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夜雀(やすずめ)王国は、約束、信頼、慕情——それらは「綻び」として町中に浮かび、放置すれば「綻獣(ほつれじゅう)」となって人を裂く。それを縫い直す職人が、修繕士である。

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第1話「最初の綻び」

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夜雀王国の都・はなだには、二種類の職人がいる。形あるものを直す職人と、形のないものを直す職人だ。


縫衣ぬいいの店は、後者だった。


縹の町外れ、石畳の路地裏に「繕い処・夜灯やとう」という小さな木看板が下がっている。木戸を引くと、蜜蝋と古い糸の匂いが鼻をくすぐる土間。奥の作業台で、十七歳の少女がランプの光に針箱を傾け、銀の細針を一本ずつ磨いていた。


母が遺した針箱だった。


蓋の裏に「縫う者は、まず己を縫え」と一言、母の字で刻まれている。縫衣はその文字を、もう何度撫でたかわからない。


「ごめんください」


外から少年の声がした。木戸が遠慮がちに開く。十くらいの、肩の細い子だ。後ろに父親らしい男が立っている。父親は目を伏せたまま、何も言わない。


「依頼ですか」


縫衣は針箱の蓋を閉じた。少年は袖をぎゅっと握りしめ、震える息を吸ってから言った。


「父さんを、繕ってほしいんです」


修繕士は、人の体を繕えない。物も繕えない。繕えるのは、人と人の間に張られた糸——約束、信頼、慕情。それらが擦り切れて綻びた時、針と糸でもう一度縫い直すのが、この仕事だった。


「お父様の、何が綻んでいますか」


少年は俯き、ぽつりと声を落とした。


「母さんの、ことを。忘れかけてる、と思う」


父親は何も言わなかった。ただ床の節穴を、じっと見つめていた。


縫衣は土間を降り、父親の前に立った。針箱から銀色の長針を一本抜く。柄の根元に、小さな夜雀の紋が彫ってある。先代の——母の——印だった。


「胸に、刺します。痛みはありません」


父親が頷くのを待って、縫衣は針を立てた。針先は布を通すように男の胸へ沈み、肉には触れなかった。


針先から、糸が浮かんだ。


肉眼で見える糸ではない。けれど修繕士の目には、空気そのものが綻びて繊維が垂れ下がるのが見える。男の胸から伸びた糸は、本来なら細い金色のはずだった。妻と男を繋いでいた糸。


糸はすでに、千切れていた。


断面はささくれ、奥には黒い影が蟠っていた。糸を食って育つ獣——綻獣ほつれじゅう


「綻獣が、育ってます」


縫衣は静かに言った。


「亡くなられた奥様への悲しみが、行き場を失って獣に変じています。このまま放っておけば、お父様の中に残った息子さんへの愛情まで、食べられます」


父親は、初めて顔を上げた。その目は乾ききっていた。涙すら、もう綻獣に食われていた。


「……縫って、ください」


声は掠れていた。


縫衣は針を抜き、新しい糸を通した。蜜蝋を引いた絹糸。母の遺品でもある糸だった。針を父親の胸に再び立て、千切れた断面に針先で小さな穴を作る。一目、二目。蜜蝋の匂いが土間にひろがった。


その時、空気が裂けた。


父親の背後の壁が、内側から押されたように歪み、黒い手のような影が突き出した。綻獣が現実に出てきたのだ。少年が悲鳴を上げて後ろに下がる。


「動かないで」


縫衣は針を握ったまま、父親の前に立ち塞がった。


修繕士は戦士ではない。武器は針と糸とこてだけ。だが綻びを潰すのに、剣はいらない。


縫衣はもう一本、左手に針を取った。糸を長く繰り出し、低く呪文を唱える。


「結う。くくる。封じる」


糸はしなり、鞭のように宙を切った。綻獣の手首に巻きつき、ぎゅっと締め上げる。綻獣は咆哮を上げた。けれど声は出なかった。声を持たない獣だ。


縫衣は獣に近づいた。本体は壁の内側にある。針を獣の手の付け根に立てる。


「これは、忘れることじゃありません」


針を捻る。


「痛みを縫い込むだけです。お母様の記憶は、お父様の中にちゃんと残します」


針が深く沈むと、綻獣はゆっくりと萎んだ。手首の糸が緩み、獣は壁の中へ静かに引き戻されていく。最後に、湿った息のような音が一つ。


そして、音もなく消えた。


父親が膝から崩れた。床に手をつき、肩が震えた。涙が、戻ってきていた。


「ごめんな」


父親は息子に向かって、それだけを言った。少年は何も言わず、父親の背中に手を添えた。


二人を見送った後、縫衣は袖をまくった。


右腕の内側に、新しい黒い縫い目が一筋増えていた。肘から指先へと向かって、二十八本目。


修繕士は他人の綻びを縫う時、自分の体に縫い目を一つ受ける。それが代償だった。母から、そう教わった。


「いつか、縫い目で体が埋まったら、わたしはどうなるの」


幼い頃にそう問うた時、母は笑って答えた。


「縫い切れなくなったら、糸を渡す番だよ。それが終わりじゃない」


その母は、五年前に旅に出たまま帰らない。王都の中央へ向かったきり、消息が途絶えた。


縫衣は袖を下ろし、ランプの芯を切った。


外で、夜雀が一声、低く鳴いた。


その時——木戸の外、街灯の影に、誰かが立っているのが見えた。


修繕士の格好をした男だった。腰に針箱を提げているが、縫衣の流派とは違う、銀ではなく黒い針箱。男はじっと、縫衣の腕の縫い目を見ているようだった。


縫衣が戸口に出ると、男はもう背を向けて歩き出していた。


「縫衣の店か」


肩越しに、低い声だけが届いた。


「五年遅かったな」


夜雀が、もう一度鳴いた。


繕い処・夜灯の蝋燭が、ゆれた。


——第1話 了——


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第2話「忘れられた約束」

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夜灯の朝は、湯を沸かす音から始まる。


縫衣は土間の竈に火を入れ、銅の薬缶を載せた。昨夜の客が落としていった気配が、まだ店の隅に残っている。父子の影と、もうひとつ——戸口に立った見知らぬ修繕士の声。


「五年遅かったな」


あの低い声が、まだ耳の奥で揺れていた。


縫衣は袖を捲って、右腕の縫い目を確かめた。二十八本目。指先まで届いた黒い縫い目を、母なら何と言っただろう。


竈の薪が、ぱちりと爆ぜた。


木戸が、こつ、こつ、と二度叩かれた。


「ごめんなさいね、こんな朝早くに」


声の主は、白髪の老婆だった。背は縫衣より一つ低い。色褪せた紺の上衣に、藍染めの前掛け。手にはなにやら布包みを抱えている。


「依頼ですか」


「ええ、ええ。けれど、わたしのは難しいかもしれない」


老婆は土間の框に腰を下ろし、布包みをほどいた。中から出てきたのは、小さな丸い石が三つだった。白、灰、黒。河原で拾うような、ただの石だ。


「主人がね、三十年前に死んだの」


老婆——須摩すまと名乗った——は、石を一つずつ框に並べていった。


「庭に石庭を作ろう、って約束したのよ。二人で。十二の石を、十二年かけて選ぼうって。一年に一つずつ、特別な石を」


縫衣は石を見た。三つは、艶やかに磨き込まれていた。


「三つで、止まったの」


須摩は石の隣に皺の手を置いた。


「主人が病で逝ってから、わたし一人で続けた。九つ集めたわ。けど、ね」


老婆は、笑った。困ったように。


「忘れちゃったの。どの石を、何の年に選んだか。一つずつ、頭から抜けていく。昨日はね、四つ目の石を見ても、いつ拾ったかが思い出せなかった」


縫衣は針箱を開けた。


「お婆さま。それは、約束の方が綻びかけているのかもしれません」


「綻び、ねえ」


須摩は呟いた。


「縫って、もらえますか」


縫衣は針を選んだ。一番細い、目に見えにくいほどの細針。記憶の糸は脆い。太い針を立てれば、糸そのものを裂いてしまう。


「胸に、刺します」


老婆は頷いた。縫衣は須摩の左胸に、そっと針を立てた。


針先から糸が浮かんだ。


それは金ではなく、淡い水色だった。記憶を媒介にして繋がる糸の色。糸の根元に近い部分はまだ艶やかだったが、先の方——三十年の歳月を経た部分——はささくれ、繊維が空気に解けかけていた。


