見えない花が開くとき・7
「待機」の意味は「忍耐」だ。
しかも期待が高まる待機となれば時間はよりいっそう長く感じられ、己の限界が試される。だがこの試練を乗り越えた先にある感動はまたひとしおで、きっと生涯忘れ得ぬものになるだろう。
ひとつうなずき頭をくるりとかき回し、一向に開く気配のない風呂場の入り口を確認すると、ザックは所在なげに歩き出した。
「モーブレーさん。少し落ち着いてくれよ」
「ああ? 俺はいつだって冷静だろーが」
「よく言うよ。さっきからずっとうろうろしっぱなしじゃないか」
それでは警備にならないどころかいざというとき動けないと小言を言われ、ザックは思わず舌打ちした。
これがつい先ほどまで鼻血を出してもだえていた男だろうか。介抱してやった恩を忘れてケチをつけるとは忌々しい。このことはしっかり覚えておくぞと心の中で呟いて、ザックはまた風呂場の入り口に眼を向ける。
女の風呂は時間がかかるとわかっていても、気が急いてしかたがない。
まだかまだかと身体を揺らせばいつの間にかケネスがザックの隣にやってきて、余計な一言を投げかけた。
「……ちゃんと、『乙女』になるといいけどな」
「んだとぉ? 侮辱すんのか」
「違うって。ただどうしても、俺にはあの子が『女』に見えないだけ」
「はあ? どっからどーみても絶世の美少女だろうが」
眼ぇ腐ってんじゃねーの、とぷいと吐き出し横を向けば、ケネスもけっとそっぽを向く。気まずい空気が流れるなか、若い護衛士はぶすっと口を尖らせた。
「男物の服を着て、あんな短い髪じゃあ普通『女』だって思わねえだろ」
「んだからてめーはヒヨッコなんだよ。仕草といい体つきといい、チビはちゃんと『女』だっつーの」
「体つきって……あんた、見たのかよ」
「…………」
ザックははたと動きを止めた。この屋敷に来る前のあの宿で、チビにすがりつくように抱いて寝たからほんのわずかだが覚えている。しかしそれをどうして口になどできようか。こんなことはチビの名誉のためにも他人に知られるわけにはいかないと、ザックは鼻の下をぽりりと掻いた。
「見てねえ。……が、見りゃわかんだろ」
「なんだよそれ、わかんねーよ!」
「わかるって! ここの子供だって『おねえちゃん』て最初から……あ」
ある可能性に気がついて、ザックはぽんと手を打った。
「あー、なるほど。……ってことはだ。チビの男装はなかなか板についてるってことだな?」
「なんなんだよ! さっきから勝手に!」
そうかそうかとひとり納得していると、ケネスがぎゃんと噛みついた。わかるように説明しろと睨むのに、ザックはくるりと頭をかき回す。
「んんー? たいしたこっちゃねえよ。『雛』でも魔術士ならちゃんと相手の性別を見抜くってな。知ってんだろ? 有名な話だもんなぁ」
「……ぐぬ……」
「おーやあ? 『魔術士』の中でも力の強い『魔術師』たるジュリアちゃんの護衛士でありながら、まさか知らなかったとか?」
図星を突かれてケネスはぐっと黙り込んだ。惚れた女が魔術師で、しかも何年もそばにいたのに彼らの性質を知らなかったと恥じ入っているようだ。しかしそれも無理はないとザックは思う。魔術士たちにとってそれはあまりに自然なことで意識すらしないだろうし、性別を偽る人間自体、そうそういるものでもないのだから。
「ま、これはあんま気にするこっちゃ……っと、来た!」
風呂場の扉がゆっくり開き、年配の女中が一歩踏み出し辺りを厳かに睥睨した。そして護衛士たちを確認すると中に向かって合図を送り、ことさら威厳を振りまきながら屋敷に向かって歩き出す。すぐに外套とローブをまとったふたつの影が女中の後に続くのに、ザックはうきうきと駆け寄った。
「チビ! なあ、どうだ?」
「……ザックさん」
固い声にザックが思わず眉をひそめると、フードの奥で闇色の瞳が悲しげに揺れていた。カイルは外套の胸元を両手できゅ、と握りしめ、そっとうつむき眼を逸らす。
「気に……入らなかった、か?」
沸き立つ気持ちがすうっと冷えてしぼんでいった。つられるように視線を落とすとカイルの外套の裾からは、贈った服がのぞいている。
裾に細かい小花が刺繍された若草色の簡素なドレス。上からアクサライ刺繍が施された丈の長い上着を羽織って帯で留める、若い女性向けの服だった。ザックが昨日馬を取りに行ったときに商店街でたまたま目にして気に入って、迷わず購入したものだ。
アクサライの服は刺繍がとても綺麗だと、楽しそうに話していたからきっと喜ぶだろうと思っていた。ザックとしても色あせた男物の服でなく、カイルにはちゃんと娘らしい格好をさせてやりたかったのだ。けれどそれも本人が嫌がっては意味がない。だから無理して着なくとも良いのだと、石を飲み込む思いで口を開いたときだった。
