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EVERGREEN -Defoliants-  作者: 琥珀さそり
【Withering.】
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Chapter 1-2

  ◆◇◆


 この建物を『移動植物園』と名付けたのは、今から六百年ほど昔を生きていた科学者だという。

 地表から突如として瘴気が溢れたのは、その更に二百五十年前。まずそれは南極と北極に氷を割いて吹き出し、吸い込んだ生物の体を内側から溶かしていった。


 極北極南の大陸に住む絶滅危惧種たちが(むご)たらしい骨になった様を、世界中のメディアがセンセーショナルに報道した。あらゆる病原菌とは無縁だった氷の大陸は、一瞬の内に毒に沈んだ。


 南極に滞在していた各国の調査団も多くが溶けて死に、命からがら逃げ帰った内のひとりの肺からわずかだが瘴気が採取された。それは微量を吸い込んだだけでも驚異的なスピードで分裂を繰り返し、蝕み、内蔵から筋肉、果ては皮膚を腐食させるものだった。


 多くの研究者を悩ませたのは、この毒物はこれまで発表されてきたどの物質でもないことだった。解析も解毒剤の作成も遅々として進まなかったのは、北極と南極から挟み込むように瘴気が溢れてきたからだ。

 瘴気は海底を割り、海洋生物も犠牲となり、瘴気に毒された魚を摂取した人間も死んだ。海に溶けた毒は海流に乗り世界中の海を殺してしまった。


 遂には大陸の大地にも瘴気が噴出するようになった。医療も情報伝達方法も発達していない後進国はもちろん、それらが発達した先進国であってもなす術もなく人々は毒により溶かされていった。

 未知の毒への恐怖と不安は人間の心を支配し、為政者は苛立ち研究者は焦燥を極めた。


 ――結局、世界は逃避的共存を選んだ。


 瘴気が世界を覆い尽くす前に、残ったわずかな人間と植物、動物をこの『最終防衛施設』へ収容した。

 瘴気は地球環境を破壊し続けた人間へ神が与えた罰だ、我々は千年代(ミレニアム・エイジ)の贖罪を成さねばならぬと、大国の長たちは口々に言い、民たちは従順に従った。人間はこの惑星の上で『生活させてもらっている』立場だというのに、自分たちは戦争と過度な開発によって傷つけ続けてきたのだ。故に、この施設で不便な生活を強いられるのは神からの罰であり、試練である――それが主導者たちの言い分であった。


 それから人々は懸命に植物を育て、コストのかかる畜産はクローニングで補い、映写パネル張りの箱庭の中で生きることを決めた。腐っても一時は極点へ至った技術を(ほしいまま)にしていたのだ、全盛期ほどとまではいかないが、今では過不足なく生活を送れるようになるまでに発展した。


 もはやここは、ただ毒から逃れるための『防衛施設』ではなく、かけがえのない『世界』となったのだ。


『――そして、人類は永い永い旅に出ました。病気になってしまった世界のため、わたしたちはこの【移動植物園(ユグドラシル)】で旅をしながら地球の治療しているのです』


 街角の液晶ウィンドウから、幼児向けの教育番組が流れていた。何故人間たちがこの植物園で生きなければならなくなったのかを、クレイ・アニメーションと朗らかな女の声で説明していた。


 ストリート・エリアのカフェテラスで、ギルバートはそれを無表情で眺めていた。こんな『常識』など、義務教育課程に入る前に誰もが履修する。自分と親の名前、アルファベットの次は人間の愚かさを叩き込まされるのだ。

 教育番組が終わり、映像は政治のニュースへと移っていった。先刻とは打って変わって硬くなったアナウンサーの声が、財務大臣の汚職について淡々と述べている。


 ギルバートにとって、子供向けのカートゥーンも政治家の足の引っ張り合いも、同じレベルで興味などない。(ぬる)いブラックコーヒーを啜りながら、三分の一ほどになった右足を無意識に撫でる。

 耳元で金糸雀がピィと鳴いた。痛みがあって手が伸びたわけではないことを伝えるため、滑らかで硬い背中を軽く指で押した。小鳥型の機械はギルバートの肩の上で、何事もなかったかのように静止する。


 アーチ状に組まれた石畳の街道は、休日だからか人々で賑わっていた。マーケットには水耕栽培された瑞々しい野菜や果物が並び、実演販売を行っているのか肉の焼ける匂いがする。頭上を仰げば、パネルに映し出された澄んだ青空を影がひとつ横切って行った。尾が二股に割れているから、(つばめ)娯楽機械(トリヴィアロイド)だろうか――そう考えていると、こちらへ向かってくる慌ただしい足音が聞こえた。


「よぉギルバート、遅れて悪いな」


 風船のような腹をベージュのスーツに収め、ネクタイの代わりに派手な柄物のストールで首元を彩った浅黒い肌の男が、ギルバートへ手を振っていた。

 彼がカスト・パヴァロッティ。ギルバートとはハイスクールからの悪友である、底抜けに陽気な男だ。


 カストはギルバートの向かいに座り、すかさず注文を尋ねに来た若い女性店員を挨拶がてら口説き始める。コーヒーとパスタを頼む頃には、愛想笑いを浮かべていた彼女の口角は下がりきって「ごゆっくり」という定型文も投げやりになっていた。

 ギルバートは彼女へ内心謝りながら、テーブルを指で二度打った。


「俺に何か用があったんだろう? 手短に話せ、俺は学生のお守りで忙しいんだ」

「そう急かすな。ちょいと話せば長くなる案件なんだ」


 十五分程度でコーヒーとボンゴレ・ビアンコがカストの前に置かれた。彼はギルバートの()けた頬を指差し、お前も何か食えと勧める。ガーリックとアサリの芳しい香りが鼻に届いたが、食欲は起きず首を横に振った。


