十六 波紋
カー君が戻ってきたのは、翌日の明け方だった。
ちょうどエイナが目を覚ました頃である。
『ただいま』という声が聞こえると、エイナは慌ててゲルの入口を開けて彼を中に招き入れた。
「遅かったじゃない!
何かあったんじゃないかって、心配したのよ」
カー君はぐったりとして、床に敷かれたフェルトの敷物の上に寝そべった。
『もちろん〝何か〟あったさ。
例の輿を追っていったら、案の定山を登り始めてね。
僕は見つからないように、かなり距離をおいてついていったんだ。
輿を担いでいた男たちは山の中腹まで登っていって、乗せていた女の子を置き去りにして下りてきた。
彼らをやり過ごしてから、僕は女の子の様子を見にいったよ。
そしたら、道の先には小さな広場があって、女の子はそこに立てられた柱に縛られていたんだけど、……そこにはシルヴィアもいたんだ』
「まぁ!」
『僕も驚いたけどね。
シルヴィアはちょうど山の西側を調査していて、道を見つけたらしい。
カスムの男たちが登ってくるのに気がついて、隠れて見ていたそうだよ』
「なるほどね。それで、女の子はどうしたの?」
『もちろん助けたよ。放っておいたら死んじゃうもの。
シルヴィアは小屋まで連れ帰ろうとしたんだけど、これが大変でね。
女の子――アリマっていう名前だったけど、強い酒で酔わされていたんだ。
最初は僕の背中に乗せていたんだけど、まだふらふらの状態で、すぐに落ちるようになってね。
それで、シルヴィアが背負って歩いていくことになったのさ。
あたりは真っ暗だし、道のない落石だらけの岩場じゃない? シルヴィアまでへばっちゃったんだ。
全然先に進めないし、冷えてきてアリマは弱っていくしで、もう駄目かっていう状態まで追い込まれたね。
でも、そこへタケちゃんが現れて助かったんだ。シルヴィアを探しに来てくれたんだよ』
「タケミカヅチが! じゃあ、無事に帰れたのね?」
『ああ。やっぱりタケちゃんは凄いね。邪魔な岩なんか、がんがん蹴とばして走っていくんだぜ。
しかも、シルヴィアとアリマの二人を抱えてだよ。四つ足の僕より、よっぽど速かったなぁ……。
結局、日付が変わる前に小屋に戻ることができてね。
シルヴィアたちのことはタケちゃんに任せて、僕は報告のために戻って来たってわけ』
「それは……ご苦労さまだったわ」
『まったくだよ。不眠不休だったからね。
黒死山にはほとんど精気がないし、疲れているシルヴィアからは吸えないでしょう? もうへとへとだよ。
僕は回復しなくちゃいけないから、しばらく休ませておくれ』
カー君はそう言うと、目を閉じて眠ってしまった。
カーバンクルという種族は、基本的に食事や眠りを必要としない。
彼らは周囲の生物から精気、即ち生命力を少しずつ吸収することで生きている。
人間や家畜が集まっているこの野営地は、良質の餌場のようなものであった。
* *
いつものようにオユンとツェツェグが温かい朝食を運んでくれた。
昨日は久しぶりにお湯をつかえたので、エイナは元気いっぱいであった。
「あなたたちは、今日のうちに移動をするのよね。
結構遠くまで行くの?」
彼女は給仕をしてくれる二人の少女に訊ねた。
「いえ、それほど遠くではありません。
とりあえず、森から距離を取る感じですね」
豊かな胸を揺らしてツェツェグが答えた。
「本来なら、こんな危ない所に野営することはないのです。
用が済んだら、さっさと移動するに越したことはありませんから」
「ああ、面倒な〝儀式〟が済んだものね」
エイナが誘うように、にこりと笑った。
「ええ、そういうことです」
「ツェツェグ!」
オユンが鋭い声を上げ、ツェツェグは『しまった!』という顔をして、黙り込んだ。
エイナは少女たちを罠にかけたことに、小さな罪悪感を覚えたが、確認せずにはいられなかったのだ。
総勢百人余りというカスム族は、弱小ゆえに黒死山の麓という、悪条件下での放牧を強いられている。
エイナに見せたくなかった儀式は、アフマド族全体のものなのか、この付近一帯で行われるものなのかは分からない。