「わり……別の服──」
「ザックさん!」
カイルががばと顔をあげた。ザックがとっさに姿勢を正すとフードの奥から決意を秘めた強い瞳が見上げてくる。
「わたし、絶対に負けませんから!」
「お? ……おう」
「待っていてくださいね!」
両の拳を握りしめ、カイルはふんっと鼻を鳴らして気合いを入れた。そしてくるりときびすを返すと大股で屋敷の中へと入ってしまう。呆気にとられたその一瞬に、ジュリアもカイルを追って行ってしまった。
わけがわからずザックはふたたび頭をかき回す。ふと眼が合ったケネスにどういうことだと問うてみても「知るわけないでしょ」と肩をすくめるだけである。
「負けないって……なんのことだ?」
ザックはがりりと短い髪を掻きむしった。
◇ ◇
着付けに時間がかかりそうだと言づてを受け、男達も交代で風呂に入ることにした。ザックにとっても風呂は久しぶりで心待ちにしていたのだが、カイルが気になりおちおち湯につかってもいられない。早々に外に出て、娘2人が出てくるのをいまかいまかと待ちわびる。しかし昼を過ぎても部屋の扉は一向に開かなかった。
「モーブレーさん。もう少し落ち着いてくれよ」
「ああ? これが落ち着いていられるかってーの」
娘たちの籠った続きの部屋で、ザックはうろうろ歩き回っていた。着飾ったカイルを真っ先に見てみたいとの気持ちの現れだったが、ケネスはぷっと吹き出し笑いだす。
「そうしてると、まるで子供が産まれるのを待ってる父親みたいだな」
「なにぃ、誰が父か! ……いや待て? そーすっと『母親』はジュリアちゃんてことに……」
「あ……っ! ち、ちがっ……いまのなし!」
「いやいや、ケネスくんが認めてくれるなら、俺としても本望だぜぇ?」
ぎゃあぎゃあわめくケネスをからかい気を紛らわせていると、ラウルがじろりと睨んできた。こちらはハイダルと共に淡々と警備の打ち合わせなどしているようだ。静かにしろとの圧力に、ザックは両手を広げて肩をすくめ、どさりと長椅子に腰を下ろす。
娘たちは食事も中で済ませたようで、1歩も外に出てこない。なぜ服を着るだけでこんなに時間がかかるのか、ザックはさっぱりわからなかった。それに負ける負けないと、カイルはいったいなにを競っているのだろう。
こんなとき、男はまったく役に立たないものだと情けなくなってくる。溜息をつきながら、開かない扉を眺めていったいどれだけ待っただろうか。長いような短いような、時間の感覚が徐々に曖昧になったころ、かちりと音を立てて扉が開くと中からジュリアが滑り出た。ひと仕事やり遂げたというような、そんな満足げな表情を浮かべているのにザックは慌てて駆けつける。
「なあ、チビは!?」
「モーブレーさん。みなさんもお待たせしました」
「……おう」
護衛士たちの視線が集まったことを確認すると、ジュリアはうなずき扉を開けた。すると年配の女中に手を引かれ、カイルがしずしずと現れる。
「おお……」
「これはこれは……」
見違えるような少女の姿に男達は息を呑む。
膝下までの若草色のドレスの上には鮮やかな刺繍の入った豪華な上着。つばのない帽子の上から薄布を冠っているため短い髪は気にならない。それだけでも「乙女」と言うにはじゅうぶんなのに、立襟からのぞく細い首と長めの袖口から見える白い指。どれもが折れそうなほどに儚くいっそう少女の繊細さを際立たせ、なのに胸はたわわに実って存在を主張する。さらにはカイルのたぐいまれなその美貌。それがはにかみながら一歩前に進み出るとドレスをつまんで礼をとるのだ。その姿に誰もが見蕩れ、頬に血を上らせた。
「ザックさん。どうですか?」
「い……いや……すっげえ、似合う。驚いた」
「よかった! ね? わたし、負けませんでしたよ?」
にこりと嬉しそうに微笑みながら、カイルはその場でくるりと回ってみせた。動きとともに薄い布とドレスが丸く広がりふわりと落ちて、まさに「可憐な乙女」そのものだ。そんな予想以上のカイルの姿に服を贈って良かったと、ザックの胸もじんと熱くなってくる。
「……オヒメサマだ」
後方でケネスが呆然と呟いたのを耳にして、ザックの口元が弧を描く。そうだ、チビはまさに「お姫さま」で自分はその唯一の騎士なのだ。それがなによりも誇らしい。
はやくチビを会わせてやりたい。こんな時期だ、きっとアイツは飛び上がって喜ぶだろう。そうすればチビにだって家族ができる。もうひとりきりではなくなるのだ。だからさっさとチビを狙う不届きものを退治して、サリフリに連れて行かなければならなかった。そして「用事」とやらを終わらせ帝国帰る。それですべては大団円だ。
「……負けられねぇな」
