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アブソリュート・トラッシュ  作者: 三篠森・N
第7章 アブソリュートマン:ニュージェネレーションスターズ
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第74話 赤裸々

 その男が目を開けるとやたらとちかちかする光がぼんやりと視界のあちこちで瞬いていた。すぐにそれが不夜城新宿の夜景であると察し、重度の風邪を患ったような奇妙な浮遊感、そして体を動かそうとするたびに鉛のように纏わりつく重さに魘された。口の中は乾き、どれだけ息を吸っても浅く、それでも足りずに痰が絡みついた。


「負けたんだな、俺は」


「ええ。落ち着いて。落ち着いて、ディエゴ。これを見て」


 聞こえる最愛の人ラーナの声。玩具、愛玩動物同然に扱ってきたラーナはここ最近でちゃんと恋人として大事な存在になり、今は母のようにその声を欲している。そのラーナのかおりが近づき、その男……ディエゴ・ドラドデルフィンに手に鏡を握らせた。


「これが俺か……?」


 ぼやつく視界でしっかりと結ばれる焦点。それでも視力そのものが下がっているが、間違いなく自分であるのに現実を疑いたくなるようなものが映っていた。

 不敗の誓いを破った禊で剃り残した“敗”の字は真っ白。その字を残した顔には深々と皺が刻まれ、肌が劣化して染みが浮かび、目じりが垂れ下がって男前が見る影もなかった。疑うまでもなく、老人が鏡に映っていた。手の甲を見れば血管と骨が浮かび、二一〇センチの身長を支えられず立つことも出来ない。急激な筋肉の消失で服はぶかぶか。半信半疑で、左の掌に右の拳を叩きつけても子供が笑うような音しか出なかった。

 文字通りにディエゴ・ドラドデルフィンの若さと力は消費され切ったのだ。

 この短期間で二度の敗北。そしてDD興業が倒産して以降の気力の弱りようは著しく、フジに負けたことで気力以上に……不随意で動く魂が気力も体力も無視して戦いから暴君ディエゴ・ドラドデルフィンを退かせたのだ。


「年相応になっちまったぜ」


 そうだ。むしろここまでディエゴが三十代の見た目を維持していたのは、底なしの欲望故だった。それを満たすためには若さという力が必要であり、敵をブッ倒すにも女を抱くにも若さが必要だった。それだけで五十年以上も! 姿が変わらなかった! その凶暴な精神力はやはり常軌を逸している。誇り高くすらある。誇り高いから強くなったのではなく、強かったから誇り高いように周囲が認めただけだ。


「ディエゴ・ドラドデルフィン」


「テメェがジェイドか。テメェとも戦いたかったが、もうそうはいかねぇみたいだ」


 体を顧みない飲酒喫煙。急激に老いた今、そのツケを払って声がガラガラに枯れている。若者たちに説いたとおりだ。プロレスラーは酒とタバコとラリアットで喉を潰してようやくレジェンド。


「ケガは治しました。ただわたしでも老いを止めることは出来ません」


「別に構わねぇよ。むしろもう戦わねぇ理由にもなる」


 あのクソ生意気と愛嬌と俗と葛藤とモラトリアムでモザイクガラスだったフジとは違い、彼の姉ジェイドはくすみなど一切ない一枚の……。ガラス? ダイヤモンド? 透き通った壁だ。だが上下左右を見回してもその端、果てが見えない大きな壁だ。……かつての自分ならばその果てまで辿り着くことが出来たのだろう。だがそれも出来なくなった現状を悔しいとも思わない。

 自分が完全に引退したという事実を水を飲むようにするりと飲み込み、ディエゴは椅子に座って笑った。


「ありがとう、ディエゴ・ドラドデルフィン。あなたのおかげで弟はようやくプライドを持てたと思います。誇り高いから強いのか、強いから誇り高いのか。順番はあるのか、資格やタイミングがあるのか。弟は弟なりに見出すと思います」


「そりゃよかった」


「……引退するんですね、本当に」


「そういうことになるな」


「あなたは美女がお好きと聞きました」


「まだ勃つかわからねぇけどな、この体で」


「自分を美女というのはおこがましいかもしれませんが、この場に残っているのは偶然にも全員女性です。あなたのその頭の“敗”の字を消したい。そして戦士としての最後の儀式として、不敗の誓いを完遂するために断髪式を行わせてください」


