その時は目を狙え、ですわ
逃げる事は、決して恥ではない。
うん、分かる話なのである。人間、死んだら終わりだもんね、逃げずに頑張り過ぎちゃって、その結果潰れちゃうとかも、よく聞く話だしね。
だけど、逃げちゃいけない時だってもちろんある。その時は立ち向かわなきゃいけないし、なにをおいても戦わなくちゃならないのだ、それも分かってる。
「だからね、サクラ、今が逃げる時ななのか、それとも戦う時なのか、その判断、見極めが大切なのさ……これは、簡単に身につくものじゃない、自分で経験して、線を引くものなんだよ、分かるかい? 分からないか、まぁいいよ、とにかくサクラ、常日頃からね、何か決断する時にはね、今の判断が、果たして向き合って戦う為のものか、それとも怖気て逃げる為のものか、それを考えてごらんよ、そして、その結果についてもね……それが、その経験がね、積み重ねがね、いつかきっと、アンタを助けてくれるのさ」
さんきゅーばーちゃん、いい事言うぜ。
なので逃げました。
だって怖いもん。
だが、ひとつだけ言っておく! これは決して、戦略的撤退ではない! はいこわい、びびって逃げてるだけです、知ってる。
あれから、主にハナコさんと殺人王子との間で、ひと悶着もふた悶着もあったのだけれど、今はこうして全てを忘れ、優雅な昼食タイムを満喫しているのでごわす。
「全く、あぁ、まったくですわ! 信じられませんわ、あんな衆目の前で、はしたない、恥知らずですわ、以前からそうだとは思っていたのですけれど、まさか、これ程にけだものじみた方だったとは、想像だにしませんでした! しかも、わたくしのサクラさんに淫猥な言葉を投げかけて、その耳を汚そうだなんて……許せません! あぁそうだ、いけない、はやく清めて差し上げないと、ぺろぺろしたい、5秒ずつ交互に」
ハナコさんは、あれからずっとお怒りのご様子です、でも、ぷりぷりと頬を膨らませた表情さえ、とびきりの美少女なのだから、もうね、妬ましくすらありませんよ旦那ァ。怒りの言葉も、ずっと似たような事を繰り返してるし……案外、語彙が少ないのかな? まあ、罵倒の言葉が湯水の如くに湧き出て来る人も、それはそれでどうかと思うけどね。
とにかく、私の方はひとまず落ち着いてしまったようで、んん、これは怒りのテンションを保ち続けるハナコさんに、呆れてしまった、というのも大きいのかな? 彼女の言葉は、もう半分も私の耳に入っていないのです。
うん、入ってないよ、聞こえない。
なんかね、色々と衝撃的すぎたというかね、ぐったりモードですわ、もう疲れたよ。テーブルの上のアールグレイにミルクを注ぐと、ストローをぶっ刺して、ちゅうちゅう吸い込みますわ、ちょっとはしたない気もするけど、これが落ち着くんだからしょうがないのだ。
ここ、学園島の昼食は、基本的に、各々が好きなように食べて良いらしいのだけれど、とにかく大っきな学校だし、食堂だって、いくつあるのか、実際のところは、まだ把握しきれていないのです。毎回毎回、悩むこと雲水の如しではあるのだけれど、初夏の心地良い陽気に誘われて、今日は中庭のオープンカフェにて、サンドイッチの日にしました、池と呼ぶには、ちょいと広過ぎる水面の輝きを前にした座席だもの、ツナサンドとか良いよね、キュウリたっぷりの奴が好き。
上級民の集う名門校だけあって、学園の食堂は、どこも名店ばかりだし、いやはや、とっても満足なのです、しかもタダだしね! タダだしね!
なので、私がボリューム満点のツナサンドを三つも平らげたって、金魚のお財布にダメージは無いのです、紅茶でお腹をリセットして、四つ目を頬張ったって、誰に咎められる事も無いのです。
ワハハ。
ぽろり。
「……おっと、可愛いお口から、ツナさんが脱走したね」
「ほわっ!?」
ツナさんといっしょに、私の口からは、少々、あざとい声が漏れてしまった。でもね、仕方ないでしょうよ、これは、ちょっと仕方ないよ。
「うーん、こんな悪いツナさんは、俺がやっつけておくよ」
ぱくり。
「はわわ」
なんたる事か、私の口からこぼれた悪徳シーチキンを、指先でキャッチしたこの殿方は、そやつを、そやつを、自らの口に運び入れたのです! ぐわー、ありえない、これはちょっとありえないよ、いや、色々とありえないのは確かなのですが、何よりあり得なかったのは。
超絶、美形!!
