二十九 呪術師の最期
エイナが目覚めた時、視界に映ったのは天井ではなく、間近で覗き込んでいるサーラの心配そうな顔だった。
「目を覚ましたわ!」
サーラは小さくそう叫ぶと、いきなりエイナに抱きつき、唇を重ねてきた。
声の調子から、嬉しさのあまりに取った行動だということは分かったが、その口づけは予想外に濃厚なものだった。
サーラのような職業の女性からすれば、口を吸い舌を絡ませるのは、挨拶程度の軽い前戯に過ぎないのだろう。
だが、恋愛経験のないエイナにとっては、とんでもなく行き過ぎた行為であった。
彼女は慌ててサーラの肩に手を当て、どうにか覆い被さる身体を押しのけた。
「よかったぁ~! もう目を覚まさないんじゃないかって、ホントに心配したんだからぁ!」
サーラは拒絶されたことを全く気にしない様子で、目に涙すら浮かべていた。
「痛っ!」
エイナの方は、突然の刺激に顔をしかめた。
サーラの身体を押しのけた時に、両手に違和感とともに、強い痛みを感じたのだ。
寝起きで混乱している頭に、麦畑での戦闘の記憶がふいに甦ってきた。
「呪術師は? あの呪術師はどうなったの!」
エイナはがばっと上体を起こして叫んだ。
だが、それに答える人間は誰もいない。
どこかの宿屋らしい、簡素で小さな部屋の中にいるのは、ベッドに寝かされていたエイナと、その脇に置いた椅子に腰かけているサーラだけだった。
きょろきょろと部屋の中を見回して、自分が置かれている状況を把握すると、彼女はじんじんと痛む自分の両手に目を落とした。
両手には白い包帯が手首まで巻かれ、まるで白いミトンをしているようだった。
エイナは思い出した。彼女は魔法を阻害している呪符を引き裂くために素手で触り、仕掛けられていた呪いを受けたのである。
手に巻かれた包帯からは、少し刺激のある生薬の香りが漂っている。
きっと医者が呼ばれ、治療をしてくれたに違いない。
戦闘中には興奮していて、自分の両手がぼろぼろになったことを気にもしていなかったが、今は手を少し動かすだけでも激痛が走った。
「落ち着いて。そして安心してちょうだい、エイナちゃん。
悪い呪術師は滅んだわ」
サーラはエイナの手首をそっと握ると、ゆっくりと下におろさせた。
そして、彼女は椅子から立ち上がった。
「あなたが目を覚ましたことを報せてくるわ。
みんな、とっても心配していたのよ」
「みんな……?
じゃあ、全員無事なのね!」
サーラは笑顔を浮かべ、こくりとうなずいた。
「当たり前じゃない。呪術師はやっつけたって言ったでしょ?
あなたのお陰よ」
彼女はそう言うと、そっと部屋から出ていった。
* *
サーラは一分も経たないうちに戻ってきた。
そして、彼女の後ろには、シルヴィアとカー君、ケネスだけではなく、第一軍の護衛隊長であるフレッチャー少尉の姿もあった。
彼らは部屋に入るなり、サーラの身体を押しのけて、ベッドの周囲に集まった。
ただ、なぜかカー君だけは部屋の隅っこに座り込み、半眼になってエイナの方を見ていた。
半身を起こしていたエイナは、自分が下着姿であることに気づき、慌てて薄い毛布を掴んで胸元に引き上げた。
「痛ぁ~!」
再び手に痛みが走り、彼女は顔をしかめた。
シルヴィアが苦笑を浮かべ、男性陣に後ろを向くよう命令し、毛布の上に置かれていたガウンを取って、着せてくれた。
エイナの手では、ボタンをとめることができないのだ。
「お前、馬鹿だろう?」
シルヴィアが「回れ右」を解除し、最初に声をかけたのは、ケネスだった。
怪我人に対する第一声としては、優し過ぎる言葉である。
「ば、馬鹿とは何ですか!」
大人しい性格のエイナも、さすがにむっとして言い返した。
「馬鹿じゃなきゃ、間抜けだ。阿呆と言ってもいい。
お前、魔導士にとって〝魔力切れ〟ほど恥ずかしいものはないと、養成機関で習わなかったのか?
どんな状況であれ、自力で撤退できる程度の魔力は残しておくもんだ。
お前がぶっ倒れちまったら、周囲の将兵は戦場から退避させるために、余計な人員を割かなくてはならなくなる。
その重たいケツを運ぶのに、最低でも二人、無防備なお前と運搬兵を護衛するのに、さらに二人は必要だ。
考えなしに魔力を使い切った馬鹿のお陰で、それだけの人数が戦場を離脱することになる。
少しは自覚しろ、この大馬鹿者!」
大声でがなり立てるケネスの叱責に、エイナはぐうの音も出なかった。
確かに彼女は、魔導院でケイト先生から、全く同じことを口が酸っぱくなるほど言い聞かされていたのだ。
「申し訳ありません、大尉殿。自分の考えが足りませんでした」
「考えだと?