「好きにしろ」


「では、わたしから失礼します」


 まずは宇宙最強の戦士にして、自分を介錯した引退試合の相手フジの姉、寿ユキがハサミを入れた。

 次に宇宙一の美女メッセが、そしてフジ最大の親友にしてメッセに比肩する美貌のメロンが。ゴア族副族長の男装の麗人である伊藤魚子、ディエゴに引退を決意させたブレイズの元恋人でいずれメロンやメッセに並ぶであろう彩凛。アブソリュートマンを目指す狂人地球人でクールビューティの怪盗の犬養樹が髪を切った。そしてただの女子大生鼎が。残りの髪はハサミではどうにもならない。最後に残ったラーナが剃刀を持ってディエゴの後ろに立った。


「ディエゴ」


「ラーナ。そのまま喉を掻っ切ってくれてもいいぞ。醜いだろ」


「ええ、醜いわ。でも死にたいの?」


「死にたくはねぇな。……死にたくはねぇよ。ゲートボールとか編み物とか、そういうジジイなりの余生もあるだろう」


「わたしは最後まであなたを愛すわ」


「一つ条件がある。それを守れねぇなら、残りは自分で剃る」


「言ってみて」


「俺が先に死んだらテメェはさっさと次探せ。いつまでも喪に服すなよ。テメェはまだ若いし、美しい。俺を忘れろとは言わねぇが、幸せになれ。それを約束出来ねぇなら剃るのをやめるか、俺の喉を切れ」


 ぞり、と無言の返事。こうしてディエゴ・ドラドデルフィンの引退式はしめやかに終了した。


「ハァ……」


 なんという気楽……。

 老人の体のはずなのに、まるで赤ん坊のように心は安らいでいた。


「ディエゴさん」


「どうした、鼎」


「ありがとうございました。フジが必ず……必ず!」


「安心しろ。あいつは必ず勝つ」


 しわしわでガリガリの腕でがしがしと鼎の頭を撫で、ディエゴ・ドラドデルフィンは立ち上がった。股関節、膝関節が悲鳴を上げている。それでも立った。


「ラーナ。ポータルを開け。帰るぞ」


 ディエゴ・ドラドデルフィン、スヴェトラーナ・スカーレットスカート。その姿、老いさらばえ、かつてのような闊歩もままならない。されど王者にふさわしい威風堂々の退場。




 〇




「はぁ……」


 誰もいない一番風呂。下北沢から程近い銭湯で、精悍かつ妖艶な、中性的で美しい女性が肩まで浸かって極楽に至りかけていた。一つ歌でも歌いたい気分だ。風呂桶がかぽーんとオツな音を立て、銭湯内に反響する。水中で人差し指と中指をくいっと立てれば、穏やかな波紋が水面で揺れる。充満した湯気が、緩く渦を巻いた。次のお客が来たらしい。小柄で薄味で小ぎれいに整った顔立ちだが、体つきは特別に煽情的なアピールをしない質素なものだった。


「どぉうも。お背中流しましょうか?」


「いいんですか? 初対面なのに」


「いいんです、いいんです。こういうことがあるから街の銭湯はいい」


 先客は火照った体を、脱衣所から運んできた少し冷えた空気に当てて酔いを覚ました。そして後から来た小柄な女性の背中を流す。タオル越しに背骨の突起まで感じ取れる。その肌はまるで乳白色の宝石のようにすべすべと滑らか、艶やかに輝き、どれだけ洗っても実際の大きさ以上に思えて洗いきれた気がしなかった。


「ん?」


 湯気で視界不良、そしてタオルで隠れているが……。巨壁に見え始めた背中に、文字が刻まれている気がする。タオルで触り、その文字を確かめる。

 “淑”。


「ありがとう、もう大丈夫です」


 小柄な女性は髪を解き、長い長い髪を洗った。デコピンで折れそうな細い首筋。無防備なうなじ。入浴前のすべてを終えた小柄な女性は、先客を湯船に誘った。とても品が良く、背中から感じ取ったように淑やかな女性だった。しばし白い裸体に見入ってしまった。


「一番風呂は続けてどうぞ」


「ありがとうございます」


 先客の女性と小柄な女性は少し離れ、それでも互いの声は聞こえる位置に並んで温まっていた。静かで温かな時間が流れていた。


「近頃は物騒だって聞きますねぇ。怪獣だのアブソリュートマンだの」


「ええ、でも頑張ってくれる人もいますから」


「例えば?」


「アブソリュート・アッシュとか」


「よくわかんないんですけど、アッシュはずっと頑張ってますよね。で、ジェイドとレイがいた時期もあるけど知らないうちにSNSで休業告知出していなくなった。そしたらブレイズだのロゼだのよくわからないアブソリュートマンが出てきて、アブソリュートマン同士で戦っている。そんな人たちを信用していいんですか?」


