四 大人虎変
マーク・カニングは、一見すると穏やかな佇まいの初老の男に思えた。
だが、引き締まった体躯からは抑えきれない精気が溢れ出しており、その威圧感がエイナとシルヴィアの背筋をぞくっとさせた。
彼は趣味のよい帽子を被り、絹の白マフラーを無造作に首にかけていた。仕立てのよい縞のスーツは、はち切れそうな筋肉を覆い隠し、いかにも伊達者といった雰囲気を醸し出している。
口髭を蓄えた精悍な顔立ちとあいまって、思わず見惚れてしまいそうな渋い男性である。
扉を開けたカニングは、自分に向かって駆け寄ってくるケイトを認め、驚きに目を見開いた。どうやら彼を迎えに行ったフレッドは、ケイトが帰ってきたことを黙っていたらしい。
カニングは何か言葉を発しようとしたが、その前にケイトが彼に抱きついていた。
メイド姿のケイトはつま先立ちで背伸びをし、彼の頬を両手で包むといきなり口づけをした。
屋敷の主人に挨拶をしようとケイトの後を追ってきたエイナとシルヴィアは、その瞬間に凍りついて動かなくなった。
王国では挨拶として、また家族の親愛の情を現す手段としてキスをすることはある。
だがそれは、頬に軽く唇を触れる程度のもので、唇と唇を合わせるのは恋人同士の愛情表現に限られていた。
しかもケイトはうっとりと目を閉じ、頬をくぼませている。逆にカニングの頬は何かの生き物を含んでいるように膨らみ、うごめいていた。
ケイトが舌を入れ、からませ、吸いついていることが丸わかりだった。
彼女の両腕はがっちりとカニングの背中に回され、爪を立てた指が喰い込んでいる。
カニングの驚きで瞠っていた目が、次第に優しくなごみ、細められていった。
彼の左腕もケイトの背に回され、右手は彼女の丸い尻を鷲掴みにして揉むように動いている。
どう見ても恋人同士、それも肉体関係にある男女の、濃厚な抱擁としか見えなかった。とても人前で見せるような行為ではない。
エイナとシルヴィアは、固まったまま動けずにいた。
〝見てはいけない〟と思いながら、目が釘付けとなって逸らすことができない。
二人とも恥ずかしさで顔が真っ赤になって、膝ががくがくと震えていた。
その彼女たちの背中を、後ろから誰かがそっと引っ張った。
二人の娘は『ひっ!』という、声にならない悲鳴を上げて振り返った。呪縛が解けたのだ。
そこにはモリーが背をかがめてしゃがみ、唇に指を立てて『静かに!』というジェスチャーをしていた。
モリーは黙って二人をリビングの方に引っ張っていき、そっと扉を閉めた。
人形みたいに固まっている娘たちを、どうにか椅子に座らせると、モリーは〝ほうっ〟と溜め息をついた。
「だから『行ってはいけません』と言ったでしょう。
お二人の邪魔をしたら、最悪殺されていたかもしれませんよ!」
メイドは小声で二人を叱りつけたが、その表情は冗談を言っているように見えなかった。
「いいですか、ケイトさんは賢くてとても優しい人ですが、カニングさんのことをそれはもう愛していらっしゃいます。
そのことに関しては人格がすっかり変わってしまいますから、長生きしたいのなら絶対に邪魔をしてはいけません!」
彼女の言葉は、何故だかとても説得力があった。
二人は言葉が出せないまま、ただうなずくしかなかった。
* *
エイナとシルヴィアは、リビングで座ったまま気まずい数分間を過ごした。
やがて扉が開くと、何食わぬ顔をしたカニングが入ってきた。
その後ろには、彼の上着と帽子、マフラーを大事そうに腕に抱えたメイド姿のケイトが続いている。
彼女の頬は上気してピンク色に染まっており、目は蕩けるように潤んでいた。
あの抱擁の後、玄関先で一体何があったのか、初心なエイナたちには想像もつかなかった。
二人が入ってくると、エイナたちはバネ仕掛けの人形のように椅子から飛び上がった。
カニングは寛大な笑みを浮かべて近づいてきた。
「よく来てくれた。
俺はこの屋敷の主人でマーク・カニングという。どうせ事前に聞いているだろうが、黒龍組という組織の長を務めている。
君たちはケイトの教え子で、今は部下だと聞いた。
つまりは俺の大切な女の身内も同然ということだ。この南カシルにいる限り、君たちは俺の庇護下にあると思ってくれていい。
何か困ったことがあったら、遠慮なく俺の名前を出して構わん。このことをよく覚えておくがいい」
先に我に返ったのはシルヴィアの方だった。
彼女はスカートを摘み、軽く膝を折る女性の正式な礼を取った。
「二級召喚士にして王国軍准尉、グレンダモア伯爵家次女、シルヴィア・グレンダモアと申します。
高名なカニング様の知遇を得たことを光栄に存じます」
エイナは慌ててシルヴィアに倣った。
