ジ・オキュラスの朝
軌道エレベーターが荷を降ろす音は、地上では聞こえない。
ケーブルの張力が大気を伝い、岩盤を伝い、エベレストの北壁まで届く頃には、ただの振動になっていた。周波数は0.3Hz。人間の耳には届かない。しかし骨には届く。
水晶のパトロンは毎回それを感じた。会議が始まる前に必ず一度、椅子の背もたれに体を預けた。振動を待った。来た。目を閉じた。
地球がまだ動いていることの確認だった。
2140年。エベレスト北壁、海抜6200m。
岩盤を掘削した部屋だった。窓がない。換気は機械式で、低い唸りが壁から来る。断熱パネルを後から貼った跡が見える。継ぎ目が規則的だった。暖かくない。
急げ。
円卓は黒檀だった。ボアオ産だ。直径4.2m、脚が一本で支えている。中央にホロ投影ユニットが埋め込まれていた。三つの人影がそこに浮いている。動かない。聞いている。
水晶のパトロンは71歳だった。円卓にガラス瓶を並べている。七本だった。サフラン、長胡椒、グレインズ・オブ・セリム、マハレブ、アジョワン、黒クミン、バニラビーンズ。ラベルは手書きだった。瓶を一本ずつ持ち上げ、光に透かした。議長だった。話を進めなかった。
「これはカイナート産です」と水晶のパトロンは言った。「最後の農家が——」
「水資源の再配分から始めましょう」アフリカの代表が言った。今年で三人目だった。若かった。疲れていた。「前回の合意から十四ヶ月が経過しています」
怯える鹿。
ヨール公は51歳だった。手の中に模型があった。デ・ハビランド モスだった。1943年製の複葉機を真鍮で復元したものだ。翼の張線が0.3mmの金属糸で再現されていた。「この主翼の後退角を見てください」ヨール公は円卓の隣の男に言った。男はアラブ連合の皇帝だった。聞いていなかった。
アラブ連合の皇帝は水タバコを吸っていた。Khalil Mamoonの白磁のボウルに、ナノジェルを三滴溶かしていた。ナノジェルは気管支の炎症を抑えながら微量のセロトニンを放出する。煙が青かった。皇帝の目が細くなっていた。
「水から始めましょう」アフリカの代表がもう一度言った。
逃げろ。
ホロの三人は動かない。聞いている。表情が読めない。解像度の問題だった。
会議が動いていた。動いているように見えた。水晶のパトロンがバニラビーンズの瓶を開けた。部屋に匂いが広がった。アフリカの代表が目を閉じた。一秒だった。開けた。
「サハラ第三層の算出結果が出ました」ホロの一人が言った。声だけが鮮明だった。「やはりアフリカです」
円卓が静かになった。
ヨール公が模型を置いた。アラブ連合の皇帝が煙を吐いた。水晶のパトロンがサフランの瓶を持ったまま止まった。
アフリカの代表は何も言わなかった。分かっていた。分かっていたから、疲れていた。
水晶のパトロンが右手を上げた。指を二本立てた。それだけだった。
扉が開いた。台車が来た。一台ではなかった。次々と来た。止まらなかった。
密封容器だった。透明だった。中に小さな袋が並んでいた。ラベルがあった。手書きだった。香辛料のラベルと同じ字だった。
「一万二千」水晶のパトロンが言った。「全部品種が違います」
アフリカの代表が立った。容器に近づいた。ラベルを読んだ。読めなかった。キリル文字だった。
「ウクライナのものです」水晶のパトロンが続けた。「2020年代に焼けたとされていた。焼けていなかった」
狩人が来るぞ、若い角は捨てられない。
ヨール公が模型を置いた。皇帝が水タバコから口を離した。ホロの三人が初めて前のめりになった。解像度が上がった。
「品種改良は」ホロの一人が聞いた。
「されていない」
円卓が静かになった。サハラの地下資源の話が終わっていなかった。終わったことになっていた。
給仕がグラスを置いた。全員分だった。水だった。
我々は実体を前にすると、つい見てしまう。
それがよくない。それが常によくなかった。2140年も、2020年も、1943年も。手で触れられるものに価値を置く。触れられないものを忘れる。忘れてから気づく。気づいた頃には燃えている。
