家名ではない求婚
議会から戻った夜、工房の雨戸を閉めると、外の喧騒が遠のいた。
けれど静かではなかった。作業台の上では、簡易記録器の針が細かく震え、屋根を打つ雨の音を紙へ刻んでいる。ミラは採決結果を記した掲示を壁に貼り、ノアは新制度のために必要な部品の数を帳面へ書き込んでいた。
「明日から注文が倍になりますよ」
ミラが振り返った。
「村からも、役所からも。観測器を作れる工房が、今の王都にはここしかないんですから」
「作れる工房にするのよ」
リゼットは濡れた外套を椅子へ掛けた。
「私ひとりが作る工房ではなくて、皆が設計し、作り、直せる工房にする。採用されたのは私の名前じゃなく、記録の仕組みなんだから」
「でも、名前が付いたのはリゼットさんの功績です」
ノアが言った。
「功績は受け取るわ。でも、功績を理由に誰かの手を借りられない工房にはしたくないの」
言いながら、リゼットは壁際の棚を見た。そこには、かつて元雇い主の印が押されていた古い設計図がある。権利を取り戻した今、その紙はもう彼女を縛らない。だが、自由になったからこそ、次に何を選ぶかは自分で決めなければならなかった。
扉が三度、控えめに叩かれた。
ミラとノアが顔を見合わせる。こんな時間に訪れる者は少ない。リゼットが鍵を外すと、雨の向こうにユリウスが立っていた。
伯爵家の馬車も、従者もいない。濡れた髪をそのままにして、彼は一人で工房の前に立っている。
「入ってもいいか」
「水路局の用事?」
「今日は違う」
ユリウスは工房へ入った。ミラが気を利かせてノアを奥へ連れていく。二人の足音が遠ざかると、雨音だけが残った。
「議会の決定について、父上から話があった」
ユリウスは濡れた手袋を外し、ゆっくりと言った。
「王都の水路管理を新制度へ移すにあたり、伯爵家が監督役を引き受けるべきだそうだ。私がその任に就けば、制度の移行も、工房への資金も、ずっと簡単になる」
リゼットは黙って彼を見た。
「あなたは、引き受けるの?」
「断った」
思いがけない答えに、彼女は眉を上げた。
「水路の仕事を断ったわけではない。家の名を使って、あなたの工房を支える役目を断ったんだ」
ユリウスは作業台の記録器へ視線を落とした。
「私はこれまで、家名があれば人を動かせると思っていた。命令すれば、誰かが失敗を防いでくれると思っていた。だが、それでは相手の判断を奪うだけだった」
「それを、私に言いに来たの?」
「それだけではない」
彼は一歩近づいた。
「リゼット。私はあなたに求婚したい」
雨音が一瞬、大きく聞こえた。
「伯爵家の次男としてではなく、水路を預かる者としてでもなく、家名を持つ者としてでもない。失敗すれば自分で責任を負い、あなたの仕事に口を出すときは、あなたの同意を求める一人の人間として」
リゼットの胸が、記録器の針のように細かく震えた。
「あなたの隣にいたい。けれど、あなたの工房を私のものにしたいわけではない。あなたが望むなら、私は経営を手伝う。望まないなら、別の仕事をする。結婚しても、あなたが職人であることを変えさせない」
彼は懐から小さな箱を出した。宝石の指輪ではない。細い銀線を編んだ、簡素な輪だった。表面には雨粒を思わせる小さな凹凸が刻まれている。
「これは、私が作った。職人としては不格好だが、あなたに渡すものを他人に作らせたくなかった」
リゼットは箱を受け取らず、彼の顔を見た。
「結婚したら、どこに住むつもり?」
「君が決めてほしい」
「工房は続けるわ。観測所ができても、ここを閉めるつもりはない。経営方針も、雇う人も、私が決める。あなたが水路の仕事で忙しいなら、毎晩一緒に食事できるとは限らない」
「承知している」
「それから、あなたの家の社交に、私が無理に合わせるつもりもない。必要な場には行くけれど、飾りになる気はないわ」
「君を飾りにするつもりはない」
ユリウスの声は静かだったが、迷いがなかった。
「では、あなたは何を望んでいるの?」
彼はしばらく黙り、雨の記録を見た。
「朝、君が新しい装置の仕組みを話すのを聞きたい。君が怒っているときは、怒りが収まるまで待ちたい。嬉しいときには、理由を尋ねて一緒に喜びたい。水路で問題が起きたら、隠さず相談したい。君の隣で、君の決めた人生を尊重しながら、自分の人生も差し出したい」
あまりにまっすぐで、リゼットは笑いそうになった。議会で制度を変える話をしていたときより、ずっと緊張する。
「ずるいわね」
「何が?」
「そんなことを言われたら、断る理由を探すほうが難しいじゃない」
ユリウスの目がわずかに見開かれた。
リゼットは銀線の輪を手に取った。冷たいはずなのに、指先には彼の体温が残っているように感じる。
「私は、あなたと結婚したい」
言葉にした瞬間、工房の空気が変わった。
「でも、あなたの妻になるために職人をやめるつもりはない。あなたの家に入るために名前を変えるつもりもない。私たちは、それぞれの名前のまま生きるの」
「もちろんだ」
「工房の看板も変えないわ」
「変えない」
「生活の場所は、観測所が完成してから決める。工房の近くに家を借りるか、観測所の一角を住めるようにするか、両方を見てから考える」
「それが君の答えなら、私は待つ」
リゼットはようやく箱を受け取った。
「待たせるとは言っていないでしょう」
ユリウスが息を呑む。
「観測所の設計が始まる前に、婚約の発表をしましょう。家名の後ろ盾としてではなく、私たちが選んだ約束として」
「……ああ」
彼は笑った。議会で見せた安堵の笑みよりも、ずっと幼く、素直だった。
そのとき、奥からミラの声が飛んできた。
「お二人とも、返事は聞こえましたよ!」
「聞くつもりで聞いていたのね!」
「雨音がうるさくて、仕方なくです!」
ノアの笑い声も重なる。リゼットは頬を熱くしながら、銀の輪を指にはめた。
雨はまだ降り続いていた。
記録器の針は、二人の返事を特別扱いすることなく、一定の線として紙に残している。けれどリゼットには、その音が今までとは違って聞こえた。
明日から、観測所の設計が始まる。
その先にある暮らしを、誰かに決めさせはしない。自分で選び、彼と話し合い、必要なら何度でも作り直す。
それは、壊れた装置を直すのと同じだった。
違う部品を無理に合わせるのではなく、互いの形を確かめながら、長く動く仕組みを作るのだ。
窓の外で、雨が新しい線を刻んでいる。
リゼットはその音を聞きながら、ユリウスの手を取った。