「エイナ・フローリー魔導准尉です。
えとえと……私は辺境の生まれの田舎者ですが、ケイト大尉殿にはとてもお世話になっています。
どどどっ、どうかよろしくお願いしますっ!」
エイナは自分の挨拶が、シルヴィアの完璧な礼儀にだいぶ見劣りすることを自覚して、顔を真っ赤にした。
「そう畏まらなくてもいい。
言ってみれば俺はただの犯罪者で、君たちのようなお嬢さんの礼を受けるいわれはない。
玄関先でうちの馬丁が待っている。宿まで送らせよう」
カニングはそう言うと、リビングの隅に置かれていたエイナたちの荷物を手に取った。
ケイトとモリーが慌てて「私が!」と言って駆け寄ろうとしたが、彼はそれを無視して荷物を運んでいった。
カニングはかなり重いはずの荷物を軽々と持ち、玄関ホールまで運んでくれた。
大きな扉を開けると、車止めには瀟洒な馬車が待機していた。
御者席に着いていたフレッドが降りてきて、カニングから荷物を受け取った。
カニングは荷物の積み込みをフレッドに任せ、馬車の扉を開いてエイナたちに乗るように促した。
ちゃんと踏み台が置かれていたが、カニングは紳士らしい仕草で彼女たちの手を取った。
エイナとシルヴィアは背後から殺気の籠った視線を感じていたが、怖くて振り返ることができなかった。
カニングは乗車を手伝いながら、さりげなくエイナの耳もとでささやいた。
「済まんな。本当ならうちでゆっくり滞在してもらいたいところだが、ケイトがそれを許さんのだ。察してくれ」
エイナはどう答えてよいのか分からず、ただ〝ぶんぶん〟とうなずいただけだった。
二人が馬車の中に落ち着いたのを確認すると、カニングは前に回ってフレッドに何事か指示を与え始めた。
それと入れ替わるようにケイトが馬車に近づき、窓から中を覗き込んだ。
「フレッドには軍がよく利用している宿に行くよう伝えています。
万が一、部屋がいっぱいだった場合は、予備の宿も指示していますから心配はいりません」
ケイトはそう言うと、すうっと深呼吸をした。
そして開いた窓から顔を入れ、二人にささやいた。
「くどいようですが、私はもう休暇に入っています。これ以上、あなたたちの手助けはできません。あなたたちはこれから先、自分たちだけで任務をこなさなければなりません。
困ったからと言って、誰かが助けてくれる魔導院とは違うのです。
二人とも今や誇り高き王国軍の士官、一般兵を導く立場です。それを忘れないよう立派に任務を果たしてください」
エイナたちは真剣な顔で「はい」と声を揃えた。
さっきまで女の顔をしていたケイトが、いつもの頼りがいのある上官の顔を取り戻したのが、ひどく嬉しかった。
だが、その安堵は一瞬で砕け散った。
ケイトの声が一段と低くなり、圧力を増したのだ。
「私にとってこの休暇の一分一秒は、黄金にも代え難い貴重な時間です。
私は魔導士として、王国に仕えることを誓った身ですが、それ以上にカニングさんのお世話をすることを、無上の喜びだと思っています。
お世話というのは日中は当然、夜も例外ではありません。あなたたちも十八歳、その意味は分かりますね?」
ケイトは言葉を切った。目が完全に据わっていた。
エイナたちは震えあがり、「……はい」と小さく答えるのがやっとだった。
「ですから、私の大切な時間を絶対に邪魔してはなりません!
何か困ったことが起きたからといって、安易に相談に来るなど言語道断です」
ケイトは不気味な笑顔で二人を睨み、ふっと真顔になった。
「そんなことをしたら……殺すわよ」
* *
馬は蹄鉄の音を響かせながら、カシルの舗装された道を進んでいく。
エイナとシルヴィアは、四人掛けの馬車の座席に並んで座っていた。
カニング邸を出た途端に二人は肩を落とし、大きな溜め息を吐いた。
シルヴィアが泣きそうな顔でエイナに話しかけた。
「ケイト大尉……怖かったわね~!」
だが、エイナは上の空だった。
呆けたようにぶつぶつとつぶやいている。
「大人だわ……」
「え、ちょっとエイナ、あんた大丈夫?」
「ケイト先生、大人だわ……」
再びつぶやいたエイナの頭を、シルヴィアがぺちっと平手で引っぱたいた。
「痛っ! 酷いわシルヴィア、何をするの?」
「あ、やっと戻ってきた。
大尉殿が大人なのは当たり前でしょ。何ぼーっとしているのよ」
「だだだだ、だって!
せせ、せっ、接吻していたのよ! シルヴィアだって見てたでしょ?
あれ、絶対に舌を入れてたわよね?」
「だからどうなのよ?」
「凄いわ、大人だわ――って、痛っ!」
エイナは小さな悲鳴を上げた。シルヴィアが再びエイナの頭をはたいたからだ。
「あたしたちだって、もう十八歳なのよ。立派な大人だわ!