「つまりですね」ヨール公が言った。模型を持ち上げていた。「この主翼の後退角は、エプソン・ラインの流体力学的系譜という意味において、現代の大気圏突入シェルとほぼ同じ思想から来ている。1943年のデ・ハビランドが、」
台車がまだ来ていた。
「増やしてからお配りください」水晶のパトロンが言った。声が変わっていた。「どれが何の種かは発芽させれば分かる。種がまだあったことが、希望です」
希望という言葉を71歳の男が言った。円卓で言った。エベレストの岩盤の中で言った。
誰も笑わなかった。
アフリカの代表が容器を持った。両手で持った。重かった。重さが分かった。
人工作物の開発に成功したのはつい最近だ。光合成の謎も、ようやく輪郭が見え始めた。それでも現存する野菜に世界は弱い。脆い。根ごと枯れる。枯れてから分かる。分かった頃には腹が減っている。
「エプソン・ラインの思想が面白いのは」ヨール公が続けていた。
種が配られ始めた。
「価値交換の体系はクレジットで統一されている」アラブ皇帝が煙を吐きながら言った。「何が言いたいかというとだな、種の分配能というのは、つまり我々が目にしている希少性の問題は流動性の問題でもあるわけで、いやちがう、ここは分配能を——現物として扱うべきか、それとも先物として——つまり、種が増えてから分けるのか、増える権利を今分けるのか、そういう——」
煙が青かった。
直感で話した方が早い人間だった。
「誰かが持てばいい」アフリカの代表が言った。「増やせる者が持てばいい」
床が動いた。
円卓の端、ホロが三つ浮いていた場所の一つが消えた。代わりに床が割れた。音がなかった。椅子が浮上してきた。椅子ごと人間が来た。
シモンドールだった。QGIコングロマリッドの代表だった。
「遅れました」と言った。
声が人間に近かった。近すぎた。子音の処理が0.2秒だけ早い。それだけだった。それだけで、違った。
水晶のパトロンがサフランの瓶を置いた。ヨール公が模型を膝の上に下ろした。アラブ皇帝の煙が止まった。
種の話が止まった。止まったことに誰も触れなかった。
「半世紀ぶりのご帰還かね」水晶のパトロンが言った。瓶を並べ直しながら言った。「君たちはいつも参加しない」
「参加しています」シモンドールが言った。「常に」
子音が早い。また早い。
軌道上では今日も太陽光パネルが漂っている。数百基だ。半分が壊れている。宇宙デブリが直撃した跡だった。誰も直さない。直さないものが落ちてくる。落ちてくるものを撃ち落とす。撃ち落とした破片がまた漂う。また直撃する。また落ちてくる。常態化していた。2140年はそういう年だった。
「この技術をもってしても」ヨール公が言った。模型の翼を指でなぞっていた。「大気圏の乱流予測は48時間が限界です。48時間を超えると誤差が指数関数的に——つまり、気候介入の精度、資源投下の精度、医療物資の経路、全部が48時間の壁に当たる。当たり続けている。1943年のこの機体が乱流の中を飛んだ方法を見ると——」
ホロの二つが揺れた。発光が強くなった。前のめりになっている。輪郭が滲んだ。
「——翼が受動的に変形することで乱流を殺している。能動制御ではない。受動だ。素材が判断している。これを——」
アフリカの代表が種の容器を見ていた。ヨール公を見た。種を見た。
同じだと思っただろうか。思わなかっただろうか。
「——現代の気候介入システムに応用できれば、48時間の壁は——」
シモンドールが口を開いた。「試算があります」
全員が止まった。
ヨール公が模型を置いた。初めてだった。
ヨール公は51歳だった。シルクハットをかぶっていた。燕尾服だった。白い手袋だった。杖は黒檀で、円卓と同じ素材だった。エベレストの岩盤の中にいた。誰も何も言わなかった。言える状況ではなかった。これが彼の正装だった。
シモンドールはワイン色だった。燕尾に近いが違う。ボタンが左右交互に入れ替わって閉まっている。センターで分けた髪が動かない。整いすぎている。顎の角度が計算されているような、されていないような。
