3日目
朝の目覚めは悪い。
実家ではベッドに寝てたので布団と固いフローリングの組み合わせは中々身体に馴染まないらしい。
背伸びをし、倦怠感を逃がそうとするが、無理らしい。
それでも今日は始まる。
昨日までで大抵のことはしてしまったので今日はやることがない。
朝のゆっくりとした時間を過ごすのだ。
ご飯の炊きあがりを待っていると、壁越しに物音が聞こえてきた。それは扉を開ける音だ。
昔は引っ越しなどをしたらご近所に挨拶するのが普通だったらしいが、今の風潮ではあまりそういうことをしないのが一般的だ。
だから、自分の隣にどんな住人が住んでいるのかも知らなかった。
この時間に出かけるのだから、おおよそサラリーマンであると予想をし、僕は気にも留めずに、テレビのニュースに耳を傾ける。
それから数分後。何か背筋にゾクっとしたモノを感じた。
何か、気になる。不可思議な感覚だ。
後ろを振り向けば、そこには玄関がある。
隙間風――――は吹いているが、春先のこの時期では室温も外温もほとんど変わらないはずだ。
鳥肌を立たせるのは何か違う――――
違和感を辿り、扉の前に立つ。
目に飛び込むのは何製だか分からないが、少なくとも固い扉。外部と内部を繋げる入口だ。
この扉を閉めてしまえば、僕の部屋が完成するはずである。だが、その部屋も、先ほどまでの安心感を失っていた。
気のせいであることを確信するために、僕はノブに手を伸ばす。
だが、扉は拒むように、ガチャンと音を立てて、動かなかった。
驚いて上を見上げると、ドアにはシリンダー錠とチェーンロックが掛っている。
それはそうだ。昨日の夜から外には一歩も出ていないのだから。
チェーンを外そうと、ドア上部に手を伸ばしたとき、外部視野にふと、穴が映った。
それは俗に言う覗き穴というもので、防犯をするために訪問者を見れるものだ。
僕はその穴に右目を付け、玄関先を見る。
視野が狭いのではっきりはしないが、そこに誰かが居ることは簡単に分かった。
それもそうだ。彼女はずっと僕のほうを見ていたのだから…………
声が出そうになり、僕は口を押さえた。
ここで声を出したら、彼女が入ってきそうで怖かったから。
一歩一歩下がり、僕はロフトへと上がる。もちろん音がしないように。
そこでやっと止めていた呼吸を再開する。
「はぁはぁはぁ…………」
部屋の中に響くのは僕の息と冷蔵庫の稼働音だけ。
うるさいと思っていた電化製品の音だが、この時だけはありがたい。
この音がなければ、僕の息が外へと漏れそうだと思ったから。
「なんなんだよ…………」
僕は呟き考える。
彼女はどうみても不審者だ。ここは110番――――
いや、引っ越しして早々警察のお世話になるのはどうも気が引ける。
「そうだ。もしかしたら部屋を間違ったのかもしれない……」
プレートが違うだけでこのアパートは同じ扉が連なっている。
僕も入る部屋を何回も間違えそうになっているのだから、彼女が間違えてもおかしくない。
僕を見つめていたと思ったのも気のせいかもしれない。
何せ、驚いた反動で、その場から逃げ帰ってしまったのだから。
覗いていたのはたった数秒だし、偶然彼女が扉を見ていたのかもしれないのだから。
そう思うと、肩の力抜けた。
そして苦笑が漏れる。
いくら慣れていない生活だからと、訪問者一人にここまで怯えるなんて…………
「どうかしてる…………」
そう呟くが、心には何かが引っ掛かっていた。
「いや、なんでもないさ」
息を深く吸い、深く吐く。
そして意を決し、ロフトから下のフロアへと降りる。
僕が真っ先にした行動はドアの傍に行き、覗き穴から外を見ることだ。
「やっぱり何も居ないじゃないか」
そこから見えたのは何の変哲のないアパートの入口。
見たことあるような赤いアスファルトがあるだけであった。
バタンッ――――
急な音に僕は身体を震わせる。
