観戦せずとも優勝したとエルメントラウトが確信できるほどに。否定しないところをみると、確信通りの結果なのだろう。
これで三年連続競技大会に優勝したのだ。圧倒的な強さを見せつけられて、今後の訓練相手に名乗り出る度胸のある者は少ないだろう。彼自ら、今後の訓練相手を見繕うのは、必要性があってのことだった。
「まー、そういうことにしておきましょー」
含みのある物言いでパスカルはにこにこと笑う。貼り付けたようにずっと笑っているパスカルだが、少しばかり可笑しげに映った。
エルメントラウトが、後輩の様子に小首を傾げるも、彼は今後ともご贔屓に、と用が済んだら去ってしまった。そうしてアルトゥルと二人残される。彼の方を窺うと、表彰式を受けたのだろう、珍しくブレザーを着ており、胸元に優勝者に与えられる勲章が下げられていた。普段は動きやすいようシャツしか上に着ていないので、長い付き合いのエルメントラウトでもなかなかみない姿だった。
そうか、競技大会にいくとこの珍しい姿がみれたのか。こんな稀な姿がみれるのであれば、表彰式の時間だけいってもよかったかもしれないとエルメントラウトは思った。
特段目立つ顔立ちじゃない彼も、正装姿はそれなりに様になるのだと知った。
「なんだ」
「……っな、何も!!」
視線の理由を問われ、ようやくまじまじとみすぎてしまったことに気付き、エルメントラウトは慌てて顔ごと視線を逸らす。
不意にぽつり、と頬に雫が当たった。その小さな衝撃に反応して見上げた瞬間、ざぁっと雨が降り注ぎはじめる。突然の通り雨だった。
このまま濡れ続ける訳にもゆかないので、雨を凌げる場所を探す。木々があるとはいえ、雨宿りには心もとなく、エルメントラウトは虫があまり得意ではないため木の下は遠慮したい。そこでエルメントラウトは、先ほどまでいた東屋の存在を思い出す。
「東屋に……っ」
エルメントラウトが指す方向に従い、アルトゥルは駆けようとしたが、彼女の足が自分より格段に遅いことに気付き、移動方法を変えた。
「行くぞ」
「きゃっ」
彼女の速度に合わせるより、彼女を抱えて自分が走った方が早いと断じたアルトゥルはいとも簡単にエルメントラウトを横抱きにした。エルメントラウトのあげた小さな悲鳴にも構わず、颯爽と東屋に駆けて、すぐに屋根の下にたどり着いた。
「待ってたら止むだろ」
少し向こうの空が明るいこととカーテンのような雨の勢いをみて、雲が過ぎれば止むとアルトゥルは判断する。軽々と彼に抱えられたエルメントラウトは、咄嗟のことに反応できずにいる。騎士の家系のためかアルトゥルの緊急時の判断には迷いがなかった。
自分の方が身丈があるというのに、抱える腕は力強く安定感がある。確かにこれは頼もしいといえるものかもしれないと、こんなときだがユーディットの価値観に理解を示した。若干、現実逃避な思考であったことは否めない。
「お前、相変わらず刺繍うめぇな」
「え……?」
そのため、状況に気付くのが遅れた。なぜ突然、アルトゥルに刺繍の腕を褒められたのか。先ほどまで刺繍をしていたものは籠に仕舞ったままだ。だから、彼が刺繍を褒めることはできないはずだ。しかし、彼は何かしらをみてエルメントラウトの作だと判断した。
一体何をみて、とエルメントラウトは彼の視線を追う。
彼がどこをみて褒めたのかに気付いて、エルメントラウトは瞠目した。
「ひゃあぁぁっ!!」
雨に濡れたせいで制服のブラウスが透け、胸元の下着に咲く花が浮き彫りなっていた。羞恥に顔を赤らめ、エルメントラウトは胸元を慌てて隠す。彼の指摘通り、確かにそこにあった刺繍はエルメントラウト自身の作だった。
胸が大きくなり始めた頃、サイズに合ったものを必要な数用意するにはデザインにまで拘ることができなかった。胸元を覆う箇所以外は共通のため、そちらにはレースなどはあったが安定性を優先しているため、一番視界に入る部分はシンプルなものだった。母も同様の悩みを抱えていたため、その部分に宛がう刺繍を縫ってくれたのだ。それが嬉しくて、自分でも胸元を飾る刺繍をするようになった。誰もみない箇所なので、自分の好きな可愛らしい花を咲かせるのも自由なのがよかった。だから、今日の下着も大変可愛らしい小花を散らしたものだった。
みられるはずがなかったものに対して評価を受け、エルメントラウトは喜んだり礼をいえる心境ではなかった。
降ろしてほしいと身じろぐと、そっと石床に足がつくよう降ろされる。即座に距離をとり、背を向ける彼女に対して、アルトゥルはブレザーを脱ぎ、それを絞りだす。厚い布地で水気を落としづらいはずだが、彼の力だとある程度絞れてしまった。妙に皺のついたそのブレザーを羞恥に震えるエルメントラウトにかけた。
「使え」
自分の腕では隠すのも心許ないので、エルメントラウトは素直にブレザーを肩にかけ、胸元できゅっと前を閉じる。ブレザーを借りたことで、彼の方が肩幅が広いのだと知る。
潤む瞳は雨のせいじゃなく、羞恥と憤りによるものだ。普段はそんなつもりもなく睨んでいると誤解されるエルメントラウトだが、今回ばかりはその意思をもってアルトゥルを睨んだ。
「ど……、どうして、そういうこと言うの……!?」
「何が」
エルメントラウトとしては責めているつもりだったが、ぼかした表現ではアルトゥルには通じなかった。改善してほしい彼女は、恥を忍んでより具体的に指摘する。
