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第1話 死地に引かれた一本線

「後列三台は捨てろ」


ラザール・ヘニングは、荷札の付いた板を指で弾きながら言った。


まるで未処理の箱でも脇へ退けるような、軽い声だった。


「どうせ足を引く。順を乱すだけだ。切り離して時間を稼げ」


輸送隊の前には浅い谷があり、ぬかるんだ道が細く続いていた。


雨上がりの土は重い。車輪は沈み、馬は苛立ち、兵たちの顔にも疲れが張り付いている。


後列三台。


そのうち一台には、負傷兵が乗せられていた。


「聞いているのか、リオン」


ラザールがようやく視線を上げた。


その目には、露骨な侮りがあった。


「おまえにはちょうどいい役だ。廃嫡寸前の厄介者次男騎士なら、捨て札の先頭でも似合う」


周囲の空気が、薄く冷えた。


だが、リオン・グランフェルトは怒らない。


半分欠けた家章留め具を指先で直し、ずれた短マントを片肩へ払っただけだ。


貴族の上衣の上に現場装備を雑に重ねたその姿は、家の人間にも兵にも、妙にちぐはぐに見える。


「侮辱は好きにしろ」


低い声で、リオンは言った。


「後列に負傷兵がいる。あれも捨てるつもりか」


ラザールは鼻で笑った。


「現場では切るべき手がある。学べ、次男」


「それが家の面子を守る手か」


「生き残る手だ」


その瞬間だった。


森の縁で、何かが光った。


「矢!」


叫びより早く、雨を含んだ空気を裂いて黒い雨が降った。


先頭の馬が悲鳴を上げる。荷台の板が弾け、控え札の木片が飛ぶ。ぬかるみに車輪が取られ、列が歪む。


「襲撃だ!」


「左林から来るぞ!」


「前を閉じろ、前を――」


怒号が重なった。


だが道が狭い。列は詰まり、逃げ場がない。


後列三台が、最初に死ぬ。


誰の目にも分かった。


負傷兵を積んだ荷馬車の馬が矢を受けて暴れ、横転しかける。そのさらに外から、斜面を蹴り下りた敵騎が槍を伏せて突っ込んできた。


崩れる車輪。


逃げ遅れた若い兵。


踏み潰される荷台。


まとめて終わる線だった。


リオンだけが、それを一本の線として見ていた。


敵の突撃線。


味方の退路。


崩れる馬車の軌道。


死地の真ん中に、細く青白い一本が走る。


「トーマ、負傷兵を縄ごと切れ!」


「え――」


「今だ!」


若い兵がはっとして短刀を振るう。


リオンは一歩だけ前へ出た。


手袋の縫い目を軽く引く。


視線だけで、迫る槍を捉える。


「《界線術》」


短く落ちた声に、世界がひとつだけ噛み合いを変えた。


叩き潰すはずの敵槍が、空中で止まる。


釘打ちされたように。


見えない壁ではない。


そこだけが、戦場の理から切り離されたみたいに、ぴたりと固定された。


敵騎の目が見開かれた。


「な――」


槍は進まない。


馬だけが前へ出る。


勢いを失った騎手の体が泳ぎ、鞍から半歩浮いた。


「荷台を右へ倒せ! 道を空けろ! 前列、槍を上げるな、膝を狙え!」


止めて終わりではない。


リオンの声が飛んだ瞬間、混乱していた兵たちの動きが揃った。


トーマが縄を切る。


荷台の横木が外れ、負傷兵を乗せた板がぬかるみへ滑り落ちる。


その脇を、横転しかけた馬車が青白い線の外へ外れて転がった。


本来なら、全員を押し潰していたはずの軌道だ。


生存線が、そこにできた。


「前へ!」


リオンは止まった槍の柄を鞘で叩き、敵騎の姿勢を崩した。


その一撃で騎手が泥に落ちる。


横から踏み込んだ兵が剣を突き入れた。


次の敵が来る。


二騎。


三騎。


だがもう、最初の一手は潰れている。


列は死んでいない。


指示は通る。


「後列は捨てない! 立てる奴は壁を作れ! 立てない奴は板の裏へ潜れ! 荷を守るな、人を守れ!」


その声だけで、何人かの顔が変わった。


さっきまで命令待ちだった兵が、泥まみれのまま盾を寄せる。


負傷兵を引きずり出す手が増える。


崩れた列が、守る形へ変わっていく。


敵の頭目らしい大男が、斧を担いで斜面から飛び下りた。