俺は魔法を放つ瞬間を見ていたが、お前はあの時、魔法に没頭し過ぎて何も考えていなかった……違うか?
そのことは前にも注意したはずだし、お前自身も気をつけていたはずだ。
それなのに、肝心なところで同じ失敗を繰り返したら、意味がないだろう!」
「……そのとおりです。返す言葉もありません」
険しい顔をしたケネスは、大きく手を振り上げた。
エイナは平手打ちを喰うものだと思って身をすくめ、ぎゅっと目をつぶった。
それは、軍隊ではごく普通に行われる罰であり、女だからだといって逃れられるものではなかった。
だが、ケネスは振り上げた手を、エイナの頬の寸前でぴたりと止めた。
そして、その手を彼女の頭に乗せると、ぐりぐりと撫で回してみせた。
「だがまぁ、お前の全力攻撃のお陰で、俺たちが助かったのも事実だ。
あんな非常識な規模のファイア・ボールなんざ、滅多にお目にかかれるもんじゃねえぞ?
俺の経験でも、あれに匹敵する攻撃魔法を出せるのは、マグス大佐の部下くらいのもんだ」
「はぁ……部下ということは、マグス大佐本人はもっと凄いのですか?」
「あれは人間じゃねえ。完全に化け物だから、張り合おうなんて考えるな」
「では、私の魔法で呪術師が倒せたのですね? ……よかった!」
ほっとするエイナだったが、何故かケネスは困ったように、ぼりぼりと頭を掻いた。
そして、彼は助けを求めるように、横にいたシルヴィアの顔を見た。
エイナの親友は大きな目を閉じると、ふうっと息を吐いた。
「分かりました、大尉殿。私が説明すればいいのですね」
シルヴィアの観念したような言葉に、エイナはきょとんとした。
「え、何? どういうこと?」
「あんたは気絶していたから、あの後どうなったか、何も知らないのよね。
いいわ、あたしが説明してあげるわ。
結論から言えば、あなたの全力魔法も、あの呪術師には効かなかったのよ」
シルヴィアはそう前置きするとすると、麦畑で起きたことを話し始めた。
* *
呪術師の防御結界は、あんたが予想していたように、対物理障壁と同じようなものだったの。
つまり、力による一切の干渉を撥ね退ける代わりに、結界の中にいる呪術師も、外への攻撃はできない。その一方で、魔法は無抵抗で通してしまう。
――それが、魔導士の常識なんでしょう?
でもあの呪術師は、自分の身体から発生させた無数の黒い蛇を放って、あたしたちを攻撃してきた。
その蛇は、呪術師の言葉を借りれば、純粋な呪いそのものだったみたい。
実際の肉体を持っているわけじゃなくて、邪悪な思念の塊りってことね。
まぁ、広い意味では魔法みたいなものだから、結界をすり抜けられたんだと思うわ。
そんな顔をしないで。
物理防御を展開している魔導士は、同時に他の魔法を使えないってことぐらい、あたしだって知っているわよ。
どうして敵にそれが可能だったのかなんて、あたしに分かるわけないでしょ。
きっと、その辺が呪術と魔法の違うとこなんじゃないかしら?
とにかく、あんたが放った馬鹿でかい火球は、防御結界をすり抜け、呪術師にもろに激突して、大爆発を起こしたわ。
さっき大尉殿があんたを叱責されたけど、それにはもっと大きな理由があるのよ。
あれだけの規模の爆発だと、呪術師から十メートルも離れていなかったあたしは、確実に巻き添えを喰らって黒焦げになっていたわ。
もっと離れていた大尉殿とサーラだって、多分無事じゃ済まなかったはずよ。
あんたが馬鹿みたいな魔力を持っているのはいいけれど、それを全部つぎ込んだらどんなことになるか、把握しておくべきね。
味方の被害を考えたら、あんな恐ろしいことはできないはずよ。
ええと、話を元に戻すわ。
あたしたちが無事だったのは、皮肉なことに、あんたの魔法が呪術師に効かなかったお陰なの。
大尉殿のお話だと、結界は魔法の通過は妨げないけど、爆発的な魔法反応で生じた炎については、質量を持った物体だと見做すそうなの。
だから、呪術師の張った結界の中は、地獄のような状態になったのよ。
半球状の結界の中を、炎が激しい渦となってぐるぐる対流したの。
それに加えて、発生した爆風を、結界が外部に逃がさずに溜め込んだために、とんでもない高圧状態になったのね。
とても人間が生存できるような有様ではなかったわ。普通なら、骨も残さずに一瞬で燃え尽きたはずよ。
あたしたちは、直径五メートルほどの炎のドームを、呆然として眺めているしかなかったわ。
そのうちに、突然気がついたの。
普通だったら、呪術師は炎に包まれて即死していたはず。そうなったら防御結界は消え失せ、一気に爆炎が周囲に拡散して、あたしたちは全滅していた――という事実。
だけど結界がいまだに存続しているということは、呪術師がまだ生きている証拠だ――それが二つ目の事実ね。
どちらも背筋が凍るほどの恐ろしい事実だったわ。あたしなんか、膝ががくがく震えて立っていられなくなったもの。
ドームの中の炎が収まるまで、そうね……たっぷり十秒以上はかかったと思うわ。
あんた、本当にどんだけ魔力を注ぎ込んだのよ、まったく!
