三十四 轟雷
突風が身体をふわりと持ち上げ、背後の絶壁に凄まじい勢いで叩きつける。
身体中の骨が一瞬で砕け、肉が潰れる。
血が、脳漿が、内臓がぶち撒けられ、黒い岩肌に赤と黄色の斑模様を描く。
王国の娘たちはそんな自らの運命を覚悟し、きつく目を閉じた。
しかし、そのまま数秒が過ぎたが何も起こらない。
それどころか、荒れ狂っていた風が収まり、ばらばらと小さな石や砂が地面に落ちると、周囲に静寂が訪れた。
プリシラは薄っすらと目を開けた。
涙で滲んだ視界に、荒涼とした風景が広がっている。
目の前にいたはずの帝国の魔女の姿は、どこにも見当たらない。
彼女は呆然として左右を、そして背後を確認した。
タケミカヅチとカーバンクルは、涼しい顔をして立っている。
巨大な武神の陰に隠れるようにうずくまっているエイナ、シルヴィア、アリマも無事のようだった。
プリシラはよろめき、タケミカヅチの逞しい腰にもたれかかった。
一歩踏み出しただけで膝ががくがくと震え、一人だとしゃがみ込んでしまいそうだった。
「タケが皆を守ってくれたのか……助かった」
「お嬢! そっちこそ大丈夫なのか?」
タケミカヅチが腰をかがめ、プリシラの両肩を掴んで顔を覗きこんだ。
普段からあまり表情を変えない武神が、珍しく焦った顔をしている。
「い、いや、大丈夫も何も、お前が魔法を防いでくれたんじゃないのか?」
「いや、今のは完全に意表をつかれた。我は何もしておらんぞ」
「だけど、タケなら魔法に抵抗力があるのだろう?」
「それはそうだが、人間の魔法は我に届いていなかったぞ。
カーバンクルはどうだ?」
彼はプリシラの反対側にいるカー君に訊ねる。
『僕も人間の魔法を撥ね返せるけど、そんな必要もなかったよ。
目の前に見えない壁があって、魔法の軌道が逸れたような感じだったね。
エイナの防御魔法なんじゃない?』
頭の中に響いたカー君の指摘で、プリシラたちは揃って後ろを振り返った。
ちょうどエイナは立ち上がったところだった。もちろん、傷ひとつ負っていない。
突然注目を集めたエイナは、顔を赤くしてぶんぶんと首を振った。
「わっ、私じゃないですよ!
対魔法防御は、まだ呪文の詠唱にも入っていませんでしたから」
「じゃあ、なぜ私たちは無事なのだ?」
プリシラは胸元に手を当てて考え込んだ。
その手に、制服のシャツを通して硬い物の感触が伝わった。
「あ! ……ひょっとして、これのせいか?」
彼女は襟元の鎖を摘まんで、何かを引っ張り出した。
それは蒼城市を発つ前、アスカから預かったアニュレット(護符)だった。
アスカは「たいていの魔法なら防いでくれる」と言っていたが、それが自動的に発動したのだろう。 蒼龍グァンダオ秘蔵の宝物(それを前蒼龍帝のフロイアが無理やり奪ったのだが)だけのことはある。
「そうだ! それよりマグス大佐たちはどこに消えたのだ?」
プリシラが慌てて周囲を見回すと、エイナが「あそこです」と言って、斜面の下の方を指さした。
二十メートルほど離れた下方に、大佐たち三人の姿が見えた。
「いつの間にあそこまで離れたのだ?
さすがは帝国の魔女、噂どおりただ者ではないということか!」
「あのぉ、大尉殿。彼らは魔法の反発で飛ばされたのではないでしょうか?」
エイナが遠慮がちに指摘すると、プリシラはわざとらしい咳をしてごまかした。
「とっ、とにかく! 私の近くにいる限り、敵の魔法は通用しないということだ!
これは好機だ。エイナは攻撃魔法に専念してくれ。
タケ、奴らに一発喰らわせてやれ!」
「否ともさ!」
威勢よくタケミカヅチが吼え、巨体を一歩前に踏み出した。
* *
マグス大佐たちが立ち直った当初、上方にいるプリシラたちの様子はよく見えなかった。
エッカルトの放った圧縮空気弾は、プリシラの護符で軌道を逸らされ、背後の崖に当たって爆発した。魔法は岩肌をえぐり、凄まじい暴風を巻き起こした。
その風が大量の石や砂が舞い上げ、一種の煙幕となっていたのである。
大佐たちは目を凝らし、黒っぽい土埃が収まるのを待った。
まず身体の大きな巨人の姿がぼんやりと現れ、次いで王国の召喚士たちも見えてきた。
「なぜ連中は立っている?」
大佐が声を荒げた。彼女は明らかに苛立っていた。
エッカルトは気にする様子もなく(馴れっこなのだ)、冷静に答える。
「さぁ? 私には分かりません。向こうの魔導士が対魔法防御を使ったにしては、呪文詠唱の時間が短すぎます。
魔法反応自体は消えていませんから、これは幻獣の能力ではないでしょうか?」
「ふん。まぁ、そんなところだな。
相手は国家召喚士だ。貴様ら若造の魔法一発で、死んでくれたらむしろ拍子抜けだ。
よし、ユリアンはそのまま物理防御を維持、エッカルトはもう何発かぶち込んでやれ!」
エッカルトは言われたとおりに新たな呪文の詠唱に取りかかる。
ユリアンは特にすることはないので、暇である。
「大佐殿は高みの見物ですか?