そして、糸の中ほど。


小さな獣が、丸まっていた。


縫衣は息を呑んだ。


綻獣だった。けれど、昨夜の獣とは違う。攻撃する素振りはない。糸の中で身を縮め、ただ静かに、糸を一本ずつ食んでいた。哀しい、と思わせる獣の佇まいだった。


「お婆さま」


縫衣は針を持つ手を止めた。


「この獣は——大人しいです。奪っているのではなく、譲られているように見えます」


須摩は、ゆっくりと目を閉じた。


「ああ、やっぱりね」


老婆は、知っていた。


「主人がね、最後に言ったの。『辛くなったら、忘れていい。約束は、覚えていることが全てじゃない』って。優しい人だったから」


縫衣は糸の流れを目で追った。


確かに、糸は片方からは綻びを許す方向に編まれていた。須摩の夫が、生きているうちに、「忘れていい」という許しの目を糸に織り込んでいたのだ。獣は、その許しを少しずつ食べて育っていた。


縫衣は、迷った。


完全に縫合すれば、須摩は全ての記憶を取り戻す。けれど糸は限界に近い。無理に縫えば、須摩の心が裂ける。


完全に断てば、約束ごと消える。それは須摩の望みではない。


縫衣は針を持ち替えた。


「お婆さま。一つだけ、わたしから提案があります」


須摩は目を開けた。


「ご主人様の織り込んだ『忘れてもいい』の許しを、糸ごと縫い直します。獣を消すのではなく、獣の進む速度を、お婆さまの心に合わせます」


「速度を、合わせる」


「忘れたい時だけ、忘れられるように。覚えていたい日は、覚えていられるように。糸を、お婆さまが手綱を取れる長さにします」


老婆の目に、薄い涙の膜が張った。


「……お願い、します」


縫衣は針を糸の上で滑らせた。蜜蝋を引いた絹糸を一本、糸に沿わせて二重に編む。獣の前で糸を一度結び、もう一度ほどく。緩い結び目を作る。引けば締まり、放せば緩む結び目だ。


獣は身じろぎして、結び目を見た。


そして、ゆっくりと、丸まったまま糸の中で眠った。眠り、再び少しずつ食み始めた。けれど食む速度は、明らかに緩やかになっていた。


縫衣は針を抜いた。


須摩は、深く息を吐いた。


「あら。なんだか、随分軽くなったわ」


「忘れたくない夜は、左の胸に手を当ててみてください。糸が、引き締まります。忘れたい朝には、手を放してください。糸が、緩みます」


「ありがとう」


老婆は、立ち上がり、石を布に包み直した。三つの石を、大切そうに胸に抱えて。


帰り際、須摩は戸口で振り返った。


「お母さん、立派な娘さんを育てたわね」


縫衣は、答えられなかった。


老婆が出て行った後、縫衣は袖を捲った。


新しい縫い目は、肘の上——腕から肩にかけて、一筋伸びていた。二十九本目。母から教わった通り、自分の体は他人の綻びを引き受ける場所だった。


縫衣は袖を下ろした。


——


その夜。


縫衣が店じまいをして木戸を閉めた頃、路地の向こうから子どもの声がした。


「ねえ、繕い処って、ここ?」


振り返ると、十くらいの男の子が立っていた。継ぎはぎだらけの上衣に、片方だけ大きすぎる靴。腕に、何も入っていない布袋を抱えていた。


「何のご用?」


少年は、まっすぐ縫衣を見上げた。


「あんたの弟子に、なりたいんだ」


縫衣は、口を開きかけて閉じた。


夜雀が、頭上で鳴いた。


——第2話 了——


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第3話「断つ者・縒」

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「弟子に、なりたいんだ」


少年は二度目の朝も、夜灯の戸口に立っていた。


縫衣は前掛けで手を拭いながら、戸の前に屈んだ。少年は背中を伸ばして、まっすぐ縫衣を見ている。継ぎはぎの上衣には、明らかに自分で当てたらしい不格好な縫い目があった。


「名前は」


つづり


「家は」


少年は黙った。布袋の口を強く握り直した。それで分かった。


縫衣は腰を伸ばした。


「綴。今日のところは帰って」


「やだ」


「弟子の話は、また聞く。今日は、わたしも行かなきゃいけない場所がある」


「どこに」


「東の市場」


朝のうちに早馬の触れが回っていた。市場の肉屋が、昨夜店先で首を吊った。今朝、その隣の八百屋と魚屋の店主が、同時刻に自分の腕を包丁で切っていた。二人とも記憶がないという。


綻びが、人から人に伝播している。


「なら、ついてく」


「だめ」


「なんで」


「綻獣は、子どもを最初に食う」


縫衣は針箱を肩に提げ、戸を閉めた。綴は黙って、夜灯の壁に背を預けた。「ここで待つ」とは言わない。けれど動かない目をしていた。


縫衣は溜息をつき、鍵を渡した。


「中で待ってて。湯は沸かしてある」


少年の目が、はじめて少し丸くなった。


——


東の市場は、人が出払って奇妙に静かだった。肉屋の前には縄が張られ、衛兵が二人立っている。八百屋と魚屋は戸を閉じている。


縫衣が肉屋の前に立った時、奥から声がした。


「来るのが遅い」


縄の内側に、男が一人立っていた。


二十代半ば。黒い修繕士の上衣。腰に下げた針箱は、夜雀紋ではなく、輪を断つような銀の刻印。長身、細身、目の下に浅い隈。


縫衣は、知っていた。あの夜、戸口で背を向けた男だ。


より


男は名乗らず、ただ顎を引いた。


「先代から名前を聞いていたか」


「五年遅い、とは」


「そのままの意味だ」


縒は、肉屋の柱を指した。柱の木目に、見えない糸が走っていた。糸はこの店から外へ伸び、八百屋と魚屋の戸口に分岐している。


「綻びの伝播糸だ。元の綻獣はもう死んだ。けれど糸が残った。残った糸は近隣の心に刺さって、似た形の綻獣を新しく育てる」


縫衣は針箱を開けた。


「縫います」


「無駄だ」


縒の声は、低く乾いていた。


「死んだ綻獣の糸は、根がない。縫い戻す相手がもういない。縫えば、糸の長さだけ綻びが増える。だから——断つ」


縒は針箱から、針を一本抜いた。


針ではなかった。針の形をしているが、刃だった。先端から根元まで、刃文が走っている。修繕士の道具ではない。


「断つ者の流派だ」


「綻びは、縫って治すものです」


「綻びの種類による」


縒は刃を構え、伝播糸の一本に当てた。


「お前の母は、縫う流派の極致だった。だから——縫い切れぬものに手を出して、消えた」


縫衣の手が、止まった。


「お前は、まだその段階にない。これは断つ案件だ。下がっていろ」


縒は刃を引いた。糸が、空気の中で——切れた。


切れた瞬間、八百屋と魚屋の戸口で、糸の先端が縮んで消えた。同時に、店の奥から呻き声が上がった。生きている主人たちの声だ。糸が消え、綻獣の卵も、共に消えた。


縫衣は、呆然と立っていた。


縒は刃を仕舞い、肉屋の柱に向き直った。


「縫衣。これからは断つ案件も増える。お前一人では危ない。流派を改めろ、とは言わない。だが、断つ刃を一本、持っておけ」


「縫いたい人を、わたしは断ちません」


「縫って、自分が死ぬのか」


縒は、初めて縫衣を真っ直ぐに見た。目の奥に、嘲りはなかった。むしろ、何かを耐えている目だった。


「お前の腕、二十九本だな」


縫衣は袖を押さえた。


「数を、どうして」


「あの夜、見えた。縹で縫う者は、お前で最後だ。縹の街で、まだ修繕士をやっているのは、お前と俺だけだ」


縫衣は息を吸った。


「最終夜って、何ですか」


縒の眉が、わずかに動いた。


「言葉を、知っているのか」


「あなたが、五年と言いました。母は五年前に消えました。母は——最終夜を縫いに行ったんですか」


縒は、しばらく黙った。市場の風が、紙束を一枚、二人の間で巻き上げて散らした。


「五年前。王都の中央で、世界の継ぎ目が裂け始めた。母上はそれを縫いに向かった。けれど誰一人、戻ってこなかった。世界は、あの夜から少しずつ、目に見えぬ場所で綻び続けている」