だが、生贄の少女が他部族から連れてこられたことから考えて、儀式に複数の部族が関与しているのは間違いない。
生贄を連れてきたのは、恐らくカスムより立場が上の部族なのだろう。
生贄はその部族が提供する。
カスム族は生贄提供の負担を免れる代わりに、それを捧げるという〝実行犯〟の役割を与えられているのだろう。
遊牧民たちは情に篤く、気のいい人たちであることは、ここ数日の交流で十分知ることができた。
年端もいかぬ少女を山の中に置き去りにして、その命を奪うことは辛い役目であり、彼らの本意であるはずがない。
カー君が見たという、カスムの人たちが見せた他部族への怒り、生贄に選ばれた少女に対する同情は、その表れに違いない。
なぜ、こんな不合理な儀式が行われるのか――その点は謎のままであるが、おおむね事態の背景は推し量ることができた。
幸いなことに、生贄の少女はシルヴィアが救い出してくれた。
冷たいようだが、この儀式に対するエイナの関心は、急速に失われていた。
これは異民族の残酷な慣習だと、目をつぶってしまえばいい。
むしろ、儀式から遠ざけられた代償に、バータルから多くの話を聞き出せたことの方が、情報としてはずっと有益だった。
* *
エイナは朝食後、族長とバータルのもとを訪れ、世話になった礼を告げた。
アフマド族に対する情報収集という彼女の目的は、十分に果たされたのだ。
弱少部族ではあるが、カスム族という知己を得たことも、満足できる収穫であった。
エイナは族長たちに、自分は帰国するつもりであると告げ、最後にゲルの移動を見学したいという希望を述べた。
もちろん、彼らにそれを断る理由はない。
エイナは自由にしてよいという許可を与えられた。
彼女が滞在していた客用のゲルも撤収されることになり、エイナは少ない荷物をまとめ、ぐだぐだしているカー君を適当な草地に連れ出した。
後はゲルと家畜の移動という、彼らの日常風景をのんびり見学するだけである。
慣れているせいなのだろう、彼らの作業は実に手際がよかった。
あちこちで行われる解体は、それぞれ二時間もかからなかった。
カスムの人たちも、この地を離れることが嬉しいらしく、表情が明るかった。
平和な時が流れる中、エイナは気が緩んだのか、うとうととしてしまった。
眠ったのはそう長い時間ではなかったが、目を覚ますと周囲の雰囲気が一変していた。
人々が作業を中止して、野営地の外れに集まっていたのだ。
エイナは不審に思い、カー君を残して彼らのもとへ向かった。
群衆の中心では、馬に乗った数人の男たちが怒りを露わにし、何事かを口汚く喚き散らしていた。
着ている衣装がカスム族とは微妙に異なるし、まったく見覚えのない顔である。
その横柄な態度からも、カー君が報告した生贄の少女を連れてきた者たちではないか、エイナはそう当たりをつけた。
彼女は手近にいた顔見知りの女性に、何が起きたのかを訊ねた。
その女性はツェツェグの母親でドルマーという名だったが、エイナの顔を見ると困ったような表情で口を濁した。
馬上の男たちがそれを目敏く見つけ、怒号を上げた。
「何だその女は! どこの者だ?」
エイナは王国軍の軍服を着ていたから、彼らの不審を招いたのは当然である。
男たちの前に立っていたバータルが、ちらりとエイナの方を見て舌打ちをした。
だが、すぐに彼はエイナを庇ってくれた。
「あれは外国からの客人だ。貴公らにとやかく言われる筋合いはない」
「よもや、あの女がアリマを逃がしたのではあるまいな?」
「それはない! あれを客人に見せるわけがなかろう。
客人は昨日の朝から夕方まで、ゲルから一歩も外に出なかった。
それは一緒にいた俺が保証するし、夜も見張らせていたから、野営地からは出ていない。一族の名誉にかけて誓おう」
バータルは小なりといえど、部族の三十人長、即ち軍事責任者である。
その彼がきっぱりと言い切ったのであるから、馬上の男たちもそれ以上の追及はできなかった。
「くそっ、まぁいい!
とにかく、アリマに逃げられた責任は、カスム族にあるのは明らかである。
我らがお館様から与えられた猶予は夕方までだ。それまでには代わりの娘を送り届けねばならん!
