二十八 呪い
まず、シルヴィアがカー君に語りかけた。もちろん頭の中での話であって、実際には声を出していない。
『とにかく、カー君の火球か雷撃で、あの呪術師をぶっ飛ばしてみましょう。
それで倒せれば万々歳。
もし攻撃が効かなかったら、次善の策。呪符を焼いて、結界を弱体化させる。
それが攻撃の第一弾ね』
カー君は彼女の言葉をエイナに伝えながら、自分の意見も付け加えた。
『シルヴィアはああ言っているけど、どっちも成功の見込みは薄いと思うよ』
『私もあんまり期待していない。でも、まずは試してみましょう。
それで駄目だった時だけど、シルヴィアには剣で斬り込んでもらう。
大尉殿の短剣を弾いたところを見ると、私たちが使う対物理防御障壁に似た術を使っている可能性が高いわ。
だから、これも成功しないと思うけど、相手の注意は引きつけて、わずかでも時間を稼ぐことができると思うの』
エイナの提案も、即座にシルヴィアに伝達され、彼女は「分かった」というようにうなずいてみせた。
『シルヴィアが力押しで攻撃している間に、私が呪符を何とかするわ』
『でも、エイナは魔法が使えないんだろう?
僕にはある程度呪いが見えるんだ。あの呪符自体、かなりの防御力を持っているんだ。僕の炎も効かないだろうし、剣で切るなんて、まず不可能だよ』
エイナはふうっと息を吐いた。
『防御系の魔法ってね、外部から加えられる刺激が強いほど、反発力も強くなるっている性質があるの。
剣で掘り出せたってことは、触ること自体はできるはずよ。
だったら手づかみにして、ゆっくり引き裂いてみる』
カー君が少し驚いたような表情で、エイナの顔を見詰めた。
『何度も言うようだけど、この札には何重にも呪いがかかっている。
触ったりしたら、指の肉が腐ると言ったのは冗談じゃないんだ。
君は手を失うことになるかもしれないんだよ?』
『じゃあ、黙って殺されるのを待つ?
手がなくても魔法は撃てるわ。ここで全員死ぬよりは、よほどましだと思わない?』
『それはそうだけど……』
『大丈夫。私、どうして呪術師が私たちに呪いをかけて、直接操ろうとしなかったのか、ずっと考えていたの。
もしかして魔導士や召喚士みたいに強い魔力を持っている人間は、呪術に耐性があるんじゃないかしら?』
『それを言ったら、サーラはどうなのさ? 彼女からは魔力の欠片も感じられないよ』
『サーラの場合は、持っていたガトラの秘石とやらが、外部からの干渉を防いでいたんじゃないのかしら?
とにかく、呪符を一つでも壊せば結界が弱まって、魔法が使えるかもしれないのよね。少しでも可能性があるなら、そこに賭けてみる!
駄目だったら手か腕を失うだけ。やってみる価値はあるわ!』
エイナの無謀な決断を、カー君は気乗りのしない様子でシルヴィアに伝えた。
彼女はそれを聞いて少し驚いたようだったが、意外にすんなりと同意した。
エイナを無謀と言うなら、斬り込む役のシルヴィアだって命がけである。お互い無抵抗で殺されるなど、まっぴらだと覚悟していたのだ。
* *
彼女たちの相談がまとまったのは、ケネスが秘石の土台を〝ヴァンの家〟に売ったことを、呪術師に明かした頃だった。
白刃を抜いた長身のシルヴィアが、ずかずかと前に進み出て、ケネスの隣りに並び立った。
「おう、作戦は決まったか?」
問われたシルヴィアはにやりと笑う。
「当たって砕けろ!」
ケネスも笑い返す。
「そいつは作戦とは言えねえぞ?」
「そうですね。でも、覚悟は決まりました」
「上等!」
「何をごちゃごちゃ言っている!」
呪術師の男が喚いた。
当てにしていた秘石がここにはないと知って、かなり怒っているようだ。
「カー君、やれ!」
シルヴィアが叫んだ瞬間、彼女のすぐ横を熱風が駆け抜けた。
後方にいたカー君が、口から炎の塊りを吐いたのだ。
もの凄い勢いで飛んだ火球は、人の頭くらいの大きさだったが、呪術師にぶつかった瞬間いきなり膨張し、爆散して炎のシャワーを作り出した。
白熱する炎は、岩にぶつかった波のように呪術師の身体を包込んだが、しばらくすると嘘のように消え去った。
畑の地面に残っていた麦の切り株は炭化し、黒い粉となって風に飛ばされていった。
湿って黒い畑の土は一瞬で水分が蒸発し、表面が白っぽい色に変わっていた。
だが、呪術師はまだ立っていた。
彼を中心とした直径五メートルほどの範囲だけは、麦の切り株も黒い土もそのままだった。
「くそっ! カー公の言ったとおりか!」
ケネスが悪態をついた時には、すでにシルヴィアが飛び出していた。
彼女は猛然と突進すると、脇に構えた長剣を呪術師に向け、真っ直ぐに突き刺した。
だが、彼女の剣は目に見えない空気の壁によって、あっさりと弾き返される。
予想された結果にシルヴィアは少しも怯まず、剣の柄を握り直すと横薙ぎに剣を払った。
その攻撃も、弾力のあるゴムに阻まれたような感触で押し返される。
彼女は懲りずに攻撃を繰り返した。
まるでこの目に見えない壁のどこかに穴が開いており、それを必死で探しているかのようだった。
目の前で奮闘するシルヴィアの姿を、呪術師は悠然と腕組みをし、嘲笑った。
「無駄なことを……。一日続けても、この結界は破れぬと知れ。
見たであろう、お前の幻獣の攻撃ですら、我が術の前には無力だったのだぞ?」
「偉そうにほざくな!
