豪姫の香木 壱 黒い船の罠
黒い船の罠(天正十五年・九州平定の陣)
筑前守秀吉が天下人への階段を駆け上がる中、十四歳になった豪は、もはや単なる人質ではなかった。
養父である秀吉、そして養母のねねの懐深くに入り込み、その膨大な政の機密に触れることを許された、いわば臨時の目代のような立ち位置にいた。実母のまつから受け継いだ冷徹な目線は、この肥大化していく豊臣という政権の、目に見えぬ足元をじっと見据えていた。
天正十五年、夏。
島津を降した秀吉の軍勢は、博多の焦土にいた。
その夜、陣中を揺るがしたのは、主の凄まじい怒号であった。
「あの伴天連どもめ、神の慈悲を説く口で、我が国の民を家畜のように買い叩いていたか」
秀吉の髪の毛は逆立ち、顔は怒りで赤黒く染まっていた。
九州の戦地を巡察していた御伽衆や配下の忍びたちがもたらした報告書――それは、キリスト教に帰依した肥前の大名らが、南蛮の商人と結託し、数万人規模の日本人女性や子供を、黒い船の底に押し込めて海外へ売り飛ばしているという、生々しい人身売買の記録であった。
豪は、激昂する養父の背後で、その冷酷な報告書を自らの目で検分した。
被害者の多くは、自分と同世代の、あるいはもっと幼い、拠り所のなき日本の少女たちであった。
(これは、信仰の衣をまとった『国盗り』の仕組みではないか)
豪の脳裏に、かつて実母のまつが語った言葉が蘇る。
「物を与えて人を従わせる者は、最後にはその人の命まで奪うもの。他国から来た得体の知れぬ教えが、甘い汁を吸わせる裏には、必ずこちらの根を枯らすための罠が仕掛けられている」
秀吉の怒りは、単なる憐れみではなかった。
彼は、この異国の宗教という仕組みが、日本という国の人間という最も貴重な富を、底の抜けた桶のように外へと吸い出していることに、天下の治安管理者として強烈な危機感を覚えたのである。この穴を塞がねば、いずれ日本は骨の髄まで異国に買い尽くされる。
「直ちに触れを出せ。伴天連どもをこの国から追い払う」
秀吉の手によって一気に書き上げられた「伴天連追放令」の書状。その墨の匂いの中で、豪は冷静に悟っていた。
異国の神の教えは、美しい香水のように人を惑わせるが、その本質は人の肉体を商品として扱う冷酷な算法にすぎない。そして、その欺瞞を誰よりも嫌悪したのは、他ならぬ豪自身であった。
のちに、京都の宣教師ロドリゲス・ジランが、ローマの本部へ向けて『一六〇六年の日本年報』をしたためる際、夫を失い孤立した彼女を「マリア」という洗礼名で呼び、哀れな信徒として記録の中に閉じ込めようとする。細川ガラシャの劇的な殉教の型をそのまま流用した、教会の存続のための「虚飾」である。
だが、豪はその誘いを鼻で笑い、死ぬまで一切の関わりを拒絶することになる。
彼女は忘れていなかったのだ。十四歳の夏に博多の陣中で見た、黒い船の底に沈められた同胞たちの涙を。そして、その闇を知りながら、己を都合よく「キリシタンの聖女」として歴史に仕立て上げようとする異国人の、底知れぬ身勝手さを。
「私は、前田の娘であり、豊臣の娘。この国の土に根を張る者。異国の神の帳簿に、我が名を刻ませるつもりはない」
宇喜多秀家に嫁ぐ直前、豪は大坂城の夕映えの中で、自らの内に流れる「まつ」の理性を確かめるように呟いた。
彼女の精神の核心(奥底)は、南蛮の偽りの救いなどには、決して侵食されぬ強固な城壁に守られていたのである。