「そういう意見もありますね。確かにアブソリュートマンは頑張っている。でも地球の平和は地球人が守るべきだと思います。アブソリュートマンはその手助けをする」


「手助け? 地球人が手に負えない領域をフォローする? それとも傭兵として雇うとか?」


「答えは出ないでしょうね。アブソリュートマンは憲法違反の暴力装置で、そんな輩を英雄と讃えるのはおかしいとおっしゃる方もいます。アブソリュートマンのスポンサー企業の不買運動をする方もいますね。所詮アブソリュートマンはよそから来た異星人ですから」


「じゃあ、地球の平和は地球人が守るというあなたの考え。ここで不可能、無理と断ずることは簡単ですが、一緒に考えてみたいなぁって思いました」


 ぼこぉ。湯舟に大きな泡ぶくがたった。だがこんな素敵なレディ二人が粗相をするはずもない。ぼこ、ぼこぉ。泡は一つや二つではない。断続的に、浴槽のあちこちであがっている。


「どうしても地球人には限界があるんですよ。昨年夏の神戸……。ロボット怪獣が地球の味方のようなムーブをしたけど、それだって地球人には事情も分からないし、もし本当に地球人が作ったんなら実弾を発射するロボット怪獣は重大ですよ。国産だったら国際問題になる。でも、そういうのがないと物理的に異星人とは戦えないってのもわかる。たとえばアブソリュートマンが敵になったら、ね?」


「……」


「じゃあ地球産怪獣が地球を守るってのはどうでしょう? 例えばオーガロンやファザケケーンあたりが。地球産怪獣は地球の生態系の一部。もしライオンやクマを操れるなら、かつては戦争にも使われたはず。実際に馬、犬は戦や狩りに使われる」


「面白い考え方ですね。そして随分と怪獣にお詳しい。しかし、一般的にそれを家畜と呼ぶのでは?」


「だから対話が必要なんですよ。地球産怪獣に、一緒に地球のために戦おうと説得してさぁ!」


 先客の言葉のテンションに連動してぼこぉ! ひときわ大きな泡。気付けば銭湯内に張り込める湯気の濃さが先程までとは段違いだ。天井付近に滞留する水蒸気は雲のようになり、天井で結露して雨になっている。そうだ。二人の浸かる浴槽は、既に沸騰している。二人のオーラとテンションによって。


「ならば、よその星から来た怪獣にも帰ってくれと説得すればいいのではないでしょうか。そう簡単に話が通じる相手ならね。ねぇ? 松田みゆきさん。いえ、アブソリュート・クラウン」


「どうやら同じアブソリュート人同士でも交渉決裂なこともあるようだね。残念だ。これじゃあ地球産怪獣で地球を守るなんて夢のまた夢だね、寿ユキさん。それともアブソリュート・ジェイドの方がいい?」


 互いに名を呼んだことで温泉は完全に沸点に達した。松田みゆきはXYZとマインの娘であり、即時のデリートを命じられた存在。だがユキは血脈だけでみゆきを消すことは出来ない。しかし、無邪気な理想論に聞こえたみゆきの持論。これは本心ではない。猫がネズミを弄るような残虐な戯れだ。そして、みゆきにとってユキは父の仇。それも二度もXYZを殺している。それでもここまでこの二人が持ちこたえていることは、二人は沸点に達すれば沸騰するというように数値で構成される物質ではなく、精神的な制御にすべてを委ねているが故だ。


「父からはあなたと話すなと言われています。この戦いがアブソリュート・ジェイドvsアブソリュート・クラウンという個vs個となり、互いに、或いは一方的に理解を示してしまう前に、正義vs悪というイデオロギーで始末し、アブソリュート・クラウンの影響を世間に広めてはならない、と」


「父が健在で羨ましいよ。君は敵を殺さない戦士だよね? それでもわたしを殺すの? 言っとくけど、殺すまで止まらないよ、わたしはね」


「ならば話はここまでです」


 ばしゃあ。立ち上がった二人は一糸まとわぬ生まれたままの姿で向かい合い、そして拳を……。


「テアーッ!」


「フィリアーッ!」

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