 仕方ないと言いたげに息をひとつ吐いたカストは、パスタを持ってきた店員を捕まえてマルゲリータを一枚追加で注文した。それはかつてギルバートの好物であり、見え見えの気遣いに温いコーヒーが更に不味くなった気がした。


 湯気の上る白い麺をフォークに巻取り、心底美味そうな食べっぷりに、彼のパスタ好きは変わっていないらしい。オリーブオイルでツヤツヤと光る大粒のアサリは、大昔に生息していたものとは違う。味や風味、形を精巧に似せた人工有機化合物だ。


 それはアサリだけに限らず、人間がまだ地上で生きていた時に口にしていたものはほとんど残っていない。魚も肉も、最初こそクローンなどで補えていたが百年ほど前に複合的な理由により生体は絶滅し、全て工場生産へと切り替わった。


 結局、この地球上で呼吸ができているのは人間と、植物だけとなってしまった。この『移動植物園(ユグドラシル)』が死んだ大地を走り回っているのも、駆動による発電で園内に生きる人間の営みを維持するためだ。今も『瘴気に毒されていない地を探す』という大層な名目があるが、もはや誰もそんなことなど信じていないだろう。


 行儀の悪い子供のようにアサリだけを先に食べ尽くしたカストは、大口の割に少ない本数をフォークで巻き取って口へ運んだ。グルメなのは結構だが、目を閉じて味わいながらの咀嚼(そしゃく)に付き合っていては、食後のコーヒーを飲み終える頃には夜になってしまう。ギルバートは苛立たしさを隠さずにテーブルを指先で強く叩いた。


「何度も言うが、用があるなら、早くしてくれ。手短にな。まだ就活生の論文の添削も終わってない。今すぐ本題に移らないなら、俺は帰る」

「だから待てって言ってるだろう。俺も五日ぶりのまともな飯なんだ、少しくらい堪能してもいいだろう?」

「また煙草屋の婆さんのシャワーが動かなくなったのか? 俺ですら十二分で直せるのに、凄腕配管工は五日もかかるのか」


 いい商売だなとたっぷりの棘を内包した皮肉を投げつければ、流石のカストも眉を下げた。


「配管屋はもう廃業した、五年も前にな。また記憶が飛んでるぞギルバート」

「馬鹿を言うな、それは……ああそうかい、それは悪かった。なら今は何をやって――……確か、エンジニアだったか?」


 ソースと唾液に濡れたフォークの先をギルバートに向けながら、カストは小さく「正解」と告げた。

 深く息を吐きながら、ギルバートは両手で顔を覆い天井を仰ぐ。一番高い場所に投影された太陽光は、暴力的なまでに眩しい。

 カストは何も言わず、配膳されたばかりのマルゲリータをピザカッターで切り分け、ひと切れを取り皿の上に乗せてギルバートの前に置いた。


「まぁ食え。泥を固めたみたいなカロリーバーなんかより、温室育ちのトマトの方がずっと栄養はあるぜ」


 ギルバートは程よく焦げ目のついたピザを一瞥(いちべつ)し、逡巡(しゅんじゅん)の後に手を伸ばしてチーズが糸を引く鋭角を噛んだ。加熱されて甘みが増したトマトソースに、バジルとチーズの風味が鼻へ抜けていく。久々の人間らしい食事に、()せればカストが声を上げて笑った。その(すね)を杖で強めに叩いて、視線だけで本題を促した。


「分かってるよ、今から話す。だからそんなに睨むな。――お前に頼みたい仕事があるんだ」


 仕事だと、と喉にチーズが絡まった掠れ声で返せば、カストもピザを丸めてひと口で頬張って頷いた。


 彼はハイスクールを卒業後、好きだったコンピューター用ソフト開発の会社へと入ったが、父親が倒れたことで家業の配管屋を継いだ。何だかんだと愚痴をこぼしながらも続けていたのは、仕事に少なくないやり甲斐を見出したからだろう。その後、父親は亡くなり配管工だけでは年老いた母を養っていけないと家業を畳み、ギルバートに仕事の紹介を頼みに来たのだ。


 かつては斡旋される側であった彼から、斡旋した側の自分が仕事を紹介されるなど、笑い話にもならない皮肉だ。

 冷えきったコーヒーを全て喉へ流し込み、口の中に残るチーズの薫香を消す。


「仕事というのは『温室』絡みか? 散々俺を(なじ)っておいて、人手不足になったら猫撫で声か。相変わらず、いいご身分だ」

「そうじゃない、そうじゃないんだ、ギルバート、聞いてくれ」


 カストの引き止める言葉を突っぱね、左手に杖を()めて椅子を立った。


「帰る。三年前のことはお前だって知っているはずだろう。俺はもう温室には戻らない」

「アイビーが育った」


 背中に投げかけられた一言は、ギルバートの足を止めるには十分だった。

 たっぷり時間をかけて振り向いたその目は、己の耳が拾った言葉の意味が分からないと――信じられないと言いたげに見開かれていた。

 カストは歩み寄り、肩に手を置いて労うように揉む。


「マダム直々の『仕事』だ。意味は……分かるよな?」


 最初から――数時間前に電話を取り、友人と会う約束した瞬間よりも前から、ギルバートに拒否する選択肢など用意されていなかったのだ。

 送風機から吹き付ける生温い人工の風が、店先に飾られたキョウチクトウを(やさ)しく揺らしてした。

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