ぽつりともらせばカイルがむっと口を突き出した。そんな姿も愛らしく、ザックの口元は無意識のうちに緩んでしまう。
「どうした?」
「……今回は、引き分けです」
「あん? なんのこっちゃ」
そういえばずっと勝つの負けるの言っていた。どういうことだと水を向ければカイルは胸の下に手を当てて、そのままぐっと上に持ち上げた。
「これがなかったら負けていました。だから、引き分けなのです」
◇ ◇
哀れな護衛士ケネスはまた頭に血が上ったのか、話を聞くなり鼻を押さえて出て行った。ハイダルは腹を抱えてげらげら笑い、「将来が楽しみだ」と無責任な言葉を残して弟子の元へと行ってしまう。女中は娘たちを長椅子に座らせると茶を淹れて、一礼して部屋を辞したが去り際に「余計なことを言ってくれるな」と男達に無言の圧力をかけていった。
「わたし、このぐらいの大きさが理想なのです」
そんなカイルの言葉にずきずきと頭の痛みが増してくる。自分だけかと隣を見れば護衛士殿も渋い顔でこめかみを揉んでいた。向こうも同じような思いかと、ザックは少々気が楽になる。
卓から茶を取りひとくち含み、ゆっくりと飲み下してからカイルの様子をうかがうと、こちらはにこにこ嬉しそうだ。視線を下にずらせば細い身体にたわわに実った大きな胸。ザックはそこから無理矢理視線を引きはがし、ひっそりと溜息を落として茶を戻す。
腰の細さに比べてずいぶん大きなものだと少々どきりとしたのだが、まさか饅頭が詰まっているとは思わなかった。しかも昼に出されたひたすら甘いアレだと聞けば、口の中にあのこっくりとした味が蘇ってくるようだ。
「詰めものなんていらねーだろ、チビは。そのままでもじゅうぶんだっつーの」
「これは、こうするより仕方がなかったのです!」
またしても大きな胸をすくいあげ、カイルはゆさりと揺らしてみせた。流石に見かねた護衛士殿が「やめなさい」とたしなめるのにカイルはぱっと手を離す。そんなカイルの肩を抱き、ジュリアが後を引き受けた。
「本当です。この服をちゃんと着るには他に方法がなくて……」
「でも俺さ、店で確認したんだぜ? こんぐらいの背丈の若い娘だって」
ザックは肩のあたりで手のひらを下に向けた。あのときそれなら大丈夫、と確かに聞いていたのだが、それでも大きさが合わなかったのだろうか。
「いえ、丈はたぶん合ってるけれど、ほら。カイルちゃんは細いでしょう? 幅と厚みが足りなくて……」
そのままだと肩が落ちた挙げ句上着の一番綺麗な部分が帯で隠れてしまううえ、本来なら帯で隠れる部分が表に出てしまっていかにも不格好だったらしい。それで娘たちは女中とともに部屋に籠って試行錯誤していたのだ。
あちこちひっぱり刺繍を生かして肩や脇を縫い縮めようとしたのだが、それでもほんの少し身体の厚みが足りなかった。そこで思案の末に饅頭を使うことにしたようだ。
「このお饅頭は、とても日持ちがするのだそうです。だから万一のときは非常食にもなりますし」
「あーんな甘いの、食えんのか?」
「とても美味しかったですよ?」
「そうよね」
娘たちはまったくもって平気らしい。げえっと顔をしかめながらもザックは鼻の下をかりりと掻いた。
「この服はとても素敵だから。どうしてもきちんと着たかったのです」
うっとりと上着の刺繍を指でなぞって嬉しそうに眼を細め、カイルは「ありがとうございます」とザックに輝くような笑顔を向ける。
そんな姿を眼にしたザックはひどくうろたえた。そこまでして贈った服を着ようとしてくれた、その努力がいじらしかった。ありがとうと抱きしめて、頭を撫でてやりたかった。しかしこの護衛士殿の眼の前で、そんなことができようはずもない。
つまりザックは照れくさく、感情を持て余し、混乱していたと言っていい。だからこんな暴挙をしでかしてしまったのだ。
「……これさ、すっげえ格好良い」
人差し指がつい伸びて、導かれるままカイルの胸をふにゃりとつつく。その瞬間、ごつっと鈍い音とともに目の前で火花が散って、ザックはその場に倒れ伏した。
「きゃ──あ! ザックさん!」
「大丈夫かカイル。これは事故だ。無礼な熊は退治した。だから気にすることはない、忘れてしまえ」
「はい……平気です。『身』の部分だったから、お饅頭は大丈夫……」
「ダメよ、カイルちゃん! むやみに触らせたら減ってしまうわよ!?」
「ええっ!?」
「そうだ。不逞の輩は存外身近なところにいるからな。油断してはいけない」
「は、はい」
嘘をつくなと叫びたかったが護衛士殿の強い視線がびりびりと背中を刺して、身動きひとつできなかった。くそっと心の中で毒づきながら、ザックは右手を拳の形に握りしめる。反論などできやしないがこの感触だけは忘れるものか。
そんな決意を胸に秘め、ザックは唇を噛み締めた。