「最終夜って、いつですか」


「綻びが、世界のどこか一点に集まり、すべてが解ける夜だ。今でも、誰かがその夜を早めようとしている」


縫衣の指が、針箱の縁を強く握った。


「誰が」


「俺たちの先代と同じ流派の、もう一人」


縒は針箱を閉じた。


ほどき。母上を最後に見た男だ」


縹の鐘が、昼を告げた。市場の空が、今日に限って妙に高く感じられた。


——


夜灯に戻ると、綴が土間で湯飲みを抱えて眠っていた。床には、きっちり畳まれた縫衣の前掛けが置かれていた。少年なりに、何かをしていたらしい。


縫衣は綴の肩に薄手の布をかけ、奥の作業台に座った。


針箱を開け、母の遺した針たちを並べる。銀の長針、細針、結びの針。十二本。


縫衣は、針箱の蓋の裏を撫でた。


「縫う者は、まず己を縫え」


母の字が、いつもより深く見えた。


針箱の底に、小さな鍵が一つ、留め金で吊るされていた。今まで気にも留めなかった鍵。縫衣は初めて、その鍵を指でつまんだ。


鍵には、文字が一つ刻まれていた。


——夜。


縫衣は鍵を握り、しばらく動かなかった。


外で、夜雀が低く鳴いた。


——第3話 了——


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第4話「双子と片影」

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夜灯の朝は、湯気と箒の音から始まるようになった。


綴は、土間を掃く手つきが下手だった。竹箒を引きずる癖があり、塵の山がいつも斜めにずれる。それでも黙々と続けた。三日が経っていた。


縫衣はまだ、弟子の話に答えていない。けれど追い返しもしなかった。少年の布袋が、店の隅で空のまま転がっている。中身がないというよりも、入れるものを持たない子なのだと、縫衣は察していた。


「縫衣さん」


綴が箒を止めて、奥の作業台を覗き込んだ。


「その鍵、何の鍵?」


縫衣の指先には、母の針箱から外した小さな鉄の鍵があった。柄に「夜」と一文字。一日ぶりに引き出した。針箱の底を何度確かめても、鍵穴は見つからない。母が遺したのに、対応する錠がない。


「分からない。母が遺したもの」


「お母さんの仕事道具?」


「たぶん。けれど、わたしの知らない仕事道具」


縫衣は鍵を首から下げた紐に通した。肌身離さず持つ気はなかったが、机に置いておくのも違う気がした。


木戸が控えめに鳴った。


「ごめんください」


入って来たのは、若い母親だった。三十前後。藍色の上衣に、髪は後ろで束ねている。手を引いているのは七歳ほどの女児で、母の手を強く握ったまま、不安そうに土間を見回していた。


「繕い処、で間違いない、でしょうか」


母親の声は、緊張で震えていた。


「はい。どうぞ」


縫衣は框に円座を二枚出した。母娘は並んで腰を下ろした。


さやと言います。娘は、しおり


紗は娘の頭を撫でた。栞は俯いて、母の袖の端を握った。


「最近、娘がね。いない人と、話すんです」


紗は息を継いだ。


「お姉ちゃん、と呼んでます。ずっと。けれど、栞は一人っ子なんです。わたしと夫の、たった一人の子」


縫衣は針箱を開けず、まず栞に向き直った。


「栞ちゃん。お姉ちゃんは、どこにいるの」


栞は顔を上げて、縫衣を見た。茶色の大きな目だった。母の顔色を窺ってから、小さな声で答えた。


「いつも、隣にいる」


「お姉ちゃんの名前は」


栞は、ぱちぱちと瞬きした。


「……分かんない」


紗は娘の肩を抱いた。


「先月から、こんな調子で。栞は嘘をつく子じゃないんです。けれど娘の言うお姉ちゃんは、一度も家にいたことがない。夫も、わたしも、義母も、誰一人姉なんて知らない。お祓いに行っても、変わらなくて」


縫衣は、黙って針箱を引き寄せた。


「栞ちゃん。少しだけ、針を当てます。痛くないからね」


栞は頷いた。母の手をぎゅっと握ったまま、胸を差し出した。縫衣は最も細い針を選んで、栞の左胸の上に立てた。


針先から、糸が浮いた。


縫衣は息を呑んだ。


栞から伸びる糸は、母と父にしっかり結ばれていた。健康な金色の糸。けれどもう一本、別の糸が栞の右肩から伸びていた。


その糸の先には、誰もいなかった。


ただ、空気の中に、一瞬だけ栞と同じ顔をした幼い子の輪郭が揺らいだ。


縫衣は針を抜き、紗に向き直った。


「お母さま。針を、お母さまにも当てさせてください」


紗は驚いた顔をしたが、頷いた。縫衣は紗の左胸に針を立てた。


紗の糸は、夫と栞に伸びていた。健全だった。けれど糸の根元に近い、心臓の奥の方——そこに、小さな扉のような結び目があった。誰かに紐をかけて固く閉ざした、古い結び目。


その結び目の向こうに、薄い影が一つ、潜んでいた。


「お母さま」


縫衣は針を抜いた。


「失礼を承知でお伺いします。栞ちゃんの前に——もう一人、お子さんはいませんでしたか」


紗の顔から、血の気が引いた。


栞が母を見上げた。


紗は栞の頭を撫でながら、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと、声を絞り出した。


「……いました」


紗の指が、栞の髪に絡んだ。


「双子、でした。上の子は、栞より一つ早く生まれて、三つで死にました。栞は、その子と二人でいた頃のことを覚えていません。覚えてはいないはず、なんです」


紗は、自分の言葉が信じられないように、首を振った。


「夫と決めたんです。栞には言うまい、って。生きている子に、死んだ姉の影を背負わせたくなかった。義母も、写真を全部しまいました。家の中から、姉のものを全部消した。少しずつ、わたしも忘れていって。最近では、本当に栞が一人っ子だったような気がしていて」


縫衣は、栞を見た。


栞は母の話を、不思議そうに聞いていた。哀しんでもいなかった。ただ、ふと右肩に視線をやって、そこに誰かがいるかのように小さく微笑んだ。


縫衣は、針箱の蓋を閉じた。


——栞の右肩から伸びている糸は、家族全員から消された存在の、最後の名残だった。死んだ姉の魂ではない。世界が「忘れた」ために、行き場を失った関係そのものが、栞という小さな器に縋りついていた。片影かたかげだ。


縫衣は土間に立ち上がり、母娘の前に膝を折った。


「お母さま。お子さまの、お名前は」


紗は、口を開いた。けれど名前が出てこなかった。


「……名前が」


紗の目に、涙が溜まった。


「思い出せない、んです。覚えていたのに、いつから忘れたのか」


縫衣は、静かに言った。


「片影が、家族の記憶の代わりに名前を抱えています」


紗が、息を詰めた。


「お母さま。一つだけ、提案があります。片影を断つことも、わたしにはできません。あれは攻撃する獣ではないからです。けれど——もう一度、家族で、お姉ちゃんの名前を呼ぶことなら、わたしが手伝えます」


「呼んだら」


紗の声は、微かだった。


「呼んだら、片影は栞ちゃんから、家族全員に少しずつ移ります。栞ちゃん一人で抱えるより、ずっと軽くなります。お姉ちゃんは、消えません。けれど、皆の中にちゃんと、座る場所ができます」


紗は、両手で口を押さえた。


「夫に、義母に、また話さなければ、ならない」


「ええ。難しいことを、お願いしています」


紗は、長い間黙った。栞が母の頬を、小さな手で撫でた。


「ねえ、お母さん。お姉ちゃんね、最近、わたしを見て、笑うの。前は寂しい顔をしていたけど、今は笑ってる。だからわたし、お姉ちゃんが好き」


紗の頬を、涙が伝った。


「……ええ」


紗は、栞を抱き寄せた。


「ええ、栞。お母さんも、思い出します」


——


縫衣は、二本の針を持った。一本は紗の胸に、もう一本は栞の右肩に。


「結う。括る。繋ぐ」


呪文は、結びでも封じでもなかった。繋ぐ——縫衣が初めて口にした言葉だった。


針先から、二本の糸が伸びた。栞の右肩の片影と、紗の心臓の結び目。縫衣は二本の糸を、空中で交差させて編んだ。三つ編みのように、ゆっくり、丁寧に。


片影が、ふわりと栞の肩を離れた。半分は紗の胸の結び目に流れ込み、結び目を内側からほどいた。残り半分は、空気の中で薄れて、家の方角へ流れていった。父と義母のもとへ、行ったのだ。


