第62話 2021年最後の挑戦
二〇二一年十二月三一日十七時。この時刻開始の試合をもって二〇二一年の激動は終わる。この一年は戦いの年だった。メタ・マイン、護神像、金田一蔵之介。大阪万博記念公園、神戸港、羽田空港が負ったダメージが完全に回復するまで数年を要するだろう。
そして最後の戦いを、今か今かと待つのは挑戦者の芦屋薪悟ことアブソリュート・ブレイズ。十分前には芝公園に入り、入念にウォームアップしていた。この日は寒い一日だったが、愛用の厚手のスタジアムジャンパーを着ていると暑いくらいだった。
「アラ、真面目なのね」
「あんたは……」
「人の顔と名前覚えるの、苦手なの? 一度会った人はわたしの顔を忘れることなんてないのに。ちょっと傷ついちゃうわ」
宝玉のように美しい目、雪のような肌、艶やか、息をのむ、絵にも描けない。そういった形容をいくら並べ立てても足りないくらいのとびっきりの美女のセリフは、決して傲慢ではなかった。
「メッセンジャー。普段はフジと連携しながら探偵をやっているけど、今は一格闘技マニア」
「ああ、メッセさんか」
メッセ。Z飯店末期に彩凛に修行をつけ、その力で彩凛はZ飯店を改革しようとしたが救えない愚鈍だった薪悟の言動によりそれは失敗し、薪悟は彩凛にフラれてあれ以降一度も会っていない。だがメッセは今の彩凛の身元引受人になっていると聞く。
「あんたが彩凛と過ごさない大みそかははじめて?」
「思い返してみるとそうかもな」
「その意味を知れ。わたしはまだあんたを許していない。わたしは何より感情と人情を優先する。彩凛の感情を理解出来なかったこと、朴訥と無欲の美学の上に自分の感情と人情を押し殺して常に他人に謙譲するあんたには本来用はない」
「あぁ? じゃあ何故来た?」
美しさという力の前に許された罵倒に、薪悟は少しイラついてみせた。売り言葉に買い言葉ではあるが、怒りの感情が自分にもあることを見せてみたかったし、メッセの持つ薪悟についての情報は更新されていない。今の薪悟はブチギレるし、積極的に動ける。
「フジの兄のレイ。あいつはあんたと対極の厚情と激情の男よ。今は休んでいるけど、レイにフジを支えるよう頼まれているわ。この戦いで勝った方がフジに挑戦するなら、わたしにとっては敵情視察。……なんて言ったけど、わたしはレイに似たものをディエゴに見たのかもね。結局のところわたしはディエゴを観に来ている」
「そうか」
ほんの少し、期待してしまっていた。メッセが来たことで彩凛も来ているのではないか、彩凛の近況を話してくれるのではないか……。一切なかった。気に食わない人間には何も与えないし施さない。その冷たさがメッセなりの人情と感情なのだろう。人間は十人十色。だから違っていい。……などというきれいごとが、今までのつまらないブレイズを作っていた。今は人並みに、メッセにイラついていた。
その時、雑木林を包む夜霧から戦艦大和主砲じみたリーゼントがぼわりと現れた。
精神的満身創痍のディエゴ・ドラドデルフィン。常に腰に輝いていたDD興業チャンピオンベルトはもうない。暴君ですらないのだ。あの蒲田の焼鳥屋で女将さんに一発退場を宣告され、それに応じた時点で暴君は市井の人間に負けていたのだ。
「多少はやりがいのあるオーディエンスじゃあねぇか。なぁ? 宇宙一の女メッセンジャー。おい、もう一人の出歯亀野郎、出てこい」
ディエゴが空を見上げるとぱりっと小さく電気が弾ける音が忙しない大みそかの夜に消え、今年最後の夕日が空から垂直に落ちてくる人影を地面に投影した。
「フジ」
