16
「エヴァ、少し早めに出よう。昼食の予約に遅れる」
初めての歌劇に感激し、ぽわんと頬を紅潮させて閉じる幕へと必死に拍手する妹の肩を、兄のサミュエルが優しく叩く。
入口ホールに出ると、同じように早めに席を立った者たちで賑わっていた。その賑わいも、シャロン公爵兄妹の姿に止む。
エヴァたちを気にする幾つもの仮面の奥に、どういった態度が正解かを模索する様子が見てとれる。
開幕前の一騒ぎで彼女がシャロン公爵令嬢だとは分かったものの、誰ひとりきちんとした面識がないのだ。しかも噂とはいえ王太子妃候補。
そんな面持ちの人々の間を通り抜けるエヴァもまた気まずかった。
社交に慣れた兄は堂々としていたが。
少し俯きながらも、入口扉まで来て足を止めた。そんな妹をサミュエルが不思議そうに見やる。
エヴァはゆっくり、ホールの方へと身体ごと振り返った。
思った通り皆の視線がこちらを向いていた。
貴族たちをゆっくりと見渡し、丁寧にお辞儀をする。
エヴァが悪いわけではないが上演前に騒ぎを起こしたのは確かだ。
こんなだから家族に守られて隠されて生きてきたのだ。
しかしもう邸に引き籠ってはいられない。
騒ぎの元凶としての、お詫びのつもりのお辞儀。
お咎め無しとした以上何か述べることは逆に恩着せがましい印象を与えかねない。今のエヴァに出来る精一杯の謝罪だった。
(アンドレ様の隣に、堂々と立てる女性になりたいもの……)
これまではただ追い出されたり逃げ帰るだけだった。
ただお辞儀しただけでも、一歩前進できたような気がする。
エヴァはやりきった、晴れやかな笑顔で兄に向き直ると劇場を後にした。
馬車に乗り込み、仮面を外したエヴァは窓から劇場の入口を見た。
「お兄様、少し、馬車を出すのを……」
「いや、もう時間がない」
「レストランの予約?」
「そうだ。美味しいランチを食べ損ねたくはないだろうエヴァ?」
サミュエルはエヴァにウインクをした……はずだ。糸目がちょっぴりぐぎぎ、と頬に押し上げられた。
エヴァはアンドレと会って話すことができたら、と思ったが優しい兄、アンドレとのことを応援してくれるサミュエルのことだ。従ったほうが良いだろう、そう考えて素直に頷いた。
「ふふ。お兄様、外食なんていつぶりかしら」
「エヴァはスパイスが好きだろう?南国ヒドアール料理の店だ。すこし刺激的かもな」
「まぁ、刺激?望むところですわ。楽しみ!」
実はサミュエルには策などない。
これほど周りが心を砕いているというのにあの、普段は聖人君子のような立派な王子は、一体何をしているのだ。可愛い妹をやきもきさせやがって……。
(いや、聖人のようだからこそこんな時にはとんまなのか……それにしてもそろそろ、気付いた、かな……?)
