家族ではない彼女たち
あの日からもう十五年経ったのだと気付かされて、麗子は目眩を覚えそうになった。
私はもう、八十になってしまったのだという事実を前に、ほとんど圧倒されそうになってしまった。
現実の盤の上では、ありえざるべきことが起きている。
麗子の激しい攻めを、粘り強さというよりは柔らかさ、俊敏さ、そして計算高さによって奏太は受け切った。のみならず、彼が6七に打った歩をなかなか払い切れずにいるうちに、そこを拠点とした反撃が始まったのだ。顔を上げると、奏太は白い目元に強い光を湛えて、盤面を広く見渡している、……極めて精度の高い計算を行なっていることが感じられた。その双眸には、思わずうっとりと見惚れたくなるぐらいに冴えざえとした美しさがある。顔のいい棋士といえば羽村怜士が有名であるが、いいや、この奏太のほうが、ずいぶんと。
まるで頼りのない子どもだった奏太が、これほど強い指し手となったという事実に、麗子の胸は震えた。無論「私が育てた」なんて言えるはずもない、一緒に過ごしたのはほんの一ヶ月ほどのことである。とはいえ、それでも「この子に将棋を教えたのはあたしだ」と言い張りたい気持ちが湧いてくる。腰の据わった守りは、まるで久田十五・中西潤のような根性の強さを感じさせる。いや、攻めてもぐらつかず、追い詰められればられるほど粘りの中、一筋の光を見出すように攻めを繋げようとする姿勢は、トキノ杯電撃戦で羽村怜士を破って大金星を上げた小笠原茂、……中西の弟子として初めて棋戦優勝のタイトルを獲得することとなった小笠原を彷彿とさせると言ってもいいか。
要駒の金を狙って、一歩ずつと金がにじり寄る。麗子は攻めの薄くなることを覚悟の上で馬を引き守りに加えた。奏太の玉もだいぶ危うい形をしているのだが、それでもこの金を取られると麗子の堪えは効かなくなる。呼吸すら忘れながらも、麗子は奏太の一手に、奏太の思いを見ている気になる。
この可愛らしいお嬢さんと結婚がしたい。この子はどういうわけか、自分の、このお嬢さんの両親ではなく、このあたしを最後の関門として捉えているらしい。誰が認めてくれようと、この婆さんが認めなければダメなのだと思い込んでいるらしい。
その背後にある思いまで届きたいと思えばこそ、「したけりゃ、すりゃいいじゃないか」なんてことは言えない。答えは、この手の先にある。
麗子は眩さを感じた。何によるものか、先ほどから捉えかねていたが、いまははっきりと判る。
奏太の手が、白い手、長い指が眩いのだ。
奏太の手には顔がある。指先から手の甲に手首、腕肩と辿っていけば、そこには美しく強く育った奏太の顔がある。
麗子はその顔に、あの夜、怖がりの小心者のくせに、自分よりずいぶん身体の大きい相手に臆さず立ち向かった少年の、何とも凛々しい面影をも見出すことができた。子を宿すという希望を喪った身体、誰かと家族になることなど一生叶わぬ夢だと思っていたのに、いったいどれほど長い間、どれほどの強さで、願い続けていたのだろう? 麗子はあの瞬間初めて、自分の中でとうに捨て、特にこの邸に引っ込んでからばっさりと切った髪と同じく捨てたつもりでいた心の性的な部分が震えるのを覚えた。
信じられるかい。あたしは誰とも結婚できずに、赤ん坊を産むことだってできずに生きて来たのに、こんな可愛らしい坊やの「おばあちゃん」なんてもんになっていたらしいんだよ。
通子の用がようやく済み、奏太が邸を出る日、麗子は奏太に言った。
「この間の夜のことを恨んでる連中もいる。あんた当分はここへ来るんじゃあないよ」
神妙な顔で、奏太は頷いた。しかし同じ門扉の前で見れば、初めて見たときとまるで顔立ちが変わっていることに気付くことが出来た。そのとき受けた感銘は、きっと腹を痛めて子を産み、育て、その子がまた子を産んで育てた証としての孫を見るときと、ほとんど変わらないものであったと麗子は信じている。
ただ、麗子はこのときまですっかり忘れていたことがある。とうの奏太を目の前にして、今更のように、しかし極めて自然なこととして、思い出した。
「でも」
奏太は別れ際に言ったのだ。
「ぼく、また来ていいですか」
麗子は、少し考えてこう言ったのである。
「あんたが心から愛する人が出来たら、そのときにあたしに紹介しに来るんだ」
「あいするひと……」
「この言葉の意味が判るぐらい大人になったら。……そのとき、あたしはあんたの敵として立ち塞がって見せよう。全力であたしを倒しに来るんだ……、いいか奏太、あたしを倒せたらそのときには、あんたとその人のことを認めてやるよ」
奏太は、緊張した顔で頷いた。
「そのためには、わかってるだろうね、将棋をやめるんじゃないよ。あんたには将棋の才能がある……」
麗子は、古田川からもらった駒と折畳の盤を奏太のリュックに突っ込んでいた。それのせいで奏太の背中はやたらにピンと張っているのだった。
二十五歳の奏太がいま目の前にいる。
渾身の力で自分を倒すべく、立ち向かってくる。十五年前の約束を守りに来た男は、敵として、これほどいとおしく、偉大で、紛れもなく麗子の生きてきた人生を良きものとして肯定してくれるものだ。
厳しい手が迫る。
奏太の顔のある手が、自分の喉元に掛かる。
その瞬間、麗子は人生の半分以上の時間に渡って付き纏われてきたあの白い手の群れが、自分の世界から消えて行くのを見た。死の側へと、死の側から誘う手、……自分の父親、母親、老政治家の、堕胎した子の、手……、戦争、病気、不幸の積み重ね、過去が、奏太と月渚と未来の命に照らされて消えて行く。