「む、胸とか……身体のこと、わざわざ言わなくてもいいじゃない……! 普通、見ないようにしたり、さ……さりげなく気遣うものでしょう……!?」
「気遣おうが、男は見えたもんは見てるぞ」
「そんな身体目当てみたいな……っ」
「身体も目当てで何が悪い」
アルトゥルの悪びれない発言が、エルメントラウトには開き直りにしか聞こえなかった。絶句して、戦慄く。彼に対しては警戒心しかない。
彼は騎士を目指しているのではないのか。なのに、全然紳士的じゃない。少なくともそんな態度をエルメントラウトはとられたことがない。彼女の思う普通の対応は、恋物語に登場する男性を参考にしたものであったが、女性に対する気遣いの方向性はあながち間違いではない。多少理想値が高いだけで。
「イザークさんなら、もっと優しくしてくれるのに……!」
不満をぶつけるためにでた咄嗟の例示が、エルメントラウトの本音だった。幼馴染であるアルトゥルたち、シュターデン兄弟を除いた異性のなかで、彼女の理想とする男性像はリーゼルの父親だ。成長してからも目を見て話してくれる穏やかな人柄の彼を慕っていた。
彼女の掲げる理想に、アルトゥルは呆れる。
「子供のダチを女として見る訳ないだろ」
アルトゥルからすれば、異性としてみていないだけのことだ。要望されたとて、そんな態度をとれるはずもない。彼女が物語の王子だ騎士だに憧れる傾向があるとは感じていたが、安全圏の男を理想としているなら、その幻想はいい加減壊しておいた方がいい。
にべもない言葉に閉口するエルメントラウトに近付き、アルトゥルはその眼前まで迫る。そして、とんと彼女の身体を指差した。
「いいか。どうせ食われるんだ。お前は、食われたい男を選べ」
彼女のもって生まれた身体をすげ替えることなど不可能だし、男女のいきつく先は変わらない。ならば、望む相手とその結果を迎えるようにアルトゥルは厳命する。
視線を逸らさずいわれ、その視線から逃れられずエルメントラウトははく、と空気を食む。
ぽたりぽたりとまっすぐな紺碧の髪から雫が落ちる。雫とともに視線を下ろすと、彼も濡れており、ブレザーで庇いきれなかったシャツの胸元が同様に透けていた。うっすらとみえる胸板を視界に入れていること自体はしたなく思えて、頬に差した朱が増した。彼の上半身など見慣れているはずなのに、今さら恥ずかしくなるのは奇怪しい。そう思うのに、今はみてはいけないものように感じるのだ。
雨のカーテンに閉じ込められて、このままだと息が詰まるのではないかとエルメントラウトは錯覚する。彼女がそんな危機感に襲われた頃、空が晴れた。
十数分あったかどうかの時間のはずだったが、エルメントラウトには異様に長く感じた時間だった。
「さっさと帰るぞ」
「きゃ……っ」
濡れたままでは風邪をひくと、アルトゥルは混乱の最中にある彼女を持ち上げ、歩き出す。またもや横抱きにされてしまったエルメントラウトは、さすがに抵抗をみせた。
「ど、どうしてまた……!?」
「足場が悪い」
雨で地面が濡れているための配慮だと、端的に返される。しかし、エルメントラウトは素直に身を預ける気にならない。先ほどの話しぶりからすると、自分は彼の異性の範疇にあるということだ。彼に力で抵抗できるはずもないから、密着している状況は安心できなかった。
「食われたいのは俺じゃないのは知ってる」
進行方向を向いたまま、アルトゥルは告げる。
「……っそ!?」
そんなことは、と反射的に否定しかけ、エルメントラウトは言葉を詰まらせる。否定しなくてもいいことだ。だが、首を縦に振って肯定もできず、戸惑う。
エルメントラウトが何もいえずにいると、アルトゥルはそれ以上何もいってこなかった。濡れた足元では泥が跳ねてスカートが汚れるかもしれないし、滑って転ぶ可能性もある。エルメントラウトが逆算しても、自分で馬車まで歩くより彼に抱えられたまま運ばれる方が速かった。早く着替えるためにも、抵抗しない方が効率がよいと判断できた。
そうして残るのは、危機感ではなく気まずさだった。
安心できないからこそ心臓が騒ぐというのに、彼の腕のなかはとても安定していた。
夏期休暇に入り、エルメントラウトはレッケブッシュ侯爵邸へ一時帰宅していた。
父が研究中の案件が結果がでるまであと少しとのことで、結果が出次第レッケブッシュ領へ避暑に向かう予定だ。すぐとはいっても実験結果の報告も必要なので最低でも一週間はかかることだろう。その方がエルメントラウトも移動ばかりで疲れなくて済む。
刺繍の続きでもと針を手にとるが、通り雨での出来事が思い出されて、中断するしかなかった。
「姉さん」
「メル」
一人で狼狽えていたところに、弟のメルヒオールから声がかかる。家族の顔に安堵し、エルメントラウトは微笑む。
「どうしたの?」
「アルト兄さんのところに行くから、姉さんもどうかなって」
必死に頭から消そうとしていた人物の名をあげられ、エルメントラウトの心臓が跳ねた。弟は単にシュターデン家に用があるなら、と誘っただけのことだ。メルヒオールがアルトゥルに会うからといって、自分まで顔を合わせる必要はない。
「い……、いいっ」
「え。いいの?」
いつもなら誘いに頷く姉なのに、とメルヒオールは首を傾げる。
「ええ。コルネリア様から借りた本を読み終わっていないから……」
