↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を記す工房令嬢は、無口な水路伯爵と明日の街をつくる  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/20

明日の街に降る雨

 観測所の開所式は、春の終わりの晴れた朝に行われた。


 王都の中央を流れる大水路。その古い水門を見下ろす丘に、白い石造りの建物が立っている。屋根には雨粒を受ける銅板、壁には風を測る細い羽根、地下には水路の振動を記録する魔導管。中央の塔には、リゼットが設計した新しい雨音記録器が据えられていた。


 まだ一滴の雨も降っていないのに、観測所の前には人が集まっていた。


 村の代表たち、工房の職人たち、水路の作業員、役所の若い記録係。そして、かつて記録を奪われた職人たちもいた。彼らは皆、完成した建物を見上げている。


「思ったより大きくなりましたね」


 ミラが隣で言った。


「最初は作業台ひとつ分の予定だったのに」


「観測所は作業台ではないもの」


「でも、リゼットさんなら作業台から王都を作りそうです」


 ノアが真顔で言い、ミラが吹き出した。


 リゼットは二人の声を聞きながら、塔の窓を見上げた。窓辺には小さな銀板が取り付けられている。雨音を記録した紙を挟み、誰でも閲覧できるようにするためのものだ。


 記録は、閉じた書庫にしまわれない。


 誰かの都合で消されない。


 聞こえた音を、聞こえたまま残す。


 それが新しい水路制度の最初の約束だった。


「緊張しているのか」


 背後から声がした。


 振り返ると、ユリウスが立っていた。今日は伯爵家の紋章を付けていない。濃紺の上着に、観測所の職員章だけを留めている。


「少しだけ。建物を作るのは慣れているけれど、人前で話すのは苦手だわ」


「議会で最終説明をした人間の言葉とは思えない」


「あのときは、間違った記録を正すことに夢中だったもの。今日は、正した後の話をしなくてはいけないから」


 ユリウスは塔を見上げた。


「正した後の話のほうが、長いのかもしれないな」


「ええ。制度を作るより、続けるほうが難しいわ」


「だから、続ける」


 短い返事だった。


 リゼットは彼を見た。


「水路局の仕事は、どうなったの?」


「正式に辞任した。新しい観測所の運営委員として雇われることになった」


「雇われる?」


「君が決めた規約に、そう書いてある」


「当然でしょう。働くなら給料が必要だもの」


「伯爵家の人間を雇う工房は珍しいらしい」


「観測所よ。それに、働きが悪ければ解雇するわ」


「承知している」


 彼は真剣な顔で答えたので、リゼットはとうとう笑った。


「本当に、あなたは変わったわね」


「君に変えられた」


「私だけの力ではないわ。ミラもノアも、村の人たちも、議会で証言した職人たちもいた。あなたが一人で抱え込むのをやめたから、皆が力を出せたのよ」


 ユリウスは頷いた。


「ならば、これからも一人で抱え込まない」


 彼の左手には、リゼットが作った指輪がある。銀線に小さな歯車を埋め込んだ、飾り気のないものだった。二人の婚約を発表してから、季節がひとつ過ぎている。


 結婚式は、観測所が完成してからにした。


 誰かに急かされたわけではない。二人で決めたことを、二人の順番で進めたかったのだ。


 鐘が鳴った。


 開所式の始まりを告げる鐘だった。


 リゼットは壇上へ上がった。目の前に並ぶ人々の顔を見渡す。以前なら、身分の高い者の前では自分の声が小さくなるのを感じていた。けれど今は違う。自分が何を作り、なぜ作ったのかを知っている。


「この観測所は、雨を予測するためだけの場所ではありません」


 風が塔の羽根を揺らした。


「水路の音を聞き、異常を見つけ、必要な場所へ水を届けるための場所です。記録は誰かの所有物ではなく、暮らしを守るための共有財産です。ここでは、身分や立場に関係なく、同じ雨音を同じ記録として残します」


 拍手が起きた。


 大きく、長く、丘の下の水路まで届くような拍手だった。


 式が終わるころ、空に薄い雲が広がった。


「降るかしら」


 ミラが言った。


「予報では夕方からです」


 ノアが帳面を確認する。


 リゼットは塔の屋根を見た。銅板の上に、最初の雫が落ちた。


 ぽつり、と音がする。


 次の雫が落ちる。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。


 人々が空を見上げた。雲はゆっくりと王都を覆い、やがて細かな雨が街全体に降り始める。


 観測所の記録器が動き出した。


 針が紙の上に線を刻む。雨音は屋根を、石畳を、木々の葉を、水路の水面を、それぞれ違う調子で叩いていた。無数の音が重なりながら、一つの記録になっていく。


 リゼットは窓辺に立った。


 以前、雨音は奪われるものだった。消され、隠され、都合よく書き換えられるものだった。


 今は違う。


 雨は誰のものでもない。


 けれど、その音を聞き取る方法は、皆で守っていける。


「リゼット」


 ユリウスが呼んだ。


 彼の手には、観測所の鍵が二本あった。一本はリゼットへ、もう一本は彼自身へ。


「どちらを先に受け取る?」


「二本とも、同じ日に作ったのでしょう?」


「ああ」


「なら、同時に」


 二人はそれぞれの鍵を受け取り、並んで扉へ差し込んだ。


 金属が小さく鳴る。


 扉が開き、雨の匂いが建物の中へ流れ込んだ。


「明日の雨は、どんな音になるかしら」


 リゼットが尋ねると、ユリウスは窓の外を見た。


「まだ分からない」


「それでいいわ」


 分からないから、聞く価値がある。


 決めつけず、隠さず、誰か一人の都合で形を変えずに、降ってくる音を受け止める。その積み重ねが、きっと新しい街を作る。


 ユリウスが、そっと彼女の手を取った。


「明日も隣で聞いていてもいいか」


「明日だけ?」


「その先も」


 リゼットは笑い、握られた手に指を絡めた。


「では、毎日記録しましょう。雨の日も、晴れの日も」


 塔の中で針が動き続けている。


 王都の水路は雨を運び、雨は街の屋根を打ち、街はその音を未来へ残していく。


 リゼットは窓の外を見た。


 今日、雨はこの街に降っている。


 そして明日も、きっと降る。


 誰かに奪われることなく、誰かのために隠されることなく、聞く人のもとへ、まっすぐに。


 明日の街に降る雨を、二人は並んで迎えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。