間話 右の剣
「エルンストさん、診察まであと半刻ですよ」
治療所の職員が扉を叩いた時、俺は腰帯の留め金を通そうとしていた。
「分かってる。」
返事をしてから革を引くと、押さえていた端が滑り、締めかけた帯が緩んだ。
「……くそっ」
右手だけで引こうとすると、どうしても反対側が動いてしまう。俺は帯の端を腹へ押しつけ、どうにか金具を通してから、最後の穴へ留めた。
何度やっても面倒だが、最初の頃に比べれば随分早くなった。着替え一つに人を呼んでいた頃を思えば、少なくとも朝から腹を立てる回数は減っている。
もっとも、鏡を見ると上着の襟が左側だけ折れ込んでいた。
右手で引っ張り出し、肩の下で留められた袖を整える。傷の奥に鈍い痛みが走ったので、残った布を動かさないよう指先で形を直した。
なくなった左腕を動かそうとしてしまうことは、まだある。
寝起きや、何かを落としかけた時は特にそうだ。今朝も水差しへ手を伸ばした瞬間、空の左側で指を開いたつもりになり、右手で受け直す羽目になった。
剣を持ち始めてから、ほとんどずっと二本だった。身体の癖まで急に変わるわけがないことは、アレンが見舞いに来た時にも話した。
分かっていても、腹は立つ。
窓の外では、通りを挟んだ向かいの建物で職人たちが外壁を組み直していた。足場の上を資材が行き交い、石を削る音に荷車の車輪が重なる。王都のどこへ行っても、まだ修繕の音が途切れることはない。
ようやく襟を整えたところで、もう一度扉が叩かれた。
「エルンストさん?」
「今行く!」
外套を右肩へ掛け、俺は扉を開けた。
◇
治療師は傷の状態を確かめたあと、記録用の紙へ今日の日付を書き込んだ。
「熱はありませんね。傷も落ち着いてきています。腕を動かそうとした時の痛みはどうですか?」
「まだたまにある。前よりはましだ」
「強くなることがあれば教えてください。深い部分はまだ回復の途中ですから、重い物を振り回すのは駄目ですよ」
「剣もか」
治療師が顔を上げた。
「またその話ですか?」
「聞くだけならいいだろ」
「実戦用の剣を振る許可は、まだ出せません。歩くことや、痛みの出ない範囲で姿勢を変える練習なら構いませんが、身体を急に捻るのも控えてください」
「いつになったら振れる」
「次の診察で改めて確認します。傷の治り方には個人差がありますから、日にちだけでは決められません」
言いたいことはいくらでもあったが、ここで無理に剣を振って傷を開けば、さらに長く寝かされることくらいは分かっている。
「……分かったよ」
「本当ですか?」
「今は振らねぇ。それでいいだろ」
治療師はようやく頷き、次の診察予定を紙へ書き加えた。
部屋を出て受付へ寄ると、外出先を尋ねられた。治療所の外を一人で歩くこと自体は、もう特別な許可を必要としない。それでも帰りが遅ければ確認が入るため、出る時には行き先を伝えるよう言われている。
「冒険者ギルドですか。お仕事ではありませんよね?」
「剣を見に行くだけだ」
「使わないでくださいね」
「……ここの連中は、俺が何かするたび剣を振ると思ってるのか?」
受付の女性は少し笑った。
「毎回、早く振りたいとおっしゃるので」
その通りだったので、俺は何も言わずに受付を離れた。
◇
冒険者ギルドへ着くと、正面の掲示板には新しい依頼票が並んでいた。
王都周辺の護衛や街道の安全確認、崩れた建物からの資材搬出。討伐依頼も戻ってきているが、依然として復旧に関わる仕事が多い。
何となく金級向けの欄へ目をやると、街道沿いの大型魔獣討伐が一件残っていた。
距離と報酬を確認し、討伐対象の特徴まで読んだところで、掲示板から手を離した。今の俺が依頼票を持って受付へ行っても、仕事を受けられるわけではない。
受付では顔を覚えていた職員が、こちらを見るなり奥へ声をかけた。
「ヴォルフさん、お預かりしている装備ですね」
「ああ。状態を確認したい」
しばらくして運ばれてきた細長い木箱には、剣が一本と、布に包まれたもう一本が収められていた。
右の剣を持ち上げる。
革を巻いた柄が手のひらに収まると、妙に懐かしい感触がした。刃には細かな欠けが残り、鍔の近くにも傷がある。何度も研ぎ直してきた剣だが、王都での戦闘で受けた損傷は小さくなかったらしい。
左の方は、職員が布を開いて見せた。