メルヒオールがアルトゥルと会っている間、エルメントラウトは基本的にシュターデン邸の読書室で本を読んでいる。読書室に所蔵された本の大半は、アルトゥルたちの母であるコルネリアのものだ。メルヒオールの記憶では、借りている状態でも訪ねることはあったはずだが、姉がそうしたいのならと頷いた。
出かける支度をする弟に、エルメントラウトは忠告する。
「メル、そろそろアルトの呼び方を改めないと誤解されるわよ」
「大丈夫だよ。公私は分けてるから」
幼い頃から家族ぐるみの付き合いのため、メルヒオールはアルトゥルを兄と呼ぶ。幼少期を思い返すと実の弟のランプレヒトより、ともに遊んでいた。二人が遊んでいる間、ランプレヒトと同じ空間にいたのはエルメントラウトの方だ。しかし、読書は一人でするもので、一緒に読んだのは読みたい本が被ったときだけ。二人ほど遊んだとはいいがたい。
来年度になれば、弟も魔導学園に入学する。そのときにうっかり呼びやしないかと、エルメントラウトは心配した。けれど、弟はきちんと弁えていると返す。
「まったく、危ない魔法ばかり興味もって……怪我しないでね」
「姉さん、僕が興味だけで戦闘系の魔法を習得していると思ってるの?」
人が心配しているのに、と嘆息を零すと、弟からはそんな感想が零れた。エルメントラウトが不思議がると、メルヒオールはすべての分野に関心があるから優先順位の高いものから覚えているだけだと答えた。
「どうして第一優先が戦闘系なの……?」
「だって、アルト兄さんが卒業したら、僕が牽制しないといけないだろう?」
「なんでアルト??」
メルヒオールは当然のようにいうが、エルメントラウトには習得する第一優先が戦闘系な理由もアルトゥルの卒業が基準となっていることも疑問でしかなかった。説明になっていないと感じるのに、弟は説明できた気になっている。
姉との齟齬に気付いたメルヒオールは、目を丸くする。
「……まさか、アルト兄さん言ってないの? ああ。アルト兄さんなら言わないか」
意外そうだったのに、呟いてから一人で納得する。そんな弟に、エルメントラウトは不満を訴える。
「もう、なんなの?」
姉にじっと見つめられ、多少思案したもののメルヒオールは口を開いた。
「まぁ、口止めされてないし……、姉さん、最近は怖い目に遭ったって愚痴らなくなっただろう」
「え? ええ、そうね」
いわれてみれば、とエルメントラウトは頷く。
入学してしばらくの頃は、露骨に身体をみる視線を浴びたり、被虐願望の告白をされたり男性恐怖症が悪化するばかりだった。だから、弟との文通でも嫌なことと良いことのどちらも書いていたし、昨年の夏期休暇で帰った際は直接感じた恐怖を聞いてもらったのだ。しかし、一年の二学期以降から徐々にそういったことは減り、今では随分マシになった。
「僕、姉さんが嫌な思いしたことをアルト兄さんに報告してたんだよね」
「どうして……!?」
さらりと明かされた事実に、エルメントラウトは驚愕する。自分の情報を共有するために、二人が文通をしていたなんて知らなかった。
「対処できる人に頼むのが適切じゃないか」
メルヒオールにとっては当然のことだった。姉が困っていると知っても、学園にいない自分では対処しようがない。ならば、対処できる人物に情報を渡せばいいのだ。発生した問題を放置する、という考えはメルヒオールになかった。
やわらかい亜麻色の髪に厚い唇で、弟の顔立ちは甘やかだというのに、真面目すぎて彼の決断には甘さがない。そういえば、自分が身体が女性らしくなりすぎたことに悩み始めたのと、弟が戦闘系の魔法陣に興味をもち始めたのは、ほぼ同時期だった。そんな前から心配してくれていたとは、驚きだ。
「で、でも、勝手に話すなんて……っ」
「姉さんが言わないから、僕が言うんだよ」
姉自身が問題解決に臨もうとするのなら、自分は口出ししないとメルヒオールは主張する。そういわれると、エルメントラウトは返す言葉がない。身内に弱音を吐くので精一杯なのだから。
弟曰く、手紙で状況報告をすると、アルトゥルからはわかった、とだけ書かれた端的な返事だけが毎回返るのだという。どういった対処をとっているかまでは、メルヒオールも知らないらしい。騎士団長の息子だと入学以前から注目され、親の七光りではないと実力で証明し続けるアルトゥルだ。彼がなにかすればある程度噂となる。というのに、エルメントラウトは自分絡みで彼の噂を聞いたことなどない。実際に被害は軽減しているが、どのような解決策を講じているのかは彼女にも予想がつかなかった。
手段は不明だが、知らず知らずのうちにアルトゥルの世話になっていたらしい。
「変なところで面倒見いいんだから」
「姉さんのは、ちょっと違うと思うけど」
たまにみせる兄貴肌だと断じたエルメントラウトに対して、メルヒオールは微妙な表情を浮かべる。
アルトゥルに面倒見のよいところがあるのは、自分も知っている。彼は長男らしい頼もしさで異性より同性に慕われやすい性質だ。しかしながら、自分を弟分として構うのと、異性である姉を構うのは勝手が違う。その点を明確に問い質したことはないため、メルヒオールは自分から否定しきるのは控えておいた。確証のないことは推察でとどめるに限る。
身支度を終えた弟を見送り、エルメントラウトは手持ち無沙汰になる。思い出したくないことを思い出してしまうため、今は刺繍を再開する気にはならない。
