Chapter 1-3
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温室とは、文字通り移動植物園の中心機関だ。
八角形の時計塔が縦長のドーム状になっている植物園の頂点を突き、支えている。天上から最下層までを貫く城、または神殿のようだと人々は称する。
そんな中世風の石積みに見せかけた強化コンクリート作りの内部は、無粋なほどに新しく無機質だ。現段階でできる限りの最新技術を用い、植物園が『歩く』ための動力や、時間によって空模様を変える液晶パネルを制御し、野菜の水耕栽培や加工食品の製造も行っている。温室は植物園に住む人間たちの生活基盤の総てを統括し、支えていると言っても過言ではない。
そこに住まうのは華美に着ぶくれした王様でも、敬虔な祈りを捧げる司祭でもない。
狡猾で慈悲深く、苛烈で清廉なひとりの老女――アナスタシア・メルクーリだ。
白衣を纏った研究員や小銃を携帯した警備員から奇異の目を向けられながら、ギルバートはカストに連れられエレベーターで二十六階まで上がる。
道中、ギルバートは何度も仕事の内容を問いただした。しかし、帰ってくるのは「来れば分かる」だの「全てはマダムが話す」だのという答えにならない言葉ばかりだった。温室への正門ゲートを潜った時には、尋ねることも諦めた。
エレベーターが止まった二十六階――移動植物園のどこにいても視認できる大時計のすぐ真下、街が一望できるこのワンフロア全てが、アナスタシアの執務室兼私邸だった。正方形の執務室はがらんどうで、ただ一対のソファとテーブルが置いてある。
「マダム・アナスタシア。ムスペルヘイム動力部門第三プランター所属ソイル、カスト・パヴァロッティ、戻りました」
胸に右手を当て、カストは恭しく一礼する。それにギルバートは驚愕の目を向けたのは、貧困層の出で敬語も礼節も皆無だった彼とは思えない姿を見たからではない。
――今、カストは己のことを『ソイル』と言わなかっただろうか。
そんなギルバートの胸中など知らず、窓外を眺めていたアナスタシアはゆっくりと振り向いた。
葉脈のように顔中に刻まれた皺が動き、赤く彩られた口元が持ち上がる。
「ご苦労様、パヴァロッティさん。職務が忙しい時に頼んでしまって、ごめんなさいね。下がってよろしいですよ」
「はっ、失礼します」
嗄れた、しかし芯のある声音で、アナスタシアはカストを労う。退室を許可されたカストは再度頭を下げ、エレベーターで下降していった。扉が閉まる直前に見えた彼の顔は、今までに見たことのない無機質な表情だった。
困惑の表情のまま残されたギルバートへ、アナスタシアは柔和に笑いかける。
「お久しぶりですね、ギルバート・ベルンシュタインさん。思ったよりも顔色が良さそうで、安心しましたわ」
「マダムこそ……ご健勝そうで何より。あと百年は生きられるのでは?」
「ほほ……相変わらずやんちゃな舌ですこと。――まぁ、お座りなさい」
先に腰掛けたアナスタシアとは向かいのソファへ促され、ギルバートは彼女から一切視線を逸らさずに緩慢に歩く。大理石の床を杖先で打ちながら、ギルバートは革張りのソファに座った。
アナスタシアが二度手を打つと、隣室から男女の人型機械が銀のワゴンを押して入ってきた。顔のパーツが同じであるから対で製造されたものだと分かるが、口の端だけを持ち上げた表情は薄気味悪さを感じる。
アナスタシアによってヘンゼル、グレーテルと呼ばれた二体の人型機械は、マホガニーのローテーブルをティーセットやカトラリーで埋めていく。無駄のない所作で澄んだ茶色の紅茶を淹れ、大皿の上には噎せるほどの香りを振り撒く焼き菓子が乗っている。三段重なったケーキスタンドにも、一口大にカットされたフルーツやプチフール、サンドイッチが行儀よく並んでおり、見ているだけで胸焼けがしそうだった。
「ありがとう、もう結構ですよ」
『ウィ・マダム』
『何かあればお呼びください』
合成音声とは思えないほど流暢な言葉を残し、二体は微笑みを湛えたまま同じ歩幅、足音までも同じくして去っていった。
どうぞと促されても、元々ギルバートは甘いものが苦手だ。強く香るハーブティーに口をつけるも、砂糖が相当入っているのか舌が痺れるほど甘くてすぐにソーサーの上に戻した。
結局、ギルバートは目の前を彩るそれらに手を付けず、ガトーショコラをゆっくり味わって食べ終えたアナスタシアが口を開くのを待った。
「大学の方はいかが? 貴方は顔が少々怖いですからね、子供たちを泣かせてはいけませんよ」
「マダム、大学生は講師の顔を見ただけで泣くほど子供ではありませんよ」
「あら、そうだったかしら。わたくしにとってみれば、幼児も大学生も、貴方も等しく子供ですよ」
