三十 後日譚
「ところで……」
シルヴィアの呻き声が聞こえない振りをして、エイナはケネス大尉に訊ねた。
「私の手は、どうなったのでしょうか?」
「ああ、それなんだが……」
答えようとするケネスを押しのけるようにして、サーラが身を乗り出してきた。
エイナの看護については、自分が責任者だと決めつけているらしい。
「お医者様に一日二回、来てもらっているわ。
でも、あんまりエイナちゃんの治りが早いんで、とっても驚いているのよ。
って言うか、『非常識だ!』とか言って怒っているわ。
シルヴィアちゃんに聞いたんだけど、あなた特異体質なんだってね。
どんな傷でもすぐ治っちゃうなんて、凄いのね!」
「ええ、まぁ……。人よりも回復がちょっと早い程度なんですけど(シルヴィアったら、余計なことを吹き込まないでよ!)」
「あなたの両手の皮は、半分以上剥がれてしまって、肉が溶けて骨が見えていたところもあったのよ。
そりゃあもう、酷い状態だったわ。
シルヴィアちゃんはあなたの手を見て卒倒しちゃうし、カー君なんて『呪いだ! えんがちょだ!』って騒いで、近寄ってもこないの。
酷いと思わない?
結局あたしとケネスで応急手当をして、連れ戻した馬車に乗せてあげたのよ」
「そうでしたか、お世話をかけてしまってすみません」
「いいのよ。それでね、呪術師が死んじゃったせいで、第一軍の兵隊さんたちも正気に戻ってくれたから、この町まで移動して療養に努めていたってわけなのよ」
「この町って?」
「えーと、確かガーファって名前だったわ」
ガーファは白城市に向かう街道沿いにある、比較的大きな町だった。
なるほど、このくらいの規模ならば、医者もいるだろう。
「お医者様は命に別条ないって、太鼓判を押してくれたけど、エイナったら二日も目を覚まさないのだもの、そりゃあ心配したのよ」
「ええっ! 私、二日も寝ていたんですか?」
「そうよ、でも心配しないで。
ちゃんと〝おしめ〟も当てていたし、毎日身体を拭いてあげたから」
「あっ、ありがとうございます……」
エイナは蚊の鳴くような声で礼を言いつつ、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
まさかこの年になって、下の世話をされるとは……。
サーラにとっては、同性に身体を見られるのが恥ずかしいなど、理解の外だった。
彼女は毎日のように、見知らぬ男性に身体を晒しているから当然ではある。
「エイナちゃんがいつまでも目覚めないものだから、第一軍の隊長さんなんか、憔悴しきって自殺騒ぎを起こしたくらいなのよ。
ケネスに殴られて、気合いをかけられていたけどね」
彼女はそう言って笑うと、後ろを振り向いた。
「ほら、隊長さん。いつまで突っ立っているのよ。
何か言ったら?」
少し離れて立っていたフレッチャー少尉は、わずかに顔を赤らめて近寄ってきた。
「フローリー准尉、気がついたようで良かった。
自分たちはケルトニアの客人だけではなく、新兵である君たちも保護するつもりでいた。
それがとんだ役立たずだった。
いや、役立たずというだけならまだしも、妖しい術にかかって君たちを殺そうとした。
そのことはぼんやりとだが覚えている。誠に面目なく、本来なら合わせる顔がないと思っている。
准尉が命をかけて戦い、全員を救ったことは、君のその無残な手を見た時に痛いほど分かった。
本当に……本当に済まなかった。どうか許してくれ!」
少尉は涙を流し、突然床に膝をついて謝罪をした。
年齢も階級も上の男性に頭を下げさせてしまったエイナは、酷く赤面してしまった。
というか、今までサーラがしていた恥ずかしい話を、すべて聞かれてしまったのがショックで、消えてしまいたい思いだった。
* *
サーラがシルヴィアを除いた見舞客をどうにか追い出すと、エイナはやっと落ち着きを取り戻した。
シルヴィアからは、現在の状況について詳しい説明がなされた。
一行がガーファの町に滞在し、エイナの回復を待っていること、そのため到着が遅れることは、すでに白城市に連絡が行っており、了解が得られているということだった。
意識を失っていた間、何も食べていなかったため、エイナは酷い空腹だった。
今なら何人前でも食べられそうだったが、急に大量の食事を摂るのはよくないと言われ、蜂蜜入りのミルクとオートミールしか食べられなかった。
彼女は「これでは足りない」と抗議をしたが、サーラがこの二日間、つきっきりでヤギの乳を口移しに飲ませていたという話をして黙らせた。
昼前には、治療に当たってくれた医師が診察に訪れた。
医者はぐるぐる巻きにされたエイナの包帯を解くと、赤剥けになっている両手をしげしげと観察し、盛大な溜め息をついた。
「もう薄皮が張っている上に、爪まで半分近く再生しておる。
剥がれた爪が元に戻るには、普通一か月以上かかるんだがね。まったく、君の身体はどうなっているのだ?