狙いは中央の荷馬車ではない。


板の陰に伏せた負傷兵の群れだ。


速い。


重い。


あれが今度の最強の一手だった。


リオンは振り返りもしない。


斧が振り下ろされる寸前、片手をわずかに横へ払う。


青白い線が、大男の肩口から地面へ落ちた。


斧が止まる。


空中で。


負傷兵の目の前で。


刃先が震え、泥がぽたぽたと落ちる。


だが一寸たりとも進まない。


その静止だけで、戦場の音が一瞬消えた。


リオンは振り向いた。


冷たい目で、大男を見る。


「そこは、越えさせない」


短く言って、踏み込む。


鞘で肘を砕き、喉へ一閃。


大男が崩れ落ちると同時に、止まっていた斧が泥へ突き刺さった。


遅れて、息が戻る。


兵たちが吠えた。


押されていた列が、逆に敵を押し返す。


「押せ!」


「今だ、囲め!」


「逃がすな!」


数刻にも感じた襲撃は、そこから早かった。


最初の崩壊を止められた戦場は、もう敵のものではない。


森へ逃げる背中が増え、泥には武器と荷札が散った。


最後の一人を斬り伏せた頃には、雨雲の切れ目から薄い光が落ちていた。


荒い息の中で、リオンはすぐに剣を収める。


「負傷兵を先に見ろ。生きている順じゃない、出血の多い順だ」


「は、はい!」


「荷は後でいい。控え札を拾え。襲撃の痕を消すな」


敵の死体より先に、倒れた兵のそばへ膝をつく。


血に濡れた若い兵が、呆然とリオンを見上げた。


「お、俺は……捨てられると……」


「まだ口が動くなら死なない。噛め」


リオンは腰の革紐を抜き、止血帯を作って兵の腕を縛った。


その手つきは乱暴に見えて、速い。


迷いがない。


少し離れた場所で、それを見ていた女騎士がいた。


リゼット・アシュベル。


細剣を握ったまま、彼女は動かなかった。


いや、動けなかった。


最初に目を奪われたのは、敵の斧が空中で止まった瞬間だ。


だが、目を離せなくなったのはその後だった。


勝ったからではない。


助けられる側へ、迷わず膝をついたからだ。


リオンの短マントは泥と血で重く垂れていた。


頬の古傷に飛沫がついている。


それでも彼は、戦った相手ではなく、生き残った兵の脈を見ていた。


リゼットはゆっくりと近づいた。


「……あなたは」


声が、途中で止まる。


彼女の視線の先で、リオンは別の負傷兵へ布を押し当てていた。


あの侮辱の最中も、この襲撃の最中も、彼が怒ったのは自分の扱いではなかった。


切り捨てられる側が出た時だけだ。


ようやく、言葉になる。


「……あなたは、勝つためじゃなく、捨てさせないために剣を抜くのですね」


リオンは顔を上げた。


一瞬だけ、怪訝そうに彼女を見る。


「結果として勝つだけだ」


「そういう言い方をする人だとは思っていました」


「なら、その通りだろう」


ぶっきらぼうだった。


だが、否定ではなかった。


リゼットは小さく息を吐く。


胸の内で、何かがはっきり傾いたのを感じた。


この男は違う。


家がどう扱おうと、現場で消耗駒にしていい人間ではない。


その時、後方でトーマが叫んだ。


「リオン殿! これ……!」


拾い上げたのは、泥にまみれた荷札ではない。


襲撃者の一人の胸元から出てきた、削られた封蝋片だった。


ただの賊が持つには不自然な、補給印の欠片。


リオンの目が細くなる。


「野盗じゃないな」


「最初から輸送順を知っていた、ってことですか」


「知っていたどころじゃない。後列三台を真っ先に食いに来た」


誰が切らせようとしたか。


誰がそこを知っていたか。


答えは、まだ紙面に乗っていない。


だが、もう匂いは出ていた。


ラザールの顔色が、少しだけ変わる。


それを見て、リゼットは剣の柄を握り直した。


後処理では終わらない。


そう理解した瞬間、リオンは泥の上に落ちた封蝋片を拾い、血のついた手で握り潰した。


「検分を急ぐぞ」


冷えた声が、谷に落ちる。


「今日の襲撃は、ここで未処理にさせない」

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