弟にいった通り、借りた本の残りを読むことにする。それはそれで、次に断る理由がなくなることが憂鬱になるエルメントラウトだった。
きっと自分だけが反応に困るのだ。彼はいつだって泰然としていて悔しく思うのに、反撃手段などまるで浮かばない。筋力以外でも敵うことがない事実に、思わず嘆息が零れた。
二学期を迎えても、アルトゥルに対する苦手意識は変わらずにいた。
夏期休暇中、借りた本を返すためにシュターデン家を訪問したが、彼と遭遇しても風邪をひかなかったか確認されただけで終わった。そんな態度をとられれば、一人で動揺していたのが馬鹿々々しくなる。
いつも通り過ごすのが一番だと、親友のリーゼルと後輩のユーディットと穏やかな昼下がりにお茶会をする。紅葉の気配を感じながら二人と話していると、とても和んだ。
「あっ、そういえば、私、レヒト君のお兄さんに会っちゃいました!」
ユーディットはよい報告をしたつもりであったが、エルメントラウトはこの場で聞くと思わなかった名前に、ティーカップを持ち上げる手が止まった。
「間近で拝見させていただくと、アルト先輩の筋肉は素晴らしいですね! シャツの上からでも、筋肉の厚みが分かるというか!」
「そうなんだ。魔法使わないで三年連続優勝するぐらいだもんね」
興奮したユーディットの熱弁を聞き、リーゼルは感心する。彼女は、幼馴染のハルトヴィヒが喧噪の離れた場所で昼寝をするというから、競技大会の間はそれに付き合っていた。そのため、競技大会の結果を情報としてしか知らない。しかし、ユーディットからことごとく瞬殺だったと聞けば、さすがに優勝者の実力も判ろうというものだ。
凄いね、と感想を伝えるリーゼルに、エルメントラウトは曖昧に頷く。
女性がアルトゥルを褒めるところを初めてみた。それが少なからず衝撃だった。女装していたパスカルとアルトゥルが並んだ姿を目にしたとき以上に動揺する。
「それに、私が演習場で見学していたことも覚えていてくださっていて、視力のよさにも感服です」
アルトゥルが女性を気にかけることがあるのも初耳だった。ときどき会って、少し話すだけの自分が知らなくて当たり前だ。顔を合わせたのが昔なだけで、元々彼のことをよく知らないということに今さら気付く。
ユーディットは小柄で表情豊かな可愛らしい少女だ。アルトゥルに対しても好意的にみえる。彼の女性の好みなんて知らないが、自分より小さい女の子に慕われればきっと悪い気はしないことだろう。彼女でなくとも、いつか彼を好ましく思う女性が現れて、その女性と並び立つのだろう。
「ユディちゃんは、アルトみたいな男性が好み、なの……?」
「好み、ですか?」
恐る恐る訊ねると、ユーディットは明快に答えた。
「私の推し……、いえ、理想の男性は”脈石の騎士”のエンディミオン様です!」
「そう……」
物語の登場人物とはいえアルトゥルとは真逆の耽美な男性像を聞き、エルメントラウトはほっと安堵する。そして、胸を撫で下ろしてから、なぜ安堵したのか首を傾げる。
「そういうエル先輩の好み男性はどういう方ですか?」
ユーディットに訊き返され、男性という単語に一瞬アルトゥルを連想する。しかし、好みの話だと頭を横に振って、それを追い払った。
「えっと……、優しくて、できればあたしより背が高い人だと嬉しいわ……」
漠然とした理想の男性像はぼんやりとしか浮かばない。恋物語をたくさん読んできたのに、そのなかの誰かをあげることもできなかった。さきほどはすぐさまアルトゥルが浮かんだというのに。
「背が高くないと駄目なんですか?」
「だって、自分より背が高い女なんて可愛くないでしょ……?」
「私、エル先輩より低いですが、エル先輩はとっても可愛いと思います!!」
背が高い自分が可愛いと思われたいなんて、無茶な願いかもしれないと苦笑すると、ユーディットが全力で否を唱えた。自分より背の高い相手だろうと可愛く感じることがあると、自身で証明する後輩が可愛い。感謝を込めて微笑むと、ユーディットもくすぐったそうに笑い返してくれた。
「リゼ先輩はどうですか?」
「好み? ないかな」
「ない、んですか?」
興味津々で訊いたユーディットは意外さに目を丸くする。てっきり彼女の幼馴染であるハルトヴィヒのような人物像を口にすると思っていた。
「だって、きっと好きになったらその人を見るから、理想とか関係なくなると思う」
好みに合わないから、苦手なところがあるから、で除外するのはもったいないとリーゼルは感じる。父は、自分が母の好みから外れていると思っていたから、母からの想いに気付くのが随分遅くなったと反省していた。だから、自分や兄にはちゃんと相手をみたうえで判断した方がいいと助言してくれた。リーゼルもそうありたいと思う。だから、眩い髪のハルトヴィヒとも親しくなれたのだ。眩しくて苦手だから、で避けていたら、今の関係はなかっただろう。
「ハルと仲良くなれてよかったから、これからも理想はないの」
「素敵です……!!」
誇らしげに微笑むリーゼルに、ユーディットは感激して拍手を送る。
「本当に、素敵……」
ぽつり、とエルメントラウトも零す。そんな風に相手のありのままをみれたら、どんなにいいだろう。自分のありのままをみてほしいのなら、自分も相手をちゃんとみないといけないと思った。親友の価値観を羨ましく感じた。