栞が、ふと右肩を撫でた。


「あれ。お姉ちゃん、いない」


栞は、寂しそうな顔をしなかった。むしろ、すこし得意そうに笑った。


「お母さんの中に、引っ越したのね」


紗は、声を上げて泣いた。


——


母娘を見送った後、縫衣は土間に座り込んだ。袖を捲ると、新しい縫い目が、肩の付け根まで伸びていた。三十本目。


綴は、ずっと隅に立っていた。一部始終を見ていた。


「縫衣さん」


少年の声が、控えめに飛んだ。


「縒さんなら、断ったよね。あの片影」


「うん」


「縫衣さんは、なぜ繋いだ?」


縫衣は綴を見上げた。少年の目は、子どもの目ではなかった。何かを、きちんと見届けようとする目だった。


「片影は、家族が忘れたからこそ生まれた綻びだった。断っても、家族の忘却は治らない。むしろ栞ちゃんから片影を奪うだけになる」


「……」


「忘れることが悪いんじゃないの。忘れたのに、忘れたことを認められないのが、綻びを育てる」


綴は、黙って頷いた。それから、ぽつりと言った。


「俺の母さんも、綻獣に食われた」


縫衣は息を止めた。


「親父は、母さんが死んだことを誰にも話さなかった。だから、俺の中で母さんが綻獣になった。いつか、俺も食われると思う」


少年の目には、怖がる色がなかった。それが、何より、痛かった。


縫衣は、針箱の蓋を閉じた。


「綴」


「うん」


「まだ、決めてない。けれど、しばらく、ここにいて」


少年は、何も言わずに頷いた。


外で、夜雀が鳴いた。


縫衣は首から下げた鍵を握った。鉄の鍵の冷たさが、指の腹に染みた。


「夜」と刻まれた鍵の意味を、母は何も書き残していなかった。


けれど縫衣は、いつかそれを見つけねばならないと、初めて確信していた。


——第4話 了——


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第5話「弟子志願」

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朝の井戸端で、綴が水を汲むのを縫衣はぼんやり見ていた。


少年の手は痩せていたが、釣瓶の縄を握る形は、不思議と手慣れていた。家事の何かを、誰かに教わった指の動きだ。誰に教わったのかは、縫衣はまだ訊いていなかった。


「縫衣さん、水、足りる?」


「ええ。湯にして」


綴は桶を竈のそばに運んだ。土間の床は、まだ少し湿っていた。


第四話の母娘が帰ってから、二日が経っていた。栞の片影を繋ぎ直してから、縫衣の肩には黒い縫い目が一本増えた。袖の中で、縫い目は妙にひりつく。三十本目。母の頃の言葉が、ふと甦る。


「縫い切れなくなったら、糸を渡す番だよ」


——糸を渡す。


縫衣は綴の小さな背中を見た。


弟子、という言葉を、まだ口にしていなかった。


——


午前のうちに、客が来た。


四十代の男だった。痩せ細り、頬が削げ、目の下に黒く隈が落ちている。衣は綺麗に整えてあるが、襟元が一箇所、爪で引き裂かれていた。男は土間に入ると、立ったまま深く頭を下げた。


「修繕士さま。お願いがあって参りました」


「どうぞ、お座りください」


「いいえ。立ったまま、お願いします」


男の声には、自分の声を信じていない響きがあった。


「妻と娘を、流行病で亡くしました。半年前のことです」


縫衣は針箱の前で、手を止めた。


「最近——夜になると、自分の腕を引っ掻きます。気づくと血が出ています。誰かに止められたわけでも、命じられたわけでもありません。ただ、痛みがないと、二人がいないことが、どうしようもなく耐えられなくなる」


男は、自分の右袖を捲った。前腕は、かさぶたの層に覆われていた。


「修繕士さまのお話を、人伝てに聞きました。心の綻びを、縫う方がおられると」


「はい」


「お願いです。妻と娘の記憶を——綺麗に、断ってください」


土間の空気が、少しだけ冷えた。


縫衣の背後で、綴が竈の前から動かなくなった。


「断ってほしい、と仰いますか」


男は頷いた。


「忘れたい。きれいに、忘れさせてください。生きるためです。子どもがあと一人いるんです。生まれたばかりの息子が」


縫衣は針箱を開けなかった。


「お名前を、伺っても」


「……澪川みおかわと申します」


「澪川さん。少しだけ、針を当ててもよろしいですか。断つかどうかは、糸を見てから決めます」


男は深く頭を下げた。


縫衣は最も細い針を選び、男の左胸に立てた。針先から糸が浮いた。


——縫衣は、息を呑んだ。


男の胸からは、二本の糸が伸びていた。一本は妻と娘へ。それは綻んでいたが、ささやかに金色を残していた。もう一本は——


太く、黒い糸だった。


それは妻でも娘でもない、別の場所へ伸びていた。糸の先には誰もいない。けれど糸そのものが脈打っていて、男の胸の糸を内側から食らっていた。


「澪川さん」


縫衣は針を抜き、男の目をまっすぐ見た。


「奥様と娘さんの綻びは、深いですが、まだ生きています。あなたの中にきちんと、お二人の場所があります」


男の眉が、苦しげに歪んだ。


「けれど——もう一本、別の糸があります。ご家族のものではありません。誰かが、外から、あなたの胸に縫いつけた糸です」


「外から……?」


「思い当たる方は、いらっしゃいませんか。最近、誰かと深く話されたとか。妙に楽になる薬や、お祓いを勧められたとか」


澪川の表情が、一瞬、宙を泳いだ。


「……お祓いと申しますか。流行病のあと、葬儀のあと、街道筋で、修繕士を名乗る方に声を掛けられました。痛みを取る術がある、と。お代はいらない、と」


縫衣の指が、針箱の縁を握った。


「その方は、お名前を」


澪川は首を傾げた。


「名乗らなかった、ような気がします。けれど、針箱を提げていました。黒い針箱でも、夜雀の紋でもない——白い針箱でした」


縫衣の喉が、乾いた。


——白い針箱。


縒の黒、自分の銀。母から聞かされた話の中に、もう一つ流派があった。ほどきの流派。


「綴」


縫衣は背後を振り返った。


「裏の戸を閉めて。それから、母さんの針箱の小箱を、一つ持ってきて」


綴は弾かれたように動いた。土間の奥に消え、すぐに細い木箱を抱えて戻ってきた。母の遺した針箱の隅にあった、いつもは触らない小箱だった。


縫衣は箱を開けた。中には、ただ一本の針が入っていた。


母が「返し針」と呼んでいたものだ。外から縫い込まれた糸を、元の織り手に返す針。母は一度しか使わせなかった。「これは断つよりも荒い。けれど、外からの細工を見つけた時にだけ使え」と。


「澪川さん。お願いを少しだけ変えても、よろしいですか」


縫衣は男に向き直った。


「あなたの胸の中の、奥様と娘さんとの糸は、わたしが縫います。けれどそれより先に——外から縫いつけられた黒い糸を、外へ返します。返すと一瞬、立っていられないほどの痛みが来ます。けれどあなたの中には、奥様と娘さんがちゃんと残ります。息子さんに会える胸が残ります」


澪川の口が、震えた。


「妻と、娘を、忘れずにいて、いいのですか」


「いいんです。忘れることが救いではありません。一緒にいた人を、いつか息子さんに語ってあげる。それも、生きるということです」


澪川は、涙を流した。流しながら、頷いた。


——


縫衣は返し針を握った。


針先には、糸を通さない。返し針は糸を通さず、糸の方が針に巻きついて飛ぶ。


「綴」


縫衣は綴を呼んだ。


「澪川さんの背中を、両手でしっかり支えて。返し針は、刺された側にも反動が来る」


綴は無言で澪川の背に回り、両手を肩甲骨の間に当てた。十歳の細い手だった。それでも、震えなかった。


縫衣は澪川の胸の黒い糸に、返し針を立てた。


「結えるものは、解ける。解けるものは、返せる」


呪文を、ひと息で唱えた。


返し針が、ぐっと黒い糸を吸った。糸は男の胸から引き抜かれ、空中で渦を巻き、まるで宛先を求めて漂うように、東——王都の中央の方角——へ向けて蛇のように伸びていった。澪川の体が大きくのけぞった。綴が背中を押さえた。


「離さないで。糸の最後まで」


縫衣は声を上げた。糸の終端が見える。男の胸から完全に抜けた瞬間、糸は針からも外れ、空中でぱちんと弾けて消えた。返り先は、おそらく解。


澪川は呻きながら、土間に膝を落とした。綴が支えた。


縫衣は針を持ち替え、改めて男の胸に銀の針を立てた。妻と娘との金色の糸。蜜蝋を引いた絹糸を通して、丁寧に、丁寧に、縫合した。糸の綻びは深かったが、引き受ける綻獣はもう生まれていなかった。黒い糸が育てる前に、止められた。