最初に診せられた時は、『ああ、この患者の手はもう動かないだろうな』と思ったのだがね。この調子なら、半月もすれば全快するだろう。
まったく、非常識極まりない!」
彼はぶつぶつと文句を言いながら軟膏を塗って、包帯を巻き直した。
「二、三日もすれば、皮膚が厚くなって痛みも取れる。包帯も必要なくなるだろう。
軟膏をひと瓶置いていくから、一日に一回、自分で塗りなさい。
もう私がすることはないよ。
君のような患者の顔をもう見ずに済むかと思うと、心の底からありがたいと思うよ」
医師は大げさに肩をすくめると、黒い診察鞄に薬や包帯をしまい込んだ。
彼の診立てどおり、この二日後にはエイナの包帯が取れた。
まだ手首から先が真っ赤だったが、無理をしなければ日常生活に支障がなくなった。
『えんがちょだ!』
と言って、エイナに近寄ろうとしなかったカー君も、呪いの臭いがしなくなったと太鼓判を押してくれた。
ただ、彼はシルヴィアと二人きりの時に、自分が感じている不審を口にしていた。
『あの結界札にかけられていた呪いは、物凄く強力だったんだ。
確かにエイナの怪我は酷かったけど、本来ならそれじゃ済まないはずなんだよ。
あの娘が呪いに対する抵抗力を持っているのは確かだね。
でもちょっと人間離れしているよ』
結局、一行はガーファの町に五日間滞在したのち、白城市に向けて出発することになった。
* *
その後の行程については、特に語ることはない。
ケネスは白城市で白虎帝を表敬訪問し、翌日には王都へと向かった。
呪術師が滅んだ今、彼らが襲撃される恐れはなかったが、白虎帝はフレッチャー少尉と部下たちに、王都までの護衛を命じた(少尉と部下たちが、白虎帝に懇願したのだ)。
二日後、一行は無事王都に到着した。
ケネスに対しては、公式の歓迎行事がいくつも用意されており、彼は愛想のよい表情を湛えた仮面を被って、その退屈な義務に堪えてみせた。
数日にわたる宴会をこなした後は、王国の魔導士候補生への教育計画をめぐって、果てしない会議と打ち合わせと懇談会が待ち受けていた。
一体、何がどう違うのか、出席者の誰も理解していなかっただろう。
本来、現場人間であるケネスにとっては、これこそ試練の始まりであった。
半月後には、ケネスは王立魔導院魔法科の教官として着任した。
現役の魔導士として、実戦的な技術を叩き込むこととなったのだが、その指導は厳しく、たちまち生徒たちから〝鬼教官〟と呼ばれるようになった。
ケネスは旅の間に、エイナという実例に接していたため、王国魔導士の欠点が見えていた。
そのため、すでに卒業して配属されている魔導士たちを数人ずつ王都に呼び寄せ、再教育をするようになった。
まっ先にしごかれたのは、エイナだったのだが、それはまた別の話である。
* *
王都に到着したエイナとシルヴィアは、最初にマリウス参謀副総長への報告を行った。
彼女たちが呪術師と戦ったことは、すでに参謀本部に知られていた。
そのため、手ぐすねを引いて待っていた参謀本部と情報部の面々による連日の事情聴取が行われ、彼女たちはへとへとになった。
血の一滴まで絞りつくされ、カラカラに干乾びた二人は、最後の仕上げに飢えた獣と化した魔導院の老人たちへ、餌として投げ与えられた。
審問官たちは、エイナたちを果てしない質問で責め立てた。
彼らは暗殺奴隷や呪術師が身体に貼っていた呪符や、魔封じの結界札に、どんな文字や文様が描かれていたか、何としても知りたかったようだった。
エイナたちは可能な限りに記憶を掘り起こして説明したが、当然ながらそれは極めて曖昧なものだった。
「何故そんな貴重な情報を書き留めなかったのだ!」
老人たちは黄色く濁った眼球を血走らせて怒ったが、一秒を争う戦いの場で、そんな悠長なことが許されるはずがない。
エイナたちはそれを辛抱強く説明したが、審問官たちの哀願混じりの怒号が止むことはなかった。
ちなみに、魔石によって変貌を遂げたカー君は、審問官たちを驚愕させ、能力の向上を調べる試験が何度も実施された。