動揺することはあったものの、その日のお茶会は二人の良いところをまたひとつ知れてよかった。
それから、二人とのお茶会を重ねてゆくとユーディットの様子が変わっていった。弱りきって相談されたかと思えば、原因は彼女と親しくしているランプレヒトだった。事情を聞いてゆくうちに、ユーディットの身の危険を感じた。いかに自分に害がない幼馴染だろうと、異性とみなした相手にはそうではないとよく解った。兄が兄なら、弟も弟だ。血は争えないのだろう。
ユーディットを侮辱した相手に報復する計画が持ち上がったとき、協力は惜しまないが、エルメントラウトは彼女がランプレヒトとの接触を控えるように警告した。だから、ダンスの練習も自分が男性パートを担った。努力した分だけ愛らしさが増してゆく後輩を守りたかったのだ。
報復決行日である開花の宴まで一週間をきり、エルメントラウトは葛藤していた。開花の宴の会場にはリーゼルとハルトヴィヒも参加して補助すると聞いているので、問題はないだろう。計画立案者であるランプレヒトも行動力だけは無駄にあるので、報復自体が失敗するとは思っていない。
けれど、心配は尽きない。
一つ下の幼馴染の無駄にある行動力で、大事な後輩が困ったりしないだろうか。万が一、報復が失敗して、彼女がさらに傷付くようなことにならないか。心配しだすと、いくらでも不安要素は湧いた。かといって、単身で開花の宴に参加する勇気を、エルメントラウトは持ち合わせていなかった。
葛藤の末、冬期休暇が終わる目前に、ある人物を自宅へ呼んだ。
侍女から訪問を知らされ、出迎えると、彼は相変わらず泰然として立っていた。
「何だよ」
「……お、お願いが、あって」
訪ねて早々に用件を問われ、エルメントラウトは弱ったようにアルトゥルを応接室へ案内した。
彼女の方からアルトゥルに声をかけるのは、これが初めてだ。これまでは、他の誰かのついでで会うだけで、偶然会っても声をかけるのはアルトゥルの方だった。だから、用がなければ自分に会おうとしないと、アルトゥルはよく解っていた。
侍女が紅茶を用意して下がると、アルトゥルは遠慮なくそれを飲んだ。彼女が本題をだすのにまごついているので、その時間潰しである。
「あのね……、ユディちゃんが心配で……、もし、開花の宴のパートナーが決まっていないなら、あたしをつれていってくれないかな、って……」
決死の想いでエルメントラウトが直談判するも、アルトゥルの返事はあっけらかんとしたものだった。
「ドレスとか贈った方がいいのか?」
「……っあ、ううん、こっちで用意するから大丈夫」
許諾されたことの安堵で、エルメントラウトの表情は和らぐ。
「お前、あのお団子頭のためなら、俺に頼るんだな」
「だって、ユディちゃんは大事な後輩で、お友達だもの……」
勇気を振り絞ってよかったと、エルメントラウトは微笑んだ。それはいつも及び腰で対峙していたアルトゥルには初めてみせる笑顔だった。そんなことにも気付いていないのだろうな、とアルトゥルは残りの紅茶を飲み干す。
「じゃあ、条件な。当日はお前の好きな格好してこい」
「へ……」
頼みを聞く条件に、エルメントラウトは呆ける。一体それに何の意味があるのか。意図を教えてくれないまま、アルトゥルは帰ってしまった。
開花の宴は、卒業する三年生を見送るためのパーティーだ。見送られる三年生にはアルトゥルも含まれる。そんな最後の機会に、自分の頼みをきいて、協力してもらっている。申し訳なさを感じるので、彼の要望ぐらいはせめて飲もうと思った。
エルメントラウトは学園に戻るまでの残り時間を、衣装室で侍女と盛大に悩むのだった。
そうして悩んだ結果、無地のマーメイドラインのドレスにした。タートルネックで胸元を覆うデザインだ。肩がでて背中もみえているが肩甲骨あたりから下半分はレース地なので直接肌がみえる部分は少ない。目立ちたくないので装飾品は髪に真珠を散らすだけにした。そのかわり、スカートは襞の大きいフリルが三重になって足元は少し可愛らしい。
会場に向かう直前まで、エルメントラウトは白椿の飾りを使うか悩んだ。白椿の飾りをどこかに身に着けていたのは、怖がられないようにするおまじないだ。
すー、はー、とゆっくり深呼吸をする。そして、覚悟を決めて手にしていた白椿を鏡台に置いた。
今日ばかりは怖がられてもいい。好きな格好をするように乞われたのだから、ありのまま好きなドレスを着た自分でいよう。高いヒールを履いて堂々と胸を張るなんてことはできず、低いヒールで臆病なままの自分だけど。それでいい。
今できる精一杯の姿で女子寮をでると、アルトゥルがいた。迎えにきてくれるとは思っていなかったので、エルメントラウトは驚く。
紺碧の髪は夕陽を受け黒みがかって、その色に近い黒い騎士服を着ていた。本来の騎士服は白であり、彼はまだ叙任を受けていないので従騎士のはずだ。どうしたのか訊くと、父親が若い頃着ていた騎士服を裾直ししたそうだ。正しくない色の正装だったが、彼が着ると様になっていた。
思わず見入っていたが、彼も同様に自分の姿をしげしげと眺めていた。
「そういうのが好きなのか」
ふっと笑われ、ようやくみられていた事実に気付く。
「に……似合わない……?」
「似合ってる」