縫衣は針を抜いた。


澪川は、声を上げて泣いた。半年ぶりに、奥様と娘の名前を呼びながら、泣いた。


——


澪川を送り出した後、縫衣は土間に座り込んだ。


肩から二の腕にかけて、新しい縫い目が三本、増えていた。返し針は使う側にも傷を残す。三十一、三十二、三十三本目。


綴は、土間の隅で、自分の手を見ていた。


「縫衣さん」


「うん」


「俺、ちゃんと支えられた?」


「うん」


「俺、ちゃんと、役に立てた?」


縫衣は、立ち上がった。針箱から、一番細い、一番短い、銀の針を一本選んだ。柄に、夜雀の紋はない。代わりに、空白がある。これから、刻むのだ。


「綴」


縫衣は綴の前に膝を折った。


「あなたを、弟子に取ります」


少年の目が、丸くなった。


「修繕士は、針一本で全てを背負います。簡単な仕事じゃない。腕に縫い目が増える。いつか首まで届く。母のように、消えるかもしれない。それでも、いいですか」


綴は、口を引き結んで頷いた。涙は流さなかった。


「縫衣さん」


「うん」


「俺、母さんを綻獣にしてしまったから。せめて、誰かを、綻獣にしないために、生きたい」


「うん」


縫衣は、針を綴の小さな手に握らせた。


「これは、あなたの最初の針。明日から、わたしと一緒に、まず糸を見ることから始めます」


綴は針を、両手で抱えた。布袋に入れずに、両手で抱えた。


——


その夜。


縫衣は店じまいの後、一人で奥の作業台に座った。


返し針は、東——王都の中央——へ黒い糸を返した。糸の先には、解がいる。


母が消えた、王都の中央。


縫衣は、首から下げた鍵を取り出した。


「夜」と刻まれた鍵を、母の針箱の小箱の底に、初めて当ててみた。


カチリ、と音がした。


針箱の二重底が、ずれた。


縫衣の指が止まった。


外で、夜雀が鳴いた。


——第5話 了——


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第6話「母の遺針」

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針箱の二重底が、音を立ててずれた。


縫衣の手は止まったまま、しばらく動かなかった。鍵「夜」が小箱の側面に開いた、これまで気づかなかった溝に嵌っていた。母は、二重底の入口を、横に隠していた。


蝋燭の芯を切り直す音だけが、土間に響いた。


「縫衣さん」


奥の板間で布団を敷いていた綴が、戻ってきた。少年の声は、どこか息を殺していた。


「開いた、んですか」


「ええ」


縫衣は二重底を、慎重に持ち上げた。


中には、三つのものが入っていた。


一つは、薄い手帳。表紙はくすんだ藍染めで、題字はない。母の字で、隅に小さく「縫衣へ」とだけ書いてあった。


一つは、布で包まれた針が三本。柄に、夜雀の紋はない。代わりに、月の紋が刻まれていた。母が「夜の針」と呼んでいたものだ、と縫衣は記憶を辿った。一度だけ、母が幼い縫衣に見せて、そっと仕舞った針だった。「これを使わずに済む人生が、一番幸せだ」と母は笑っていた。


そしてもう一つは、折り畳まれた地図だった。縹の街の南西から、東——王都の中央——へ伸びる道筋に、母の字で印が打たれていた。最後の印は、王都中央の「七夜館しちやかん」と書かれた建物だった。


綴は黙って、縫衣の隣に座った。


縫衣は、手帳を開いた。


——


『縫衣へ。


これを読んでいるなら、わたしはおそらく、もう戻れていない。


許してくれとは言わない。けれど、説明だけは残しておきたい。』


母の字は、いつものより、少し早く流れていた。書きながら、何度か手が止まった跡がある。


『最終夜のことを、知らなければならない時が、いつかお前に来る。


修繕士という職は、千年前からある。けれどその起源は、人と人の間の糸を縫うためではなかった。世界そのものを縫うための職人だった。世界には、見えない布のようなものが張られていて、その布に綻びが生じると、季節が狂い、人が狂う。修繕士は世界の縫い手だった。


千年の間、世界の綻びは少しずつ蓄積していった。修繕士たちは縫い続けた。けれど糸は無限ではない。やがて、修繕士の数は減り、流派が分かれた。


わたしの流派は、縫う流派。お前が継いだ流派だ。

縒の流派は、断つ流派。綻びを縫いきれぬとき、傷口を切り分けて被害を抑える流派。

そしてもう一つ——ほどきの流派が、ある。』


縫衣は、息を浅く吸った。


『解の流派は、最初は祝福された流派だった。

彼らはこう言った。「縫っても断っても、世界は朽ちる。ならば、一度すべてを解いて、編み直すべきだ」。

若い頃のわたしは、その言葉に憧れた。


解の流派の頭領は、わたしの兄弟子だった。名前は、書かない。お前が後で出会えば、名乗るだろう。


兄弟子は、ある夜、王都の中央——七夜館——で、世界の織り糸を一度すべて解く儀式を始めた。それを、最終夜と呼ぶ。


わたしは止めに行った。けれど、止められなかった。


最終夜は、まだ終わっていない。兄弟子は、世界の中央で、糸を一本ずつ、ゆっくりと解き続けている。一夜では終わらない。十年、二十年かけて、世界の隅々の綻びを集め、一点に集約し、すべてを解く瞬間を待っている。


集約が済んだ時、本当の最終夜が来る。』


縫衣の指が、頁の縁を握った。


『縫衣。お前が修繕士を続けるなら、いつか兄弟子と会う。

わたしは、兄弟子を縫って戻すつもりで、戻れていない。お前が同じ道を行く必要は、ない。


ただ、もし行くと決めたなら、夜の針を持っていけ。世界の織り糸そのものを縫える、最後の三本だ。

それと、お前の右腕の縫い目。三十本を超えたら、首までが近い。気をつけて。


母は、最後の継ぎ目を、お前に渡したくなかった。

けれど、わたしには縫い切れなかったものを、お前なら縫えるかもしれないとも、思っている。


すまない。


——母より』


縫衣は、頁を閉じた。


長い間、土間の蝋燭の音だけが続いた。


綴は何も言わずに、縫衣の手の傍に、自分の小さな手を添えた。


——


戸を、誰かが叩いた。


夜の遅い時刻だった。


縫衣は手帳を二重底に戻し、針箱を閉じてから、戸口に立った。木戸を引くと、外の街灯の下に縒が立っていた。


「来たか」


縒は、こちらの中を覗き込もうとはしなかった。ただ、戸の外で、両手を上着の懐に入れていた。


「鍵が、開いたな」


縫衣は驚かなかった。


「どうして分かるんですか」


「お前の店の屋根の上を、夜雀が三羽、回っていた。先代の頃と、同じ夜雀の数だ。針箱の二重底を開けた夜にだけ、屋根に集まる」


縫衣は息を吸った。


「中、入ってください」


縒は土間に上がり、綴の存在に一瞬、目を細めたが、何も言わなかった。


縫衣は二重底を、もう一度開けた。


縒は地図を見た。手帳には触れなかった。母の字を見た瞬間、一秒だけ、目を伏せた。


「先代も、同じ地図を持っていた」


「あなたは、どこまで知っているんですか」


縒は腕を組んだ。


「俺の流派の先代は、お前の母上の弟弟子だった。最終夜のことは、断つ流派にも一部伝わっている。けれど、解の頭領の名前までは、俺の代には伝わっていない。お前の母上が、そこを抱えたまま消えた」


縫衣は手帳の頁を、縒には見せなかった。母が「名前は書かない」と言った理由は、まだ縫衣にも分からない。けれど、書かないことには意味があった。


「縫衣」


縒は土間の中央に立ったまま、声を低くした。


「行くつもりか」


「行きます」


「俺が、行く」


縫衣は顔を上げた。


「お前は縫う流派だ。解と相対するのは、断つ流派の役割だ。お前が行けば縫い目が首までいく。俺なら、まだ余裕がある」


縒は袖を捲った。縒の右腕にも、黒い縫い目があった。けれど数は、縫衣より少なかった。十数本ほど。断つ流派は、縫い込む量が少ないのだ、と縫衣は初めて知った。


「縒さん」


「言うな。俺は、先代の代わりに、行きたい」


縫衣は、首を振った。


「行くのは、わたしです」


「縫衣」


「母が、わたしに残しました。母が縫い切れなかったものを、わたしが縫いに行きます。あなたは——」


縫衣は息を継いだ。


「あなたは、わたしと、共に行ってください。断つ役を、お願いします」


縒は、しばらく動かなかった。


それから、ふっと息を吐いた。


「お前は、母上に似てきた」


「褒めていますか」


「呆れている」


縒の口の端が、初めて少しだけ歪んだ。それは笑みに似ていた。


——


綴が、土間の隅で、ぐっと針箱を抱えた。


「俺も、行く」


縫衣は綴を見た。


「綴」


「弟子なんでしょ」


少年の声は、震えていた。それでも、引かなかった。


「俺、まだ縫えない。けど、見ることはできる。糸を見ることは、できる」


縫衣は、躊躇った。


母は、縫衣を連れていかなかった。当時の縫衣は十二歳。綴より、二つ上だった。母は「お前を連れていきたくなかった」と書いていた。けれど、縫衣を連れていかなかったから、母は戻らなかったのかもしれない、と縫衣は今、思った。