水晶のパトロンが立った。さほど変わらなかった。白髪だった。六角形の金属板を加工したベストを着ていた。内側で何かが動いていた。蠢いていた。規則的ではなかった。
「試算を」水晶のパトロンが言った。
「現在の気候介入コストを維持した場合」シモンドールが言った。子音が早い。「2160年までに農業可能域が現在の三十一パーセントまで縮小します」
沈黙だった。
「三十一」アフリカの代表が繰り返した。
「誤差は四パーセントです」
「誤差込みで三十五だとしても」アラブ皇帝が水タバコを置いた。「食えない」
「だから種だ」水晶のパトロンが瓶を一本持ち上げた。「品種改良されていない種が必要なのはそういうことです。人工作物は環境依存が高い。崩れた環境では育たない。これは——」
「種を増やす土地がない」アフリカの代表が言った。疲れていた。「増やせる土地が三十一パーセントしか残らない場所で、どこで増やす」
「増やす場所を作る」ヨール公が言った。杖を持ち直した。「大気介入の精度が上がれば——」
「上がっていない」シモンドールが言った。「48時間の壁は崩れていない」
ヨール公が口を閉じた。模型を見た。
我々は答えを持っていない。持っているふりをしている。2140年も、持っているふりをしていた。ふりをしながら種を数えた。一万二千個だった。全部品種が違った。どれが何かは発芽させれば分かった。
「分配の話をしましょう」アフリカの代表が言った。三人目だった。まだ若かった。「誰が持つかではなく、どこで増やすかだ。土地を持つ者が種を持つべきではない」
「土地を持たない者が種を持てば」アラブ皇帝が言いかけた。
「持てる」アフリカの代表が遮った。「持てる場所がある」
円卓が静かになった。
ホロの二つの発光が強くなった。揺れている。シモンドールが代表を見た。0.2秒だけ早く。
水晶のパトロンがバニラビーンズの瓶を開けた。匂いが広がった。誰も気づかなかった。気づく余裕がなかった。
「話の着地点が見えませんな」ヨール公が言った。杖を円卓に立てた。「まさか空中作物庭園でも、また造るおつもりか」
誰かが息を吸った。
「あれは五十年前に破綻した」ヨール公が続ける。「この吹き荒れる風の中では何も維持できない。維持できないものに種を預けるおつもりか」
アフリカの代表は黙っていた。
「空中ではない」しばらくしてから言った。「地下だ」
シモンドールの頭が動いた。0.2秒早く動いた。
「地下」アラブ皇帝が煙を吐いた。「どの地下だ」
「深い地下だ」アフリカの代表が言った。「北京の——」
「北京は自国管理だ」シモンドールが言った。子音が早い。「介入できない」
「介入しない」代表が言った。「モデルとして見る。学ぶ。同じものを造る」
ヨール公が模型を持ち上げた。翼を見ていた。「地下に光はない」
「作る」
「人工太陽は——」
「作る」
円卓が静かになった。ホロの二つが揺れた。発光が強くなる。一つが消えた。接続が切れた。また戻った。
我々はいつも地上で考える。地上で失敗する。地上で数える。一万二千個の種を地上で数えた。地下で数えた者はいなかった。いなかっただろうか。
水晶のパトロンが立った。さほど変わらなかった。六角の金属板の内側で何かが蠢いた。不規則だった。
「北京の地下を見た者はいますか」
誰も答えなかった。
「私は見ました」水晶のパトロンが言った。「六十年前に」
六十年前。大崩落の年だった。誰も語らない年だった。
シモンドールが水晶のパトロンを見た。整った顎の角度が変わらなかった。「六十年前に何がありましたか」
「人がいました」水晶のパトロンが言った。「大勢いました。今も大勢います。光がなくても、風がなくても、タグをつけられても、生きています」
バニラビーンズの匂いがまだ漂っていた。
アフリカの代表が種の容器を両手で持った。重さが分かった。
急げ。
「モデルとして学ぶのであれば」シモンドールが言った。「QGIは技術支援を検討できます」