上空でバリアーの板の上で高みの見物をしていたフジは地面に降り、ブレイズとディエゴを交互に見た。……。フジ、ブレイズ、ディエゴ。上野でのあの戦いに勝者はいない。だが最も変化がなかったのはフジだった。彼のみが泰然とし、いつもと変わらぬ目つきと姿で立っていた。彼が何を考えているのか理解しているのはメッセだけだろう。出来ればディエゴに勝ってほしいとフジは願っているはずだ。フジにはブレイズの挑戦を受ける義務はないが、ディエゴにリベンジする動機がある。
「もう一人覗き魔がいるわ」
メッセが腕と足を組んでベンチに座った。パンチラなどあるはずのないパンツスーツなのにシャロン・ストーンの足組めいてセクシーだった。暗闇でも光るような目が空を見上げると、ブーツの紐をあしらった巨大なポータルが開き、角ばった六メートル四方の落下物が芝公園に降りてギシギシとバネやロープを軋ませた。
「リング?」
「余計なことをしやがって」
リングの中央で衝撃を分散させて佇むのは、ディエゴがメッセを宇宙一の女と認めても宇宙一愛した女、ラーナだ。彼女は肩にDD興業チャンピオンベルトをかけ、右手にマイクを持ち、凛々しく立ち上がってディエゴを見た。
「赤コーナー、DD興業チャンピオン、無頼怪獣ヘイワン! ディエゴ・ドラドデルフィン!」
「……」
「あなたは王よ、ディエゴ。そしてDD興業は法人でも証券でもないわ。あなたのいる場所がDD興業。概念なの」
「そしてテメェがまだいると」
「今はわたしとあなただけのDD興業よ。だからあなたは王でありチャンピオンのまま」
「……こういう時に女は強いな。負けた! テメェには負けたぜラーナ」
天を見上げたディエゴのリーゼントは勃起するように硬化し、反り、かつての輝きと硬度を取り戻してしまったようだった。今は東京タワーにも劣らない高さに見える。戻ってしまったのだ。あの高貴で野蛮なディエゴ・ドラドデルフィンに。
「ラーナ。計算しろ」
「何を?」
「俺とブレイズ、これは一対一だから基本的にはどちらも勝率は50パーセントだな」
「そのとおりです」
「だが俺は210センチでやつは180センチ。俺は何倍デカい?」
「約1.17倍です」
「体重は?」
「ディエゴが105キロ、ブレイズが80キロで、約1.31倍です」
「そして俺がDD興業チャンピオンになってから46年。やつは23歳の若造だ。だが優しく、ここは俺が2倍のキャリアということで見積もってやる。その倍率をすべて計算すると何パーセントで俺が勝つ?」
「50×1.17×1.31×2=153.27となり、ディエゴが153パーセントの確率で勝ちます。これはディエゴが一度勝った後、もう一戦しても約半分の確率で勝つことを意味しています。そしてパーセントの概念に当てはめれば、ブレイズは100から153.27を引くとマイナスの数値になるため決して勝つことはありません」
「そして俺らは二人いる。さらに2倍でいくつになる?」
「ディエゴの勝率は306.54パーセントです」
「こいつはいい! じゃあ今夜はテメェとベッドで年越しプロレスしてやるぜ、ラーナ」
ディエゴは大きく息を吐いた。戦闘への興奮ではなかった。安堵だった。今までの強い自分に戻ってもいい。それを証明してくれた宇宙一愛する女ラーナ。ラーナがディエゴのそばを離れないことでディエゴはDD興業に縛られて、愛を負荷に感じていた。
だが知った! 一方的に奪ってきただけの怪獣ははじめて与えられ、受け取ったのだ。その瞬間にディエゴの全身の細胞が劇的に変化を起こし、暴君は暴君に戻った。民は自分と王妃しかいない。だがDD興業という名の王国は確かに再興したのだ。
「あぁああ」
ブレイズ、苦悶。頭を掻きむしり、抑えられずに呻吟した。
この孤独をディエゴだけはわかってくれる気がしていた。裏切られた気分だ。親しみを覚えたから会話が出来て、その流れで挑戦が出来た。結局ディエゴにはラーナがいる。フジには鼎がいるし、この場に限ってもメッセという仲間がいる。自分だけだ。自分だけが一人だ。
くそったれ。くそったれ!!!