端的な肯定で、女性への褒め言葉としては足りないはずのそれが、エルメントラウトには嬉しかった。華美になりすぎない範囲で、好きなものより似合う服装を優先してきた彼女には、一番嬉しい言葉だった。
開花の宴の会場に入り、ユーディットたちの様子を見守っていると無事に報復できたようだった。楽しそうに踊るユーディットをみていると、こちらまで嬉しくなる。声をかけると、自分がきたことに感激してくれた。本当にいい子だと、再認識するのだった。
「もういいんじゃねぇか?」
テラスに並ぶ二人を、その入り口のカーテンに掴まって見守るエルメントラウトに、呆れた声がかかる。アルトゥルからすれば、報復も終わったのだからあとは放っておけばいいと感じる。しかし、彼女はそうではないらしい。
「アルトは、ユディちゃんが心配じゃないの……!?」
エルメントラウトが声を潜めて訴えてくるが、アルトゥルには男女のあれこれに野次馬するような関心は微塵もなかった。しかしながら、直後、エルメントラウトから裾を引かれ、弟の暴走を知らされば身体は諫めるよう動くのだが。さすがに人目を集める場所での自制を欠いた行動は看過できない。それが身内の恥ならなおさらだ。
昏倒させた弟はハルトヴィヒに寮へ持ち帰らせ、ユーディットはリーゼルに送らせた。自分も後輩に付き添おうとするエルメントラウトを引き留める。
「あたしも……」
「一応、三年のためのパーティーなんだから、もう少しいろよ」
そういわれてしまうと、エルメントラウトも留まるしかなかった。
花火も終わった人気のないテラスで、ただ星空を見上げる。いわれた通り、本当にいるだけだ。ダンスに誘われるでもなく、隣にただ並ぶ。しばらくすると、これでいいのかエルメントラウトは不安になる。
「踊ったりとか、しなくていいの……?」
「お前、背の低い俺と踊るの嫌だろ」
図星だったので、口をつぐむ。なるべく悪目立ちはしたくない。アルトゥルは気にしなくとも、数センチの身長差をエルメントラウトは気にしていた。せっかくのパーティーだからそれらしいことを、と思ったが藪蛇だった。
下手な気遣いにアルトゥルは、くっと喉を鳴らして笑う。空回りを自覚している彼女は頬を染めて、俯いた。
今夜は珍しい。エルメントラウトは、こんなに笑う彼をみたことがなかった。
「パートナー、あたしでよかったの……?」
自分から頼んでおいてなんだが、不思議だった。他に誘いたい相手はいなかったのだろうか。
「お前に頼まれなくても、駄目元で誘うつもりだったしな」
「あたし、を……?」
アルトゥルは、こちらから視線を逸らさずいった。
「一回ぐらい、好きな女と並びたいだろ」
だから、パートナーに選ぶつもりだった、と。
信じられない思いでエルメントラウトは、顔を真っ赤にする。その顔をみられたくないのに、視線を逸らしてくれないものだから、自分も身動きがとれない。
なんで、どうして、と混乱の渦中にあるエルメントラウトに、アルトゥルが歩み寄り、その頬を大きな手で覆い、撫でる。その感触に、思わずびくりと震えた。
「お前、泣き虫だから最初は絶対泣くんだろうな。俺は、お前のべそかきなんて見慣れてるけど」
今だって瞳が潤んで泣きそうだ。いつだって泣かせようと思っていないのに、泣かせてしまう。
何年も前、自主練で刃を潰した剣を折ってしまい、衝撃の反動で折れた刃が頭部を掠めた。ひり、とした痛みは走ったが大したことはないとそのまま家に帰ると、これでもかと眼を見開いた彼女と遭遇する。そして、いきなり大粒の涙を零して泣き出し、怯えながらも身に着けていたスカーフを解いて、額に当ててきたのだ。そこでようやく、額を切っていたことを知る。ぬめりを感じると思ったら、顔が血塗れだったらしい。
見た目と違い浅い怪我だといっても、彼女は信じなかった。死んじゃやだ、と泣きながら、使用人が駆けつけるまで懸命に傷口を押さえていたのだ。
自分に泣かされてばかりだというのに、心配するのか、と意外だった。見知っただけの自分が傷付いただけでも彼女が泣くなら、彼女が怪我を心配する必要がないほどに強くなればいいと思った。
鍛えてみれば、努力は裏切らず自分だけでなく相手も最低限の怪我で済むよう、対処できるようになった。しかし、それをみせて安心させようにも彼女は演習場などには寄り付きもしない。関心がないのだろうと思えば、いざというときに自分を頼ってくる。
こいつが守られたいのは、本にでてくるような男なんだろうな……
いないから、身近な自分を頼っただけと解っている。それでも充分上等だ。初めて、彼女から自分に会いたいといってきたのだから。
「エル、食われる男は、お前を泣かそうとする奴を選ぶなよ」
なぜこんなときに限って今までで一番優しい笑みを浮かべるのだろう。
何の初めてを指すのか解るがゆえに、エルメントラウトはこれ以上ないほど真っ赤だった。朱は顔だけでなく首や耳にまで及んでいる。赤くなった耳たぶや、首筋を撫でられれば、またびくりと震えてしまう。
逃げることも叶わず硬直する彼女を解放したのは、アルトゥルの方だった。
「帰るか」
先ほどのことなどなかったかのような、いつも通りの声音。そして、他意なく気遣われる。
「また抱えてやろうか」
「歩ける、もん……っ」
エルメントラウトが負け惜しみで返せたのは、その一言だけだった。
ほとんど眠れず、エルメントラウトは翌朝を迎えた。