私は身を挺して大佐殿をお守りしたのですから、ご褒美に少しは手伝ってください」
「馬鹿者、副官が私を守るのは当然の責務だ!
大体貴様、私の胸を揉んだではないか? 褒美としては釣りが出るだろう。
私のような主役は、最後に出ると決まっているのだ。貴様ら前座は、文句を言わずにきりきり働け!」
ユリアンが殴られている間に、エッカルトは呪文詠唱を終えていた。若いのに信じがたい速度である。
ファイアボールは、帝国魔導士が多用する高威力の攻撃魔法である。
国家召喚士に通じるとは思えないが、これを撃ち込めば、敵がどうやって魔法を防いでいるのかが、はっきりするだろう。
長身の副官が背筋を伸ばし、すっと手を伸ばした瞬間、世界が真っ白な光に包まれた。
目を閉じるのが間に合わず、網膜が焼けて周囲が暗転した。
鼓膜の辺りからキーンという甲高い音が鳴り続け、それ以外の一切の音が失われた。
空気がびりびりと震え、内臓にずしりと圧力がかかる。
マグス大佐たちは五感を奪われ、自分たちの身に何が起きたのか分からなかった。
十数秒経ってどうにか視界が戻ってくると、周囲の景色が一変していた。
彼らが立っていたのは、大きな岩がそこかしこに転がっている山の斜面のはずだった。
そこにきれいな半球状の窪みができていたのだ。
蒸したてのプディングを、レードル(お玉)ですくい取った跡のようである。
その中央に柱のような突起が立っていて、その上に大佐たち三人が立っている。
呆然としている彼らの耳に聴覚が戻ってきたらしく、ばらばらという音が聞こえてきた。空から大小の岩石が降ってくるせいだ。
右手を前に突き出した姿勢のまま、エッカルトが振り返った。
「……た、大佐殿。一体何が起きたのでしょうか?」
いつも冷静な副官が、こんな不安げな表情をするのは珍しい。
マグス大佐は〝ふん〟と鼻を鳴らすと、エッカルトには答えず、ユリアンの方を見た。
「防御障壁は維持できそうか?」
ユリアンは腰が抜けたのか、地面に座り込んでいた。
「は、はぁ……。かなり魔力を削られましたが、支障はありません。
何ですか、今のは?」
「貴様らは馬鹿か?
オシロ村で、あのタケミカヅチとかいう幻獣が雷を落としたのを見たであろう。
あの幻獣が我々の頭上に特大の雷撃を見舞ってくれたのだ。
これだけのクレーターを作るとは、とんでもない威力だが、防げたのであればどうということはない」
二人の副官は、思わず顔を見合わせた。
帝国の魔導士でも、雷撃系の魔法を使う者は多い。
だが、硬い岩盤にこれほどの大穴を開けるほどの威力など、見聞きしたことがなかった。
落雷の瞬間、凄まじい閃光と轟音が彼らを包んだはずである。
その情報が脳に届く前に、感覚器官である目と耳が容量オーバーでブラックアウトを起こしたのだ。
ユリアンの防御魔法がなければ、今ごろは三人とも塵になって消えていただろう。
「エッカルト、何をぼーっとしてる?