口づけくらいで騒がないでよ、みっともない」
「だって、シルヴィアだってしたことないでしょ?」
「馬鹿じゃないの? キスくらい、誰だってするわよ」
「でもでも、舌を入れたことはないでしょう?」
「そりゃあ……ん? あ、ないことはないか」
「うそ! あたし聞いてないわよ! 誰としたの?」
「あんた」
シルヴィアは人差し指でエイナの鼻の頭をぎゅと押した。
「あたし?」
「ほら、拉致事件で小屋に監禁されてた時よ。
あんた、あたしの口を塞いで舌を入れたでしょ」
「あっ、あれはシルヴィアが声を出しそうだったし、縛られていて手が使えなかったから仕方なかったのよ!
あたし、別にそっちの趣味はないわ!」
シルヴィアは笑い出した。
「そんなに顔を赤くしないでいいわ。こっちだって同じよ。
あれは野良犬に噛まれたようなもので、ノーカウント!」
「酷いわ、あたしは犬なの?」
二人がくだらない会話を交わしているうちに、馬車はあっという間に宿に着いた。
ケイトが勧めてくれた宿は、中通りと呼ばれる斜面の中腹にあり、それほど大きくはないが親しみやすい雰囲気があった。
宿の主人と女将は年輩だが愛想がよく、部屋は空いていると答えてくれた。
エイナが二人で一部屋を取りたいと言うと、彼らは少し不安げな表情を浮かべた。
まだ二十歳前の若い娘同士で宿泊するというのは、何か訳ありだと思ったらしい。
シルヴィアが、自分たちは王国の軍人だと身分を明かすと(彼女たちはカニング邸で軍服を脱ぎ、私服に着替えていた)、やっと安心したようだった。
* *
エイナたちが南カシルに着いたのは八月三日である。
ケルトニアの魔導士が乗ってくる船は、七日着の予定であったから、十分な余裕があった。
宿の部屋に落ち着いた時には、外も薄暗くなりかけていた。
エイナたちは荷物の整理を後回しにして宿の食堂で夕食を摂り、その日は何もせずに眠ってしまった。
ずっと揺れる船の中で雑魚寝をしてきたから、ベッドで眠れるのが嬉しかった。
翌朝、宿で朝食を済ませて一息つくと、シルヴィアが南カシルの街を見物しようと提案してきた。
エイナは「任務中なのに」と渋ったが、シルヴィアは意に介さなかった。
「船が着くのはまだ三日も先よ。相手がいないんじゃ何もできないじゃない。
別にあたしは遊びたいわけじゃないわ。
あたしたちはケルトニアの魔導士を案内しなくちゃならないのに、この街のことを何も知らないでしょ?
街を一通り見て回って、土地勘を養っておくのも任務のうちよ。
今日一日、街を探索しましょう。外洋港の現地確認と、川船の予約は明日すればいいわ」
彼女の言い分はもっともらしかった。
しかしエイナは、買い物好きのシルヴィアがお店巡りを楽しみたいのだと見抜いていた。
「分かったわ。でも、お店は見てもいいけど、買い物はなしよ。
あたしたちの任務は、あくまで案内と護衛なんだから、余計な荷物は増やせないわ」
「失礼ね、もちろん分かっているわよ!」
二人はまず宿の女将に相談して、この街の見どころを教えてもらった。
「そういうことなら、まずは辻馬車を拾って街を一周するのがようございますよ。
辻馬車は観光客用のコースをよく知っていますから、効率よく回れますわ。
それから浜通りの街道を歩いて、ゆっくり見て回るのがお薦めですね。何と言ってもこの街の顔みたいなところですもの。
先ほどお教えしたお店も、ほとんどが街道沿いに並んでおりますの。
ただ、お若いお嬢さま方だと、何かと危のうございますから、軍服を着て帯剣された方がよろしゅうございます」
「南カシルは治安が悪いのですか?」
エイナが訊ねると、女将は少し困った顔をした。
「そうでございますね、正直よいとは申せません。
もし何か面倒に巻き込まれた時は、浜通りでしたら黒龍組の人間を呼ぶのに限ります。
あの人たちはどんな所にもいますから、声を上げれば現れて、きっと力になってくれます。
もちろん、それ相応のお金はかかるんでございますがね」
「警務隊のような方はいないのですか?」
「この街には、そういうものは端からございませんのです。
街の治安は三つの組が担っておりまして……お嬢さん方は〝三つ首の龍〟を聞いたことがございますか?」
「はい、一応知っています。
でも、組の人間に頼らなくても大丈夫だと思います。これでも軍人ですから」
エイナは笑って答えたが、これは控えめな表現だった。
実際にはエイナは魔導士で、シルヴィアはカーバンクルという幻獣を連れた召喚士である(女将はカー君をペットだと思い込んでいた)。
相手が一般人なら、十人や二十人でも負けるつもりがなかったのだ。