「綴」


縫衣は腰を屈めて、綴の目を見た。


「あなたは、自分を弟子と呼びました。修繕士は、誰かを救うために、自分の命を使う仕事です。連れていくなら、覚悟が要ります」


「うん」


「いつか、わたしが綴を救えなくても、恨まないでください」


「うん」


縫衣は、息を吐いた。


「では、来てください」


——


夜は、深く更けた。


縒は宿に戻り、明朝の出発を約束して帰った。綴は奥の板間で寝息を立てていた。


縫衣は、奥の作業台に一人座った。


夜の針を、三本、目の前に並べた。月の紋。母が一度しか見せなかった針。縫衣は、まだ手に取れなかった。これを使う日が来てしまった、と思うと、指が冷えた。


針箱の蓋の裏の文字を、もう一度撫でた。


「縫う者は、まず己を縫え」


縫衣は、自分の右腕を見た。


肩から二の腕、二の腕から肘、肘から手首、手首から指先まで、黒い縫い目が三十三本。第五話の返し針で増えた三本が、まだ少しひりついている。


縫衣は、新しい縫い目を、自分で一本入れた。


蜜蝋の絹糸を、左手で右の手のひらに通した。掌の真ん中に、小さく一本。これは依頼ではない。誰の綻びでもない。自分が、自分自身に約束するための縫い目だ。


「行ってきます、母さん」


蝋燭の火が、ゆれた。


——


翌朝。


夜灯の戸口に、三人が立っていた。


縫衣は紺の旅装。針箱を肩から提げ、母の地図を懐に入れた。

綴は継ぎはぎの上衣に、新しい布袋を持っていた。中には、最初の針が一本入っている。

縒は黒い旅装に、黒い針箱と、刃を一本。


「夜灯」の看板を、縫衣は外さなかった。閉めない。「いつか戻ってくる店」のままにしておく。


街道の朝の日が、三人の影を東へ長く落とした。


王都の中央まで、徒歩で十日。


夜雀が、三人の頭の上を一度回って、東へ先回りに飛んだ。


——第6話 了——


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第7話「縫い切れぬ夜」

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街道を東へ三日歩いた頃、三人は山あいの村に行き着いた。


村の名は、椛立もみたち。秋の終わりで、紅葉が街道を覆っていた。村に入る寸前、街道脇の畑で老農夫が一人、鍬を振り下ろしたまま動かなかった。鍬は土に埋まったまま、老人の手は柄を握っていた。けれど目は、虚空を見ていた。


「綴。距離を取って」


縫衣は綴を背後へ下げた。少年は黙って、二歩下がった。


縒が先に老人に近づいた。指を二本、老人の額にかざす。糸を見るための仕草だった。


「全身に綻びが走ってる。一人じゃない。村全体だ」


村に踏み入ると、家々から人の気配が消えていた。井戸端で、女たちが桶を持ったまま立ち止まっていた。子どもが、独楽を回す手を止めて、回らない独楽を見ていた。誰一人、声を発さない。


ただ、村の中央——古い社の方角から、低い音がしていた。うねる、低い音。歌でも言葉でもない、空気そのものが共鳴する音。


縫衣は針箱を構えた。社の前に立ったとき、息が止まった。


社の屋根を、巨大な綻獣が覆っていた。


通常の綻獣の十倍。村人それぞれの綻びが集まって、一体の獣に成長している。獣の体は、村人と糸で繋がっていた。村人が動けないのは、糸を獣に吸われ続けているからだ。


「縫衣」


縒の声は、冷静だった。


「これは断つ案件だ。村人と獣の糸を全て切る。獣は元の綻びの寄せ集めだから、糸を断てば崩れる」


縫衣は頷きかけて、止まった。


獣の体内で、糸が絡み合っていた。糸の中に、村人の感情が縒り合わされて編まれている。怒り、悲しみ、悔恨、寂しさ。これを断てば、村人は感情そのものを失う。空っぽの体で、これから何十年も生きることになる。


「断たない」


縫衣の声は、静かだった。


「縫う」


「縫衣、糸の数を見ろ。何百本ある」


「全部、縫う」


縒は、舌打ちをひとつした。


「お前が首まで縫い目で埋まる」


「それでも、縫う」


縫衣は針箱を開けた。母の銀の針を、十二本すべて手に取った。指の間に針を挟み、手のひらに糸を巻きつけた。


「結う、括る、繋ぐ、結う、括る——」


呪文を、繰り返し唱える。針が一本ずつ宙に浮き、村人の胸に向かって順番に飛んだ。糸が空気を裂きながら、村人と獣の間を編み直していく。


縫衣の腕の縫い目が、増えていく。三十四、三十五、三十六——


「綴!」


縫衣は背後に呼びかけた。


「縒さんと、村人を支えて。糸を縫っている間、村人が倒れる。倒れさせないで」


「うん」


綴は弾かれたように動いた。最も近い女のもとに駆け寄り、その腰を支えた。


縒は刃を抜きかけた手を、止めた。一秒だけ縫衣を見て、息を吐いた。


「縫う側につく」


縒は刃を仕舞い、断つ流派の針——刃ではない方の細針——を抜いた。彼にも縫う技はある。普段は使わないだけだ。縒は別の村人に近づき、共に縫い始めた。


縫合は、長かった。


蝋燭の半刻、いや、刻の半分を超える時間が流れた。村の空が、紅葉を散らしながら、暗くなっていった。社の前で、三人が、村人と獣の間を縫い続けた。


縫衣の縫い目は、二の腕を超え、肩へ、首の付け根へと這い上がっていった。


四十五本目を入れたとき、縫衣の右目から、ふと血の涙が一筋流れた。


「縫衣さん!」


綴が叫んだ。


縫衣は針を握り直した。


「あと、十二本」


獣はまだ、社の屋根の上で、糸を吸っていた。


縫衣は、最後の十二本を一気に編んだ。糸が、獣の体内で編み目に変わり、獣そのものが編み目に縛られて動きを失った。獣は屋根から滑り落ち、地面に着く前に、糸の集合に戻り、村人の胸へと一つずつ帰っていった。


獣が完全に解けた瞬間、村人たちの目に、ぽっと光が戻った。井戸端の女が桶を取り落とし、子どもが独楽を再び回し、老農夫が鍬を抜いた。そして、誰一人、何が起きたかを覚えていなかった。