「条件は」アラブ皇帝が言った。
「条件はありません」
子音が早かった。早すぎた。
怯える鹿。
ヨール公が模型を置いた。二度目だった。「条件のない支援はない」静かに言った。「五十年この仕事をしている。条件のない支援を見たことがない」
シモンドールが微笑んだ。微笑んでいるように見えた。
「データです」シモンドールが言った。「地下で生きる人間のデータ。それだけです」
逃げろ。
種の容器が円卓に並んでいた。一万二千個だった。全部品種が違った。ウクライナで焼けたとされていた。焼けていなかった。誰かが守っていた。守り続けていた。名前は記録されていなかった。
アフリカの代表が口を開いた。閉じた。
開いた。
「いつから欲しかったんだ、そのデータを」
シモンドールは答えなかった。
答えないことが答えだった。
アフリカの代表が端末を見なかった。
見る必要がなかった。
水晶のパトロンは71歳だった。香辛料の瓶を並べていた。議長だった。話を進めなかった。ただそれだけに見えた。
巨額のクレジットだった。動かしたのは十年前だった。機器が溶ける寸前の深さを掘った。地球の湾曲を考慮した水平を調べた。垂直ではなかった。水平だった。地球が丸いことを計算に入れた水平を、端から端まで調べ上げた。データが出た。出る前から分かっていた。調べ切っていたからだ。
賭けは出来レースだった。
説明の時点でアフリカが勝つことが決まっていた。決まっていたから説明した。説明しながら香辛料を並べた。バニラビーンズを開けた。匂いを広げた。
歴史が狂人を動かす。
狂人が歴史を動かす。
水晶のパトロンが立った。さほど変わらなかった。六角の金属板の内側で何かが蠢いた。不規則だった。止まらなかった。
「おめでとうございます」水晶のパトロンがアフリカの代表に言った。「アフリカは豊かです。いつも豊かだった」
代表は答えなかった。
豊かだったから奪われ続けた。奪われ続けたから代表が三人目だった。三人目がここにいた。両手で種の容器を持っていた。重さが分かっていた。
ヨール公が模型の張線を指で弾いた。音がした。小さかった。確実だった。
「で」ヨール公が言った。「誰が掘るんですか」
「アフリカが掘る」アフリカの代表が言った。「それだけは変わらない」
不文律だった。全員が知っていた。知っていたから誰も異議を唱えなかった。
「技術は出せる」ヨール公が言った。杖を立てた。「英国地質調査の第三世代掘削アルゴリズムだ。岩盤の密度を読みながら進路を変える。機器が溶ける前に止まる」
「止まるだけでは掘れない」アフリカの代表が言った。
「止まって冷やして再開する。サイクルが速い。従来の四倍だ」
アラブ皇帝が端末を置いた。賭けの結果から目を離した。「冷却剤を出せる。ナノ封入型だ。摂氏マイナス二百度を岩盤に直接注入できる。パイプがいらない。液体が自分で経路を作る」
「量は」
「掘る深さによる」
シモンドールが口を開いた。「人員の管理システムを提供できます。地下作業員の生体モニタリング、酸素消費量の個別最適化、崩落予測の——」
「人員はアフリカが出す」代表が遮った。「管理もアフリカがする」
シモンドールが顔の角度を変えなかった。「では機器だけ」
「機器は受け取る」
水晶のパトロンがベストの内側に手を入れた。何かが蠢いていた。取り出した。小さな駆動体だった。六角形だった。円卓に置いた。動いた。
「地球の湾曲を読む測定体です」水晶のパトロンが言った。「一個で半径三百キロを調べる。これを百個出せる」
全員が駆動体を見た。
動いていた。止まらなかった。
本当に測定体だろうか。
全員が疑った。疑いながら見た。見ながら疑った。動いていた。止まらなかった。六角形だった。それだけだった。
水晶のパトロンが端末を出した。データを開いた。円卓の中央に投影した。
二ヵ所だった。
「サハラとコロラドに埋めました」水晶のパトロンが言った。「三年前です」
データが動いていた。地層の断面だった。密度の分布だった。湾曲を考慮した水平軸で読んでいた。縦軸ではなかった。