鍔の先から折れた刃が続き、その周りには回収された破片がまとめられている。
「あの状態では修復は難しいそうです。残った一本も、一度武具職人へ見せた方がいいと」
「だろうな」
左の剣を右手で持ち上げてみた。
柄には、俺の左手に合うよう巻き直した革が残っている。握りの形も微妙に違うから、右手で持つと馴染まない。
あの夜、黒い人型の攻撃を受け止めた時のことを思い出した。胴へ向かってきた一撃を左剣で受け、刃が砕けたところまでは覚えている。
その後の記憶は、今もはっきりしない。
「こちらは処分されますか?」
職員に聞かれ、俺は折れた剣を布へ戻した。
「いや、取っといてくれ。右の方は修理に出せるか?」
「できます。お見積もりを出してもらいますね」
「握りの革も見てもらえるか。少し滑る」
「承知しました」
職員が書類を揃え、俺は差し出された用紙へ署名した。
紙が動かないよう左手で押さえようとして、肘で端を留め直す。今朝も腰帯で似たようなことをやったばかりだった。
「仕上がりましたら、お知らせします」
「ああ。頼む」
預けた二本の剣が奥へ運ばれていくのを見届けてから、俺は裏手の訓練場へ向かった。
◇
訓練場は、まだ奥の半分が使えなかった。
崩れた外壁の近くには資材が積まれ、作業区画を仕切る縄の手前で、何組かの冒険者が稽古をしている。空いた場所では鉄級の連中が指導員に足運びを教わっており、その隣では盾を持った二人が向かい合っていた。
俺は入口近くで足を止めた。
前にここでアレンとやり合った時は、二本の剣を持っていた。
あいつは最後まで左の剣を警戒していたが、それでも俺の右側へ入り込もうとしてきた。空いたように見せたところへ誘い、右剣で弾き、その先を左剣で押さえた。
最後に喉元へ届いたのは、左の剣だった。
今、同じことをやれと言われても、できない。
「エルンストか」
声をかけてきたのはアルノルトだった。
片手に書類を挟んだ板を持ち、訓練担当者と区画の配置を確認していたらしい。重傷を負って以来、本格的な訓練には復帰していないと聞いていたが、ここでの仕事はもう始めているようだった。
「アルノルトさん。身体、大丈夫なんですか?」
「まだ剣を振れるほどではない。今は使える場所を整えているところだ。君は診察が終わったのか?」
「ええ。相変わらず振るなって言われました」
「なら、今日は見るだけだな」
「そう言われてもな……」
アルノルトが少し笑い、俺の腰へ視線を落とした。
「剣を取りに行ったのかと思ったが、持っていないんだな」
「修理に出しました。左のはもう駄目ですけど」
「そうか」
それ以上は何も聞かれなかった。
訓練場では、盾を持った男が相手の木剣を受け流し、身体を左へ向けながら位置を変えていた。
盾の縁で刃を外したところへ右の剣を送り、相手が下がればすぐに足を揃え直す。大きく動いているわけではないが、次の一歩が遅れない。
「上手いな、あいつ」
「普段は護衛をしている。狭い場所で人を守るのが得意な男だ」
「盾の使い方もいいけど、足がいい。相手が回っても遅れねぇ」
盾の男がもう一度剣を受け、今度は半歩だけ位置をずらした。
俺ならどう入るか。
右から剣を見せて相手の盾を上げさせ、左へ回る。そう考えたところで、自然に左剣を送り込む動きまで浮かんでいた。
「……またか」
「どうした?」
「今の相手に入るならって考えたんですけど、どうしても二本目を使おうとするんですよ」
アルノルトは盾を持つ男の方へ目をやった。
「それだけ長く使ってきたんだろう」
「ええ。あとは足ですね。一本になった時の動き方まで、身体が覚えてるわけじゃねぇ」
アレンにも同じような話をした。
あの時は、右一本で戦うことを軽く考えられたように聞こえて腹を立てたが、実際にどう変えるかは俺自身もまだ答えを出せていない。
「治療師から、どの程度の運動を許されている?」
「歩くことと、痛みの出ない範囲で姿勢を変えるくらいです。急に捻るなとも言われました」
「なら、あの白線まで歩いてみるか。剣は持たなくていい」
アルノルトが示したのは、使っていない区画の端に引かれた線だった。
訓練場へ入るのは、治療所へ運ばれて以来初めてだった。
線の前に立ち、相手が三歩先にいるつもりで右足を出す。