睡眠不足になると人相が余計悪くなるから気を付けるよう、父にいわれていたのに。どうしたってアルトゥルにいわれた言葉の数々が勝手に反芻されてしまい、心穏やかに眠ることなど叶わなかったのだ。
どう思い返しても、彼に好かれるようなことはしていない。泣かされてばかりだったし、怯えていたし、苦手だった。だって、彼は男性を突き付けてくる。
彼は、男性がどういうものか意識せざるをえなくする。自分が女性としてどう意識されているのか自覚してしまう。それがずっと怖かった。エルメントラウトにとって、男の子といえば彼で、男性といえば彼だった。好みかどうか以前にそうだった。
そんな彼が自分を好きだとは。昨夜の触れた熱を思い出すと火が出そうになる。
理解するしかない状況へ、自分を追い込むのをやめてほしい。心臓がもたない。少しでも頭を冷やそうと、エルメントラウトは制服を身に着け、早めに校舎へと向かう。春の気配が濃くなり始めたが、陽の昇りきっていない朝方はまだ涼しい。
この空気のなかなら、思考もはっきりしそうだと、時間をかけて徒歩で向かうことにする。開花の宴の翌日は、丸一日自習日となっており勉強するかどうかは自由である。昨夜の無礼講で疲れ切っている可能性もあるからだ。
桜並木に差し掛かり、校舎が視界に入る頃、背後から声がかかる。
「おっはよーございますー、エルメントラウト先輩ー」
「パスカル、君……? 早いのね」
振り向くと小柄な少女と見誤る服装でパスカルがいた。今日も女生徒の制服を身に着けている。
「先輩こそー」
「あたしは、早く目が覚めちゃって……」
パスカルは頷き、それ以上早起きした理由を追求することはなかった。間をもたせるために、エルメントラウトは話題を探す。
「パスカル君は、普通の制服を着たりはしないの……?」
普通の、とは性別に合った制服を、という意味だ。言葉を濁したが、彼には通じたらしい。
「もちろん着ますよー。でも、エルメントラウト先輩と会うときは女装にするよう、アルトゥル先輩に言われてますからー」
「え……」
「先輩は男性が苦手だから、怖がらせるな、ですってー」
いわれてみれば、パスカルとは気負わずに話せている。確かに見た目だけとはいえ、女性らしい服装により怯えが緩和されているのだろう。彼は本来の性別の格好のときは、エルメントラウトに話しかけないようにしているらしい。
アルトゥルがそんなことを彼に頼んでいたなんで、思いもよらなかった。
「へへー、ありがとうございますー。エルメントラウト先輩」
にこにこと礼をいわれ、エルメントラウトは首を傾げる。なぜ彼に感謝されるのか、判らない。
「アルトゥル先輩にー、先輩に踏まれたいと思っている人や、先輩をいやらしい目でみている人を調べるように頼まれたおかげで、学園生活が充実してますー」
諜報活動が趣味の一環だというパスカルは、それをする理由を与えられてとても喜んでいるらしい。
そういえば、弟がアルトゥルに情報共有していたことを思い出す。調査対象が類似するため、そんなものを調べてどうするのか訊けば、パスカルの浮かべる笑みがより楽しげなものに変わる。
「面白いんですよー。潰すのかなーと思ったら、鍛えるだけなんですー。しかも、一定の更生が見られるんですから、凄いですよねー」
被虐願望があるということは打たれ強い、性欲が強いということは血気盛んとも受け取れる。だから、アルトゥルは自身の訓練相手にうってつけだ、と彼らに声をかけ鍛えたのだ。きっかけがエルメントラウトであるとはいわず、ただ見込みがあるからとだけ伝えて。アルトゥルの訓練相手に選ばれた男子生徒の半数ほどは、運動することで更生し、騎士団を志すようになった。実際に鍛えてみると、真に被虐嗜好に目覚める者は存外少なかった。もちろん、精根尽き果てるほど鍛えられ、彼女に構う気など湧かなくなる者もいる。なので、一部に関しては、潰されたと言い表してもいだろう。
そういった経過観察含め、パスカルは彼からの依頼を楽しんでいる。相手の弱みを握って掌握するのかと思いきや、それを強みと励行しようとするなんて面白すぎる。
「アルトゥル先輩ほど、てらいのない方はいませんよー」
パスカルは、彼を気に入っていた。将来的にも世話になる可能性の高い相手だ。今のうちに恩を売っておいて損はない。
感謝された理由を知り、エルメントラウトは言葉にできない感情が胸に去来する。なんなのだ、それは。聞いていない。解決方法が彼独自すぎる。これでは、どうしていわなかったのかと怒っていいのか、結果的に助かったことを喜べばいいのか判らないではないか。
治まってきたはずの鼓動がどくりどくり、と胸を打つ。
「……パスカル君って、アルトのことも、調べられるの?」
「何が、知りたいんですかー?」
自分の周辺のことを勝手に調べられていたのだから、これぐらいは訊いてもいいだろう。努めて気にしないようにしていたから、彼について知らないことが多すぎる。
「アルトが、今、どこにいるのか、とか……」
「お安い御用ですよー。先輩のルーティーン的にー、きっと今頃は演習場で素振りでもしていると思いますよー」
元々知っていた情報だと、すぐさま回答が返った。弛まぬ鍛錬をする彼は、パーティーの翌日だろうと日頃の習慣を疎かにしないという見立てだ。エルメントラウトも、彼ならそうだろうと思う。
「教えてくれて、ありがとう……っ」
