第3話 控え板に残る名
赤紐のついた呼び出し札は、まだ湿っていた。
検分場のざわめきが遠のいた先。砦外れの荷場には、半分だけ張られた指揮天幕が立っている。幌布の端は乾き切らず、風に鳴った。下には地図机、補給箱、引継ぎ札の束、未処理箱、そして板に打ちつけられた控え札の列がある。
会議室ではない。
荷と血と汗の匂いが、まだ現場の続きだと告げていた。
白札は流せる。
名を書かなければ、誰の失敗にでも差し替えられる。
だが控え板に打たれた札は違う。荷場を出る兵、戻る兵、全員の目に残る。
リオンはそこまで見てから、天幕の端で足を止めた。
机の向こうで、ラザール・ヘニングが一枚の白札を指先で弾く。
「来たか、次男。廃砦側に人手が要る。前線上がりでも扱いやすい仕事だ」
扱いやすい、の意味は明白だった。
白札。
補給札は不足。
退路欄は空白。
リオンは札を取らない。
「受ける」
ラザールの口元がわずかに緩む。
「ただし、名無しでは受けない」
その緩みが消えた。
風が幌布を打つ。
控え板の札が、かすかに鳴った。
「何だと」
「俺の名で渡せ。人選と退き時は俺が切る」
リオンは白札ではなく、その下の任務札を見たまま言った。
「退路欄が空だ。補給も足りない。これで名無しを入れるなら、落ちた時に一人へ被せる気だろう」
ラザールが白札を摘んだ指に力を込める。
「思い上がるな。任務は任務だ。次男ごときに名付きは重い」
「切るつもりで出すなら、誰を切ったか残る形で出せ」
短く、それだけ返した。
言い負かすためではない。
線を一本、そこに引くための声だった。
その時、天幕の脇で見ていたリゼットが半歩だけ位置を変えた。
机の陰ではなく、控え板が正面に見える側へ。
その動きに、ラザールが目を向ける。
リゼットは逸らさない。
「当事者名を伏せた引継ぎなら、私の見た件も伏せたことになります」
静かな声だった。
「輸送隊襲撃の件と廃砦引継ぎを切り離すなら、私は今ここで、検分場で述べた内容がどう扱われるか確認します」
「女騎士、お前の口を挟む場では――」
「見たので」
一言で、リゼットは切った。
「見た以上、外される場ではありません」
もう無関係ではいられない。
そう言う代わりに、彼女はそこへ立った。
ラザールの指先で、白札がわずかに折れた。
その時だった。
天幕の外から、重い足音が近づく。
幌布を払い、軍務担当のゲオルク・ハルヴァルトが入ってきた。日に焼けた顔には疲労が張りついている。だが目だけは眠っていない。
「まだ揉めているのか」
ラザールが何か言う前に、ゲオルクの視線が動く。
まず白札。
次に、退路欄の空白。
足りない補給札。
そして、控え板の見える側から一歩も動かないリゼット。
最後に、札を受け取らず立つリオン。
それだけで十分だったらしい。
「白札は下げろ」
低い声が落ちた。
ラザールが息を呑む。「しかし――」
「下げろ」
二度目で、白札はただの紙に変わった。
ラザールの手が止まる。
指先で折れた白札だけが、みっともなく残った。
ゲオルクは無言で任務札を引き寄せ、筆を取った。
墨を含ませる音がやけに大きい。
さらり、と一息で走る。
リオン・グランフェルト
名を書いた任務札を、そのまま控え板の前へ持っていく。
荷場の兵が二人、三人と足を止めた。
帰投した兵も、補給係も、天幕脇の見張りも、自然にそちらを見る。
ゲオルクは板に打たれた札の列の中へ、その名入りの札を差し込んだ。
木に札が擦れる音が、妙に硬い。
リオン・グランフェルト。
未処理箱には戻せない。
名無しの補充にも落とせない。
皆の目の前で、そこに残った。
ラザールの手元では、下げられた白札がまだ折れたままだった。
リゼットはその名を見つめたまま、細く息を吐く。
見たから立った。
その結果が、今、板の上にある。
リオンは任務札を受け取った。
軽い紙だ。
だが、もう軽いままでは終わらない。
その瞬間だった。
天幕の外で馬が甲高くいななき、荷場の空気が一変した。
「伝令車だ!」
「廃砦方面から戻ったぞ!」
リオンもゲオルクも、同時に外へ出た。
夕方の赤い光の中へ、泥と煤にまみれた荷車が滑り込んでくる。片輪は軋み、側板には焼け焦げが走り、旗は裂け、折れた弩矢が幾本も突き刺さっていた。
荷台の奥で、人影が揺れた。
若い兵だ。
まだ少年の線が顔に残る。胸当ては割れ、腕は血で固まり、片手だけが板の縁を掴んでいる。
抱え下ろされる寸前、その兵は薄く目を開いた。
焦点の合わない目が、それでも前に立つリオンを捉える。
「門は……まだ、持ってる……」
それだけ言って、兵は崩れた。
荷場が凍る。
リオンは振り返らない。
もう確かめる必要はない。自分の名は、控え板に残った。
なら次にやることは、一つだ。
血に濡れた兵の手を見て、リオンは名入りの任務札を握り直した。
「なら、まだ間に合う」
短く落ちた声が、荷場の喧噪をまっすぐ割った。
条件提示の次に来たのは、紙の上の勝ちではない。
門が落ちる前に着く。