そっちこそ、防御結界を張っている間は攻撃ができないくせに!」
シルヴィアが荒い息で叫び返したが、それは呪術師の一層の笑いを誘うだけだった。
「そう思うか?
それは愉快だ! 呪術師を魔導士などと一緒だと考えているのか、愚か者!
我らがどれだけのものを犠牲にして、血を吐くような修行に耐えてきたのか、想像すらできんのだろう。
貴様たちは全員、我が呪いの力で惨めに死んでいくのだ!」
呪術師は狂ったような高笑いを上げながら、両腕を広げた。
トーブと呼ばれる白くゆったりとした上着の袖が、ふわりと膨らんだ。
そして、その袖口から、ぼとぼとと音を立て、黒い粘液のようなものが溢れ落ちてくる。
粘性の高いアスファルトのような滴りは、畑の土に落ちると、うねうねと動き出した。
それらは目も口もない、蛇か芋虫のようにのたうち、シルヴィアやケネスの方に這い寄っていった。
黒い蛇たちは、呪術師が張った防御結界を平気で抜けてきた。
シルヴィアは自分の足元に迫ってきた蛇を蹴り飛ばし、嫌悪に口を歪めて長剣を突き刺す。
二十センチほどの体長の蛇は、真っ二つに寸断された途端、ぱっと黒い霧を撒き散らして消滅した。
「ふん、大口を叩いた割に、たわいもないわね!」
シルヴィアはそう叫んだが、表情は険しかった。
この得体のしれない蛇のような物体は、小さくて動きも鈍かったが、何しろ数が多かった。
何十匹もの群れとなって押し寄せ、シルヴィアに近づくとぴょんと跳ねてくる。
彼女は足元の群れにざくざくと剣を突き立て、飛びかかってくる個体を足蹴にして振り払うことに忙殺されることになった。
呪術師はその様子を見て、勝ち誇ったように笑った。
「その蛇たちは、濃縮された呪いそのものよ。
一度取り付けば、皮膚を溶かして体内に潜り込み、肉も内臓も腐らせていくのだ!
そうれ、踊れ踊れ! いつまで持つか見物だな!」
* *
シルヴィアとケネスが、呪術師の攻撃を必死で防いでいる一方で、エイナとカー君は次の行動に移っていた。
まずは打ち合わせどおり、カー君が掘り出されていた結界の呪符に向けて炎を放った。
しかし、これも予想どおりの結果だった。
呪符には何かの防護措置がなされているらしく、格段に強化されたカーバンクルの炎に包まれても、まったくの無傷だった。
『ごめんエイナ!