激しい嫉妬と寂寥は、今までにブレイズが体感したことのない燃料となって彼を燃やした。母が死んだときも病気だから仕方ないと思った。彩凛が去った時も彼女が選んだことだと受け入れた。もう何もない。自分の嫉妬や孤独、怒りといったものは自分のものとして大事にすると決めていた。自分のものを捨てることは出来ない。この瞬間に、ディエゴへの挑戦は強者を超越する戦いという儀礼からディエゴを否定するために孤独な自分のアイデンティティを賭けたものへと変わってしまった。濁っているが殺意の純度が高い黒い炎がブレイズの中で燃えていた。
「王者の特権として、この試合のルールを決めさせてもらう」
「試合? 試合だと?」
「試合だバカヤロウ。俺様はプロレスラーだぞ。だがルールは簡単だ。プロレスのルールは知っているな?」
「知らない」
「テメェ……。何なら興味があるんだ? 一度見たメッセ……宇宙一の美女の顔も覚えられねぇ、マインのことも知らねぇ、プロレスも知らねぇ。世間知らずにも程があるぞ」
「俺の世界には田中角栄と宮沢賢治しかない」
彩凛ももういないから。彩凛がいなくなったことで薪悟の世界から歌が消えた。
「前にも言ってやったが好奇心と野心のないやつはいくらいい女を抱いても精神的には童貞だ。……まぁいい。両肩をマットに押し付けられた状態でレフェリー確認のもとスリーカウントで敗北。リングアウトした状態で二十秒経過で敗北だが今回はなしだ。だがフォールはリングでのみ有効。金的、目突きは問答無用で反則負け。関節技をかけられてもロープに触れたら解放が指示される。それ以外の禁止されている一部の打撃と超能力は、まぁ今回はアリにしてやろう。それでどうだ?」
「わかった」
「そしてレフェリーはラーナだ」
「なんだと? じゃあ反則したい放題じゃないか」
ディエゴはにやりと笑った。あくどい笑みだったが、暴君のそれではなく悪童だった。この前の打ちのめされていた蒲田とはまったく顔つきが違う。それ以前の上野とも違う。ディエゴの三つ目の顔……阿修羅のように全く違う顔。それを浮かばせる巨体が同じでなければ同一人物とはわからなかったかもしれない。おそらく、これがプロレスをはじめた時のディエゴ・ドラドデルフィンに近い赤裸々な姿。プロレスへの愛、自分の力と才能への愛。そしてラーナに与えられた愛により、さらに強くなっている。王者ではなかったディエゴ・ドラドデルフィンだ。
「待て」
「なんだ?」
「つまり特別ルールだな?」
ウインドブレイカーのポケットに手を入れ、ヤンキーじみて肩を揺らしながらフジがリングサイドまでやってきた。メガネが東京タワーのライトアップを反射し、その目は伺い知れず、こちらも悪ガキめいている。元より品行方正ではない分、尊大さをアピールする自己演出が堂に入っている。
「そういうことになるな。この試合だけのルールだ」
「じゃあこの試合……というかこの興行をフジゲームと名付けてやろう」
「なんでテメェの名前だ? むしろディエゴゲームだろう」
「勝った方が俺に挑戦するんだろう? じゃあフジゲームだろ」
「テメェは一週間前に上野で俺にボコられてメガネ割られたよな? 王者は俺。テメェはシードにすぎねぇ」
「マジで勝てると思ってんのか? 今のお前さんが俺によぉ」
ようやく覗いたフジの眼光は研ぎ澄まされた刃だった。迫力、怖さ以上にも気高さすら感じられる。その血筋ではなく、この二〇二一年も戦い抜いた一流の戦士の眼差しだった。弛緩した態度とは釣り合わない緊張感を、その目を見たものにだけ与えた。
「じゃあこいつで決着つけようぜ」
ディエゴはエアーズロックじみた巨大な拳を顔の高さに上げ、フジを威嚇した。
「じゃんけんだ」
「ああ、いいぜ」
「じゃんけんぽん」
一回目はフジが勝利。
「今のは練習だ。もう一度やるぞ」
「ぽん」
二回目もフジが勝利。
「三本勝負だからな。ぽん」
三回目、四回目、五回目もフジが勝利し、ディエゴは腰に手を当ててため息をついた。
「グーの音も出ねぇな。わかった。フジゲームでいいぜ」
「これがお前さんの現状だ。勝てるわけがねぇんだ、今のお前さんじゃ。もう一人特別ゲストを呼んでやる。カナエ・モチヅキ!」
ベタフラッシュ、六一番のトーン、フキダシといったマンガ家のテクニックに縁取られたド派手なポータルから、遠慮がちにフジの恋人がやってきた。恐る恐る知っている人間を探し、メッセを見つけて縋るように隣に座った後、誰に向けたかわからないお辞儀をした。
「ブレイズ。お前さんが六大レジェンドの戦いの時に鼎を守ってくれたことは感謝している。あの時、六大レジェンドが戦った。じゃあド素人の鼎は、お前さんの戦いを見てどんな印象を受けるのかなぁ? ド素人の目から見ても六大レジェンドと同じ感想が出ると思うなよ」
フジは鼎の隣に座り、ディエゴにお似合いの軽薄な仕草で鼎の肩に手を回して禁煙パイポを咥えた。明らかに挑発だ。それに素直に乗るのも悔しかったが、ブレイズは嫉妬、屈辱をすべて受け入れ、処理しないことにした。他人を正当化し、許すために自分が損をするのはもうやめる。この感情を力に変える。
「さぁ、やろうぜ」
DD興業特別ルール “フジゲーム”
“DD興業チャンピオン”“無頼怪獣ヘイワン”
ディエゴ・ドラドデルフィン 二一〇センチメートル 一〇五キログラム
VS
“--”“--”
芦屋薪悟/アブソリュート・ブレイズ 一八〇センチメートル 八〇キログラム
「ドドアッ!」
「バルダッ!」