シルヴィアが側にいれば、カー君は審問官の老人たちと直に話せたので、彼らを狂喜させた。
シルヴィアが見張っていなければ、審問官たちは幻獣を拘束して解剖していたに違いない。
結局、エイナとシルヴィアが通常の参謀本部勤務に復帰するには、一か月後を要したのである。
* *
ただ一人、サーラだけは、こうした被害から無縁であった。
彼女も一応は参謀本部から事情聴取を受けたが、わずか半日で自由の身となった。
サーラが所属する黒船屋との間で、ケネスの世話をするために拘束されるのは三十日、その代金は銀貨百二十枚(金貨十二枚)と取り決められていた。
この日数には、帰りの船旅に要する期間も含まれており、超過した場合には、一日につき銀貨八枚が軍に対して追加請求されることになっていた。
エイナの治療で余計な滞在が生じたこともあり、彼女たちが王都に到着した時点で、すでに二十七日を費やしていた。
即座にサーラを黒城市へ送り届け、下り船に乗せたとしても、南カシルに着いた頃には一週間の超過が確実である。
サーラの事情聴取が異例の短時間で終わった背景には、会計課の主任女史が鬼のような形相で、参謀本部に怒鳴り込んできたという裏事情があった。
サーラの帰還に当たっては、マリウスの秘書であるエイミーが、すべての手配を済ませてくれた。
黒城市までは参謀本部の馬車が用意され、近衛師団の人員二人が駆り出され、交替で御者を務めることになった。
二人が護衛の役も兼ねていたことは言うまでもない。
もはや彼女を襲う者が現れるとは思えなかったが、エイミーは「サーラさんに何かあったら、莫大な賠償を要求されてしまいます」と脅して、強引に押し通した。
この有能な秘書官は、巧みな口実を考え出し、聴取を受けていたエイナとシルヴィアを連れ出し、サーラの見送りをさせてくれた。
さすがにケネスの身は自由にならなかったが、エイナたちは秘書官の配慮に大いに感謝したのであった。
* *
王城前庭に用意された馬車の傍らで、エイナとシルヴィアはサーラとの別れを惜しんでいた。
南カシルを出た当初は、男に身体を任せる商売女だと軽蔑して二人だったが、一か月に近い旅を共にうちに、サーラが情に深く、芯の強い女性であることを思い知ることになった。
サーラも姉のようにエイナたちを可愛がり、女性として知っておくべき、さまざまな作法や技術を教えてくれた。
「魔石のことは申し訳ありませんでした」
型通りの分かれの挨拶を済ませた後、シルヴィアは深々と頭を下げた。
「私の実家は貴族と言っても、実態は田舎の貧乏地主に過ぎません。
魔石をカー君に与えたのは私の独断ですが、情けないことにその償いができるほど、豊かな身分ではないのです。
ですが、何年かかってでもきっと――」
目に涙を浮かべているシルヴィアの唇を、サーラの人差し指がそっと押さえた。
「それ以上言わないで。
あたしが弁償してほしいなんて、一度でも言ったかしら?
カー君が魔石を食べてくれたから、あたしたちは助かったのよね?
命を買ったと思えば、安いもんだわ。だから、気にしなくていいのよ」
「でも……!
サーラさんは、魔石だけは売らなかったではありませんか?」
シルヴィアの言うとおり、ヴァンの家で鑑定を受けたサーラは、ミスリル銀製の呪術具を売ることを決めた。
ただ、店番をしていたマリアという女性に、こう訊ねたのだ。
「売るのはいいのだけれど、土台だけ。
嵌っている石は、外して持っていたいんだけど、そんなことできる?」
マリアはあっさりと承諾してくれた。
「構わないよ。
うちとしては、在庫にあるもっと上質な魔石を加工して入れ替えるつもりだったからね。その方が遥かに高く売れるもの。
じゃあ、買値は金貨二百二十枚ってことでいいかい?」
「ええ。それでお願いするわ」
蒼城市を離れた後、サーラは馬車の中でその理由を説明した。
「だって、あの土台の彫刻って、蛇が絡み合っていてちょっと気味が悪いじゃない?