やっぱり駄目だった!』
カー君の済まなさそうな叫びが、エイナの頭の中に鳴り響き、それがスイッチとなった。
この切羽詰まった状況で、もう考えることは無駄、ただ闇雲に行動するだけである。
少し下がって見ていた彼女は猛然と駆け寄ると、転がっている呪符を素手で掴み取った。
「ぐっ!」
喉の奥から苦痛を堪える呻き声が洩れた。
呪符が貼られた細長い板を掴んだ瞬間、手に激痛が走ったのだ。
まるで炎の中に手を突っ込んだような感覚である。
〝じゅっ!〟という音がして、指の間から白い煙が上がり、酸っぱい刺激臭と、肉の焦げる嫌な臭いがした。
熱くはない。ただただ痛かった。
あっという間に指の皮がずるりと剥け、溢れ出た血液がぶくぶくと泡を吹き、白い煙があがる。
まるで呪符の表面に、強力な酸が塗られているようだった。
それでもエイナは手を離さなかった。
血に染まった右手でしっかりと板を掴むと、左手を伸ばし、端のわずかに捲れている箇所に爪を立てる。
吐き気がするような酸っぱい臭いのする煙があたりに漂い、指先に激痛が走った。
それでも、爪先をどうにか呪符と板の間に差し入れることに成功し、彼女はしっかりと右手で抑え込みながら、札を掴んだ左手を慎重に引き下げた。
人間の皮だという札は、拍子抜けするくらいにあっさりと二つに引き裂かれた。
札を護るための呪いに力が注がれているものの、呪符そのものの強度は重視していなかったようだ。
もっとも、手づかみで引き裂こうとする馬鹿が現れること自体、想定外だったのだろう。
エイナの両手は血だらけで、指と手のひらの皮膚がずる剥けとなっていた。
左指の人差し指から薬指までの爪が溶け、ぽとぽとと剥がれ落ちていく。
苦痛は凄まじかったが、興奮しきっているエイナには、他人事のように感じられた。
何より抑えつけられていた魔力が極端に活性化しており、術が発動するという予感で、身体ががくがくと震えていたのだ。
それは肉体的な快感を伴う、悦びの故である。
自分では気づいていなかったが、彼女は失禁しており、ズボンの股から腿にかけて黒い染みが広がっていた。
彼女の口からは、無意識のうちに高速多重呪文の、不気味な不協和音が漏れ出していた。
その唇には引き攣ったような笑いが浮かんでいた。誰かが見たら、悲鳴を上げるほどに凄絶な表情である。
エイナは立ち上がると、血が滴り落ちる両手を前に突き出した。
彼女の前にはカー君が四肢を踏ん張って、低く身構えていた。
エイナにも迫ってきた黒い蛇に向け、炎を吐いていたのだ。
カー君は自分の攻撃が呪いと相性が悪いと言っていたが、蛇単体はそれほど強い呪いではないらしく、炎で焼かれると黒い霧となって消滅していく。
「カー君!
シルヴィアに退くように伝えてちょうだい!」
エイナはそう叫ぶとともに、見るも無残な両手へ身体中の魔力注ぎ始めた。
破いた呪符は四つのうちの一つだけで、魔封じの結界自体が消滅したわけではない。
この一帯に関してだけ、穴が開いたようなものだろう。どうにか魔法は使えるが、万全の状態ではないはずだ。
下手をすれば、攻撃魔法の威力は半減するかもしれない。
『だったら!』
エイナの高揚した脳は、高らかに叫んでいた。
『倍の魔力をつぎ込めば、差し引きゼロじゃない!』
カー君の警告を受け取ったシルヴィアが、脱兎のごとく逃げ出したのが見えた。
その後を無数の黒い蛇が、ぬめぬめと光を反射しながら追いかけている。
まるで生理が始まった時のように、下腹部に内臓を捩じられるような痛みが走った。
子宮に溜め込んでいた全魔力が、空っぽになるまで引き出されたのだ。
太い大蛇のような力の奔流が、渦を巻いて体内を駆け上がり、みぞおちの辺りで二つに分かれた。そして両の乳房を通過して肩口から両腕へと流れて落ちていく。
強烈な刺激で乳首が硬くなり、コルセットに擦れて痛かった。
腕へと流れ込んだ大量の魔力は、両手に滞留して破裂寸前になっていた。
二の腕から指先まで、浮腫んだようにぱんぱんとなり、皮が剥け肉が溶けた手からの出血が激しくなってきた。
手の痛みはまったく感じなくなっていた。
大量のアドレナリンで痛みを感じる神経が麻痺しているのだろう。
それなのに、勃起した乳首が擦れて痛いと気にしている自分が可笑しくて、思わず吹き出しそうだった。
エイナは同期生の中でも、傑出して多くの魔力量を保有しており、それをすべて注ぎ込んだのだ。
一つの術に、これほど大量の魔力を消費するのは、初めての経験である。
魔導院の自習時間に魔力を暴走させ、自分と同級生の男子に怪我を負わせた事件があったが、彼女の現有魔力量は、その時を遥かに上回っていた。
これ以上は限界――という状態に達したのが分かった。
エイナはすうと息を吸い込むと、小さく唇を開き、術を発動させた。
「ファイア・ボール!」
それは彼女が習得している攻撃魔法の中で、もっとも威力の高いものである。
血が滴る手の先から見えない魔力が一気に放出され、滴っていた血が吹き飛ばされて、真っ赤な霧となって舞う。
同時に、エイナの目の前には白熱する光球が出現した。
大量の魔力が高密度に圧縮され、白く輝く球の内部でぐるぐる対流しているのが分かった。
ほんのわずかな時間、空中に浮かんでいた光球は、次の瞬間、もの凄い勢いで吹っ飛び、二十メートルほど離れていた呪術師へと吸い込まれていった。
だが、エイナはその結果を見ることができなかった。
魔法を放った直後、彼女の身体はぐらりと傾き、顔面から麦畑の黒土に倒れ込んでしまった。
魔導士が体内の魔力を使い切ってしまうと、魔力切れという現象を起こす。
貧血のような症状で気を失い、最低でも半日、酷い場合は一日以上、身動き一つできなくなってしまう。
酷い場合には、そのまま永遠に目覚めないことすらあるのだ。
幸い、エイナは目を覚ますことができた。
しかし、それは二日後の朝のことだった。