今頃、エヴァの美しい姿を見つけられなくて、煩悶しているのはアンドレの方だろう。少しの意地悪だが尊敬する王子とはいえ可愛い妹を奪う男に、少しは溜飲も下がろうというものだ。
もう一度、仮面を付けたエヴァ嬢に会えば何か思い出せるだろうか?歌劇が終わった後に会うことができるだろうか……。
舞台では、主人公たちの勘違いが織り成す悲劇的な恋愛物語が繰り広げられていた。主役が仮面舞踏会の最中、非業の死を遂げ幕が降りる。
殆ど舞台の方を観ていながらも心ここにあらずだったアンドレは、それでもその物語に引っ掛かりを覚えた。有名な演目の為あらすじは知っている。
(勘違いか……勘違い?いや、あんなドラマチックな悲恋をしてはいないのだが……どういうわけか、イブさんに会えないだけで)
何か、イブさんとの間に勘違いでもあるのだろうか……。
心のもやを取り払うように、ふるふると頭を振ると舞台上ではカーテンコールも終わろうとしていた。
「いないな……」
「結構時間が押してたから昼食の為に早めに出たんじゃないかな?」
入口ホールへ向かう途中、きょろきょろと辺りを見回すアンドレのぽそりとした呟きに弟王子が応える。ロイヤルボックスにいる以上、カーテンコールまでは退出せずにいたことでシャロン兄妹とは行き違ったようだ。
入口ホールでは、急いでいるはずの貴族たちが茫然と突っ立っていた。
ホールに出てきたアンドレたちの不思議そうな視線に、はっと我に返ってざわめきが起こる。
「今のは、なんだったんですの……?こ、腰が抜けたわ」
「なんと美しい礼なのかしら……!」
「あの外国語を話した時の、素敵な声をもう一度聴きたいわ」
「魂を奪われたかと。なんと愛らしいんだ」
「あの方が王太子妃候補なのか……さすがはアンドレ王子殿下ですね」
こちらを振り返った公爵令嬢の、ふわりと、花の舞うような華麗な所作。お辞儀の後の、艶やかな微笑みは匂い立つような色気を纏いながらも極上の気品に溢れていた。
エヴァの麗しい姿にあてられた貴族たちが取り残されていたのだった。皆一様に、惚けたように、彼女の去った入口の扉を向いたまま。
外国語を流暢に話す美しくも舌足らずな、愛らしい声に唆されて虫のように集った貴族たちも深く反省していた。
声だけでも素晴らしく魅力的なのに、黄金蜜を垂らしたような豪奢な髪も、真珠のように輝く肌にも惹き付けられて堪らなかった。
結局人助けの為の外国語以外は聴けなかったがあの、官能的な声が忘れられない。
もう一度あの令嬢に会いたい。
嫉妬するほどに艶やかな姿を拝みたい。
それは騒ぎには加わらなかった者たちも同じように感じたことだった。
貴族たちが、一縷の望みを託すようにアンドレに向かい、祈るように跪く。
アンドレは跪かれるのには慣れているがこの場では困惑しかない。
「……何があったんだ?」
そんな貴族の間を通り抜けながら、アンドレが困り顔で呟く。
「エヴァに見蕩れてたのでなくて?」
当然、といった風に、何故か王太后が誇らしそうな顔をする。
「そういえば、おばあ様」
ご機嫌な祖母に、アンドレは徐に訊ねた。
「いつエヴァ嬢と、友達になったんです?」
舞台が始まる前の、親密そうな様子に疑問を持ったがエヴァの前ではなんとなく訊きにくかった。
「んん、アンドレは知らなかったかしら?サミュエルとエヴァはね、わたくしのお友達のお孫さんなのよ。だからわたくしにとっても大切な子なの」
「先代シャロン公爵夫人?たしか、エリンの公女でしたか……」
同時期に他国から嫁いで来た縁で、先代公爵夫人と王太后が仲良いのはわりと有名な話だ。だがそれを語るおばあ様の目が、意味もなく天井のシャンデリアを眺めていたのがアンドレにはしっくりこない。
なによりも、今日のアンドレの蔦葉色の上着。これまた知らない間に用意されていたものだが、エヴァも似たような色味のドレスだった。まるでお揃いで仕立てたように。
舞踏会の時も二人とも紺色だった。あの時は偶然かと思ったが今日も同じなのには作為的なものを感じる。
貴族たちは彼女をアンドレの妃候補と看做したことだろう。
取り入ってくる令嬢たちにあれこれ仕掛けられたことはあるが、エヴァはけしてそういう女性ではない。ただ彼女の兄はあのサミュエルなのだが。
国王と王妃、両親のシャロン公爵令嬢への好感は舞踏会の時の雰囲気で察せられたがもしやおばあ様まで?
(……おばあ様はイブさんとの仲を応援してくれていると、思っていたのに)
「彼らのおばあ様は孫を溺愛しておられてね。エヴァのことは隠すために、エリン語の呼び名で成長を教えてくれてたの。あの子がいかに可愛らしいかを、たくさんたくさんね」
懐かしそうに語る王太后は、自分たち孫と相対するときのように優しい眼差しをしている。
「エヴァ嬢の、エリン語の呼び名って……」
「兄さん、おばあ様。僕たちもお昼に移動しよう。もう13時過ぎたしお腹ペコペコだよ」
アンドレの疑問は弟王子の腹の虫の懇願に遮られた。