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雨音を記す工房令嬢は、無口な水路伯爵と明日の街をつくる  作者: 銀細工ナギ


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16/20

雨のない公開実験

 公開実験の朝、空は青かった。


 雲ひとつなく、風もない。中央広場に並べられた記録器の上には、朝露さえ残っていなかった。


 集まった人々の間から、失望とも安堵ともつかないざわめきが起きる。


「雨が降らなければ、実験にならないんじゃないか」


「やっぱり、雨音なんて記録できないのさ」


 水利局の役人たちは、広場の端に設けられた天幕の下で、黙ってこちらを見ていた。その中央にいる局長は、薄い笑みを浮かべている。


 リゼットは聞こえてくる言葉を一つずつ受け止めた。胸の奥がざわつかないと言えば嘘になる。けれど、作業台の上に並べた装置は、昨夜まで何度も調整したものだった。


 雨が降らなくても、記録できるものはある。


「始めます」


 リゼットは広場の中央に立ち、声を張った。


「本日の実験では、雨音だけを測るのではありません。王都各所に設置した装置が、水路の振動、水門の開閉、貯水槽の水位を同じ時刻に記録します」


「雨がないのに、水が動くとでも?」


 局長が口を挟んだ。


「その通りです」


 リゼットは答えた。


「雨が降っていないのに、どこかの水路だけが動けば、それは自然現象ではありません」


 ミラが合図をすると、ノアが鐘を鳴らした。


 午前九時。


 広場の記録器が一斉に動き始める。雨音を拾う薄膜は静止したままだった。だが、隣の振動記録器では、針が細かく震えた。


 広場にいた人々が息を呑む。


「今の振動は?」


 審査官の一人が尋ねた。


「北水路から伝わったものです」


 リゼットは記録紙を示した。


「こちらは北門近くの測定盤。こちらは中央水路。そしてこちらは、貴族街へ向かう分水路です」


 三枚の記録紙には、同じ時刻に山が描かれていた。


 ユリウスが水路図を広げる。


「九時一分、北水路の水門が開いた。九時三分、中央水路で流量が増え、九時五分、貴族街側の水位が上がっている」


「水門を開けただけでしょう」


 局長は冷たく言った。


「雨が降っていない日に、水を移すこと自体は違法ではありません」


「ええ。ですが、局の記録には水門の操作が記されていません」


 リゼットは別の紙を取り上げた。


「こちらは水利局から提出された、本日の公式記録です。北水路の水門は、午前中ずっと閉じていることになっています」


 ざわめきが広がった。


 局長の顔から笑みが消えた。


「その紙が正しいという証拠は?」


「あります」


 リゼットは、古びた金属箱を開いた。


 中には、以前回収した雨音記録の断片が収められていた。消されたはずの記録を、彼女が装置の傷と残留した魔力から復元したものだった。


「これは三年前、北方の村で記録された雨音です。公式記録では、その日の王都北部に降水はありませんでした。しかし、音の間隔と水路の振動を照合すると、山間部で降った雨が北水路へ流れ込んでいます」


 リゼットは記録紙を広げた。


 雨音の波形。その下に重ねられた、水路の振動記録。二つの線は、時間を追うごとにぴたりと重なっていた。


「雨は降っていました。けれど、記録から消された。そして流れ込んだ水は、村へ送られず、貴族街の貯水槽へ回されていた」


「推測にすぎない!」


 局長が叫んだ。


「ならば、今ここで確かめてください」


 リゼットは広場の端を指した。


 そこには、町の職人たちが持ち寄った小さな水槽が並んでいた。水槽の底には振動針が取り付けられ、透明な管がそれぞれ別の水路へつながっている。


「北水路から来た水は、中央水路を通り、貴族街へ向かいました。けれど、南側の村へ続く管には、ほとんど流れていません」


 ミラが水槽の蓋を外す。


 北側と貴族街側の水槽には水が溜まっていた。一方、村へ向かう水槽は乾いたままだった。


 誰かが呟いた。


「同じ王都の水なのに……」


 その声に、別の誰かが続けた。


「雨が降らなかったんじゃない。降ったことにされなかったんだ」


 局長は天幕の下で書類をめくり、何かを探していた。


 ユリウスが彼の前に立つ。


「公式記録と実測値が一致しない理由を説明してもらおう」


「私は指示に従っただけだ」


「誰の指示ですか」


 局長の隣にいた役人が、慌てて一歩下がった。


「局長が決裁した。私は帳簿を写しただけだ」


「勝手なことを言うな!」


 局長が怒鳴る。


 その瞬間、広場の空気が変わった。


 役人たちは互いに顔を見合わせ、責任の押しつけ合いを始めた。記録を消した者、水門を動かした者、貴族街への配分を承認した者。隠されていた役割が、次々に口からこぼれていく。


 リゼットは騒ぎを聞きながら、中央の記録器を見た。


 雨音を拾う薄膜は、最後まで静かなままだった。


 それでも、その隣の針は動き続けている。水は嘘をつかない。音がなくても、流れは痕跡を残す。


 審査官が立ち上がった。


「実験は成立した。雨量の有無にかかわらず、水路の操作と記録の不一致は確認できる」


 ユリウスがリゼットを見る。


「最後に、あなたから説明を」


 彼は彼女を前へ押し出さなかった。ただ、隣に立った。


 リゼットは広場を見渡した。以前は疑いの目を向けていた老人も、工房に来た少年も、今は記録紙を見つめている。


「私は、誰かを罰するためにこの装置を作ったのではありません」


 声は震えなかった。


「雨が降ったこと、流れた水がどこへ行ったこと、誰かが必要としていた水が届かなかったこと。それを、なかったことにしないためです」


 静寂の中で、遠くの水路が低く唸った。


「記録は、力のある人の都合で変えるものではありません。誰でも確かめられるものでなければならない。今日、雨は降りませんでした。でも、水は動きました。そして、その動きをここにいる皆さんが見届けました」


 誰かが拍手をした。


 一つだった音は、すぐに広場全体へ広がった。


 リゼットは記録紙に刻まれた線を見下ろした。そこには、雨のない一日の真実が残っている。


 彼女はもう、詐欺師という言葉から逃げなかった。


 真実を隠そうとした者たちの前で、職人として、自分の手で作った記録を差し出したのだ。


 そしてその記録は、確かに人々の目の前で語り始めていた。

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