——


縫衣は、社の前に膝をついた。


右腕の縫い目は、五十本に達していた。首の付け根まで、黒い線が伸びていた。


「縫衣さん」


綴が駆け寄って、縫衣の肩を支えた。


「縫衣さん、首が」


縫衣は左手で自分の首を撫でた。冷たかった。けれど、まだ縫い目は首までは届いていない。あと指三本分。


「大丈夫」


縫衣は、立ち上がろうとした。立てなかった。


縒が手を差し出した。縫衣はその手を取った。


「縫衣」


縒の声は、いつもより低かった。


「次は、断たせろ」


縫衣は縒を見上げた。縒は目を伏せていた。


「お前が消えたら、母上が二度死ぬ。次の村は、俺が断つ」


縫衣は、しばらく黙って、やがて、頷いた。


——


その夜、椛立村の宿で、縫衣は綴に針箱を預けた。


「綴。もしわたしが、王都の中央で消えたら——」


「縫衣さん」


「最後まで、聞いて」


少年は、唇を噛んで頷いた。


「もしわたしが消えたら、夜灯の店を、あなたが継いで」


「やだ」


「綴」


「やだ。縫衣さんと一緒に、帰る」


少年は、泣かなかった。けれど、針箱を抱える手が震えていた。


縫衣は綴の頭を撫でた。


「ええ。一緒に、帰ろうね」


宿の障子越しに、夜雀が一声鳴いた。


——第7話 了——


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第8話「解の思想」

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街道の旅は、椛立村から七日続いた。


縫衣の体は、目に見えて弱っていた。歩く速度は遅くなり、夜は綴と縒に支えられて宿に入った。けれど縫衣は針箱を一度も手放さなかった。


王都・はれの門を、十日目の朝に潜った。


霽は夜雀王国の首都であり、人と建物がひしめいていた。けれど縫衣の目には、街全体が薄い綻びに覆われて見えた。空気が、わずかに灰色がかっている。


「お前にも見えてるな」


縒が並んで歩きながら、低く言った。


「ええ」


「霽全体が、最終夜の影響下にある。住民は気づいていない。気づけないように、解が薄く編んでいる」


地図の最後の印——七夜館は、王都の中央広場の北側、白塗りの三階建ての建物だった。表向きは、古文書を保管する図書館だった。


「ようこそ、繕い処の主人」


七夜館の正面玄関で、男が一人、三人を出迎えた。


四十代に見えた。けれど目元は、それよりずっと年老いていた。白い修繕士の衣。腰に下げた針箱は——白だった。


「お待ちしておりました」


男は柔らかく頭を下げた。


「先代の妹弟子の、縫衣どの。十三年ぶりだ。最後にお会いしたとき、あなたはまだ四つでした」


縫衣の指が、針箱の縁を強く握った。


「解、ですか」


「はい。解と申します」


解は、悪人の顔をしていなかった。穏やかで、優しい目をしていた。聖職者のような雰囲気だった。


「中へ、どうぞ。茶をご用意してあります」


縒の手が、刃に伸びた。けれど縫衣は左手で縒の手首を、軽く押さえた。


「話を、聞きます」


縫衣は門を潜った。綴と縒が後に続いた。


——


七夜館の奥の応接間に、四つの椅子が用意されていた。誰かが来ることが、最初から決まっていたかのように。


茶は、本物の茶だった。毒も呪も入っていなかった。縫衣は確かめてから、口をつけた。


「単刀直入に申します」


縫衣は茶碗を置いた。


「母を、殺したのは、あなたですか」


解は、茶碗を両手で持ったまま、湯気を見ていた。


「殺した、とは少し違います。けれど、結果として、わたしの儀式の中で先代は消えました。責任は、わたしにあります」


「儀式」


「最終夜です」


解は、茶碗を置いた。


「縫衣どの。少しだけ、わたしの話を聞いてくださいますか。聞いた上で、判断していただきたい」


「どうぞ」


解は、長い息を吐いた。


「わたしは元々、縫う流派の修繕士でした。先代——あなたの母上の兄弟子でした。三十年、わたしは縫い続けました。世の綻びを、一つ、また一つ。けれどわたしは気づきました。縫っても、縫っても、世界そのものの綻びは増え続けていることに」


「断つ流派は、断ち続ける。けれど断っても糸は再生する。縫う流派は、縫い続けて自分の腕に縫い目を背負って消える。両方とも、世界の総量を変えられない」


解は、自分の右袖を捲った。


縫衣は、息を呑んだ。


解の右腕には、縫い目が一本もなかった。


「わたしは、縫うことを止めました。代わりに、解くことを選びました。世界の織り糸を一度すべて解いて、新しい布として編み直す。それが、最終夜です」


「解いた後、誰が編み直すのですか」


縫衣の声は、震えていなかった。


「世界そのものが、新しい糸を生みます。古い綻びが消え、新しい糸で、新しい布が編まれる。人々は、痛みのない世界で目覚める」


「死んだ人は、戻りますか」


解の指が、止まった。


「戻りません」


「失った思い出は、戻りますか」


「戻りません。新しい思い出が、生まれます」


縫衣は、茶碗の縁を撫でた。


「澪川さんは、奥様と娘さんの記憶を断ってほしい、と仰いました。わたしは断りました。記憶を失わせるのは、生き残った人を、もう一度殺すことだから」


解は、目を伏せた。


「縫衣どの。それは、一個人の話です。世界全体の話ではない」


「世界は、一個人の集まりです」


縫衣は、立ち上がった。


「解さん。母は、あなたを止めに来て、消えました。わたしも、止めに来ました。けれど、あなたを殺すために来たのではありません。あなたを、縫いに来ました」


解の眉が、わずかに動いた。


「わたしを、縫う、と」


「はい」


縫衣は、針箱を開けた。


「あなたの中に、一番大きな綻びがあります。縫う流派を捨てたとき、あなたは自分自身に綻びを作りました。それが今、世界全体の綻びを引き寄せている」


解は、深く目を閉じた。


「縫衣どの」


「はい」


「あなたを、母上に、似せたくなかった」


解の声が、初めて揺れた。


「母上は、わたしに同じことを言いました。『あなたを縫いに来た』と。わたしは、母上の針を折りました。折った針が、母上の心臓に刺さりました。母上は、自分の血で糸を作って、わたしの周りに縫い込み、消えました。わたしは——あれ以来、わたしの周りに見えない縫い目が残っています」


解は、自分の胸を押さえた。


「これを、解いてくださると言うのですか」


「いいえ」


縫衣は、首を振った。


「これを、母の代わりに、もう一度きれいに縫い直しに来ました」


——


その夜、七夜館の地下から、低い音が響き始めた。最終夜の儀式が、本格化していた。


解は応接間を出て、地下へ下りていった。「明日の夜、儀式の終わりが来る。それまでに、あなたの覚悟を決めて」と言い残して。


縫衣は応接間に座ったまま、夜の針三本を、懐から取り出して膝に並べた。月の紋。母が一度しか見せなかった針。


縒が隣の椅子に座った。綴は縫衣の足元に、子犬のように丸まった。


「縫衣」


縒は、囁くように言った。


「縫うのか。本当に」


「はい」


「あれは、もう人ではない」


「人です。だから、縫います」


縒は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「お前の母上も、同じことを言ったのだろうな」


「ええ」


「ならば、俺は——母上ができなかったことを、お前のために、する」


縒は、立ち上がった。


「明日、解の周りの縫い目を、俺が断つ。お前が新しい糸を縫い込めるように、空間を作る」


「縒さん」


「言うな。俺の流派は、そういう流派だ」


夜雀が、七夜館の屋根の上で、低く一声、鳴いた。


——第8話 了——


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第9話「最終夜」

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夜が、来た。


七夜館の地下は、想像していたよりずっと深かった。階段は螺旋状に下り、三百段を超えた。最深部に到達したとき、縫衣の足は震えていた。けれどそれは縫い目のせいではなかった。


地下の最深部は、巨大な円形の広間だった。床に、見えない糸が放射状に走っていた。糸の数は、数千、いや、数万。それらすべてが、広間の中央へ向かって伸びていた。


中央には、解が立っていた。


そして、解の背後には——巨大な綻獣が、糸の集合体として、ゆっくりと形を成しつつあった。


「世界中の綻び」


縫衣は呟いた。


「三十年かけて、解さんは世界中の綻びを、ここに集めていた」


獣は、椛立村のものより、さらに百倍大きかった。糸の塊がうねり、人の形を取ろうとしていた。けれど人ではなかった。世界そのものの綻びが、自意識を持ちかけていた。


「縫衣どの」


解は、振り返った。


「最後の問いです。あなたは、あれを縫えますか」


縫衣は、夜の針を、三本、両手の指の間に挟んだ。


「縫います」


「断ったほうが、楽です」


縒が、刃を抜いた。


「断つ役は、こっちだ」


縒は刃を構え、解の背後の獣に向かって駆けた。


獣の糸が、縒に向かって何百本も伸びた。縒は刃で糸を順番に断ち、獣に肉薄した。けれど糸の数があまりに多く、縒の左肩が糸に絡め取られた。


「縒さん!」


綴が叫んだ。


縫衣は、夜の針の一本を、宙に放り上げた。


「結う、括る、繋ぐ、解く——」


呪文に「解く」が加わった。母の手記には書かれていなかった呪文だった。けれど縫衣は、自然にその言葉を口にした。


夜の針が、空中で軌道を変え、縒の左肩の糸を、ぱちんと弾いた。糸は解けて散り、縒は獣から離脱した。


縒は、息を整え、再び刃を構えた。


「縫衣。お前、新しい呪文を覚えたな」


「今、生まれた呪文です」


縫衣は、二本目の夜の針を放った。針は、解の周囲に張り巡らされていた——母の血で編まれた——古い縫い目に向かって飛んだ。


針は、母の縫い目に、優しく触れた。


母の縫い目が、ふっと光を放ち、解の周囲から離れた。光は、縫衣の右腕の縫い目と共鳴した。母の糸が、十三年ぶりに、娘の糸と再会していた。


解の目に、初めて、涙が浮かんだ。


「あなたの——母上の——糸が」


「母を、解の中から、出します」


縫衣の声は、震えていなかった。


「母は、解さんを縫うために、自分を糸に変えて中に入った。けれどそれは、解さんを縛り続ける糸でもあった。今、解きます。母を、解さんから自由にします」


縫衣は、三本目の夜の針を握った。最後の一本だった。


針を、解の胸に向けて、縫衣は近づいた。獣の糸が縫衣にも伸びてきた。縒が刃で糸を断ち続けた。綴が縫衣の背中に手を当て、押した。


「縫衣さん、行って」


少年の小さな手が、背中を押した。


縫衣は、解の前に立った。


「結う、括る、繋ぐ、解く、——縫う」


最後の言葉は、囁きだった。


夜の針が、解の胸に沈んだ。


母の糸が、解の中から、ふわりと抜けて出てきた。糸は空中で母の輪郭を一瞬作り、縫衣に向かって微笑んだ——そう見えた。それから、解けて、夜雀の羽の形になって、地下の広間の天井へ昇っていった。


