Chapter 1-7
◆◇◆
その日、温室は妙だった。
肌がひりつくような緊張感が張ってはプツリと途切れ、また張られてを繰り返している。行き交う職員たちの足取りも、どこか速く小刻みだ。
平生と違う様子を肌で感じ取ったのだろう、アイビーがギルバートの右手に縋ってきた。それを軽く握り返して揺すってやれば、わずかに表情が和らぐ。
口はよく回るが、やはり知能は幼い。『よく理解できないが、何となく不安』などの複雑な感情を言語化できるようになるには、もう少し成長する必要があるようだ。
とにかく、今日はアイビーの検査と経過報告のために訪れたのだ。手を握ったまま、エントランスの受付に近づいた。
微笑みを湛えた人型機械がギルバートを感知し、異様に高いテンションで『こんにちは!』と挨拶する。アイビーが律義に挨拶を返した。
『本日はどのようなご用件でしょうか?』
「中層ミズガルズ、五番街に住むギルバート・ベルンシュタインだ。九時に十六階の第六研究室を予約している」
人型機械へ住基カードを渡す。『少々お待ちください』と告げた割には、一秒も経たずに『お待たせいたしました』と返ってきた。
『ギルバート・ベルンシュタイン様。大変申し訳ございませんが、本日のご予定は二十五階の「ヴァルハラ第一室」に変更となりました。こちらのゲストIDを使用し、エレベーターにてお越しくださいませ』
「変更? 何故だ、温室から取り付けてきた予定だぞ」
『大変申し訳ございません。その質問への回答を許可されておりません』
後は何を言っても心の籠もらない謝罪を繰り返すだけの人型機械に、ギルバートは口を閉じて半透明なIDカードをひったくるように受け取った。恭しい一礼が、何だかわざとらしく思えた。
エレベーターの操作盤にカードを押し付けると、程なくして分厚い扉がスライドする。階数ボタンを押したいと駄々をこねるアイビーを抱え上げると、上機嫌になった。
動き始める時に身体へかかる一瞬の慣性の法則にはまだ慣れていないようで、ぴゃっと小さく鳴いて肩へしがみついてきた。植物人の身体は小枝のように軽いが、隻脚のギルバートにとってはそのわずかな荷重でも簡単に体勢は崩れる。
小言を言おうかと思ったが、首へ回された手に力が籠もり先回りされた。
逆立った神経が何となく凪いで、エレベーターが停まるまでギルバートはアイビーを右腕に乗せていた。
エレベーターが上昇していくにつれて、ギルバートは内心に土嚢が積まれていく心地がした。
二十五階は『ヴァルハラ』と呼ばれる区域だ。植物人や瘴気についての研究棟ではなく、外界会議を行う場である。
外界会議とは、主に園外の活動方針についてが話し合われる。
温室の職員には『外界調査班』がいる。瘴気の侵食がどのように進んでいるか、旧時代の遺構はないか、天候や地殻に特異な点はないか――実際に植物園の外へ出るのだ。
無論、調査は特別製の防護服を装着して行われるが、それでも常に危険はある。
服のわずかな隙間から入り込む瘴気の毒だけではない。真の驚異は伸ばした手の先すら霞むほどの赤い濃霧の向こうから、音もなく現れる蟲だ。
学生に説明したことは、生半可な気分を引き締めるための誇張などではない。蟲は文字通り、世界の『敵』なのだ。
奴らは進化の過程で動物の血肉こそ最大の栄養だと気づいてしまった。しかし、瘴気と己らの殺戮で地平から肉は失われ、残っているのは植物園の中で囲われて生きるわずかな人間のみとなっている。だからこそどれだけ霧が濃く、離れていたとしても、人間を目敏く見つけ喰いに来るのだ。
故に、外界調査班は喪うものが何もない死にたがりか、よっぽどの変人しか配属希望を出さない文字通りの『死の部隊』だった。