コロコロと少女のように笑う彼女とは反対に、ギルバートは深く息を吐いて額を押さえる。その表情すら、アナスタシアにとっては子供が不貞腐れているようにしか見えないのだろう。
自身が常に険しい顔をしていることも、眉間を寄せすぎて皺が取れないことも自認しているし、そのせいで実年齢よりも上に見られることにも慣れている。三十五歳だというのに、五つ以上も年上の教授に「先輩だと思っていた」と言われた時には流石に後頭部を殴られた心地だった。
しかし、今ギルバートが聞きたいことはそんな世間話ではない。
「何故俺を呼んだんですか。俺は三年前にここを出ていきました」
「ええ、ええ、覚えていますよ。貴方は三年前の五月二十八日に、健康上の理由でここを去りましたね」
「俺はエレナを殺した」
お忘れですか、と硬い声音で問えば、アナスタシアは一瞬だけ口元へ持っていったフォークを止める。先端に引っかかっていたクリームまみれのイチゴが皿に落ち、飛沫がピンク色の花のように飛び散った。
それをもう一度刺す様子はなく、皿をフォークと共に膝の上に置いて小さく首を横に振る。
「貴方のせいではありません」
「嘘だ」
「本当です。貴方が殺したなど、ここの誰も思っていません」
「嘘だ!!」
固く握りしめた拳を、テーブルに振り下ろす。振動でカップが転がり落ち、磁器と石がぶつかって弾けた。甲高い破砕音はアーチ型の天井に反響し、ギルバートの耳を往復で殴りつけてくる。
息が上がる。視界が霞む。自分が今座っているはずのソファの感覚がなくなり、宙へと放られた心地になる。
足元にできた琥珀色の水溜りに、エメラルドグリーンのパンプスが映り込んだ瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
静脈に注入される冷たい薬剤の感覚に、背中がぶるりと震える。ひと仕事終えた医療補助機械の金糸雀は、誇らしげに鳴いてギルバートの肩で羽繕いをした。
荒くなった呼吸を整えながら、ギルバートは右手で顔中に噴き出た汗を上から下へ拭い落としていく。二滴ほど落ちた汗が紅茶の水面を揺らし、頭を振れば昂ぶった感情が次第に冷却されていった。
いつの間にか、アナスタシアの両脇には先程の人型機械が小銃を構えていた。その銃口の先にいるのは、もちろんギルバートだ。怒号と物音を聞いて護衛プログラムが発動し飛んできたのだろう、その表情に数分前の薄笑いはなく、わずかな感情の片鱗もない無機質な真顔だった。
アナスタシアはヘンゼルとグレーテルに銃を降ろさせると、ふたりはあっさり照準をギルバートから外し、微笑みを口元に宿して傍に控えた。
「ごめんなさいね、無礼な真似をして。後できつく言っておきましょう」
「いえ……俺も取り乱して申し訳ありませんでした。これらは己の職務を忠実に遂行しただけ……優秀なものです」
「優秀すぎるのも困りものですよ、融通が利かなくてねぇ。――……まだ右足は痛むのかしら、ギルバートさん」
肩が震えた。
アナスタシアへの返答は、それで十分だった。
「貴方があの子のために悲しんで下さるのは、温室の総督として、またエレナの母として感謝しています。されど、ずっと悲しみの水底にいることは義母の立場からでも看過できません」
「それは俺が勝手にしていることです。俺の勝手でエレナが死に、俺の勝手で彼女の魂を悼んでいる」
「幻を追うことが、貴方の悼み方なのですか? その右足も、義足を付けないことが贖罪の証だと?」
知らず、膝上までしかない右の腿に載せていた手に力が籠もる。
瞬きの合間に挟み込まれるのは、褪せることを知らない過去の記憶だ。
瘴気嵐に混ざる腐臭。
撃鉄が空の弾倉を叩く音。
宙を舞う鮮やかなビリジアンと、光沢を失ったエメラルドグリーン――ふたり分の断末魔。
再度曖昧になる現実と過去を分断したのは、アナスタシアが三度手を打つ小気味いい音だった。
すぐにヘンゼルとグレーテルが一礼して歩み寄る。グレーテルが恭しく差し出してきた杖を受け取り、ヘンゼルの手を取って席を立った。
「そろそろ仕事の話をしましょう、ギルバートさん。貴方もそれが目的でここへ来たのでしょう?」
ギルバートが立ち上がるのも待たず、アナスタシアは人型機械を連れ立ってエレベーターへと向かう。
菓子を並べて茶会を開き、少女のように笑ったと思えば次の瞬間には統率者たる眼光を宿らせる。移り気なほど切り替えが早いところは、三年前とと全く変わっていない。
本当に置いていかれないよう、ギルバートも松葉杖を支えに席を立つ。老女のゆっくりとした足音と、男の不揃いな足音を天井に網のように張り巡らされた蔦植物が黙って聞いていた。