のみならず、麗子を生の光で包み込み、生の側へと留め置く。
駒台に乗せた手の甲はすっかり骨ばって、皮膚にはしみが浮いていた。それでもまだ彼女は、生あるものとして、
「……ありません」
言葉を発し、対局を終える。
しかし、生きる時間はまだ残されている、生きて出来ることが、しなければいけないことが、……したいことが! まだ、たくさんある。
さすがに疲れた。しかし、快い疲れではある。古田川には悪いが、将棋でここまで本気を出したことは一度もない。自身にここまで力を出させたということは、奏太もそれだけの力を出したということだ。奏太は目を伏せ、「ありがとうございました」と少しく掠れた声で言い、大きく頭を下げて、長々と息を吐いた。
「……強くなったじゃないか」
これについては素直に賞賛の言葉を向けてやらなければならないと思った。日々に棋譜並べ、……実際行われた対局を初めから終わりまで再現し、現代将棋の感覚にも通暁している麗子をして、負かされてしまったのだ。仲村銀星に一度だけとはいえ勝ったことがあるということに納得が行く。
しかし、それだけに惜しくもあるのだ。
「将棋指しを目指せばよかったのにな。……まあ、やりたい仕事が別にあったなら、無理強い出来るような話でもないが」
ゆっくり顔を上げた奏太は、くたびれ果てているようだ、言葉はすぐには出てこない。
代わりに彼のパートナーが言った。
「奏太くんは、将棋を指すことを仕事にしている人たちのための仕事をしているんです」
「将棋指しのための……?」
さっき、「AIの」なんて話をしていたか。
麗子はそうした方面には全く疎いのだが、将棋界にも研究に人工知能の力が取り入れられるようになって、これまで以上に棋界のレベルが上がっているという話は知っている。
「……新しい、そういうAIを作ったんです」
奏太は顔を上げて、背筋を伸ばして座り直して言った。顔に血の気が戻ってきている。
彼と、彼のパートナーが交互に語ってくれたところによれば、そのAIは「Kisty」という名前でつい先ごろリリースされた。データの蓄積、局面の判断、最善手の提示のみならず、使用者個々と「師弟」のような関係を結び、使用者の将棋におけるいわば個性、癖とも呼べるものを解析し、それが長所ならば伸ばし、短所ならば改善のためのトレーニングを行う。
駒の動かしかたを知ったばかりの初心者から、ちょっとは腕に自信があるレベル、果てはプロまで、あらゆるレベルに対応しており、外から内へ、全体から個へというベクトルでの将棋力向上のシステムを持っているのだという。
麗子は毎月将棋雑誌を取り寄せて読んでいる。ただ残念ながら、AIについては「なんだかそういうもんがあるらしいな」ぐらいの認識でしかなく、学ぶ意欲も湧いてこなかったもので、そうした記事は読み飛ばしてしまったのである。
「つまり……、姿の見えない『師匠』が対局を通して提示する現れる様々な局面に、どう対応するか……、というところを鍛えるための将棋AIなんです」
「『ここではこういう手が一番いいですよ』っていうのは、もちろんこれまでのAIさんも教えてくれていて、指す人は『ふーんそうかぁ』って勉強していく、という形だったんですけど、奏太くんの作ったKistyさんは、対局相手の先生になって、『こういう場面ではどう指すかな?』って訊いて来るんです」
「それは当然、その使用者個々の癖がついつい現れてしまいやすい局面です。攻め込まれているタイミングで、臆さず攻めの手を指すのか、慎重に受けの手を指すのか、前者だとしてどういう手を指すのか……、そういうところに現れる精神性といったもの、それをただ矯正するだけではなくて、その人の方向性、棋風として、盤上で対話しながら棋力向上を目指していく……、そんなコンセプトで作ったんです」
奏太は、表情に穏やかな微笑みを取り戻していた。
「……僕に将棋を教えてくれた人が、そうやって僕を強くしてくれたと思っているんです。僕が銀星くんに勝ったのは、……たった一ヶ月、でも僕を幸せな対話の海で存分に泳がせてくれた人のおかげですし、僕は僕の仕事を通して、将棋というものに恩返しをしたいと思ったんです」
麗子が読み飛ばしていた記事の中には、棋士たちがKIistyを非常に高く評価していることについてのものがあったのである。四ページの特集が写真付きで組まれ、羽村怜士が早速自らの「研究パートナー」として採用したことが書かれていた。
現役最強棋士である羽村が、奏太が開発に携わったAIと、日々「対話」している……。
「Kistyを作ることが出来て、……月渚に、プロポーズをしました。月渚はまだ大学生で、……だから、まだ早いっていうのはわかってるんですけど、でも、仕事として、自分がこれを成し遂げたということで、その、それは一つの区切りだと思いましたし、何より……」
奏太は、両手を膝に置いて言った。
「レディに、この子を紹介したかったんです」
大きく二つのことを、麗子は考えないではいられなかった。
一つには、律儀に約束を守った奏太に対してのいとおしさ。もちろんそこには、大学生の立場にある月渚に求婚した奏太を容認した両家の両親をはじめとする人々の寛容性についても温かな気持ちを見出さないわけにはいかないが。
同時にまた、月渚が社会人になるのを待つことが彼にはとても難しいことだったという事実。
麗子はいまもこうして、元気で生きている。身体もまあ、八十年も生きているのだからあちらこちらとガタが来ていることは事実であるが、まあ健やかであると言ってよかろう。もしかしたら、トマトジュースのおかげもあるだろうか?