エレベーターが止まり、扉が開くと世界樹の天辺が見えた。
その葉が不自然に動き、頭がピョンと出てきた。遅れて、ふたつ、みっつと頭が梢の間から現れ、何やら笑ったり悔しがったりしていた。
娯楽の少ないアルフヘイムでの退屈を紛らわせるため、若い植物人たちがよくやる駆けっこだ。――アイビーほどではないにせよ、幼い彼らはまだ知らない。彼らの内の何人かは、いずれ訓練を積み、死だけが支配する外界へ出て調査や戦闘に従事しなければならなくなることを。
「ぎる? どうしたの、早く行きましょ?」
扉を閉じ、既に別の客を運ぶために動いているエレベーターの前から歩き出さないギルバートの顔を、アイビーが覗き込んだ。
「あぁ……すまん、行くか」
「なにか考え事? アイビーに相談してもいいのよ。ライラックお姉さまが言ってたわ、悩んだときは植物にはなしかけなさいって」
「そうかい、だが、本当に何でもない。……少し昔を思い出してただけだ。ここには、いい思い出があまりなくてな」
「ふーん?」
「とにかく行くぞ。お前は自分で歩け。俺は片足がないんだから、このまま歩けばお前を落っことしちまう」
はぁい、と空気が抜けるような軽い返事をしたアイビーを床に降ろす。
石畳やリノリウムとは違う、毛足の長い絨毯の感触を初めて味わったらしい。靴を脱ぎ、素足で一歩足を踏み出すごとに、彼女はきゃあきゃあと高い声を上げて笑う。
――ふとした瞬間、ギルバートはいつも『前』のアイビーと重ねてしまう。
ギルバートの知っている『アイビー』は、思慮深く聡明で、常に口元に綽々とした、氷花の如き微笑を浮かべていた。今のアイビーと比べると、本当に同じ根から生まれた固体かと疑いたくなる。
赤ん坊の掌のような葉をつけた蔦を肩の上で編み、それでもなお余った部分は床を這わせて引きずっていた。髪の成長速度が他の植物人と比べてとても早いから、毎日剪定して背中辺りで伐り揃えてやっても、夕方には床まで伸びてしまう。それを『彼女』は誇っていた。
行くぞと言ったが動かないギルバートに、アイビーがしびれを切らして手を握ってきた。深い翠の双眸に見上げられ、逃げるように目を逸らした。――最近、彼女の瞳を、ギルバートはどうしても長く見れない。
受付から指示された『ヴァルハラ第一室』の位置は、記憶が正しければ世界樹を挟んでエレベーターの反対側にあるはずだ。妙に静かな回廊を躓かないように歩きながら、ギルバートは自分が何故ここへ呼ばれたかを考えていた。
三日前に連絡をもらった時は、確かにアルフヘイムの研究室を指定されていた。自分への聞き取りはどこでも構わないだろうが、アイビーの方はそうもいかない。植物人の検査は具体的に何をするのかは知らないが、椅子とテーブル、あとは戦闘資料と議会録しかないここでは行えないはずだ。
面倒事になりそうな予感がギルバートの背中を撫でていき、それは目的地の扉の前で立っていた少年の姿を見たことで確信に変わった。
月桂樹の髪を冠状に編んだ少年は、磁器人形よろしく愛らしく微笑んでひらりと手を振った。
「やぁギルバート、いい朝だね」
「ローリエお兄さま!」
苦虫を噛んだような渋面を浮かべたギルバートとは反対に、アイビーは両手を広げて嬉々としてローリエへ向かっていった。軽々と抱き留めたローリエは項で緩く編み込んだアイビーの髪を優しく撫でる。
「おはようアイビー。少し見ない間に大人っぽくなったかな?」
「うふふ、そうでしょ?」
「馬鹿言え、たかだか二週間でそう大きく変わるか」
「そんなことはないよ。僕らは植物だから、成長なんてあっという間さ」
「無駄話をしに来たんじゃない。今日はアイビーの検査で、指定された場所はアルフヘイムの研究室だったはずだ。何故ヴァルハラに来させた?」