「お母さん」


縫衣は、声を漏らした。


——


解は、膝をついた。


「軽い」


呟いた。


「十三年、ずっと、母上の糸が、わたしの中で重かった。やっと、解放された」


縫衣は、解の前に屈んだ。


「もう一つ、縫います。あなた自身の綻びを」


「それを、縫ってくださるのですか」


「はい。縫う流派の最後の仕事です」


縫衣は、手元に最後の絹糸を残していた。蜜蝋を引いた糸。母の遺品。


針を持ち替え、解の胸に立てた。


獣は、まだ広間の中央で、糸を集めていた。けれど解の中の綻びが縫合されると、獣に流れ込む糸が、ゆっくりと細っていった。糸の供給源が解だったのだ。


縫衣は、丁寧に縫った。一目、二目、三目。


獣は痩せていった。糸の塊が小さくなり、輪郭が崩れ、最後には光の粒に解けた。


光の粒は、地下の広間の天井から外へ、王都の空へ昇っていった。


世界中から集まった綻びが、もう一度、世界中に散らばった。けれど、もう獣にはならなかった。


——


縫衣は、解の胸から針を抜いた。


解は、大きく息を吐いた。それから、深く頭を下げた。


「縫衣どの。わたしを、生かしてくださるのですか」


「ええ。生きて、これから、縫う流派に戻ってください」


「わたしのような者が、許されますか」


「許すのは、あなたが救う未来の人たちです」


解は、両手で顔を覆った。


縒は、刃を仕舞い、息を吐いた。


綴は、縫衣の腰に抱きついて、涙を流していた。


——


地下から地上へ戻る階段の途中で、縫衣の足が止まった。


縒が振り返った。


「縫衣?」


縫衣は、自分の首を撫でた。


縫い目が、首の真ん中まで、伸びていた。第7話の村の縫合と、今夜の縫合で、合計六十本を超えていた。


「縒さん」


「言うな」


「言わせて」


縫衣は、笑った。


「最後に一つだけ、縫いたい綻びがあります」


——第9話 了——


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第10話「最後の継ぎ目」

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七夜館の屋上に、夜が広がっていた。


王都中央の星空は、縹の街より澄んでいた。三十年ぶりに、世界の綻びから自由になった夜空だ。


縫衣は屋上の縁に座っていた。綴がその隣に座り、縒が後ろに立っていた。解は、一階下の応接間で、自分の白い針箱の前で項垂れていた。


「最後の縫い物」


縫衣は呟いた。


「世界の中央から散った綻びは、もう獣にはならない。けれど、まだ薄く、世界中に残っている。あれを完全に消すには——もう一本、縫う糸が必要」


「縫衣」


縒の声は、低かった。


「やめろ」


「縒さん」


縫衣は振り返った。


「最後の糸は、わたしの右腕の縫い目です」


縒の表情が、固まった。


「お前——」


「右腕の縫い目六十本は、世界中の綻びを引き受けて積もった黒い糸の塊です。あれを、解いて、世界に返せば、世界の薄い綻びは消える」


「お前が、消える」


「いいえ」


縫衣は、首を振った。


「消えません。糸を返すだけです」


縒は、信じていない目で縫衣を見た。


縫衣は袖を捲った。右腕に走る六十本の縫い目。それぞれに、依頼者の名前が、縫衣の記憶に刻まれていた。父子。須摩。栞と紗。澪川。椛立の村人たち。解。


「ずっと、自分の腕に縫い込んでいたものを、わたしは抱えるためにあるのだと思っていました。でも違った。預かっていただけです」


縫衣は、夜の針——使い切ったと思っていた最後の一本に、まだ糸が一本だけ巻きついていることに気づいた。母の糸の最後の一本。


「お母さん」


縫衣は、針を握った。


「最後、貸してください」


——


縫衣は、自分の右腕に針を立てた。


母の絹糸が、縫衣の縫い目を、根本から、ゆっくりと、解き始めた。


一本目の縫い目が解けた。父子の依頼の縫い目だった。糸が空中に浮き、夜雀の羽の形になって、東の方角へ飛んでいった。


二本目が解けた。須摩の約束の縫い目。糸は、二つの方向へ分かれて飛んだ。彼女の心と、亡夫の墓の方角へ。


三本目、四本目、五本目——縫い目が、順番に、解けていった。


解けた糸は、それぞれの依頼者の方角へ、夜雀の形になって飛んだ。糸が世界中に散らばっていく。世界の薄い綻びは、糸を吸収して、見えない布として再び閉じていった。


縫衣の腕が、白くなっていった。


綴が、縫衣の左手を握った。


「縫衣さん」


「大丈夫」


「縫衣さんが、消える」


「消えない。けれど、しばらく、わたしは弱る。歩けなくなる。針を持てなくなる。あなたが、しばらくの間、わたしの代わりに、夜灯を開けて」


綴の手に、縫衣は針を渡した。


縫衣の最初の銀の針——夜雀の紋が刻まれた針——を。


「わたしの後を、継いでくれる?」


少年は、針を両手で抱えた。


涙を流しながら、頷いた。


——


最後の縫い目が、解けた。


六十本目は、縫衣自身が掌に縫い込んだ、決意の縫い目だった。糸は、空に昇る前に、一瞬、縫衣の指に留まった。それから、ふわりと、ほどけて消えた。


縫衣は、屋上に倒れた。


意識は、あった。けれど指一本、動かなかった。


縒が屋上を駆け、縫衣を抱き上げた。


「お前——馬鹿か」


縒の声は、震えていた。


「ありがとう」


縫衣は、笑った。


「縒さん」


「言うな」


「夜灯を、頼みます」


「俺は断つ流派だ」


「だから、いいんです。縫う流派は綴に。断つ流派はあなたに。二人で、一つの店」


縒は、何も言わなかった。ただ、縫衣を抱えたまま、肩が震えていた。


夜雀が、屋上を一度回って、東——縹の方角——へ先回りに飛んだ。


——


それから、半年が経った。


縹の街、繕い処・夜灯。


朝の井戸端で、十一歳になった綴が、水を汲んでいた。


土間には、新しい看板が吊るされていた。「繕い処・夜灯/縫う者・綴/断つ者・縒」。母から綴へ、銀の針が継承されていた。


奥の板間には、布団が敷かれていた。布団の中に、縫衣が眠っていた。


縫衣は、半年間、ずっと眠り続けている。けれど時々、目を開ける。目を開けると、笑う。針箱を撫でる。それから、また眠る。


医者は「魂の糸を全て出したから、糸が新しく編まれるまでは眠り続ける」と説明した。あと半年か、一年か、誰にも分からない。


綴は、毎朝、縫衣の枕元に、その日初めて摘んだ花を置いた。秋には紅葉、冬には冬紅葉、春には桜の蕾。


縒は、街の依頼を受け、断つ仕事を担っていた。綴はまだ縫う技を学んでいる最中で、簡単な依頼しか受けなかった。けれど少しずつ、縫衣の代わりに、町の人々の綻びを引き受けていた。


——


ある朝、綴が縫衣の枕元で花を整えていたとき、縫衣の指が、ぴくりと動いた。


「縫衣さん」


綴は身を寄せた。


縫衣の瞼が、ゆっくりと開いた。


「綴」


縫衣の声は、半年ぶりだった。


「うん」


「水、ちょうだい」


綴は、土間に走った。


——


夜灯の戸口に、夜雀が三羽、止まっていた。


縹の街の朝の光が、看板を照らしていた。


「繕い処・夜灯」


文字は、母の字でも、縫衣の字でもない。綴の、まだ少し不格好な字で、書かれていた。


世界の綻びは、これからも、生まれては縫われていく。


針一本では、世界は救えない。


けれど、目の前の一人なら、救える。


それが、繕い処・夜灯の、変わらぬ仕事だった。


——第10話 了——


——『繕の国の最終夜』全10話 完結——


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