緩くウェーブのかかった濃いめの金髪に、冗談みたいに澄んだ碧眼、少し線は細いけど、なよなよした感じは全く無くて、むしろ、袖から覗く白い腕には、引き締まった全身を連想させる、筋の浮いた手首。あいたー、これはやられた、さっきのツナに関連する、ボケなのかマジなのか、いまいち微妙な行動も、全て帳消しにしてお釣りが60円くらいありそうよ、一発殴ってやろうかとも思ったけど、いいよ、うん、許した、イケメン無罪。
ただ、惜しむらくは、朝の殺人王子のインパクトが強過ぎて、今夜の夢に出てくる事はないでしょう、おのれ、口惜しや。
「ウォーレン先輩、ごきげんよう……けれど、少しばかり、おいたが過ぎるのでは、ありませんこと? 」
はい、ウォーレン先輩ね、サクラ、覚えた。
「あはは、相変わらず華村は手厳しいな……んじゃ、おイタな先輩は退散するとしようか、またね、ハムスターちゃん」
にこやかなイケメン笑顔を浮かべつつ、おてて振り振り、先輩が退場してゆきました。すれ違う女生徒の黄色い声に、いちいち手を振り返しては、ウィンクやら投げちっすを返してるよ……うーん、見た目は確かに良いけど……なんか変わってるというか、おかしいというか、頭悪そうだな、よし、忘れよう、前言撤回。
「サクラさん、ウォーレン先輩は、あの通り『見た目だけは』良いのですけれど、好みの女性には見境なく声をかけて、すぐに手篭めにしてしまう狼の様な方ですわ、くれぐれも、惑わされたりしないでくださいね? 」
「そ、そう、なの? うん、気をつける……ありがと、ね」
珍しくも、ハナコさんの目に、不快感というものが見て取れる、いや、嫌悪感かな? さっきまで、あれ程に文句を言っていた殺人王子に対してよりも、何か、嫌い度が高いような。うーん、二人の間にいったい何が……もしや、そういった事ですかね? 痴情のもつれ的な? 若さ故のあやまち的な? わくわく。
「……反対側にこぼれていれば……わたくしが拾えていましたのに」
そっちかよ! 怒りのポイントおかしくね? というか怖いな、隠せ隠せ、赤裸々すぎんだろ。なんなのこの人、ガチなの? ねえ、なんか身の危険を覚えるんだけど、冗談なら許すから、早めに言ってください。
「あっと……うふふ、冗談でしてよ」
うーそだー、ぜーったいに、うーそでーす、ゆるしませーん。
目がマジなんです、怖いからやめてくださいね、ちょっと、おい、顔が近いから、近づけんな、くんなくんな。
ぐぐっ、と、その端正なお顔を接近させてきたハナコさんでしたが、その、桜色のくちびるから溢れでた声音はしかし、いたって真面目なトーンでありました。なので、こちらとしても、真剣に耳を傾けるしかなかったのですが。
「……サクラさん、この学園は、由緒ある名門校だとはいえ、そこに集う方々の全てが、それに見合った人格者、という訳でもありませんわ……残念ですが……」
はい、そうですね。
きゅっ、と目を閉じ、悲痛な表情にて、その豊満な……おのれ……胸に手を当てる美少女は、我が身を省みている、のではないのでしょう、きっと。
「なので、サクラさんも、自衛の術を身につけるべきだと思うのです……もちろん、サクラさんの貞操は、わたくしが必ずお守りしますし、いざとなれば……流石にテンプル騎士団とはまいりませんが、一級戦者大隊の一つや二つ、動員も可能です」
うわー、頼もしーい、こわーい。
「ですが、最低限の心得くらい、淑女として、覚えておくべきでしょう……そうですね、もしも、サクラさんが独りの時に、彼らの様なけだものが、獣性を取り戻してしまったならば……」
うん、立てた人差し指を唇に当てる仕草はね、とってもね、可愛いんだけれどもね。
「その時は目を狙え、ですわ」
はい、物騒。
もう、あたしゃ逃げるよ、やってられへんわ。