4日目
僕は目を覚ました。昨日以上に体がだるい。
風呂場で鏡を覗くと、目の下には黒ずんだ窪みができていた。
ここまでクマができるのは受験シーズンで徹夜で勉強をした以来であった。
水で顔を洗い、気分だけはしっかりとしておこうとする。
昨日はどこにも行かないで過ごしてしまったが今日はすることがある。
主に食料の買い込みだ。
スーパーはまだ開いていないが、それに向けて準備を始める。
まずは洗濯だ。
部屋が狭いので洗濯機の置き場は自然と外になる。
僕は溜まった衣服を抱えると外に出る。
玄関の脇には新品同様の洗濯機が置いてあり、僕はそこに衣服を投げ入れ
洗剤を投入すると、スイッチを押した。
試運転した時と同じように、機械は音を立てて衣服を乱雑に洗っていった。
文明の利器というのは便利だ。しかし、
その便利ゆえにやることのない僕は暇になってしまう。
小腹がすいたので食事を食べるか、それとも溜まった食器でも洗うか。
まあ、時間もあるしどちらもやろう。
ノロノロと家事をこなしていると、突然、外から電子音が鳴り響く。
ああ、もう洗濯が終わったらしい。
僕はまた外に出て洗濯機から湿った洗濯ものを両手で抱えるのだ。
欲張り過ぎて靴下を地面に落してしまった。
ああ、せっかく洗濯したばっかりだというのに――――
砂粒で汚れてしまった靴下を拾い上げるために僕は屈む。
バタン――
急に背後から音がした。
すぐに扉の閉まる音であることが分かった。
不用意に扉を押してしまったのだろうか?
まあ、オートロックではないので僕はさらなる落下物が出ないように、
慎重に靴下を拾った。
「ほっ…………」
不意に出る声は無理な体勢でノブに手を伸ばしたためだ。
どうにかノブを掴み、右側に回す。
ガチャリ――――
開くはずの扉が一瞬、何かに引っかかった。
僕はもう一度、ノブを回す。
ガチャリ――――
また、扉は開かない。
「えっ? なんでだよ…………」
僕はここで初めて焦りを覚えた。
洗濯物を洗濯機の上に置き、ノブを回す。今度はしっかりとだ。
しかし、ノブは僕を招き入れるつもりはないらしい。
先ほども述べたように、家はオートロックではない。扉に掛かるのは
シリンダー錠のみだ。
扉を閉めるだけでは鍵はかからない――――はずだ。
しかし、ここで少し昔のことを思い出す。
シリンダー錠やかんぬき式のカギは外からでも閉められることを僕は知っているのだ。
小学校の頃、推理アニメが流行り、密室ゴッコという遊びをしたことがあった。
遊びの内容は至って簡単だ。
トイレなど簡単な鍵が掛かる所に行き、
鍵を半分ほど掛けて、外に出て思いっきり扉を閉める。
そうすれば、扉の衝撃により鍵が閉まり、
あたかも中に誰かがいる状態を作り出すことができたのだ。
このテクニックを使い、僕らは色々な密室を作って楽しんでいたっけ…………
「なるほど…………」
この状況を打開する手段を考える。
とりあえず、最初に思いついたのはドアの隙間から本当に鍵が掛かっているか覗いてみる。
残念ながら扉との隙間がほとんど無いためにここからじゃ判断できないようだ。
仕方が無いので僕は建物をぐるっと一周し、ベランダ側に回る。
そこには同じような形のガラス戸が並んでいる。
部屋番を数えながら僕は4番目の扉の前に来る。
「よっと…………」
簡単な柵を乗り越え、僕は部屋の扉を覗く。
扉は曇りガラスになっているので中はよく分らない。
だが、そんな扉の上部だけは普通の硝子のように透明になっていることを思い出す。
柵に足を掛けて中の様子を覗く。
生憎目は悪くないので鍵の様子は――――
「見えない…………」
そう、見えなかった。さすがに遠いものである。
仕方が無いので僕は柵から降り、また玄関の方へと回ろうとする。
その時、視野の端っこになにかが映った。
曇りガラスの向こうで何かが動いた気がしたのだ。
僕はギョッとして、ガラス越しに部屋を覗く。黒い影は部屋の中にある。
動いてはいないが不気味に部屋の壁際に佇んでいた。
確認するのは怖いが、確認しないでおくのはもっと怖い。
意を決して、僕は柵に足を掛け、中を覗き込んだ。
「馬鹿みたいだ…………」
部屋の中の黒い影は冷蔵庫だった。
自分の度胸の無さに嫌気がさす。
僕は柵を降り、玄関の方へと回ろうと来た道を戻った。
その時気がついたのだが、冷蔵庫の位置は僕の移動方向と逆だ。そこにある影は完全に死角になるはず…………
とは言っても些細な事だったので特に気にせず、僕は玄関を開ける方法を考えるのであった。
玄関の前に戻った僕は最後の望みを込め、再びドアノブを握った。
ガチャン――――
何と扉は開いてしまった。先ほどには絶対に開かなかった扉が――――
洗濯機に置いたままの洗濯かごを抱え、僕は部屋に入る。
誰かが中にいて、鍵を開閉したという可能性は捨てきれなかったので、お風呂場、ロフトを入念に調べた。しかし、そこには誰かいた形跡も荒らされた跡もなかった。
だから、僕は鍵が閉まっていたのは自分の気のせいであると自己完結をせざるを得なかった。
そう考えるのが一番不気味ではなく、腑に落ちるのだから。
その日は気持ち悪くなり、外で過ごした。遠出するにもお金は節約したかったので、家からそう離れていない駅前で時間を潰した。都会では無名な駅の駅前でも、田舎以上に遊びはあるので十分に時間を潰すことはできた。
夕飯を食べ、帰宅する頃にはもう、携帯電話のディスプレイは19:00の文字を示していた。
僕が玄関の鍵を開けていると、足音が近づいてきた。
驚いて音の方を振り向くと、そこには作業着を着た男の人がいた。年齢は20代後半というところだろう。金髪だったので少し警戒したが、よく見れば顔は温和そうだった。
彼は僕に会釈をしたので、僕も軽く会釈をする。
「新しく来た人かい?」
「あっ、はい」
「悪いんだけど、夜はテレビ切ってくれよな」
「えっ……ああ、ごめんなさい」
反射的に僕は頭を下げてしまった。
彼は僕の右の部屋の鍵を開け、部屋に消えていった。
引っ越し早々怒られて、へこんだ僕。しかし、その頭には引っかかりを感じてならなかった。
僕はたしかに深夜番組を見ていた。しかし、音量はそんなに大きかったであろうか?
シャワーの音や家電の音すら気にする僕が、テレビの音量だけ大きかったなんて信じられない。
それとも隣の住人が神経質なだけなのか。僕には判断できなかった。
ふと、頭に嫌な考えが浮かんだ。僕も彼と同じことを思っていたと。
僕はあのお兄さんがテレビを点けっ放しにしていると思っていた。しかし、自分の事を棚に置き他人に文句を言うことなどあり得るだろうか?
都会は変な人が多いと聞くし、可能性はあるが――――
もしかして、同じ音が聞こえている――――
いや、そんな訳はない。僕たちの部屋の間にはどんなものもないのだから――――
その夜もテレビのノイズはボクの眠りを妨げる。
右隣の部屋からは時折、ドンっ――という壁を叩く音がする。
おそらく、隣の住人からの抗議なのだろう。しかし、ボクはテレビなど点けてはいない――――
ならば彼は何に抗議をしているのだろうか?
ボクは布団を頭まで被り、長い夜を過ごした。