踏み込む距離も、膝の曲げ方も覚えている。足だけを動かすなら問題はなかったが、次に相手が左へ回り込んだと考えた瞬間、身体がいつもの動きを始めた。
左剣で牽制するつもりで肩を動かしかけ、慌てて止める。
その間に、右足へ体重が残った。
左へ向き直ろうとしても、次の足が思うように出ない。
「……駄目だな」
「いつもなら、そこでどうしていた?」
「左で止めてました。相手がそっちへ来れば剣を出せるし、避けても右で追える」
「なら、その動きは使えないな」
「分かってますよ」
つい声が強くなったが、アルノルトは気にした様子もなかった。
「では、左へ回られた時に、右の剣が届く位置へ足を置くとしたら?」
俺は白線へ目を落とした。
さっきは右足を出したあと、左足をいつもの位置へ置いていた。左剣で相手を止めることが前提だから、右の剣はそのままでも届く。
今は違う。
左足を半歩だけ引き、身体の正面を少し変えてみる。そこから右腕を伸ばすつもりになると、さっきより相手を捉えやすい位置になった。
ただ、今度は前へ出る力が足りない。
「……これじゃ追えねぇな」
「そうだな」
「もう少し右足を引くか」
位置を変えて試す。
前へ進む時の感覚が変わり、足元を見る時間が長くなった。自分でも妙な歩き方をしていると思う。
剣を持っていた頃なら、こんな動きはしていない。
「ちょっと待ってください」
アルノルトが声をかける前に、俺は足を止めた。
「今の、もう一回だけ確かめたい」
「身体を急に捻らないことだ。それだけは守れ」
「分かってます」
右足を前へ出し、相手が左に回ると考えて、先ほどの位置へ左足を置く。
まだ遅い。おまけに、意識しないとすぐ元の位置へ戻りそうになる。
だが、右手を動かすつもりで向き直った時、最初よりは相手を正面に捉えられた。
「……なるほどな」
もう一度試そうとすると、アルノルトが手を上げた。
「そこまでにしておこう」
「まだやれますよ」
「痛みが出るまで続けてどうする。続きは治療師が許可してからだ」
「少し歩いただけですよ」
「その少しで、今までと違う動きが必要だと確かめられただろう。なら、今日はそれでいい」
俺は白線へ目を落とした。
左肩の奥には、動かした時とは違う重さが少し残っている。ここで無理をして、明日からまた寝台へ戻るのも馬鹿らしい。
「……分かりました」
「随分不満そうだな」
「不満ですからね」
アルノルトが笑った。
「そうか。なら、許可が出た時にまた来るといい。訓練担当者にも伝えておこう」
「ありがとうございます」
彼は頷き、職員の待つ机へ戻っていった。
俺は一人で白線を眺めた。
アレンが訓練場で歩き方ばかり繰り返していた時は、剣士が何をやってるんだと思った。
あいつが今の俺を見たら、何と言うだろう。
たぶん、あまり驚かない気がする。以前の模擬戦でも、俺が足を変えるたびに何度も追いついてきたし、最後まで勝ちを諦めなかった。
あの時、喉元へ剣を向けられたアレンは、悔しそうに笑っていた。
またやろうと言ったのは、あいつの方だった。
「……簡単には勝たせねぇからな」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は訓練場を出た。
◇
帰る前にギルドの受付へ寄り、修理に出した剣の扱いをもう一度確認した。
「ヴォルフさん、何かありましたか?」
「修理の件、急がなくていい。使えるようになるまで、まだ時間がかかる」
「分かりました。仕上がったら、こちらで保管しておきますね」
「ああ。それと、訓練場の利用について聞きたい」
職員が顔を上げる。
「いつ頃からですか?」
「剣を振るのは、まだ先だ。ただ、歩くくらいなら許されてる。空いてる時間に場所を借りられるか?」
「訓練担当者に確認してみます。アルノルトさんからもお話があれば、調整できると思いますよ」
職員が予定表を取り出し、空いている時間帯を教えてくれた。
俺はその中から、翌朝の枠を指で押さえた。
「ここで頼む」
「承知しました。治療担当者から止められたら、無理はしないでくださいね」
「分かってるよ」
受付を離れ、通りへ出る。
腰の左側が軽いのは相変わらずだったが、明日また確かめたい足の位置はいくつかある。忘れないうちに書き留めておこうと考え、俺は治療所へ向かって歩き始めた。