しかし、五年後にどうなっているかはわからない。
いや二年後のことだって判然とはしない。自分の身体はもちろん、生まれて八十年嗅いだことのないほどのきな臭さを放つようになった世界に思いを馳せても。
「幸せにおなり」
ゆっくりと立ち上がり、麗子は言った。レディと、この可愛い男がいまだ呼んでくれるのならば、それに相応しい在りようを、今しばらくは続けられるような自分でいなければいけない。これからはもう、顔のない手に怯えることはないだろう。麗子の差し出した手を、大事そうに握る奏太の手が、あまりに眩く温かい。
まるで命そのもの。
そう感じてしまったならば、もう、こう言わないではいられない。
「あともうしばらくは、頑張らなきゃいけないね。あんたたちの子どもの顔を見せてもらうまでは、どうしたって、さ」
それが二年先のことなのか、五年先のことなのかはわからない。わからないけれど、ひとたび見てしまったらこんどは、この子はどんなふうに喋るだろう、笑うだろう。
どんな将棋を指すだろう。
そんなことだって気になってしまうに違いない。そしていつか、その子と盤を挟んで対話する日を迎えるまでは。
若い二人を送り出すために玄関へ出たら、門扉の向こう、夕暮れの道に黒い車が駐まっていた。中から大きな腹を揺すって男が降りてきたところである。この家には珍しい先客のいたことに彼は目を丸くしたし、奏太と月渚はその男が古田川誠であることにすぐ気付いただろう。
「や、やあ。差し入れを持ってきたんだけど、レディに……、私以外のお客さんが来ることがあったとは……」
失礼なやつだ。一目で栄雁饅頭だとわかる包みをぶら下げて、門扉を押して入ってきた彼は、麗子と若い二人を均等に見て、なんだかヘラヘラと笑う。テレビ映りは悪く、またそもそも容姿がまずいのであるが。
「センセ。覚えてませんか」
奏太の背中を押す。奏太は現役の政治家に向けて、少し緊張した様子で、
「十五年前に、先生に駒の動かしかたを教えていただきました」
と頭を下げる。
古田川は数秒ぽかんと立ち尽くし、
「おお……、おお……! そうか! あのときの坊やか! ええ、もう、もうこんなに立派に、ええぇ……、あぁそう……、私も歳を取るわけだぁ……、こちらのお嬢さんは……、えっ、え、ふぃ、フィアンセ、なんと……、なんとまぁ……、こりゃあめでたい……!」
古田川のこの洋館通いは彼の運転手にとっては日常のこととなっていて、いつものように彼は車を門扉の中に駐めて運転席で待機していたが、主人があまりにも機嫌がいいからだろうか。
「先生、お写真を撮りましょうか」
と車から降りて、声をかけた。
「おお、そうしてもらおうかな、ねえ、いいよねぇお二人も。じゃあ、ほら、二人が真ん中に立って、ね、私とレディでこう、ねえ、いやいや、アッハッハ、こりゃあなんだ、なんの写真だ、でも、いやあめでたい、そうですよねレディ」
一枚の写真に収まった、繋がりのない四人。
親等という糸で強いて繋ごうとするならば、麗子と古田川は、五親等程度の希薄な糸があるくまらい、……但し、久田十五との関係を親子であると仮定するならばの話だが。
家族になれなかった者たち、これから家族になる者たち、でもこの瞬間はまだ、何者でもない。
そうであったとして。
運転手に二人を駅まで送らせて、案の定の栄雁饅頭を食べつつ、
「ほう、ほうそうですか、将棋のAIを。私が将棋を教えた坊やが」
などと古田川が言う。麗子は大人気なくも、
「教えたのはあたしです」
と反駁した。