パスカルから得た情報をもとに、演習場の方向へエルメントラウトは駆けだす。そんな彼女を笑顔で送りだすも、彼女のあまりの足の遅さにしばらく眺めることになった。
演習場まで距離があったたので、持久力のない彼女は走りきることができなかった。たどり着く頃にはほぼ徒歩になっていた。広い演習場の出入口の近くに、目的の姿を見つけた。ひゅん、と何度も鋭く空気を斬る音が繰り返される。その太刀筋に躊躇いはない。だが……
「っどうして、上を着てないの……!?」
「エル?」
アルトゥルが上半身裸だったため、エルメントラウトは赤面して思わず叫ぶ。素振りに集中していた彼は、珍しさに振り向く。彼女が実技授業以外でここにきたのは初めてではないだろうか。
「いちいち着替えてられるか」
ルーティーンとして朝の鍛錬で汗を流してから授業に臨む。授業開始前に着替えるのも面倒だ。着ずに汗をかいたあと、それを拭ってからシャツを着ればひとつ手間が減る。アルトゥルが日常の動線を効率化した結果だった。
説明されて理解はできても、エルメントラウトは恥じらってしまう。話をしにきたのに、これでは相手を正視できない。彼女にこのままでは話せないといわれ、アルトゥルは仕方なく素振りを切り上げ、シャツを羽織る。
エルメントラウトは肌の露出が減ったことを確認して、ほっと安堵の吐息を吐く。
「で、何だ」
「あ……」
何から話すべきか、迷う。助けられていたことへの礼を伝えようかと思ったが、自分のためだと確認していないのに感謝をするのも妙な話だ。ただ鍛錬相手を求めただけだと返されたら、自意識過剰でしかない。弟のこともあるので、違うと思うが、いっても彼は礼を受け取らない気がした。
「き……昨日、言ってたこと、だけど……」
「それがどうした」
本当なのか、と確認するのは失礼に思えて、エルメントラウトが口ごもると、彼はなぜ終わった話をむし返すんだと首を傾げた。
彼のなかで完結させられていると判り、やはり会いにきて正解だったと知る。エルメントラウトは、まだ彼の告白を終わらせたくない。自分をこれだけ動揺させておいて、言い逃げするなんて卑怯だ。
こちらは絶賛睡眠不足だというのに、早朝から鍛錬に励めるほど顔色のいいアルトゥルが憎らしい。睡眠不足ゆえの苛立ちが助けになる。ここから先を伝えるにはとても勇気がいるから、冷静な状態ではきっといえない。
「待ってて、ほしいの……!」
答えがでるまで待つよう乞われて、アルトゥルは驚く。彼女の好みではない自分は、考慮する余地すらないと思っていた。
だが、エルメントラウトの方は違った。好みかどうかを考えるより前に、体温があがった。心臓が騒いだ。これまでだって、彼に動揺させられることはあっても、嫌悪感をもったことなどなかった。この自分の反応とちゃんと向き合おうと、ようやく思えたのだ。
「だって、あたし、アルトのことまだ知らないもの……っ」
知らない分だけ、彼を知りたいと思った。今までのような少しだけのやり取りなんかじゃなく、ちゃんと話し合いたい。そうすれば、また昨夜のように笑った顔もみれるかもしれない。
アルトゥルに歩み寄り、精一杯の気持ちで彼の裾をきゅっと抓む。
「だから……、他の女性にあんな風に触れないで」
アルトゥルはもうすぐ卒業だ。卒業後は、彼に縁談が舞い込む。侯爵家の嫡男が、騎士団に入団して将来有望な騎士の一人となるのだ。ユーディットのように筋肉に魅力を感じる令嬢もいるのだから、彼の外見含めて好ましく思う令嬢も少なからずいることだろう。今自分を諦められたら、彼は縁談のいずれかを受けてしまうかもしれない。想像してみると、つきり、と胸が痛むのだ。
「アルトには、泣かされてばかりだけど、あたしが勝手に泣いてただけで……」
彼が自分を泣かせようとしたことがないと解っている。彼に悪気はなく、ただ価値観が違いすぎるから、自分はいつもびっくりしてしまうのだ。今も、わずかに繋がっている彼との縁が途絶えそうなのが怖くて、瞳が潤む。
「こんな顔、アルト以外の男性に見せないもん」
寝不足で情緒不安定に泣いて、きっと酷い顔をしている。けれど、散々泣き顔をみられている彼には今さらだ。彼は泣かせない男性を選ぶように薦めてきたが、どっちにしろ泣き顔をみられるなら、みられてもいい相手がいい。
「……何か言ってよぅ」
彼のように、気持ちを断言できない。まだよく解らないところが多い状態で引き留めるなんて、我儘だと自覚している。現時点で伝えられることを言い募っても、アルトゥルは反応を返さない。どんどん手遅れなのかと不安になってくる。
アルトゥルがどんな顔をしているのかみるのが怖くて、瞼を強く瞑る。ぽた、と瞳から溢れた涙が落ちた。
二粒めが零れようかというとき、大きな手が頬を覆い、親指で拭われる。
「いいぞ」
掌の感触に目を開けると、彼は嬉しげに笑っていた。
「お前の卒業まで待ってやる。それまでに、食われる覚悟しておけ」
エルメントラウトは顔を真っ赤に染め、声にならない声をあげる。いわれて急に覚悟が決まるものではない。かといって、残り一年で心の準備が整うのか、自信がなかった。
期限までに覚悟できるかは判らないが、そのときには彼にありのままの自分で向き合えるようになっていたいと願う。とりあえず、少しずつ知るところから始めよう。
椿のように潔く彼の手に落ちる、その日まで――