「面晶式ハイデポジトロン測定体です」
誰も知らなかった。知っている顔をしなかった。できなかった。
シモンドールが駆動体を見た。整った顎の角度が変わらなかった。「私が聞いたことのない技術です」少し間があった。「百年間のデータの中に、おそらく——含まれていないでしょうね」
含まれていないでしょうね。
断言ではなかった。疑問でもなかった。その中間だった。人間ならば愛想笑いを添える場所だった。添えなかった。
全員がシモンドールを見た。シモンドールが水晶のパトロンを見ていた。
0.2秒早く、見ていた。
「失礼」シモンドールが言った。「水分補給を」
グラスを持った。口をつけた。飲んだ。人間らしかった。人間らしく見えた。
「こんど」ヨール公が言った。模型を撫でながら言った。「うちの娘に会ってみないか。君なら歓迎する」
支配体制を癒着させることはできない。7分割でもギリギリ上手く回っていない。海洋進出の失敗を含めると、返事が出来ない。
1秒かかった。
「ご好意をありがたく受け取ります」シモンドールが言った。「日程が空きました後ほどご連絡を」
1秒だった。人間ならば0.3秒だった。
ヨール公は気づかなかった。気づいていたとしても、娘の話をする父親だった。
アフリカの代表の個人端末が振動した。AGIだった。画面を見た。Noだった。文字だけだった。理由がなかった。AGIが理由を書かないときは、理由が多すぎるときだ。
代表は端末を伏せた。
「——」
何か言いかけた。言わなかった。渋い顔のまま固まっていた。種の容器が目の前にあった。一万二千個だった。
聞いていた話と随分、勝手が違う。すぐに協力が提案される。命の奪い合いがない。若手も来ている。ここまでで2時間、もうすぐ正午。これで、なぜ世界が壊れていく。
答えの外側を見ろ。
「皆さんのご協力、大いに期待したい」アフリカの代表が言った。端末を伏せたままだった。「ぜひアフリカ連合の会議にて受諾したい」
全員が頷いた。同じ速度ではなかった。
水晶のパトロンが立った。さほど変わらなかった。香辛料の瓶を端に寄せた。端末を開いた。
「では今月の死亡者数を発表します」
部屋の温度が変わった。換気の音だけがした。
「まずヨーロッパから。三十一万四千二百名、死因は餓死です。次いで災害による死者が十七万——」
ヨール公が模型を置いた。
「——アジア圏、六十二万八千、内訳は熱波による臓器不全が——」
アラブ皇帝が水タバコから口を離した。
「——中東、二十万三千、水不足による——」
皇帝が目を閉じた。
「——アフリカ、百四十万——」
アフリカの代表が動かなかった。
「——以上が今月です」
種の容器が円卓に並んでいた。一万二千個だった。全部品種が違った。
誰も何も言わなかった。言える状況ではなかった。言えたとしても、数字は変わらなかった。
来月も水晶のパトロンが立つ。端末を開く。読み上げる。全員が黙る。
それだけだった。2140年はそういう年だった。
「それでは死亡者調整を行います」水晶のパトロンが言った。「地球経済に貢献できるかた、自発的な挙手を願います」
シモンドールが手を挙げた。
ホロの一つが手を挙げた。輪郭が滲んだ。発光が強くなった。
誰も驚かなかった。
「ではお一人ずつどうぞ」
シモンドールが先だった。「QGIとして、東南アジア農業区画への技術投資を三十パーセント増資します。見込み死亡者数の削減は——」
水晶のパトロンが端末に入力した。止まらなかった。
「——十二万から十五万の間です」
「記録しました」水晶のパトロンが言った。「次」
ホロが前に出た。輪郭が揺れている。「中央アジアの水精製プラントを四基、来年度中に稼働させます。見込みは——」声が遠かった。「——八万から十万」
「記録しました」
水晶のパトロンが端末を閉じた。
全員を見た。さほど威圧感がなかった。背が低かった。
「合計、二十万から二十五万の削減見込みです」静かに言った。「今月の死亡者数は二百六十万を超えています」
円卓が静かだった。