でも、マリアさんがそこから石を外したら、きれいな黄色になったでしょう。
ちょっとオレンジがかって、まるで朝焼けみたいな色。
これだったら、持っていてもいいかなって思ったの。
そうしたら、サルマーン(この石をくれたお客さんの名前ね)も嬉しいはずよ。
同じ国の人だし、いい人だったもの」
――このようないきさつがあった上、魔石だけでも金貨八十枚という買値を知っていたシルヴィアは、カー君に魔石を食べさせたことを酷く気にしていたのだ。
サーラはもう一度「気にしないで」と繰り返した。
「それに、あの土台だけでも金貨二百枚以上になったのよ。
あたしってば、ちょっとしたお大尽なのよ」
「でも、それって黒船屋に取り上げられてしまうんじゃないの?」
エイナが心配そうに訊ねる。
「う~ん、花代は全部お店のものになるんだけど、お客さんからのいただきものは曖昧なのよね。
少なくとも、無理やり取り上げられることはないわ。
ただ、品物ならそうなんだけど、売ってお金にしてしまったら、ちょっと揉めるでしょうね。
でも、心配いらないわ」
「どうしてですか?」
「この金貨は、全部黒船屋の女将さんに渡すつもりだからよ。
その代わり、それであたしの奴隷という身分を買い取りたいって頼んでみるわ」
「えっ! じゃあ……サーラさんは遊女を辞めて、堅気になるんですか?」
サーラはけらけらと声を上げた。
「まさか! そんなこと黒船屋が『うん』と言うわけがないじゃない。
世間はそんなに甘くないのよ、エイナちゃん。
あたしは奴隷じゃなくなるっていうだけ。これからは、自分の意志で働く従業員になるのよ」
「でっ、でも! それだと何も変わらないですよ? お金をどぶに捨てるようなものじゃないですか!」
「違うわ。奴隷に未来はないけど、従業員なら努力次第で道は開けるの。
あたしだって年を取るし、いつかは容貌も衰えるわ。
でも、そうなっても遣手婆(遊女屋の中間管理職)になることができると思うの。
そして、いつかは店を任せてもらう……ううん、自分で店を持つことだって夢ではないわ。
それは奴隷の身分のままでは、絶対に叶わないことなの」
サーラは包帯が取れたものの、まだ変色したままのエイナの両手を取った。
「あたしが奴隷市場で競り落とされた時の値段って、金貨八十枚だったのよ。
女衒の仲介料や、黒船屋があたしにかけた経費を併せたら、元値はざっと金貨百枚っていったところかしら。
金貨二百二十枚だったら、利息を考えてもお釣りがくるはず。
きっと女将さんは承知してくれるわ。
これからも働き続けると約束すれば、きっとあたしの花代も店と折半にしてくれると思うの。
今の女将さんも、店に出ていた若いころは、そうやってお金を貯めたって聞いているわ。
だから、あたしはもっともっと頑張るわ! 南カシルで一番の遊女になってみせる!」
彼女の瞳には希望の光が宿り、生き生きとした表情はとても眩しかった。
御者と護衛を兼ねた兵士が、サーラの大きな荷物を積み込むと、準備が整ったことを伝えてきた。
彼女が馬車に乗り込むと、御者台の兵士が馬に合図を送り、ゆっくりと車輪が回り出した。
サーラが窓から上半身を乗り出し、エイナとシルヴィアに向かって手をぶんぶんと振った。
「今度、南カシルに来たら、必ずお店に顔を出してね!
三人で一緒に飲みましょう! 約束よ!」
馬車は城の石畳の上を、カラカラという軽快な音を立てて走り出していた。
いつまでも手を振っているサーラの姿も、あっという間に小さくなった。
そして、聴き覚えのある旋律が聴こえてきた。
行き交う兵士や役人たちが、思わず足を止めて振り返るほどの美しい声だった。
それは荘厳な王城に似つかわしくない、踊り出したくなるような愉快な曲、『牧場の仔馬』だった。




