チャンスを手放す教育
何かがおかしい、と思ったことがあるはずです。
でもその「おかしさ」に名前をつける言葉を、うまく持てなかった。
そういう感覚を、ずっと抱えたまま生きていませんか。
正解を探す訓練は、考えない訓練でもあります。
学校で身につけるのは、答えを出す力ではなく、正解を探す力です。
この二つは似ているようで、まったく違います。
正解を探すとき、人は「どこかにある答え」を前提にして動きます。
考えるのではなく、照合する。
自分の感覚を使うのではなく、評価基準に合わせる。
その訓練を十数年積むと、「正解のない問い」に出くわしたとき、思考停止します。
どこにも照合できないから。
これは個人の能力が問題ではなく、訓練の結果です。
そして「止まってしまう自分」を、自身の能力のせいだと思い込む訓練も、同時に進んでいます。
「正解」を出せる人と比較させるからです。
「考える力を育てる」という言葉の構造
よく聞く言葉があります。「考える力を育てる」
力強い言葉です。
ただ、実際に何が起きているかを見ると、少しずれています。
「考える」とは、今ある枠組みを疑うことを含みます。
前提を問い直すこと、正しいとされているものに「本当に?」と言えること。
でも学校で評価されるのは、与えられた枠組みの中でうまく動ける人です。
枠を疑う人は、扱いにくい人になります。
考える力を育てると言いながら、考える者を評価しない構造があります。
選ばせることで、思考を限定する
「大学か、就職か」「安定か、挑戦か」「続けるか、辞めるか」
これらは選択肢に見えますが、実は枠です。
AかBかを選ばせることで、AでもBでもない可能性は最初から見えなくなります。
問いの外に出るという発想を持つ前に、問いの中で答えを探すことが習慣になります。
選ばせることは、思考を動かしているように見えて、思考の範囲を決めています。
考えるとは、裏切ることである
教えてもらった正解を手放すとき、人は罪悪感に似た感覚を持ちます。
裏切っているような気がする。常識から外れているような気がする。
でもそれは、閉じ込められてきた枠から顔が出始めたサインです。
正解を疑うことは、教えてくれた人を否定することではありません。
与えられた枠が自分に合っているかどうかを、自分で確かめることです。
その確かめを、教育はほとんど教えません。
だから違和感があっても、それを信じる根拠を持てないまま、レールに戻ります。
チャンスは、枠の外にある
違和感は情報です。
「何かおかしい」という感覚は、今いる枠が自分に合っていないサインかもしれません。
その感覚を「気のせい」にする訓練も、教育の中に含まれています。
枠の外に出るとは、反抗することではなく、自分の感覚を証拠として扱い始めることです。
あなたがすでに持っている「おかしさ」は、捨てるものではありません。
それはまだ名前のついていない、あなただけの生き方です。




