十五 救出
シルヴィアは悩むことを止めた。
理性は『待て、よく考えろ!』と叫んでいたが、彼女の矜持がそれを許さなかった。
いや、矜持などという立派なものではない。人としての感情に突き動かされたのだ。
この若き召喚士は、それを寸毫も後悔しなかった。
目の前で死を迎えようとしている少女を、どうして放っておけようか。
この異民族の子どもを救うことで、どれほどの面倒を背負いこむのか――そんなことは〝糞喰らえ〟であった。
『シルヴィア! シルヴィアなの? 僕の声が聞こえる?』
少女を縛っている縄を切ろうと、腰の短剣に手を伸ばそうとした時、彼女の脳内に懐かしい意識が流れ込んできた。
『カー君! 近くにいるの?』
シルヴィアも驚いて応答する。彼女とカー君は、ある程度離れていても意思の疎通ができる。
その声が届いたということは、少なくとも目視できる距離に相手が近づいているということになる。
『僕はアフマド族の人たちをつけて来たんだ。
彼らが空の輿を担いで下っていったから、それをやり過ごして山道を登っているところ。
シルヴィアは上にいるの?』
『そうよ。こっちには誰もいない――女の子を除いてだけど、気を失っているから安心して来ていいわ』
『了解!』
元気のよい返事が聞こえてきて、彼が速度を上げたことが感じられた。
身を隠す必要がないなら、四つ足の彼は人間よりもずっと早く登ってくることができる。
「また連絡に来てくれたの?
でも、よくこの場所が分かったわね」
広場に現れたカー君の首を抱きしめながら、シルヴィアは嬉しそうに訊ねた。
『いやいや、僕はエイナに頼まれて、カスムの人たちが何をするつもりなのか、探りにきただけだよ』
『カスム?』
『エイナが接触しているアフマドの小部族だよ。
シルヴィアこそ、何でここにいるのさ?』
「あたしは山の中で道を見つけて、それを辿ってきただけよ。
そしたら、あんたの言う輿が登ってきたから、隠れて様子を見ていたの。
それで、あの子をどうしたものかと思って、途方に暮れていたってわけ」
『あ~、縛られちゃってるね。そのままじゃまずいんじゃない?』
「そうなの。まぁ、助けなくちゃいけないのは分かっているんだけどね。
そのカスム族の野営地に送り届ける……ってのは、多分駄目なんでしょうね」
『うん。その子はカスムの人じゃなくて、他所の部族が連れてきたんだ』
「何それ? よく分からない話ね。
とにかく、先に女の子の縄を解いてあげましょう」
シルヴィアは柱に縛られている少女の背後に回り、腰のベルトから短剣を抜いてロープを切っていった。
解放された少女は、地面に横たわったまま、身動きをしない。
カー君がのそのそと近寄ってきて、その身体を嗅ぎまわった。
『うわっ、酒臭っ!』
「そうなのよ。子どもを酔わせるなんて、酷いでしょ?
まぁ、とにかく、そっちの話を聞かせてよ」
シルヴィアは背嚢の上に丸めて括りつけていた、野営用の毛布と防水布を少女の上にかけてやった。
これで少しは体温が保てるだろう。
カー君は、エイナがカスム族に歓待されたこと、それなのに翌日にはゲルに軟禁されたことから始め、自分が見た少女の受け渡し、輿の出発まで、あらましを話してくれた。
「その話を聴く限りでは、この子を帰しても喜びそうにないわね」
『アフマド族は、何のためにこんなことをしたのかな?
シルヴィアが助けなかったら、この子死んでたよ』
「うん、多分これは何かの儀式で、彼女は生贄なんだと思うわ。
何のためにそんなことをするのかは知らないけどね。
異民族の中には、鳥葬の習慣を持つ人たちもいるそうよ。
きっとこの子も、死肉を鳥についばまれて、片付けられるんでしょうね」
『人間は変なことをするなぁ……。
それで、シルヴィアはこの子をどうするつもり?』
彼女は溜め息をついた。
「見捨てるわけにもいかないし、仕方ないから、いったん籠に連れて帰る。
カー君が来てくれて助かったわ。この子を運ぶの、手伝ってくれない?」
『それはいいけど、眠っている子を乗せるのは、縛ったとしても大変だよ?