敵が贈り物を寄こしたのだ。さっさと返礼してやるがよい!」
「了解です!」
気を取り直したエッカルトの右手の先には、白い光を放つ光球が浮かび上がっていた。
* *
タケミカヅチが両手を組み、複雑な印を結んだ瞬間、青い空に真っ黒な雲が唐突に出現した。
盥の水にインクを落としたような感じである。
生まれ出た黒雲はむくむくと広がり、いきなり閃光を放った。
太い光の柱が滝のように降り注ぎ、腹に響く振動と耳をつんざく雷鳴が同時に響き渡った。
稲妻はマグス大佐とその部下の頭上に、閃光となって叩きつけられた。
瞬間的に膨張した空気が周囲の空気を圧縮し、凄まじい振動となって衝撃波を発生させる。それが硬い岩盤を粉々に砕き、空中に巻き上げたのだ。
空に現れた黒雲は、雷が落ちた途端、嘘のように消え去った。
ごろごろという不気味な雷鳴だけが、名残のようにいつまでも続く。
「ほう、我が轟雷に耐えたか……」
半球状にえぐられた地面の中央には、蝋燭のような石の柱が立っていて、その上に大佐たちが立っているのが見えた。防御魔法の直下の地盤だけが生き残ったのだろう。
タケミカヅチは不敵な笑みを浮かべ、後ろを振り返った。
「エイナ、我は人間の魔法のことをよく知らん。
あの結界を破るにはどうしたらいい?」
問われたエイナは目をぱちぱちさせた。
稲光と雷鳴の影響でまだ視力が回復しておらず、武神の胴間声もどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。
「防御結界は攻撃に耐えた分だけ魔力を消費します。
絶え間なく攻撃し続ければ、相手を魔力切れに追い込めるはずです」
「なるほど……だが、無限に雷撃を出すことは難しいな」
「いえ、もっと単純な話なんです。
タケミカヅチ様の体力なら、打撃や蹴りだけでも、かなりの魔力を奪えるはずです」
「うむ、我慢比べか。それは面白いな。
プリシラ、ここはそなたたちに任せて、あいつらを殴りに行ってきてもよいか?」
丸太のような腕をぶんぶん回してみせるタケミカヅチに対し、プリシラは苦笑を浮かべてうなずいた。
彼が大股で斜面を駈け下りていくと、それを待っていたかのように、敵から火球が飛んできた。
だが、タケミカヅチは避けようともしない。
火球はまともに直撃したが、武神の身体に吸い込まれるように消えてしまった。
彼に触れた瞬間、魔法反応が消滅したのだ。
幻獣たちは霊格が高いほど、魔法に対する抵抗力が強くなる。
タケミカヅチは神々の一族であるだけに、龍や巨人同様に最高位の霊格を宿している。人間の操る魔法など、歯牙にもかけなかった。
プリシラはその背中を頼もしそうに見詰めていた。
その横にエイナとシルヴィアが近寄ってきた。
「お前たちは下がっていろ!
タケに魔法が効かないことは、向こうも気づいただろう。すぐに狙いをこちらに変えてくるぞ。
エイナは呪文の詠唱を終えたのか?」
「はい。いつでも撃てます」
あっさりと答えるエイナに、プリシラは眉をひそめた。
「ならばなぜ撃たない? いちいち私の許可が欲しいのか?」
「そうではありません。
相手はマグス大佐です。私が攻撃魔法を放っても、恐らく通じないと思います」
「どういうことだ?
さっきの雷撃を防いだということは、敵は物理防御を展開しているのだろう。
魔法攻撃は素通りするはずだぞ」
「いえ、私が撃てば、敵はこちらより威力の大きな魔法をぶつけてくるはずです」
「同等以上の魔法で相殺するということか?」
「はい。彼らの魔力は私を上回っています」
エイナも魔導士である。先の圧縮空気弾の威力、そしてタケミカヅチの常識を外れた雷撃を防いだ防御魔法から、マグス大佐の二人の副官の実力が推し量ることができた。
悔しいが、まだまだエイナの力では彼らには及ばない。マグス大佐に至っては、比較の対象にすらならなかった。
「だが、迎撃が都合よく命中するとは限らんだろう?
試してみる前から諦めるのは、臆病者のすることだぞ」
プリシラは上官らしく、若い魔導士の弱気をたしなめた。
しかし、エイナは引き下がらない。
「いえ、私は諦めてはいません。
ですが、やるからには勝ちたいと思います!」
若い魔導士の表情は真剣だった。
プリシラの表情がふっと緩み、唇に笑みが宿った。
「作戦があるのだな?」
エイナはこくりとうなずいた。
「よし、聞いてやるから言ってみろ!」
「はい。カーバンクルには魔法を反射する能力があります。
カー君を前に出して、敵の魔法をそのまま撃ち返してもらいます。
私はその軌道に合わせて、同じ速度で魔法を放ちます。
敵が撥ね返ってきた魔法を迎撃しても、その背後に隠れていた攻撃に気づいた時には手遅れになると考えました」
「だが、その程度であの魔女を倒せるか?」
プリシラの試すような口調に、エイナはにっこりと笑ってみせた。
「もちろん無理でしょう。
でも、マグス大佐の肝を冷やすことはできるはずです。
彼女が腰を抜かすのを見物してやりましょう!」
長身のプリシラは、小柄なエイナの背中をばんと叩いた。
「面白い。やってみろ!
あの婆さんに座り小便をさせてやれ!」




