深夜の訪問者
部屋の出入り口は、セリルが横になっているベットの、足の側にあった。
身じろぎもできない彼女は、物音のした方向を窺えない。
だが、変わらず闇と沈黙に包まれているその一角には、前にはなかった何かの気配が現れていた。
乱れかけていた息を潜め、セリルは視線を頭上へと向ける。
部屋の奥には、寮の中庭が望める、嵌め殺しの窓があった。
弱々しい月光が差し込むその硝子には、僅かに内側へと開かれた扉。
そして、その隙間から室内を覗き込む一つの人影が、幻のように薄っすらと映り込んでいた。
扉を外から開錠し、廊下側から中の様子を覗いている相手の顔は、陰に隠れて良く見えない。
それでも、高い背丈に筋肉質な肩口という、男性に特有の体つき。
重ねて、その身がまとっている見覚えのある黒服は、セリルの知るアクタの姿と一致していた。
侵入者の正体を知ったセリルは、一瞬だけ戸惑う。
次の瞬間、彼女は全てを悟り、握り締めていた両の拳を、ゆっくりと、小刻みに、解いていった。
考えてみれば、当たり前のことだった。
彼は、自らが捕らえた魔女達を、自分の『嫁』であると公言していた。
であれば、その一員へと加えられたセリルにも、『夫婦』としての初夜があるはずだった。
彼女は各地を放浪していた時にも、何度か襲われた経験はあった。
その際は、魔法を使って撃退し、相手が騒ぎを起こす前に、その土地から離れるという対処法を取ってきた。
しかし、今のセリルには身を守る術も、逃げる場所もなかった。
ここは、彼の集めた魔女達が収められる、巨大な収集箱である。
他の少女達は、自らの主であるアクタへと表立って反意を示し、暴力的な抵抗まで行っていた。
それでも、彼女達はやはり、支配される側の存在である。
例え、誰かが泣き、叫び、助けを求めたとしても、その相手が自分達の主人である限り、誰もが黙って嵐が過ぎるのを待つ他はないだろう。
ここの魔女達は、既に『所有物』であるのだ。
自らの『所有者』へと歯向かう力など、彼女達に与えられているはずなどなかった。
セリルが冷めた頭で黙考していた間も、外の男は動かなかった。
彼女が寝静まっているのかを、確認しているのだろうか。
訪問者は扉へと身を寄せる恰好で、僅かな隙間から部屋の中を眺め続けていた。
闇に溶けた顔から放たれる視線は、寝台に横たわる少女を捉えている。
毛布越しに肌を刺す、鋭く、熱い眼差しに、彼女は薄く唇を噛み締める。
捕獲をされた時から、非人道的な扱いを受ける覚悟はしていた。
指先に走る震えを握り殺し、セリルは冷えた両手を胸もとへと引き寄せる。
図らずも、神への祈りに似た姿勢となりながら、彼女はその時が訪れるのを待ち続けた。
遠くから届いていた遠吠えは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
鉄のように硬く、重たく、冷たい空気の充満した部屋には、今や誰の吐息の音も響かない。
やがて、永遠のような張り詰めた静寂に、セリルが眩暈を覚えかけた頃。
前と同じ、細く高い金属の擦過音が響き、半開きであった扉がゆっくりと動く。
夜陰の中で蠢いた木の板は、音を立てずに元の位置へと収まる。
鍵を閉める細やかな音が上がった後、廊下側から立ち上っていた気配は、囁くような足音と共に去っていった。
間もなく戻ってきた完全な静寂の中、セリルは独り放心状態となって固まる。
深夜の訪問者は、寝ている彼女に手を出すどころか、遂に室内へと足を踏み入れようともしなかった。
なぜ、アクタは中へと入って来なかったのか。
相手が起きていると、気づいたからか。
もしくは、直前になって何か、気でも変わったのか。
それとも、最初から目的は別にあったのか。
そもそも、あの男性は、彼だったのだろうか。
肩透かしを食らった彼女は、茫然と天井を見上げつつ、取り留めのない考えを巡らせる。
答えのないそれらの問いは、熱を帯びたセリルの脳内で、混然となって溶け合っていく。
そして、その不定形の思考の塊に引き摺られるように、彼女は気絶にも似た眠りへと落ちていった。