待って待って、とローリエは慌ててギルバートを制した。
「ちゃんと順を追って説明するからさ、とりあえず入ってよ。アナも待ってるからさ」
「マダムまでいるのか?」
統括者のアナスタシアも絡んでいると聞いて、いよいよギルバートの眉間の皺が深くなる。
そんなギルバートを尻目に、ローリエは分厚い防音扉を反動もつけずに開けた。入ってと促され、ギルバートは覚悟を決めて杖を前に出した。
ヴァルハラ第一室は、他の会議室とは性質が異なる。外界会議の中でも、とりわけ重要度が高い議題を取り上げる時に使われる。それは概ね新種の蟲が観測された時や、外界や世界樹に何らかの兆候があった時だ。
平生でも滅多に使われることのないこの部屋に何故自分が呼ばれたのか、底気味悪ささえ感じる不可解さにギルバートの背中に冷たい汗が伝った。
室内は照明が抑えられており仄暗く、中心には二十人が腰掛けられる円卓が鎮座し、壁に掛けられたスクリーンが空調の微風でわずかにはためいていた。円卓にさっと視線を滑らせるが、そこには空の椅子が行儀よく収まっているだけだった。外界武官長や研究長などの関わると面倒な者たちがいないことに、まずは安堵した。
立ち尽くすギルバートの横を、ローリエがピュンと駆けていく。
一角だけピンホールライトで照らされた光の暈の中で、ゆったりとロッキングチェアに腰掛けていたアナスタシアがいた。読んでいた本を閉じ、膝に縋るローリエの頭を枯れ枝を束ねたような手で撫で、ギルバートへ視線を向けた。
「おはようございます、ギルバートさん。昨夜はよく眠れましたか?」
「……マダム。何故俺をここへ呼んだのです」
「まずはおかけなさいな。心配しなくても、ちゃんと説明してさしあげますよ」
アナスタシアは読んでいた本を傍に控えていた人型機械へ渡し、入口の外を警護するよう言いつける。一礼した人型機械が扉の向こうに消えると同時に、ローリエがリモコンで照明の照度を上げた。
暗闇に慣れた目には暴力的な光に、ギルバートが顔をしかめると彼女は鷹揚に笑った。
「ごめんなさいね、本は集中して読みたい性格なの」
「だとしても、暗い中で読むのは看過できません。目を悪くなさいますよ」
「貴方は本当に心配性ねぇ。わたくしの視力は生まれてから八十年、二.〇を下回ったことがないのよ。さ、どこでも好きな席におかけなさい。――ローリエ、アイビーを連れて検査へ行きなさい。場所は分かるわね?」
「もちろんさ、アナ」
こくりと頷いたローリエは、室内に満ちる重苦しい空気など存在しないかのように軽やかな足取りでギルバートの傍らにいるアイビーへ近づいた。
行こうか、と微笑む彼は手を差し出す。状況が理解できず、乞われるまま手を伸ばすアイビーの肩を、ギルバートの左手が強く引き寄せた。
ふたりの子供がきょとんとした目でギルバートを見上げる。自分がどんな顔をしているのかは分からないが、怯えた表情を浮かべるアイビーと、笑みを潜め片眉を上げたローリエの反応を見るに、相当酷いものなのだろう。
「ギルバート、どういうつもりなんだい? アイビーをこちらへ渡してくれないかい?」
「お前たちが何を考えているのかを、先に教えてくれたらな」
「言っている意味が分からないな。ギルバート、君は何を警戒しているんだい? 僕らがアイビーに危害を加えるとでも? 世界の希望たる可愛い植物人に、そんなことをするわけがないじゃないか」
「信じられるか!!」
腹の底から嫌悪を込めて吠え、杖先を臙脂色の絨毯に突き刺した。腕の中で、アイビーの身体が大きく震える。
温室の中でも上等な防音設備のある部屋では、ギルバートの怒声は響くことなく消えた。沈黙が長く続くことはなく、分厚い扉が乱暴に開かれた。