せめて起きてくれたらいいんだけど』
「そうね……。カー君の話からすると、この子は酔わされてからかなりの時間が経っているはずね。
起こしてみましょうか?」
シルヴィアは寝そべっている少女の肩を、何度か揺すってみた。
少女は苦しそうな呻き声を上げたが、目は開かない。
『喉が乾いているのかもよ。水をあげてみたら?』
カー君が首を傾げて提案した。
シルヴィアが水筒を取り出し、少女の口に少量の水を流し込むと、ごくりと呑み込んだ。
すると、少女はいきなり身体をくの字に曲げ、激しく咳き込みながら嘔吐をした。
長い時間食事を摂っていなかったようで、地面に少量こぼれた吐瀉物は、さっき呑んだ水と胃液で、血も混じっていた。
少女は咳き込み続けたので、シルヴィアは彼女の上半身を起こして、背中をさすってやった。
目尻に涙があふれた目が、うっすらと開いた。
乾いてひび割れた唇が小さく動き、「お水……」と掠れた声でつぶやく。
シルヴィアは水筒を彼女の口に当て、「ゆっくり、少しずつ飲むのよ」と注意を与えた。
だが、少女は水筒を両手で鷲掴みにして、ごくごくと勢いよく水をむさぼった。
半分ほど残っていた水筒は、あっという間に空になった。
シルヴィアは少女の背中をさすり続け、カー君がふさふさの身体をぴたりとくっつけて、倒れないよう支えてあげた。
「気持ち……悪い。それに頭が痛い」
少女は眉根に皺を寄せ、こめかみに手を当てて俯いた。
「あなた、名前は何て言うの?」
「あたし? ……アリマ」
「アリマね。あたしはシルヴィア。
いろいろ訊きたいことはあるんだけど、ここでぐずぐずしていたら日が暮れるわ。
とりあえず、あたしの小屋まで連れていく。
あなたには、この動物に乗ってもらうわ。カー君って言うの。とても利口で大人しい子だから、怖がらないで。
乗ったらしっかり両手で毛を掴んでちょうだい。
できそうかしら?」
アリマと名乗った少女は、大儀そうに立ち上がり、素直にカー君に跨った。
少女とはいえ遊牧民族らしく、動物には乗り慣れているらしい。
案外その姿勢は安定していた。
「いいわ、その調子よ。
二日酔いで気持ち悪いでしょうけど、我慢してちょうだい。
小屋に着いたら、温かい飲み物もあるし、ベッドで眠ることもできるわ。
だから頑張ってね」
少女はのろのろとうなずいた。
シルヴィアとカー君は、山の東側にある小屋に向けて出発した。
もう日暮れまでは二、三時間しかない。
夜目の利くカー君が一緒なら、暗くなってからでも迷わずに進めるだろう。
シルヴィア一人だったら、野営しているところであった。
多分、夜の九時ころまでには帰れるだろう。
今夜は取りあえず、少女に何か食べさせたら眠らせよう。
事情を聞くのは、明日でよい。
シルヴィアとカー君は、少女を気遣いながら黙々と歩き続けた。
アリマは酷く気分が悪そうだったが、どうにか意識を保ったまま乗り続けてくれた。
だが、日が落ちて辺りが真っ暗になると、アリマは睡魔に襲われ、何度もカー君の背から落ちるようになった。
何度目かの落下で、シルヴィアは決断した。
カー君の背に荷物を縛り付け、アリマは自分が背負っていくことにしたのだ。
それならいくら少女が眠っても問題ない。
その代わり、進行速度は極端に落ちた。
カー君が松明を口に咥え、先導してくれたが、道のない夜の岩場を進むのは容易ではなかった。
おまけにシルヴィアはアリマを背負っていた。
いくら少女が小柄で体重が軽いとはいえ、シルヴィアの疲労は相当のものだった。
『この調子だと、十時か十一時、下手をしたら日付が変わるまで帰れないかもしれないわね』
シルヴィアは歯を食いしばりながら、予想を改めた。
二合目あたりまで高度を下げていたとはいえ、夜の山中は信じられないほどに冷えた。
カー君は平気そうだし、シルヴィアも汗だくで寒さを感じる暇がない。
だが、背中で眠っているアリマが心配だった。
少女はきれいな民族衣装を着ていたが、冬物ではない。
一応、毛布と防水布で身体を包んではいるが、手足は出たままで、そこからどんどん体温が奪われる。