差し引きの話だった。最初から差し引きの話だった。種も、地下も、技術も、全部差し引きの話だった。
ヨール公が模型の張線を指で弾いた。音がした。小さかった。
「あと百万人は削りたい」水晶のパトロンが言った。「このまま続くと総人口が四十億を切りますよ、みなさん」
アフリカの代表を見た。一番人口を拡散させた国だった。だから注目される。代表は動かなかった。
八つあった。どれも間に合っていなかった。
一つ目、金属骨格代替臓器。チタン合金と生体適合ポリマーの複合体で心臓と肺を置き換える。拒絶反応の抑制に十二年かかっている。まだかかっている。
二つ目、鉄基ナノ粒子血液。赤血球の酸素輸送を金属ナノ粒子が代替する。熱環境での安定性が出ない。出ていない。
三つ目、圧電骨格補助体。歩行の振動で発電し、臓器に電力を供給する。出力が足りない。ずっと足りない。
四つ目、重金属解毒フィルター。体内埋込型の金属膜が汚染物質を濾過する。目詰まりの周期が短すぎる。交換が間に合わない。
五つ目、合金製外骨格保育器。早産児を金属筐体の人工子宮で育てる。感染制御ができない。できていない。
六つ目、銅イオン殺菌循環システム。建物の水道管に銅イオンを流し疫病を抑える。インフラが古すぎる。北京の地下がそうだった。
七つ目、磁性流体神経補助体。脊髄損傷に磁性流体を注入し神経信号を代替する。制御アルゴリズムが人体に追いつかない。追いついたことがない。
八つ目、タングステン遮蔽皮膚。放射線環境での生存率を上げる超薄膜の金属皮膚だ。重すぎる。人間が動けない。
アフリカの代表が端末を開いた。AGIがまたNoを返していた。理由がなかった。
「ロボット、アンドロイド、サイボーグを増産して」ヨール公が言った。杖を立てた。「製造ラインはまだ動いている」
ホログラムの揺らぎが激しくなった。輪郭が滲んだ。発光が乱れた。
「それは議論しつくされた」電子音が響いた。「周辺産業を混乱させ衰退させた。百年前に排熱とデータ汚染の問題が出て解決に合っていない」
「排熱問題とは」もう一つのホロが続けた。「演算密度が上がるほど廃熱が大気に蓄積する。一機が出す熱量は人間の四十倍だ。増産すれば都市温度が上がる。上がった都市温度が農業可能域を削る。削られた農業可能域が死亡者数を押し上げる。循環する。止まらない」
「データ汚染は」電子音が重なった。「AIとCPUに感染し演算領域を書き換える。命令系統が腐る。腐ったまま動く。止まらないまま腐る。百年前に出た問題だ。解決したと言った者が三人いた。三人とも嘘をついた。嘘をついたまま死んだ」
ヨール公が模型を見た。
「では何を増やす」
誰も答えなかった。
種の容器が円卓に並んでいたままだった。
「ランチの時間だ」水晶のパトロンが言った。瓶を並べ直しながら言った。「ああ、そうだった」
止まった。
「人間を増やす方向で動いています」静かに言った。「増やすのにはコストがかかる。製造費用というやつです。原材料が必要です。おわかりですな」
円卓が静かになった。
「うちは、そんなことはしない」アラブ皇帝が言った。水タバコの煙が細くなっていた。「アッラーがお与えになるものを受け取る」
直感から出た言葉だった。的を射ていたかどうか、誰も言わなかった。
シモンドールがネクタイを緩めた。汗をかいていた。グラスを持った。水だった。飲んだ。人間らしかった。人間らしく見えた。1秒考えていた。
「午後は続きを行います」水晶のパトロンが端末を閉じた。「各エリアで最低十万人、死亡者を減らしてください。では一時、休憩とします。再開は九十分後」
グラスの水が動いた。揺れていない。誰も触れていない。動いた。
全員が立った。
ヨール公が模型を上着のポケットに入れた。入らなかった。手で持った。種を脇に抱えた。見分けがついていた。
アフリカの代表は動かなかった。端末を見ていた。AGIがまたNoを返していた。理由がなかった。理由が多すぎた。
窓がなかった。外が分からなかった。エベレストの北壁の中だった。正午だった。