それができぬならば、周辺六部族はカスム族を蹂躙し、すべての女、子どもを生贄として捧げることになろうぞ!」
馬上の男はそう怒鳴り散らすと、後方に腕を伸ばして指さした。
エイナがその方向に目を遣ると、かなり距離を置いた草原に、騎馬の軍勢が集結していることに気づいた。
十数騎の群が広範囲に散らばっていて、この野営地を完全に包囲しているようだった。ざっと目算しただけでも、三百人に近い数である。
「そういきり立つでない」
バータルを押しのけるようにして、族長が前に出た。
「話は分かった。時間がないことも理解しておる。
だが、身代わりを選ぶのは簡単なことではない。それはお主らも承知しておることだろう。
決めるまでの時間はもらうぞ。よいな?」
小柄な老人の身体と声音からは、言い知れぬ迫力が感じられた。
「よかろう。もう昼時も近い。二時間だけ待ってやろう。
おい、行くぞ!」
騎馬の男は、仲間たちに声をかけ、馬首を返して去っていった。
その姿が小さくなるまで見送った族長は、振り返ると部族の者たちに呼びかけた。
「皆の者、聞いたとおりじゃ。
なぜこんなことになったのかは分からんが、起きてしまったことは仕方がない。
誰かが犠牲にならなければ、我らに明日はない。辛いじゃろうが、受け容れてくれ……」
集まった男たちは下を向いて唇を噛み、女たちは抱き合ってすすり泣いた。
騒然とする中、族長は声を張り上げた。老人とは思えない、よく通る大きな声だった。
「これより一族会議を行う! 全家長はわしのゲルへと集まれ!」
エイナは群衆を掻き分け、どうにか族長のもとへ近づくことができた。
老人に詰め寄ろうとするエイナの前に、すっとバータルが身体を入れ、彼女の肩を押さえた。
「バヤル様、バータル殿! 一体、何が起きたのですか?」
バータルは困ったような顔をして、族長の方を見た。
族長のバヤルは、皺だらけの顔を歪めて笑った。
「何が起きた……か。
わしはエイナ殿にこそ、そう訊ねたいのだがのぉ。
まぁよい。今さら隠すのは、互いに茶番であろう」
老人は咳き込んで痰を吐くと、あっさりと白状した。
「この周辺で放牧をしている七つの部族は、三年に一度、黒死山に娘を捧げるという儀式を行っておる。
生贄の娘は、六つの中部族が持ち回りで出すことになっている。
一番人数の少ない我らは、その責務を免除される代わりに、選ばれた娘を山まで運ぶことになっておる」
族長の話は、エイナの推測とほとんど相違がなかった。
「なぜそのような残酷なことを……」
黙っているつもりだった言葉が、思わず口をついて出てしまった。
「進んでやりたいなど、誰が思おうか。これにはそれなりの事情がある。
さっきの騎馬の男たちはフレグ族と言って、今年の生贄を出した西隣りの部族じゃ。
不思議な話だが、昨日山に運び、逃げられないように縛ったはずの娘が、消えてしまったらしい。
それで、わしらに『責任を取れ』と迫られておるところじゃ」
『シルヴィアが助けたからだ……!』
エイナは即座に背景が理解できたが、それは秘密にしないと彼女の立場が悪くなる。
それにしても、族長はエイナがこの件に関わっていることを、疑っているような口ぶりだったのが驚きであった。
軟禁が解けた昨夜も、エイナのゲルは密かに見張られていたらしい。
ひょっとして、カー君の動きが覚られたのだろうか?
「エイナ殿!」
考え込む彼女を不意打ちするように、バータルが声をかけてきた。
「これから族長のゲルで一族の会議が開かれる。
族長はそなたにも出席してもらう意向だ。よろしいな?」
「私が……?
いえ、私は構いませんが、そちらこそよいのですか?」
「俺個人としては、アフマドの恥を見せたくない。
だが、バヤル様には何かお考えがあるようだ」
エイナは会議への出席を承諾した……というより、断れるような雰囲気ではなかった。
カスム族の男たちは殺気立っていて、女たちは悲嘆に暮れている。
今この場を逃げ出そうとしたら、どうなるのか?
その答えなど、予想がつくというものだった。
「バータル殿、生贄の娘が消えたということを、なぜフレグ族が知っているのですか?
実際に山まで運んだカスム族の皆さんも、知らなかったことなのでしょう?」
「昨夜、お館の使いが来て、約束の娘がいなかったと詰ったらしい」
「お館……あの山に館があるのですか? じゃあ、その館の主が生贄を……。
え、ちょっと待ってください!
生贄を運んだのは昨日の午後ですよね?
それが消えたことに夕方気づいたとしても、その夜のうちにフレグ族に報せるなんて不可能です!
フレグ族って、皆さんよりも西の内陸部で放牧しているんでしょう?」
「ああ、答えが簡単になって助かるな」
バータルが苦笑いを浮かべた。
「エイナ殿はさっき、『どうしてこんな残酷な儀式を行うのか』と訊きかけただろう?
今度は『なぜお館の使いが、遠く離れたフレグ族のもとに短時間で現れたのか』と訊いた。
そして、次はこう訊くつもりだ。『お館様とは何者ですか?』とな。違うか?」
エイナが黙ってうなずくのを見たバータルは、小さく溜め息をついて首を振った。
「答えは一つだ。
お館様は……そのお使いもそうだが、人間じゃない。
化け物なんだよ」