シルヴィアは疲労困憊していて、いくらかでも休憩がしたかったが、アリマの容態を考えれば、それは許されなかった。
カー君が心配そうに、何度も『大丈夫?』『頑張って!』と声をかけてくれるが、返事をすることすら辛かった。
昼間は曇っていたが、夜になって空はよく晴れ渡った。
月明かりがあるのは大いに助かったし、月や星の位置で方角や時間も分かる。
もう夜の八時を回っていたが、まだ山の北東あたりの地点だった。
歯痒いくらいに足が前に出ず、道は捗らない。
『これだと、あと三時間はかかるわね。
晴れて月明かりがあるのはいいけど、その分よけいに冷える。
急がないといけないってのは分かるんだけど……』
痺れた腕にはもはや感覚がなかったが、背中に感じられる少女の身体が、小刻みに震えているのが分かった。
これ以上は危険だった。
帰還を諦めていったん樹林帯まで下り、火を焚いて野営すべきかもしれない。
シルヴィアが判断を迷っていると、ふいに前を進むカー君が足を止めた。
『誰かくる!』
カー君の声が、疲れ切ったシルヴィアの頭の中で響いた。
『こんな山の中に?』
シルヴィアは背負っていた少女を地面に降ろすと、剣の柄に強張った手を伸ばした。
『誰?』
彼女は息を殺してしゃがみ込み、カー君に鋭く訊ねた。
だが、返ってきた相棒の声は、拍子抜けするような明るいものだった。
『あれぇ~? タケちゃんだ!』
シルヴィアの目には何も見えなかった。
だが、夜目の利くカー君は、嬉しそうに尻尾を振っている。
数分もしないうちに、月に照らされたタケミカヅチの巨大な姿が、シルヴィアの視界にも入ってきた。
彼は信じられないような速さで、こちらに迫ってきた。
幻獣同士はある程度近づくと、互いの存在を感知できることが知られている。
カー君同様に鋭い視力を持つタケミカヅチであるが、目よりも早くカー君の位置を掴んでいたらしい。
身長三メールを越す巨人は、転がる岩を蹴り飛ばし、踏み砕きながら走ってきたのだ。
シルヴィアたちの前に現れたタケミカヅチは、物も言わずに地面からアリマを拾い上げ、片手で抱きかかえた。
そして残る手でシルヴィアの襟首を掴み、彼女もひょいと抱き上げる。
「近づく間に、カーバンクルから大体の事情を聞いた。
まずは小屋へ戻るぞ」
武神はそう言うと、くるりと向きを変え、二人を抱いたまま走り出した。
* *
時間はその日の夕方に戻る。
カー君が少女を乗せた輿の追跡に出発した後も、エイナとバータルは問答を続けていた。
「カスム族の皆さんは、この辺りを放牧場所としているのですか?」
エイナは気になっていたことをぶつけてみた。
「なぜそんなことを訊く?」
バータルは少しむっとした表情で訊き返した。つくづく正直な男である。
この一帯は山麓の樹林帯に隣接している。森林は家畜を襲う肉食獣にとって、恰好の棲家となる。
遊牧民がそんな危険な場所に野営地を設営するのは、どう考えても不自然だったのだ。
エイナは素直に理由を上げてみせた。
「参ったな……。エイナ殿は王国の軍人だろう。
そこまで見えるものなのか?」
「私は王国でも辺境と呼ばれる、貧しい開拓村の生まれです。
遊牧はしませんが、家畜が一番の財産であるという点では、皆さんと変わりありません。
辺境の民は家畜が襲われることを最も恐れていますが、野獣の棲家である森から離れて暮らせないのです。
でも、皆さんはそうではないはずです。危険な場所には近づかなければいい。
それとも、危険を冒してでも、この場所に留まらなければならない理由があるのでしょうか?」
バータルは髭の生えた頬をぼりぼりと掻き、溜め息を洩らした。
「そなたは油断がならんな。
確かに、通常であれば、我らは森の近くにゲルを立てることをしない。
実際のところ、明日にはゲルを畳んでこの地を出立する予定なのだ」
「つまり、ここに滞在しているのには、何か特別な理由があるということですね?」
バータルはにやりと笑ってみせた。
「俺の答えなど、聞くまでもなく予想しているのだろう?