いや、何を怖がっているのか。これは隣の住人が扉を閉めただけだ。
ここで目を離しても良かったのだが、興味本位で僕は覗き穴を見続ける。
もしかして、先ほどの女性は隣に住む人なのかもしれないのだから。
右側から現れたのは男性。スーツを着ているのでサラリーマンであるのがわかる。
彼は僕の部屋の前で止まることなく、コツコツと足音を響かせ去って行った。
「ふうっ」
先ほどの女性が隣の住人であったらと想像し、ゾッとした。
それが僕の想像の範囲で良かったと、安堵のため息すら出てしまった。
「何を過剰反応しているのだか…………」
一人暮らしをして三日目。そろそろ生活にも慣れないといけないというのに、
自分の臆病さに心底呆れてしまった。
結局この日は特に何もせずに、時間だけが過ぎて行ってしまった。
昼間の時間はあっという間に過ぎて行ったというのに、
夜は長い。僕は特にやることもなく、いつものようにテレビを見ていた。
バラエティが終わり、つまらないドラマが始まる。
番組に見切りをつけて、僕はお風呂に入ることにした。
お風呂といってもユニットバスなのでシャワーを浴びるだけになるのだが……
まあ安い家賃なので文句は言えない。
衣服を脱ぎ、シャワーカーテンを引き、バスタブに足を踏み入れる。
シャワーを持つと、2つの蛇口を捻る。
お湯と水の水量を調節しながら温度を作り出すのは面倒だ。
だが慣れてしまえば大したことはない。
すぐにお湯はいい具合の湯加減になる。
僕はそのお湯を身体にかける。
極楽の時間だ。
だが、そんな時間も長くは続かなかった。
急に目の前がブラックアウトしたのだ。
停電だ――――
「なっ!」
電球が急に切れるはずはない。
ブレーカーが落ちたのか、地区的に停電したのか。
いや、原因などどうでもよい。
今の状況を打開するのが先だ。
とりあえず、お風呂を上がって――――
そう思い、蛇口に手を伸ばした瞬間であった。
「ぎゃああっ!」
叫び声。それは自分のものだ。
僕に声を上げさせたのは、先ほどまでよい湯加減であったシャワーの温度であった。
背中に痛みを感じるほどの熱さを感じ、僕は必死に水の蛇口を捻った。
今度は冷たい冷水が背中へと降りかかる。
心臓麻痺しそうな温度差にまた悲鳴が上がる。
「くそぉ……」
誰に不平を言うわけでもないがそんな声が上がってしまう。
風呂から這い出たとき、窓の外の風景が明るい事に気がついた。
どうやら地域的な停電では無かったらしい。
手探りで僕は懐中電灯を探し、玄関上のブレーカーを確かめる。
引っ越し前に上げていたはずのレバーは見事に下がっていた。
僕がレバーを上げると、部屋の中に明かりが灯る。
「何だったんだよ……」
大した電力も使っていないというのにブレーカーが落ちるなんて、
もしかして僕はとんでもない物件に住まわされてしまったのかもしれない…………
「はぁ……」
ため息をつき、まだヒリヒリとする背中を撫でた。
不幸を忘れるために僕はすぐに床についた。
ひんやりした布団は背中を冷やすために丁度良い。
これならすぐにでも眠れる―――――
ザー……
また、聞こえる。
壁の向こう側から。
ザー……
眠りを妨げる騒音が耳に届く。
それも途切れずに永遠と――――
昨日よりも音が大きいのは気のせいではないだろう。
昼間にはこんな音はしない。
ということは誰かが夜間だけテレビを点けっ放しにしていることになる。
何のために?
省エネ時代であるまじき行為――いや、それ以上に付近の住民に迷惑だ。
位置からすれば僕の入り口に向かって右の部屋。
つまり103号室の部屋からだ。
この音量では102号室の住人にも同様の音が聞こえているに違いない。
住人は苦情を言いに来ないのだろうか?
それとも僕が言いに行くべきか?
頭の中をいろいろな考えが過ぎる。
だが、未知の住人に苦情を言いに行く勇気などなく、僕はひたすら音に耐えるのであった。