ああ、分かっているわ。それで結局、呪術師がどうなったのか、知りたいのね?
当然だけど、炎がおさまっても呪術師はまだ立っていたわ。
結界の健在で予想できたとはいえ、実際にその姿を目の当たりすると、とても信じられなかったわ。
呪術師は無傷だったけど、完全に無事ってわけじゃなかったの。
あいつが着ていた白い衣装、被っていた布や履いていた革靴も、何もかも燃え尽きていたわ。
でも、不思議なことに髪の毛や髭なんかは、一筋も焦げていなかったわ。
とにかく、呪術師は素っ裸になって突っ立っていたわけ。
ただ、全身のいたるところに、お馴染みの〝呪符〟が貼られていたの。
大尉殿は、その呪符(この場合は護符と言うべきなのかしら)の効果で、炎熱を無効化したんだろうって推測されていたわ。
あたしたちは絶望したわ。
エイナの放った最大規模の攻撃魔法でも、呪術師を倒せなかったのよ。
魔力切れでぶっ倒れたあんたは、もう死体と変わらない役立たずになったけど、大尉殿は魔法が使えたわ。
だけど、どんな魔法を使ったら、呪術師の護符の効果を打ち破ることができるのか、見当もつかなかった。
例え逃げ出したとしても、あの無数に這い出してくる蛇のような呪いに追いつかれてしまう……。
そう思った時、あたしは気がついたの。あれだけしつこく襲ってきた蛇が、全然現れなくなったことにね。
よくよく呪術師の方を見たら、奴の身体からぼとぼとと落ち続けていた呪いの塊りは、すっかり止まっていたの。
それだけじゃないわ。呪術師の足元には、大量の黒い蛇が苦しそうにのたうち回っていたのよ。
あの蛇も、エイナの炎魔法を耐えきったのね。まったく呆れた話だわ。
だけど、なぜあたしたちの方に向かってこないで、ビチビチのたうっているのか、わけが分からなかった。
苦しそうに見えるのは、炎で弱っているせいかと思ったけど、むしろ動きは攻撃を受ける前より激しかったわ。
そのうち黒い蛇は、どんどん呪術師の足元に集まっていったの。
そして、何匹かが飛び跳ねて、呪術師の身体にくっつくと、ずるりと中に潜り込んでいった。
それが何かの合図だったように、残りの蛇たちが一斉に後に続いたわ。
呪術師は明らかに慌てていたわ。
必死で手で振り払おうとしていたけど、数百匹の蛇が相手では無理な相談よね。
無数の蛇が次々と男の身体に呑まれていって、とうとう一匹もいなくなったわ。
呪術師は自分の身体を見下ろして、呆然としていたわ。
気持ちは分かるわ。彼の身体は、真っ黒に変色していたんだもの。
その後は…………。
* *
シルヴィアの話は、そこで唐突に途切れた。
その顔色は真っ白で、口元は歪んでいた。彼女はこみ上げる吐き気を、必死で堪えていたのだ。
やがて、シルヴィアは手で口を押さえ、手洗いの方へと駆けていった。
その姿を見送ったケネスが、肩をすくめて溜め息をついた。
「あの程度のことを思い出しただけで吐くとは、ひ弱すぎるぞ。
本物の戦場は、もっと悲惨なんだがな……」
ぶつぶつとつぶやいた彼は、エイナの方に向き直った。
「あー、簡単に言うとだな……。
呪術師の身体は、腐り落ちたんだよ。
肉がどろどろになって、それこそ吐瀉物のように流れ出したんだ。
骨もぐずぐずになって崩れ、白い泡を吹いて溶けていった。
呪術師は悲鳴を上げることも許されずに、自分が放出した呪いに喰い殺されたんだよ。
多分、お前の魔法によって生じた超高熱と高圧力が、術式に狂いを発生させたんだろうな」
エイナはゆっくりとうなずいた。
彼女は呪術師の凄絶な最期を、目の当たりにせずに済んだことを、心の底から感謝していた。
「それ、呪術に関する授業で習ったことがあります。
強力な呪いであればあるほど、その制御は難しいそうです。少しでも間違えると、敵に向けていた呪いが自分に撥ね返るのだとか……。
それを『呪詛返し』と言うのだそうです」
「そうか……。まぁ、呪術師には相応しい最期だったとは言えるな」
ケネスがつぶやき、その後は全員が無言となった。
「うげぇ~っ!」
部屋の奥の手洗いの方から、シルヴィアの嘔吐する呻き声が聞こえ、しんとした部屋に響き渡っていた。