〝それは言えない〟だ」
エイナも微笑んだ。
「やはりそうですか」
「そういうことだ。
だが、それでは納得できんだろうから、もっともらしい理由を教えてやる」
「是非ともお願いします」
「いいか、そもそもアフマドの各部族には、厳密な縄張りが定められている。
我らのような新興の小部族が遊牧できる範囲は、コルドラ大山脈の山麓沿いの一部分に限られている。
したがって、森林帯に近い危険な場所であろうと、立ち寄らざるを得ないのだ。
できるだけよい餌場を効率的に回り、家畜の臭いを嗅ぎつけた野獣が集まってくる前に、素早く離れて安全な地域に移動する。
家畜を守るための負担は大きいが、小部族が生き延びるためには避けてはいられない。
そういうことだと思ってもらいたい」
「確かに、理屈は通っていますね」
「今回はやむを得ず、短期の逗留をしたということで納得してくれ」
「分かりました」
その時、ゲルの入口の方から遠慮がちな声がかかった。
「バータル様……」
バータルは話を止め、エイナに断ってゲルの外に顔を出した。
彼はすぐに顔を引っ込め、エイナに向けて白い歯を見せて笑った。
「窮屈な思いをさせて済まなかった。もう外へ出てもよいそうだ」
エイナの表情も明るくなった。
彼女も立ち上がり、さっそくバータルの隣りに立って、ゲルから顔を出した。
外はまだ明るかったが、薄曇りの西空が赤く染まっている。
夕方、五時くらいであろうか。
どうやらエイナに見られたくない儀式は、すっかり終わったらしい。
例の輿はもちろん、地面には女たちが撒いたという、花びらすら見当たらなかった。
カー君がまだ戻ってきていないのが気になったが、そう心配することはあるまい。
「それでは我らはこれで……」
エイナのゲルで番をしていた二人の若者が、そう言って去っていった。
彼らとすれ違うように、オユンとツェツェグが小走りでやってきた。
「エイナ様、お湯を沸かしました。湯あみをなさいませんか?
夕食はお湯をつかってからにいたしましょう!」
少女たちは嬉しそうにはしゃいでいる。
エイナに断る理由はない。
彼女たちの話では、アフマド族には入浴の習慣がないらしい。
草原は雨が少なく、乾燥している。あまり身体が汚れないのと、水が貴重であるためだ。
人々は週に一度水浴びをするくらいで、後は固く絞ったタオルで身体を丹念に拭くのだそうだ。
オユンたちはエイナの住む王国では、シャワーを浴びたりお湯につかることもあるという話を聞いて、わざわざお湯を沸かしてくれたのだろう。
ちなみにエイナの下着なども、彼女たちが洗濯してくれていた。
「お背中を洗ってさしあげますね」
「あらオユン、ずるいわ。じゃああたしは前を洗います!」
二人の娘は、エイナの入浴を手伝う気、満々であった。
汗まみれで山の中をさまよっているシルヴィアが知ったら、エイナは無事で済まなかっただろう。




